栄光イレブン会

栄光学園11期卒業生の親睦・連絡・活動記録

ブログ開設:2011年8月23日

『同期の集い』のご案内   (予告:第1回)

2012年09月30日 | ◆お知らせ・行事案内

栄光学園11期卒業生の集いのお知らせ(第1回) 

来年(2013)年は栄光学園を卒業して50年になります。このことを記念して【栄光学園11期卒業生の集い】を開催いたします

 日時:2013年3月24日(日) 15:00 ~ 18:00

   場所:HOTEL PLUM/COSMO Y 横浜市西区北幸2-9-1   TEL 045-314-5546

  会費:10,000円

 幹事: 太田元夫・奥山 巌・後藤典彦・関口 進

 今回は第1回目のお知らせです。詳細につきまして、12月中旬に文書(往復はがき)にて出欠確認を含めてご案内させていたただきます。   

  

 

       

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近況報告(Nozaki_Koo)

2012年09月23日 | 中澤・長島・野崎

 

 1963年(S38) 栄光卒業以来現在までの我状況を車の履歴①〜⑮をもって報告します。

 ①   1964年ヒルマンミンクス(いすゞ自動車)

  初めての我が家の車、免許を取り、乗り回していました。

     

 ② 1965年 スバル360(冨士重工)

自分専用の車が欲しくなり、ポンコツの車を購入。板金塗装、足まわりを整備し、自分で名義変更し、オーナーになりました。主に神奈川県内を走っていました。

        

③ 1968年5月 パブリカ800(トヨタ自動車)

就職し、軽自動車から普通車に替えました。排気量も360ccから800ccに倍増。カーラジオは無く、歌を歌いながら運転し、会社の同僚と四国まで遠征しました。東名高速道路で国鉄バスに抜かれ悔しい思いをしました。

        

 ④ 1969年9月 コロナ1600S HT(トヨタ自動車)

高速道路でもまともに走る車をと思い、排気量を800ccから1600ccと倍増しました。2ドアハードトップ、SUツインキャブ、濃い紫の車体、真っ白な内装となかなかな車でした。東京-大阪は無論、鳥取まで行動半径を広げました。

    

⑤   1970年 カペラロータリクーペ(573ccx2)(東洋工業)

コロナは外観は良かったのですが、走りがいまいちだったので、ロータリエンジン車に替えました。初めての新車です。良く走りました。B級ライセンスを取りラリーに出、ビギナークラスで3位に入りましたが、車はガタガタになってしまいました。

       

 ⑥ 1971年 カペラロータリクーペ(573ccx2 AT)(東洋工業)

自分の腕では、マニュアル車よりオートマチック車の方がss400mのタイムが早いのではと1年で買い替えました。この車には7年近く乗りました。東北を一週し、途中温泉にザブンとつかり、ひたすら一般道を走り、明け方路肩で眠りました。その日1日で800km走っていました。

     

  ⑦ 1977年 ロータリコスモAP(654ccx2)(東洋工業)

ロータリの上級車が出たので無理して新車を購入しました。結婚したときにはまだ割賦が半分残っており女房に呆れられました。新婚旅行は、この車で道東を周りました。新婚時代、助手席に女房を乗せ高知、長野と遠出をしました。

     

⑧ 1984年7月 セドリック430ステーションワゴン(2000cc)(日産自動車)

子供が出来たので広い車に替えました。中古車です。毎年子供達と九十九里に海水浴に行きました。

     

 

⑨ 1990年 ブルバードアテーサリミテッド(1800ccターボ4WD)(日産自動車)

砂浜でも走れる4駆の車に替えました。ターボ車だったので高速を快適に走りました。雪の降った日、四駆を過信して走り、ぶつけてしまいました。自宅で板金修理していると近所の人がうれしそうに「どうしたの?」と寄ってきました。

 

 ⑩ 1994年2月19日 チェロキースポーツ(4000cc)(クライスラー)

女房を拝み倒し本格的な四駆を新車で購入しました。視点が高く、角張った車なので運転しやすい車でした。欠点は、税金が高いことで、毎年5月になると女房に愚痴をこぼされました。

      

 

 ⑪ 2000年3月18日 131クラウンロイヤルサルーン(2000ccスーパーチャージャー)(トヨタ自動車)

単身赴任留守宅用に中古車を購入しました。初年度登録より10年近くたっている車ですが、マフラーとタイヤを代えただけで問題なく走りました。子供が運転しているときに追突され、廃車にしました。

     

 ⑫ 2003年3月15日 オルティアワゴン(1800cc)(本田技研)

廃車した131クラウンの代わりに購入しました。急いだので赤い車になってしまいました。1年間我慢しました。

 

⑬ 2004年5月1日 151クラウンHTロイヤルツーリング(2500cc)(トヨタ自動車)

前のクラウンの調子がよかったので、また古いクラウンにしました。

    

 

⑭ 2010年8月12日 171クラウンエステートロイヤルサルーン(2500cc)(トヨタ自動車)

家の修理等に使う長尺材料を運ぶためにクラウンのワゴンに替えました。もちろん中古車です。車体色は黒で葬儀社の車の様でした。

     

 

⑮ 2012年6月30日 175クラウンエステートアスリートG(3000cc)(トヨタ自動車)

ブルーのクラウンワゴンを見つけたので替えました。初年度登録 平成13年の車です。車も古いですが、オーナーに比べれば新しいです。

     

 以上が現在の野崎の近況です。           (2012/8/25)

 

 

  

 

 

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銅版画について(Fukuoka_Kazuyuki))

2012年09月16日 | 花島・福岡・藤島

 10年前から趣味で銅版画を制作している。木版画を制作した経験がある人は多いと思うが、銅版画についてはなじみの薄い人もいると思われるので簡単に説明しておきたい。木版画は木の板を彫って版をつくる。絵の黒くなるところを残し、白くするところを彫刻刀で彫る凸版画である。

銅版画は銅板を彫って版をつくるが絵の黒くなるところを彫って溝を作る。この溝にインクを詰め紙をのせプレス機で圧着する凹版画である。この溝を彫る方法として様々な技法があるが大きく分けて二通りに分けられる。一つはいろいろな道具を使って銅板を彫る直接技法、もう一つは薬品で銅板を腐食して作画する間接技法である。なおよく耳にする「エッチング」はこの間接技法の一つであって銅版画全体を意味する言葉ではない。私が採用している技法は直接技法の一つであるメゾチントである。

メゾチントは最初にベルソーという工具を使って銅板全面に無数の小さな穴とまくれをつくる。これで銅板の表面はサンドペーパーのようなざらざらの粗面となりこのままインクを詰めて刷るとビロードの質感のある黒い面が得られる。この粗面を工具を使って削ったりつぶしたりして諧調をつくっていく。このようにメゾチントは大変手間のかかる技法なのでこの技法で版画を制作している人はそう多くないが「ビロードのような黒」の魅力には抗しがたく私はこの技法一本にしぼっている。メゾチントの作家として有名な人に長谷川潔、浜口陽三があげられる。長谷川潔の作品は横浜美術館が多くの作品をもっており目にする機会も多い。浜口陽三の作品は東京・箱崎にミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションがありいつでも多くの作品を鑑賞することができる。

  なぜ銅版画を始めたのか。直接のきっかけは両親の介護である。十数年まえ両親が同時に「要介護」状態になってしまった。両親の家は隣であったが私と妻二人で介護をしなければならなくなったのである。同期の方々のなかには同じようなことを経験した方あるいは経験中の方がいらっしゃると思うがとにかくストレスがたまる。このままだと私達がどうかなってしまいそうに感じたので妻と相談し週一回交代で家を離れる「休日」をつくることにしたのである。前々から銅版画に興味を持っていたのでいろいろ調べたところ多摩美術大学が生涯学習講座を開いておりそのなかに「銅版画基礎講座」をみつけたのである。一年間基礎講座で様々な銅版画技法のさわりを一通り勉強し、メゾチントが最も性に会っていることを確認した。二年目からは大学の工房に週一回通って制作している。

一般的にサラリーマンの場合、仕事を通じて本当の自分を表現する機会はあまりない。またあったとしても限られた期間にすぎず、まして外の人に伝える機会はさらに少ない。定年となり人生の最終段階をむかえつつあるとき、今まで美しいと思ったイメージのコレクションを作ってみたいと思うようになった。そしてこのコレクションは銅版画で表現するのが一番適していると思ったのである。このコレクションが結果として「伝えたい自分」を表すことになるような気がする。いつまでも印象に残っている美しいイメージはなぜそうなのか、本当の理由はなにかもう一度考え直しながら銅版画を制作するのは本当に楽しい。ただ制作しても未熟さ故表現しきれていない場合も多いが。このコレクションがどのくらいたまるか予想がつかないができるだけ長く制作を続けていきたいと思っている。

  銅版画を制作していてよかったと感じたことが最近あった。会社員時代転勤で大阪で5年半過ごした。20年以上前のことであるが多くの同僚はもとより社外の人たちと印象に残る様々な経験をすることができた。この方々と大阪での「同窓会」のようなことができないか考えた。運よく昔の同僚で墨絵を描いている人がいたので7月に大阪で「二人展」を開いた。全部で約150人の人に来ていただいたがうち約50人は友人・知人でとても楽しい「同窓会」になった。同期の及川盾夫ご夫妻にもお目にかかった。このような会も銅版画があったからこそだと思っている。絵や版画に興味がなくてもそれらを媒介して皆気楽に集まれるような気がするのである。来年か再来年東京で個展をするつもりである。決まったら栄光11会のブログでご案内するつもりであるが皆様にお目にかかれればうれしい。 

         

     

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インドとの商談(Suzuki_Eiichi))

2012年09月09日 | 重山・下田・鈴木(穎)

 

 川崎汽船という外航海運会社に勤務していた私のインドとの関わりは20年以上前に遡ります。製鉄業の副原料である石炭コークスを日本から輸出する話でした。ある商社を介しての商談でしたが、決まりそうになっては、ボシャリを繰り返し結局成約を見ることができませんでした。意思決定が小田原評定であったこと、つまるところ原因は決定権のある人物を捕まえていなかったことにつきたと思います。それと停電の多い国という印象が残りました。 

  次の商談は15年ほど前から始まりました。インドの国家プロジェクトーー不足する電力を賄うためLNG火力発電所の建設――への参画でした。そのLNGを輸入するためのLNG船を建造し、運航するためインドの国営船会社と合弁会社を創ろうというものでした。この商談はまとまり、現在でもLNGを輸送し続けています。この成約には過去の経験が生きました。相手はSCI(SHIPPING CORPORATION OF INDIA)というインドの国営船会社でしたが、会議になると同じような肩書の、同じような年齢の人達が7人も8人も出席してきて、誰もが自分に権限があるのだという調子で意見をいうのです。アメリカにはインド人には喋らすな、日本人には喋らせろという諺あると聞きますが、とにかく彼らは喋ります。喋りたいから喋るといった調子です。 

インドでは会長にしか決定権がないとおぼろげにわかっていましたので、誰が会長に意見の具申ができるのか、必死に探しました。選んだ男は営業マンではなく財務をつかさどる部長でした。その後、彼は次の会長に選ばれました。この事実をもってしても私の目に狂いはなかったと自慢しています。今でも後輩がインドに行きSCIを訪問すると会長自ら出席してくれ、私を懐かしんでくれるそうです。

   その後、2002年に川崎汽船から子会社に移り、2006年に復帰しました。その頃の海運市況は好況の真っただ中にあり、業績を拡大する好機でありました、営業を束ねる責任者として、中国の次は間違いなくインドという信念で、インドとの商売を拡大する目標を掲げました。景気の良い時には大儲けを期待するよりは長き将来にわたっての関係を構築することが肝要だからです。

このときはある新興の財閥に目をつけ、とんとん拍子に契約を重ねることができました。それは財閥の総帥と懇意になることができたからです。最初に会った時からお互いに好意を持ち、何回か会うことによってお互いの信頼をたかめることができた結果です。

 このように話して来ますと、何かどこかの国と似ていませんか?? そうです日本と似ているのです。それも一昔前の日本の企業に酷似しているのです。     (以上)      

                         2012/08/23  

       

  

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近況報告(Ookubo_Takehiko))

2012年09月02日 | 大久保(武)、小川(正)

 

石油会社の(株)ジャパンエナジー(現:JX日鉱日石エネルギー(株))、そして外航海運の日正汽船(株)(現:日鉱日石シッピング(株))に通算40数年間勤めてまいりましたが、一昨年6月に退任いたしました。

現役時代、圧倒的な時間を仕事に割いてきた生活も実に充実していましたが、今は正に自由人として第二の人生を謳歌しています。

趣味の絵画、旅行、ゴルフ、音楽、クルージングそして学生時代の友人、社会人になってからの社内外、国内外の知己との杯を傾けながらの談論風発等じっくりと価値ある時間を過ごしています。今回はこれらのうち、私の趣味についてご紹介したいと思います。

 絵画に関しましては、かつて「蒼騎会」という美術俱楽部に所属し、上野の美術館にも100号程度の油絵を出展していましたが、今は出展するつもりはなく、10号程度の水彩画を中心に描いて楽しんでいます。それでも創作という行為は、いつも新鮮です。指先を使うとボケないといわれますが、絵筆を握る画家も80~90代の現役が多いことから、ボケ防止にも良いのではと考えています。

 また、これまで世話をかけてきた家内へのお礼と近い将来、又、介護等で世話になることも見越して(?)、海外旅行にも家内とよく出掛けています。この2年間で欧米、オセアニア、アジア含め20カ国程になるでしょうか。私自身は現役時代に海外出張で訪れた所も多いのですが、仕事とプライベートでは、見方、感じ方が全く違うことに驚かされます。旅行中は絵の題材探しも楽しみのひとつです。 

 音楽については、慶応義塾大学時代に大学仲間とロックバンド・THE BLUE KNIGHTS を結成し、私はドラムを担当していましたが、今はジャズ・ボーカルをエンジョイしています。当時のバンド仲間とは今でもよく会い、飲み、語る間柄ですが、つい最近メンバーのひとりが亡くなり、本当に淋しい限りです。  

  クルージングは、8年前、仲間と大好きな海に繰り出す為に一級小型船舶操縦免許を取得したのが始まりです。当時、日正汽船の経営者として、最大で全長300メートルを超える大型船舶を運航しておりましたが、海象、海上法規等は大型船舶、小型船舶とも共通しており、取得時に学んだ事が事業運営に於いても参考になった点が多々ありました。

現在、わずか20フィートクラスではありますが、レンタル・プレジャーボートで仲間と相模湾を疾走しています。エリアは、茅ヶ崎の烏帽子岩から江の島、葉山を経て城ケ島までの間ですが、何時行っても気分爽快です。フィッシング・ポイントも結構あるようで、教えられるままに道具一式を揃えてトライしたのですが、さっぱり釣れず、どうやら私には釣りの才能はないようです。 

 爽快といえば、広々とした緑の中で綺麗な空気を思いっきり吸って、良き仲間とプレーするゴルフもまた楽しいものです。国内外の自然を生かしたゴルフ場はそれぞれ特徴があり、興味は尽きません。

  私の趣味について、簡単に述べてきましたが、趣味においても勿論、これから人生を歩んで行く上で、最高の財産は年齢を越えた素晴らしい友人が大勢いるということです。このかけがえのない友人とこれからも刺激しあい、切磋琢磨してまだまだ人間として成長したいものだと思っています。

           ・・・日日新又日新・・・                          2012年8月

       

                ユングフラウ(スイス)にて 奥様と

 

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