豊年エビ
今朝の散歩での話し相手はめずらしく老人ではなかった。黒い布製のカバンを肩から斜めにかけ、長袖シャツを肘までまくり上げた青年が一人、膝に両手をついたままの中腰の姿勢で田んぼの中を覗き込んでいる。苗を植え付けたばかりの田んぼの水見をしているのだろうか、と思いつつ、サングラスに麦藁帽の爺さんは傍に近寄ると小学生が尋ねるような口調で、そっと声をかけてみた。
『なに、見てんの~ なにかいるの?』
見ず知らずの一風変わった爺さんに突然声をかけられた青年は陽に焼けた顔をこちらの向けると、メガネの奥から、一瞬、冷めた視線をのぞかせたが、こちらのボケ顔に安心したのか、目もとがゆるみ、ヤゴを探しているんだ、いまごろ出ているはずだから、と、遊び友達に喋るような親し気な顔に変わった。外見から察すると、三十代前半の印象を受けるが、声の響きにどこか子供のような純真さが残っていた。
肩を並べるようして、一緒に田面をのぞき込んでいると、今年は、ほうねんエビも多いよーと、話し始めた。聞きなれない単語に反応し、ほうねん? あの豊作の豊年と聞き返す。『そう、豊年エビ』と嬉しそうにうなずいてくれた。はじめて耳にする名前である。(あとでネット調べて見ると、豊年エビが多い年は豊作らしい)
水面に目を凝らしているうちに、ほら、そこの端にいる、腹を上にして泳いでいる、あれが豊年エビ、と指さしてくれるのだが、小さな、1センチほどの、細い藻のようなものが底の方で揺れているだけ。水の中をのぞき続けていると、男はカバンからスマホを取り出すや、まだ話していても大丈夫??となにやらこちらの時間を気にしている様子。顏に似合わず、とてもデリケートな神経の持ち主のようだ。
何時間でも大丈夫だよ、定年退職で、これしか用事がないから~と、少年のような笑顔に豊年エビの講義の続きを促したのだが、こちらの表情に微妙に反応したのか、
『自然観察が好きで、こんなことをしているけど、まだ会社を遅れないから、会社では、ちゃんと仕事をしているから』と、こちらの胸の内に湧いた、この男、何をしているのだろうか、という単純な疑問を見透かしたような言葉が返ってきた。通勤前に田んぼの前でしゃがみこむ男、我々の時代では考えられなかったことだよなー、と内心考え始めていたのだ。その表情を感知したのだろうか。
話し好きな爺さんと認めたのであろう、豊年海老の観察をひとまず中止して、先ほどカバンから取り出したスマホをいじり始めた。撮りためていたらしい写真を検索していた指先がようやく止まると、稲の葉先にとまる赤トンボの画像が現れた。これが産卵中のアキアカネ、おじさんが、今、喋っていた赤トンボとおなじだよ。
こちらがのぞき込むと、指先で画像をつまむようにして拡大する、トンボの尻尾からしずくのようなものが垂れている。これが卵だよ、と嬉しそうな目を向ける。このごろ赤とんぼを見ないね、と、ヤゴの話の最中に発したつぶやきに応えて、ヤゴの産卵中の画面まで情報が広がってゆく。それにしても、かなりの年季の入った自然観察員だ、と彼の顔をのぞき込む。
まだ解説が続く。ギンヤンマは丸池の方、アイスクリーム工場の裏の田んぼは幼虫が豊富、農薬が少ないから、いまごろはXXや、**がいるよ~と段々熱が入ってくる。どうも、そちらの田んぼまで案内しそうな流れになってきた。生物の時間はさほど興味のなかった爺さんは、そろそろ理科の授業から、体操の時間へと逃げだしたくなった。散歩の途中なので、どうもありがとう、と、精一杯の笑顔を課外実習の先生に向け、感謝の言葉を残して、ゆっくりと、その場を離れていった。
パソコンゲームに明け暮れている時代の若者にも、こんな自然志向の男がいるのか、となんだかとても新鮮な、不思議な気持ちになりながら、若者たちがやっと自然の良さを分かり出してきたのかも、と一寸だけ嬉しいような気分になってきた。だが、この愛すべき、豊年エビの男が、今の会社で勤まるのだろうかと、また、少しだけ心配が蒸し返してくる、バス通りの方に向かってゆく男のうしろ姿を追っていると、田んぼの前で立ち止まり、あれ!またかがみこんでしまった。