Smartプロジェクト(その18)
第2章 PLDTの買収
買収の背景:
Smartが順調にマーケットシェアを拡大する中、同国の企業で唯一NYSE(ニューヨーク証券取引所)に上場している最大の通信会社PLDTの放漫経営と、その子会社Piltelの経営不振(SMS機能が無い旧型CDMAを展開して顧客を失った)から、同国の金融界だけでなく政界からも懸念があげられていました。
即ち、もしPiltelが倒産するような事があったら、金融機関が影響を受け、結果フィリピン経済全体に悪影響を及ぼすと危機感が持たれて居たのです。 その安定化には資本注入と経営陣の交代が必要とされ、その状況でFPCとNTTの連合、即ちSmartがその役割を担う様になったのは、1998年6月にラモス大統領の後に驚きをもって登場した、エストラーダ大統領との良い関係を築いて居たパンギリナン氏の政治的手腕によるものでしょう。
Smartにとってはその経営拡大の上で、PLDTが保有する全国に及ぶ6リンクのファイバー網等設備資産と全国の通信網へのアクセスが必要であり、またPLDT網からSmartへの着信料金から生じた売掛金(ターミネーション料金)を清算する上からもPLDT社の買収に意義が有りました。
NTTには増資を願わなくてはなりません。その為のストーリーは、その国際通信事業に必須な海底線容量に関し、PLDTの14%以上の株主となる事でNTTがアフィリエイトと見做され、PLDTが海底線の取得原価でNTTへ売却できる事でした。PLDTは古くからの国際通信事業者であり、多くの海底線プロジェクトに参加していました。
田村氏(仮名)と共にFPCと一体でその企画を開始しました。
実際の買収の方法としてはSmartがPLDTを買収するのとは逆で、簡単に言えば、Smartの価値を公正評価し、そのSmartをNYCに上場しているPLDTが買収する事とし、その為に必要な資金をFPCとNTTが資金を提供してPLDTが増資、その最大の株主となってコントロールを獲得し、結果的にマネージメントを入れ替えるプロセスとしました。
このディールの推進にあたり、パンギリナン氏がエストラーダ大統領を訪ねて最終確認をし、これを待って東京側でも正式にディールを開始する段取りでした。ところが『パンギリナン氏のヘリが大統領の保養地Tagaytayで墜落した』との、とんでもないニュースがもたらされました。
数十分後には命に別状が無いとの連絡も入り、ディールを続行することとなりましたが、なんでも着陸に際してパイロットが自動操縦から手動に切り替えた際、突然各パネルがクリスマスツリーの様に輝きだして落下し、崖を滑り落ち始めた時に小さな木に引っかかって止まって助かったとの事でした。それ以来、PLDTの所有するジェット、ヘリはなるべく避けて商用飛行機を利用する事とし、またパンギリナン氏と小生は同じ飛行機には乗らない、またIRで世界を回る際にも異なったルートを利用する様に心掛ける事としました。
(その19に続く)
Smartプロジェクト(その17)
Smartのサービスは殆ど全土をカバーするようになり、遂に台湾海峡に浮かぶ最小の州Batanesにも及びました。この地は幾つかの小さな島からなり、それぞれ珊瑚礁、巨大なロブスター、ウニ、牛等の特産で有名ですが、台風の通り道で、招かれた州政府の建物も2階建てなのに1m以上もある分厚い石作りであったのが強い印象となりました。
州都のBasco島には1000mの滑走路を持つ空港がありますが、滑走路の反対側には山があり、それを越えれば海というなかなかのスリルのある所でした。
知事との話しでは『魚業と牧畜が産業の中心だがマニラまでの良い運搬手段が無いので伸ばせない』との事でした。Batanesは極端な例ですが、ルソン島の北では農業も盛んですがやはり輸送手段が問題で、輸送中に熱でレタスが傷み半分位になったりしていました。
青物の他にも何とバギオの山では日本向けの山葵や苺まで作られていました。山葵は台湾経由で日本に行くそうですが、苺は某日本の農業組合の包装までされており直送だそうです。
(その18へ続く)
Smartプロジェクト(その16)
GSMで可能となったSIMカードのセキュリティを利用し、プリペイド通信料金(エアータイム)を送受する機能を設けたことで、従来印刷したカードを委託販売していた流通コストの削減が出来ただけでなく、自然発生的に換金性が生じ、実質的に網経由で金銭を送受する事が可能となりました。安価で手軽な国内・国際送金サービスが実現された事になりました。
これは、例えば香港に出稼ぎに行っている人が、地元や香港の売店、あるいは知人からもエアータイムを相対で購入出来る様になったということです。そのプロセスは携帯の画面で確認でき、今度は必要の都度その家族等にエアータイム額を送る指示(画面)をすると、ネットワーク上でフィリピン側の夫々のSIMのアカウント、即ち電話番号にエアータイムが付されるのです。 プリペイドカードを店舗で購入し、端末でプリペイドカードの番号を登録して、そのカードの料金額を登録するのと基本的に同じですが、ある意味流通革命でした。
この先は当面Smartの関与する事ではありませんが、受け取った額をフィリピンのコンビニの様な売店で若干の手数料でこれを売る、即ち自然発生的に現金化が出来る様になったのです。更にそのコンビニ店がSmartからの卸売りの他に、こうして購入したエアータイムを正価で販売するという非常に安価な流通機構になりました。
次のステップは銀行口座との連動です。先ず、Smartの番号を銀行口座に登録する事で、この口座からエアータイムをチャージし、更に転送する事ができるようになりました。
その次として、これには当初は銀行側の抵抗が強かったのですが、中銀総裁のBuenaventura氏のサポートを得て、最初はSmartは大手銀行のサービスの媒体として開始、その後銀行間の競争から幾つかの銀行の態度が緩んでSmartのサービスとして契約が出来、Smartの端末があたかもATMの様に銀行口座を操作出来る様になりました。
このサービスはdocomoにも紹介させて頂きましたが、日本の金融規制の問題か当時は検討して頂けませんでした。しかしながら、FirstPacificの子会社が網アプリベンダーとも協力してアジアの一部やアフリカへも紹介し、普及が図られました。
いずれにしても開発途上国では高価な端末は個人が所有せずに共用して、殆ど無料で入手出来る個人のSIMカードを持つ使い方が流行りました。伝統的な競争他社がポストペイドやARPUにこだわる中、Smart社はプリペイドとSIMカードの容量拡大やアプリの導入で加入者を増やし、同一網での囲い込み戦略も成功して、同国最大の移動通信会社となって順調な経営状況となりました。
docomoも3G、FOMAでSIMカードを導入しましたが、顧客の移動(チャーン)を恐れたためか、故障の原因になるとかで封印したりしてその利用を図りませんでした。実際にはSIMカードは電源と無線部は端末を利用しますが機能的には独立したPCのようなもので、大きいものでは2GB程度のメモリ容量を持ち、プログラム機能と電話帳に加えて地図、ゲーム等種々のデータを格納できます。SIMカードに情報を格納しておけば、携帯端末にSIMカードを挿すだけで自分の端末として使えるのです。Smartはこの活用に励み、次々と新しい機能とサービスの提供に努めました。
当初自網内のみに限られ、相互接続が拒否されていたSMSもSmartの加入者が増えるにつれ網間接続が実現、結果として当時データ通信利用をプロモートしていたGSM Congress(現在のMWC)で、『世界で始めてデータ収入が音声収入を上回ったキャリア』として表彰される等の栄誉を受けました。
当時フィリピンはSmartの発展と共に、NOKIA王国と言われる様になり、NOKIAの端末が今の日本でのiPhoneのようにブランド化していました。 docomoから何度かiモードの展開を打診されましたが、iモードはiモード専用の端末を必要とし、フィリピンで対応できる機種が1機種だけというので、マーケティングが難しいと考えていました。
GSMの当初はデータ通信は回線交換でたったの9.6Kbps/sでしたが、その後パケットデータ通信GPRSに移行して最大171.2Kbit、更に8PSKのEDGEを導入して最大スループット473.6kbpsへと改善し、当初は日本のお家芸であったカメラ機能と共に、表示画面も大型化していきました。NOKIAは2000年には既にSymbian OSによるZAURS同様(PDA)のプログラム機能にインターネットアクセスと音声通信機能を持ったスマート端末Nokia 9210 Communicatorを出していました。
ただAndroidのように開放されたものでなく、又NOKIA自体が顧客であるキャリアに気を使い過ぎた為かも知れませんが、NOKIAがアプリ市場を形成しませんでした。結果的にアプリが事務処理に限られ、ゲームや面白ソフトのような分野に多様化する事が無く、これ等が可能なAppleのiPhoneに淘汰されてしまいました。このホンのちょっとした経営判断が大きく世界を変えたものと実感します。ただ、NOKIAは現在でも世界で冠たるネットワーク機器のベンダーとして5Gをリードしています。
3Gでは最大14.4Mbps、LTE(4G)では最大140Mbpsと無線が固定回線によるADSLを凌駕するようになって、現在のスマホはすっかりPCと競争するようになって来ました。
(その17に続く)
Smartプロジェクト(その15)
GSM導入と送金サービス
しかしながら世界的に流行した、アナログの弱い認証機能を利用したクローニングによる収益悪化(利用していない国際通信料金を請求された等のクレームに対する返金、さらに信頼性の崩壊によるチャーン)と、競争会社のGSMの自社網内無料SMSの開始により加入者を失うダブルパンチの状況がSmartを襲い始めました。
クローニング対策は種々ありましたが、アナログのままでは世界的に抜本的解決策が無く、移行が選択肢となりました。
GSMの導入の為に検討をすすめましたが、既に900M帯には空きは無く、1.8GHzにせざるを得ませんでした。しかしながら、種々実験を重ねた結果、1.8GHzでは建物の影や中に電波が届かず、カバレイジを得るには膨大な数の基地局を設置する必要が判明しました。
したがって、NOKIAが先行開発していた900MHz/1.8GHzのデュアルバンド端末にかける事としました。デュアルバンド端末の提供に合わせて、同社によるネットワーク展開を実施し、一部端末の無料提供も行って現行加入者の900Mアナログから一時的なGSM1.8G帯への地域毎の引越し、この完了を待って900M帯のアナログのGSMへの切替え、仕上がりはデュアルバンドGSMの提供という綱渡りを実施しました。
市内の立体地図を作り、緻密なカバレイジのシュミレーションを行う等NOKAの全面的な協力で成し遂げられたのです。フィンランド人の緻密で謙虚な進め方に大いに感謝した次第です。
(その16に続く)
Smartプロジェクト(その14)
顧客の囲い込み策 長距離料金の廃止
次なるSmartの課題は顧客の囲い込みでした。
多くの国と同様に、移動通信網と固定網、移動通信網間にはキャリア間の跨ぎ料金が課されていました。 ただ、同一地域に複数の固定通信事業者が混在しても、同一の月額固定料金と規制されており(市内通信は度数料金なし、電話を借りて通話しても市内通話であれば無料)、また通信会社間の跨ぎ料金も無い事となっていました。
しかしながら、跨ぎ料金が無いので、既存通信会社からすればトラヒックがあっても収入にならない事から、設備コストを必要とする網間チャネルをなかなか設けてくれないという問題が有りました。 チャネルを十分には設けない事が既存の通信業者にとっては競争排除の手段となり、またSmartにとっては参入障壁でした。日本大使館や日系企業等が折角率先してSmartの固定網に加入してくれても、その顧客から通じ難いとのクレームが発生しました。この問題の解決には長い時間と戦術を要しました。
後に如何に解決して行ったかを述べます。
以下は携帯での話です。
フィリピンは島国で、地方と都市は物的・経済的な交易だけではなく、出稼ぎでも結ばれており、長距離料金は魅力的な収入源でした。しかしながら、地方へ大ゾーンで展開していたSmartの課金上の問題として、基地局のゾーンの間を移動する移動通信電話の発信地と着信地で長距離料金課金を精緻に行うことは難しかったという背景がありました。夏の首都として避暑地で著名なバギオ市を一挙にカバーしようと山頂に設置した基地局の電波が200Kmも離れたマニラで受信してしまったこともあり、この場合基地局(バギオ)が端末の所在地(マニラ)となって、そのままではバギオの基地局を掴んだマニラの端末がバギオからの長距離料金を課金されるという不公正となってしまうのです。
といっても、国際ローミングの様に、登録地をベースにすることも人の動きが激しい事から現実的ではありません。種々ブレーンストーミングの結果、全く別の観点の結論となりました。 即ち、携帯のエアータイム、即ち通話料金は課金するものの、Smart網内であれば長距離料金を廃止する事としたのです。これによる効果は、地方への展開を積極的に行って、既に加入者を得て居た事と合わせ、このような地方との通信をする都会の加入者にとっても大変に魅力的なものとなりました。即ち、長距離料金無しは同一通信会社である必要から、Smartに鞍替えするようになって、相乗効果となって加入者を増やすのに絶大な効果をあげました。
(その15に続く)
Smartプロジェクト(その13)
Smartの移動通信サービス
Smartは後発ベンチャの携帯通信事業者で、当初基地局等の設備が安く手に入る事を理由に、ヨーロッパ方式の旧式アナログETACSを一部中古も含めて導入していました。したがって、その将来性は各方面から疑われていました。ただ、当初のGSMやCDMAはCODEC等技術が未熟であったせいか音質が悪く、また基地局の展開も不十分であったため瞬断が多くて、あまり好評ではありませんでした。
特に地方では数十Kmという長距離をカバー出来たアナログ(大ゾーン=基地局を高い位置に立てる事でカバー範囲を広げる)が案外好評で、これに後程述べる理由で先行的に長距離料金の廃止をした事や、当時は常識外であったプリペイド(カード)を積極的に展開した事で、マーケットシェアを得て行きました。
何れの移動通信会社も経済的に豊かなマニラとセブに設備を集中し、顧客の争奪戦を演じていました。固定網の設置の頚木から逃れ、Smartの経営もやっと軌道に乗った感じがして来た着任2年目の後半に、取締役会メンバーの父親の葬儀の為にルソン島の南100km程の地方都市バタンガスに参りました。
教会から出て一同埋葬の場に集まった時、参列していた同市の市長から『Smartの携帯電話を買ったのに使えない』と嘆かれ、たまたまSmartの取締役会メンバーが揃っていた事から、急遽その場で取締役会を持ちました。結果、セブ島との中継のマイクロ網が近くを通っていたことから、これを利用して基地局をたった1週間で開通しました。
これはSmartにとって重要な経営上の転機をもたらしました。それはその基地局に期待していなかった非常に高いトラフィックがあったことです。直ちに基地局を更に2つ増設する事になりました。この経験から地方の中小都市に高い通信ニーズがあり、さらに高収入となる国際通信が多い事を知り、アナログ携帯が長距離をカバーできることを合わせ、Smartは競争者の居ない地方に積極的に展開する事としました。
地方都市へ展開では多くの場合、初めての通信サービスとして大歓迎を受け、基地局の設置やマイクロの設置もスムースに出来ました。 ただ、マイクロの中継設備の設置には苦労がありました。島と島をマイクロで繋ぐのですが、その設置には島で一番高い山(幾つかは火山)の稜線に設置する事になります。けっこう大きな島でも人の住む部分は港の回りに極く限られており、ルソン島のすぐ南西側の小野田少尉が隠れていたルパング島をはじめ、未開の部分が多くていろんな問題がありました。
その問題の一つは若王子三井物産マニラ支店長誘拐事件を起こした共産系ゲリラ(NPA)でした。彼等は政府を名乗っており、『事業をするなら自分たち政府に税金を払え』との論理で、これに合意しないと破壊されることとなりました。正規には軍や警察の力を借りて対応するのですが、いつも上手く行くとは限りませんでした。
地方といえば、ミンダナオ西南部はイスラム教徒が主体のエリアです。歴史的にミンダナオはスペインの占領を許さず、米西戦争・米比戦争を経てフィリピンの一部となった歴史があります。その後、キリスト教系の住民の移住が進み、農地の奪い合い等から何度も内乱状態になっています。最近でもミンダナオ出身のドウテルテ大統領になってもマラウイで軍隊を派遣する様な衝突が有りました。ただ、我々の進出したラモス大統領の時期は中央政府とミスワリに率いられたMNLFとの講和が成立し、さらに強行派のMILFとも自治権を認める等種々の条件で一定の安定がもたらされていました。従って、この地域からも携帯通信への要望がもたらされ、その展開には地元州政府のエスコートが付く位でした。我々が最も恐れた基地局への妨害被害も、敵味方の双方が唯一の通信手段として利用する状況となって、破壊活動は殆ど有りませんでした。
ミンダナオの西部はインドネシアやマレーシアに海峡で接しており、海を通しての人の行き来には明確な国境が無い状況と言ってよいでしょう。ただ、通信は地理に関係なく明確な国境がありますから国際通信となります。したがってこの地域には国際通信のトラフィックが高い事が魅力で、一番端のスルー列島までもネットワークの拡大を図りました。この地区には米国での同時多発テロ『911』を起こしたとされるオサマ・ビンラディンの弟家族が潜入して活動しているとの情報も有り、さすがに自身で訪れる事はしませんでした。尚、この2001年の『911』事件は、NYで予定をしていたPLDTの社債のりファイナンス(借換え)の機会を流してしまい、一時期財務的に非常な困難をもたらしました。
遠隔地では衛星中継のVSATも利用して基地局を設置しましたが、コストやサービス品質の上からもマイクロウエーブを伸ばすにしくはありません。水蒸気、スコールが多い熱帯の海上をマイクロで繋ぐ為、ほぼ20km毎に島伝いに中継を設ける必要が有りました。海上反射の影響を避け、また距離を稼ぐため、島の山頂、あるいは稜線に設置ことになります。この様な中継設備の構築は電力どころかアクセスも無い所謂絶海の孤島も利用せざるを得ず、その場合ヘリを利用します。
設備の運転に必要な発電に用いる燃料と水は地元の人にボッカの様に肩に担いで運んでもらう他は無く、数日に1回補給するよう委託しました。ただ、パイロットの判断だけで着陸する実査や工事にはかなりのスリルと危険が伴いました。ある島の尾根近くの平地に無事着陸出来たのですが、ローターを停止した途端に雑草がローターに届く程に立ち上がり、半日草刈に追われた事も有りました。フィリピンは台風の発生源であり、また通り道でもありますから中継所の維持は大変です。台風でマイクロのアンテナが曲げられたり、タワーが倒されたりした事も度々有りました。ヘリで一緒に駆けつけた現地のエンジニアがへし曲がった鉄塔によじ登って先端にロープを掛け、ウインチで引っ張って次の島との間を鏡で修正する等、現地のエンジニアは実にタフでした。
これ等の孤島は殆どが古い火山島ですが、フィリピンの隠れた資源と思われます。セブ島との間の小さな島々は電力供給も無いのでナイトライフはありえないのですが、見渡す限り真っ白な砂浜、透明度の高いジンベイザメも泳ぐ海と珊瑚礁、有史前の民が住処とした洞穴とその芸術、さらに原始キリスト教を思わせるごとの石作りの教会などが多くの観光資源があります。
地方への展開で、特にコタバト州のイベントと合わせた開通式では州知事をはじめ、盛大な歓迎を受け、一緒にパレードした事やイベントとしての美人コンテストの審査員として参加した事は素晴らしい思い出となりました。
パレードはバランガイ()毎に特徴のある衣装で踊りを踊りながら競技場を練り歩くもので、夫々の文化や生立ちを示すようなものも有りました。また、美人コンテストは予選で十数人に絞り、その後は個人毎に演説、歌、ダンスの他特技を紹介して総合得点で選ぶ本格的なものでした。競技場も美人コンテストの大ホールも完成前の様子で、観客席が未完成で観客が木箱を持ち寄って席を作っていたり、大ホールの屋根が半分しかなかったり、途中停電して発電機の燃料を補給したりとSmartの最初の電話交換局を作った時の事を思い出させる微笑ましいものでした。
(その14に続く)
Smartプロジェクト(その12)
その後の状況:競争会社の一部は倒産
固定網の通信建設ブームに乗って建設を急いだ通信会社の幾つかは、建設の義務を果した途端に倒産、あるいは他社に吸収合併となりました。
日本の通信機メーカや通信建設会社もこの煽りを受け、債権の確保に苦労しました。それまで見向きもしなかった企業が急にSmartに仕事を求めるようになったのは自然でしょう。
あるメーカの現地代表は華僑の所有する某通信社の接待攻勢に個人的な弱みを握られて、結果的にどっちの立場か分からない様な動きをする状況になってしまいました。債権の取立てが進まない中、遂に人事交代で、我々に挨拶も無しにとばされた格好となりました。
その後に着任した方はその足拭いをするため、債権の大幅圧縮、いわゆる大幅ディスカウントで清算を進めざるを得ませんでした。
Smartは、撤去・転用が可能なWLLに全面的に軸足を替えた事で、ペイアブルディマンッド(支払ってくれる需要)に対しての固定網敷設の義務を果たしながら、経済性を保つ事が出来、資金を利益のあがる移動通信に傾注する事が出来たのです。
(その13に続く)
Smartプロジェクト(その11)
失敗プロジェクト1
手掛けたものに失敗例も幾つかあります。マニラはアジアから日本、米州への航路にあたる地理的特性から太平洋のハブとしての発展が期待されます。しかしながら、実態はマラッカ海峡の要のシンガポールから、韓国のプサンへ行ってしまうとの話を所属した商工会議所やロータリクラブの方々から聞いて居ました。
マニラが嫌われる原因は、マニラに入港すると、その際の手続きに時間が掛かり過ぎる、また不用と思われる関税が課される等、ルールが不明確で問題があると言われていました。そこへこの分野で先進的な米GE社からEDIを導入して簡易化、迅速化を行って国際競争力を増せばシンガポール並みの成長が期待されると想定し、GEのGEISとSmartの合弁会社を作りました。
ところが、何事にも積極的でサポートを約してくれたラモス大統領が任期を終え、エストラーダが大統領となり、運輸通信大臣(故人)が新たに指名されると状況が全く変わってしまいました。新大臣にマニラ港の恵まれた位置付けや問題点、将来展望等説明しに伺ったのですが、全く興味が得られなかっただけでなく、テーブルから拳銃を引っ張り出して磨き始めたのです。政府の許可・後押しが無ければ進められないプロジェクトですから、断念の他はありませんでした。
結果、Smart/GEISからの出資金は合弁会社の従業員の持ち株とする事で従業員の合意をとって撤退する事となりました。その会社は小さなソフトハウスとしてやってゆくことになりました。誠に勿体無い事をしたものです。
(その12へ続く)
Smartプロジェクト(その10)
法人営業の開始
携帯電話を事業の中心にSmart社経営の安定化が整ったと判断されたので、次に法人用の通信網事業を開始しようと、NTTに別途の出資を願い、Smart-NTT Multimedia Corp.を立ち上げる事としました。NTTの海外事業の責任者であった宮本取締役(仮名)に出資をお願いに上がった際、『Smartが子会社を作る様になるなんて、わからないもんだなー』と何とも不思議な反応を頂きましたが、快く出資を頂き、またその責任者には中島俊夫氏(仮名)に来てもらう事となりました。
ルソン島北西部端のMasinlocで発電所の工事をしていた電源開発(株)、セブ島のセブ市の反対側になる北側に大きな造船所を設けた常石造船等は、それまで日本との通信に高価な衛星通信を用いており、最初の法人顧客となってくれました。また2万人もの現地従業員を擁した矢崎総業、200人規模の日本人を抱えた一条工務店等では、その敷地にマイクロの鉄塔を無料で設置させて頂き、それに携帯基地局も併設して、会社側だけでなく、従業員の方々からも大いに喜ばれました。
1997年、年明けの4日に、線路土木担当から法人営業に転じてもらった山根氏(仮名)の案内で、マニラの南のゴルフ場の隣の工業団地に、年始の御挨拶と依頼されていた日本との専用回線開通のお祝いにU社を訪問した事がありました。ところが、到着した玄関で、直ぐに作業着に着替えるよう言われ、そのままマシンルームへ。何と業務再開を明日に控えて回線開通できていない、何とかしてくれとの事でした。
早速TDMのパネルを見ると同期が取れない旨のメッセージが出ていましたので、アナログ部を見るとATT(受信感度調整のボリュームのようなもの)調整不良と出ていました。早速これを調整しようとツマミを探しましたが見つからず、マニアルを見るとROMに書き込んで調整する事が分かりました。マニラのディーラーにROMライタの急送を依頼して到着まで半日待ち、この調整は出来ました。ところが、それでも同期不良が続くので顧客U社の本社の構成を調べてもらったら、米国への赴任前にSTDMを導入してもらった日本ダイレックス社がTDMを提供しているのを知り、その旧知のベンダーにキー局をお願いしました。
KDD/Sprint/PLDT/Smartと切り分けしましたが解決にならず、今度は逆方向に折り返し試験をしていった所、何と信じられない事に、納入したTDMメーカから提供されたコネクタ内の配線誤りと判明しました。真に冷や汗ものでしたが、どうやらU社の業務に支障を生じないで済ませる事が出来ました。この事で学んだのは日系企業の進出が著しい状況で、回線サービス提供だけでは駄目だと言うことでした。この様な通信インテグレーションに関するサービスニーズを実感し、法人事業のニーズに自信を持つ事が出来、また全国にファイバー網を持つPLDTの買収に積極的となる契機でした。
(その11に続く)
Smartプロジェクト(その9)
PHS/WLLは端末機自体は電話機に較べれば繊細で製品寿命も短く、1.8GHzと高い周波数で回りこみが出来ないので、瞬断もあって、固定網には向かない等の意見もありましたが、初めて通信のメリットを受ける人々には大変に好評でした。既設や計画中の移動網と連携する事で、鉄塔や中継網を共用して安価な網コストと出来、加入者回線をなくす事で安価なコストと加入者設備の再利用が可能となりました。
一部固定網の設置に拘る社外役員も居ましたが、移動通信を本業とするSmartでは、いずれ固定電話は駆逐されるとの確信から社内の賛同も得て実施を急ぎました。クレームといえば、電源の破損と瞬断でした。瞬断は大雨の時は止むを得ない場合がありましたが、椰子の葉が伸びた事が原因であった事が多く、これを切りに行かせたり、顧客が自分で切ってくれたとかの笑い話もありました。N社のものもArrayComのものも電源破損が起りました。電源と言っても単なる充電器ですが、ArrayComは直ちに新設計の物に変更してくれましたが、N社は電源の破損は同国での商用電源の安定性の問題で同社の責任ではないとかなり抵抗していましたが、結局暫時新型充電器に替えてもらいました。
需要のある所には迅速に開通し、また支払いが滞ったりして廃止の際は設備の撤去が速やかに出来た事から、Smartに対する固定網展開の督促や脅迫じみた新聞報道は影を潜めるようになりました。勿論、このWLLは電話に特化したもので、インターネットには適合出来ませんが、同国での高速インターネットのニーズが出るには尚15年以上も先でしたから問題とはならず、読み筋通り、先ずは携帯電話が普及し始めました。
携帯電話もデジタル化が進み、インターネットが普及する前にGSMの音声チャネルを利用したSMSが大流行しました。これは日本で大流行したポケベルを携帯端末で実現したものです。同一網内では無料であったのが大流行の原因でしょうが、その後網間サービスも実現、国際間へと発展しました。日本では一挙にi-Modeに移行した関係でしょう、SMSは普及しませんでしたが、SMSは写真や音声も送れるEMSへと発展し、さらにMMS(マルチメディアサービス)としてカラー,動画も送れる様に発展しました。
LINE等のSNSの発展に危機感を持った日本の携帯会社がMMSを見直し、網間接続を始めたのは2018年になってからです。これらのGSMサービスはデータ通信(GPRS)で実現され、インターネットを取り込む形でスマホが普及していきました。残念ながらこの時点では固定回線の出番はありませんでした。なお、フィリピンの昨今は移動通信の重要の伸びが止まり、今はショッピングモール等のWiFiが真っ盛り、更には光ケーブルによる高速インターネットの需要が収入増に期待されているようです。
1997年7月にタイの通貨バーツが急落したことをきっかけに東南アジア、東アジア全域に通貨危機が発生しました。各国では外貨資金の急激な流出や不良債権の増加に見舞われ、特に韓国、タイ、インドネシアが国際通貨基金(IMF)に支援を要請する程になりました。しかしながら、フィリピンは案外しぶとく、公定歩合を1.25%から一時25%まで引き上げる等の対策で、支援を申請せずに済んで影響は軽かったと言えます。
Smartに限って言えば上場している訳でも無く、機器の購入に関するドル建てローンが問題でしたが、政府の強力なペソ防衛策で、経済的影響は軽微で済みました。フィリピンにはその気候と自由、英語による子女の教育を求めて韓国人が多く滞在していたのですが、韓国ウオンが急激に下がり、潮を引くように韓国人が減ったのを覚えています。 日本の金融機関は多く現地金融機関に出資しており、その代表の方々とは商工会議所を初めとして関係を持っていましたが、その中に山一證券のマニラ支店長が居られ、この時に急に本社の人事部長に転任されました。その年の年末には山一證券の廃業の情報がもたらされ、さぞや御苦労が有ったものと存じます。
(その10に続く)
Smartプロジェクト(その8)
1-6:WLL導入
携帯と国際通信の免許を得る為に義務として提供する固定回線サービスですが、1995年頃の経済状態では顧客が料金負担に耐えられない、従って当然解約が発生するのですが、高価な加入者設備の撤去・転用が出来ない等、結果的に無駄な投資と成ってしまう事が問題でした。収入に見合った投資とするたには、加入者毎に$2000程であった加入者系設備を十分の一くらいにする他はありません。
ただし、開通式で用いたSmartが持つ5MHzの900MHz帯は既に携帯通信で一杯です。そこで、料金滞納等での解約時等に撤去・転用が可能なPHS端末(WLL、$200程度)を利用する事としました。同国では利用されていなかった1.9GHz帯をWLL用として規制当局(NTC)に申請し、無線を主体に構築する事としたのです。また、其の展開には、既に展開されていた移動通信網と相乗りして経済化を図る事としました。
同国で新たに免許を得た通信各社が一斉に建設を始め、これを見た既存の通信会社までがそのシェアを失うのを恐れて増設に転じ、まるで通信建設バブルの状況となってしまいました。Ericsson社がSmartとエリア的に競合するDigitel社の契約も取った事から、同社のSmart側の担当は現場での工事稼動や局外設備の確保に苦しむ事となり、種々遅れが生じ始めました。Ericsson社のSmart担当代表からは『最善を尽くしている。夜も稼動している』等の報告の中、報告と違ってのその本人がスエーデン社員達と共にのんびりビーチで遊んでいるのがSmart社員によって見つかり、写真を撮って報告して来ました。
この報告を基に計画の進捗に関するスエーデンの本社との交渉を持ち、遅れの為に生じていた未設置機器の契約枠を、固定設備から同社のDECTも一部導入する条件で、PHS/WLLに替える事に合意できました。WLLの方式検討の中、既にインドネシアで展開していたN社の物と、ニチメンの紹介で“セルラの父”と言われるDr. Martin Cooperが設立したArrayCom社の製品の導入を図る事としました。彼はMotorola社でセルラの概念を発明した人で、新製品では4G/5Gで導入されるMIMO(空間多重、ビームフォーミング)技術を実用化して居り、これでPHSの問題で有ったカバー範囲の拡大と収容容量の拡大を目指したのです。
当初基地局のCPU能力等心配もありましたが、加入者側のアンテナを電波の届き易い屋外に、また無線機部分を軒下に設置し、これから固定電話機にアナログ結線、また電源は通常の携帯電話の充電器で済ませる等、非常に簡易に設置できました。また、公衆電話機としても村やの集会所等に設置して好評を得ました。この場合、料金の徴収は人手です。WLLの基地局も移動基地局と共用して設置する事で、地方部への展開も効率的でした。ArrayComはベル研の出身者をシリコンバレーに迎えて CEOとし、本格的に生産工場の立ち上げを図りました。
Dr.Cooperの紹介で一度この方とお会いしましたが、企業経営に殆ど経験が無い方という印象を受けて、Dr.Cooperにワーニングしたのですが、やはり行き詰まったのでしょう、途中からDr.Cooper自ら経営にあたった後、京セラに売却、京セラはこれをWillcomのPHSとして展開する様になりました。この辺、ニチメンの山田氏(仮名)がアレンジしたのかもしれません。
(その9に続く)
Smartプロジェクト(その7)