栄光イレブン会

栄光学園11期卒業生の親睦・連絡・活動記録

ブログ開設:2011年8月23日

栄光ヒュッテに行ってきました。(2023/7/13)(iwao_Okuyama)

2023年07月21日 | 奥山

11期の皆様

2023年7月13日(木)太田君・山口(力)君・奥山の3人で丹沢札掛にある栄光山小屋(栄光ヒュッテ)に行ってきました。その時の様子を皆様にお知らせいたします。 きっかけは、前回のイレブン会に出席した田中(泉)君からのメールです。(下段参照)

  

9:00秦野駅に集合して出発。といっても若いころ歩いた蓑毛やヤビツ峠行きの神奈中バスに乗るのではなく太田君の車で山小屋近くにある丹沢ホームの駐車場まで。出発するとすぐに坂道、舗装されているがくねくね曲がった狭い道、前から車が来ないことを祈りながらゆっくりと登っていく。こんな道でもヤビツ峠まではバスが通っている。30分ほどして丹沢・大山国定公園の碑が立つ見晴らしの良い場所に着いた。

       

雨が少し降っていたが昨日までの猛暑が収まり涼しい風が顔に当たる。10分ほど休憩して再出発。ヤビツ峠を過ぎると20分位で丹沢ホーム到着。

駐車場に車を置いて鍵を預かる。ヤマヒル対策で長袖シャツに着替え、ズボンの上から厚手の靴下、軍手に塩を振りかけて山小屋へ向けて歩き始める。

  

5分ほど山道を下ると建物が見えてきた。「あ!栄光の山小屋だ」早速カメラでパチリ。

階段を上ると栄光ヒュッテの看板が、

       

60年位前全員で撮った写真の光景が浮かんできた。

鍵を開けると中は真っ暗、窓の隙間と入り口からさす光だけが頼り。目が慣れてきた。見渡すと入り口付近のテーブルに数個のランプと食器が、奥に入ると沢山の布団が積んであった。こんな狭いところにワーワー騒ぎながらみんなで寝ていたんだ。。

 

裏に回ると炊事場が有り水道からちょろちょろ水が出ていた。多分寒いときに凍らないように水を流しているのだろう。早速飲んでみた。思っていたよりも冷たくなかった。

下に広場が見えた。確かここでキャンプファイヤをしたところだ。燃え盛る焚火の前で若くして亡くなった川島千明君の「Over the Rainbow」低い歌声に感動したことが蘇ってきた。

 

30分ほど見て帰ることにした。折角来たのだからと栄光学園で貰った利用許可証に日付と3人の名前を書いてテーブルの上に置いた。短い時間だったが来てよかった。思い出に残る栄光ヒュッテ訪問だった.

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 田中(泉)君からメール>

本日のイレブン親睦会の折に田中(泉)さんから山岳部OBとして、栄光山小屋が存亡の危機に瀕しておりこれをなんとか防ぎたいとの話がありました。これを防ぐには、卒業生の山小屋使用実績を上げることが必要で丹沢山小屋に行って欲しい。山小屋を拠点として、山に登ることは必要なく、山小屋に行って、山小屋に有る日誌に記帳して欲しいとのことでした。バスでも行けますし、車でも行けます。是非ご検討くださいとのことでした。

 

 

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コロナウイルスに負けずに

2020年04月10日 | 奥山
コロナウイルスに負けずに
今年も牡丹の花が咲きました。
例年より2週間ほど早く少し小さめですが
それでも大きい花は人の顔くらいになります。 春になれば必ず花は咲きます。
お互い頑張りましょう。
   
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大岡川(横浜市南区)桜満開 (2017/4/10)

2017年04月10日 | 奥山

 大岡川の桜が満開になりました。(2017/4/7)

 清水橋 ⇔ 井土ヶ谷橋

 井土ヶ谷橋 ⇔ 蒔田橋

 

 蒔田橋 ⇔ 鶴巻橋

 

  (2016/4/5) 

 鶴巻橋 ⇔ 大井橋

 大井橋 ⇔ 弘岡橋

  弘岡橋 ⇔ 観音橋

 

 

 

 

 

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横浜 春爛漫 花満開 (2017/4/6)

2017年04月06日 | 奥山

横浜 春爛漫 花満開 (2017/4/6)

<大通公園>

<横浜公園>

<日本大通り>

 

<波止場会館 裏広場>

<山下公園>

 

<港の見える丘公園>

<気象台付近>

 

<元町公園>

<カトリック教会>

<イタリア山邸園>

 

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秋のユーシン渓谷ウオーク(2016/11/22)ご報告 (Okuyama_Iwao)

2016年11月25日 | 奥山

 

 秋のユーシン渓谷ウオークご報告

2016年11月22日(火)晴れ、暖かい一日。昨年(2015年)暮れに続いて2回目のユーシン渓谷ウオーク。4月に計画したときは雨で中止にしたが、今回ようやく実現した。

 

「女心と秋の空」このところ天気の変化が目まぐるしい。天気予報によるとユーシン地方は、2~3日前は雨、1日前は小雨のち曇り。4月に中止したこともあり、濡れることを覚悟して前日に催行すると連絡する。ところが前夜から大雨になった。朝、家を出るときもまだ強い雨が降っていて最寄りの駅まで傘をさして出掛ける。東海道線経由で集合場所に向かう。平塚を過ぎた辺りから急に空が明るくなってきて少しほっとする。

きょうの参加者は、太田・鳥居・山口(力)・奥山の4人とN君。8時10分新松田駅に到着した。集合時間に間に合うか否か気になっていた一番遠くからくるN君はすでに着いていた。全員が集まったところでアクシデント発生。N君の靴底が両方ともはがれてしまった。仕舞っていた山の靴を久し振りに出してきたためらしい。付近の靴屋さんを探したが、朝早いこともあって見つからない。鳥居君が接着剤を買ってきてくれ、これで貼り付けようとしたが無理だった。そこでやむなくN君はそのまま家に帰ることになった。信じられないようなことの証拠写真を駅前でパチリ。

 バスは定刻の8時25分に出発。昨年来たときは寒いこともあって2組しか乗っていなかったが、きょうはほぼ満員。あちこちで若い人達の弾んだ声が聞こえる。ぶつぶつつぶやく叔父さん達と違って若い人達は楽しそうだ。しばらくして丹沢湖畔の玄倉に到着。20人ほどの人達が降りて静かな湖畔が賑やかになった。今が丁度、紅葉の最盛期、山は、赤・黄色・茶・緑と色とりどりで素晴らしい。紅葉に染まった湖の向こうに、雪をかぶった富士山が美しい。 

左側に玄倉川を見ながらユーシン渓谷を歩き始める。前日の雨の影響で道は濡れているが、水溜まりは少なく歩きやすい。不思議なことに川の水量はあまり増えていないし、濁っていない。

快晴、気持ちが良いウオークが始まった。

こんなに天気が良くなったのは誰のせいなのだろう。少なくとも太田君と私以外であることは間違いない。右側は急峻な崖、あちこちに落石注意の看板や落石防御ネットが張られている。少しなだらかな斜面からは滝のように水が落ちてくる。

 左側は紅葉と澄んだ水の玄倉川。しばらく行くとクマ出没注意の看板を見て、この林道に熊が出たとニュースで放送していたことを思いだした。

 

青空を背にした丹沢の山々を眺めながら、気持ちの良いウオークが続く。

 

 間もなく光が全くささない真っ暗なトンネル(新青崩隧道)にきた。初めて来た前回は恐る恐る歩いたが今回は慣れていたせいか楽々と通過した。東京から来た老夫婦が懐中電灯を忘れたということで壁に触りながらこちらの灯りを頼りに後から必死について来た。ユーシンブルーと言われる発電所近くの水は本当に碧かった。

 

今日はとにかく暖かい。途中で上着を脱ぎ薄着になる。催行計画に防寒具・雨具・懐中電灯必須と書いたところ、読みが甘い。防寒具・雨具のお陰で荷物が増えた文句をいう同行者。前回はとにかく寒かったし、こちらは親切心で書いたのに冷たい奴らだ。彼らは良いことが起きると自分の所為、悪いことが起きると他人の所為にする傾向があるようだ。私などは大雨対策、防寒具だけでなく熱い飲み物まで持参してきたのだ。

12時30分過ぎに目的地のユーシンロッジに到着。

f0233452_2343698.jpg

とにかく誰もが予想できないような素晴らしい天気。暖かいを通り越して、暑い。山の上には夏のようなもくもくとした白い雲が見える。

 

汗びっしょりなって、着替えをして昼食を摂る。

あちこちで座って昼食をしている人、話をしている人達が見える。近くの人にお願いして集合写真を撮る。後で写真を見ると自分のお腹が出ていることに気付いた。もう少しお腹を引っ込ませて撮ればよかった。

13時過ぎに出発。帰りは楽な下り、登りと違い軽快な歩きでぐんぐんと進む。バスの出発時刻は16時6分。まだ十分に時間がある。途中で河原に下りて辺りを散歩する。 「♪春の小川はさらさら行くよ~(^^♪~(^^♪」と鼻歌が出て来そうになるくらい気持が良い。ところで今は春ではなく秋、それももうすぐ師走…とはとても思えない。30分ほど河原で遊んで再出発。

 

 後から来た小柄な女性に追い抜かれる。話を聞くと大倉尾根を登り蛭ケ岳を越えてユーシンへ下りて来たという。あんなに若くて可愛い女の子なのにその健脚に驚く。15時40分玄倉バス停に到着。帰りのバスも満員だった。

 新松田で反省会。何を反省したのか分からなかったが楽しい飲み会だった。お酒を呑まない力ちゃんを含めて割り勘。飲み会の話が長引いて我が家に着いたのは9時近くなっていた。楽しい一日だった。

 <追記>

2日後(24日)東京・横浜付近に寒波襲来、54年ぶりに11月に雪が降った。 夏から一気に冬になったようだ。秋の空は女心より変りやすい。我が家の庭の草花にも雪が積もった。

 

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太田君とユーシン渓谷を歩く (Okuyama_Iwao)

2015年12月07日 | 奥山

2015年12月4日(金)(晴)

太田君の誘いでユーシン渓谷へ出かけた。矢倉岳・高取山・渋沢丘陵に続いて今年4回目の二人でのウォーキング。ユーシン渓谷は、西丹沢にある玄倉川の渓谷で以前から一度行きたいと思っていた場所だ。

朝6時、とても寒い。いつもより厚着をして家を出る。外はまだ暗い。横浜駅から相鉄に乗り換えたところで、ようやく外が明るくなってきた。7時48分新松田駅に到着。駅前の広いバスターミナルを想像していたので小さなターミナルで戸惑ってしまう。太田君を待っていると、そこに風情のある珍しいかっこうしたバスがやって来た。傍に近寄ってパチリ、山北町の循環バスだった。高齢者が多いので分かり易くするためこんなバスにしたのだろうか。

 

まもなく太田君が到着し8時25分発の富士急バスに乗り込む。

 

 5人の乗客しかいない。路線バスなのに途中ほとんど停まることなく凄いスピードで走る。40分後玄倉バス停に到着した。バス代900円、地方のバスは高い。降りたのは太田君と私の2人だけでだった。バス停の目の前に丹沢湖が広がる。

 

辺りには誰もいない。この広い景色が二人だけの貸し切り状態だった。停留場前のお店の人に二人の写真を撮ってもらい目的地のユーシンロッジ(現在閉鎖中)に向かって玄倉林道を歩き始める。

 左側の玄倉川の河原には白い石と澄んだ水、

常緑樹の緑と薄茶色になった落葉樹が混じり合った山林、

スカイブルーの空、遠くには丹沢の山々が。

紅葉の季節は終ってしまったが、それでも素晴しい景色。

気持ち良いウォークが始まった。30分ほど歩くと車止めがあり、ここから先は特別の車以外は入れないウォーカー専用の道だ。

道に小さな石ころや大きな岩が転がっている。

 

 右側の急斜面には、防崩用のネットが張られ、樹木が植えられている。ところどころに石崩避難用のトンネルが。

左側の谷の合間から見える丹沢山塊の高い山を見ながら地図を見て名前を探す。ごつごつし、ラクダのこぶのような形の山は石棚山らしい。

 深い谷近くまで張り出した急斜面に造られたられた林道を歩く。ユーシンロッジまではで8つの小さなトンネルを通って行かなければならない。ほとんどのトンネルは岩肌が露出し、素掘りのままの壁だ。

3番目か4番目のトンネルの前に来た。道が二手に分かれている。左側は旧道だ。右側のコンクリートでできた新しいトンネルに入る。新青崩隧道だ。

急峻な崖にできた古いトンネルは落盤の危険があり新たに造られたものだ。懐中電灯を点ける。中は真っ暗で何も見えない。真黒な闇とはこういう場所をいうのだろうか。こわごわと前に進む。

後を振り返ると入り口の明かりと太田君のライトが見えて少しほっとする。

二人で足元に気をつけながらそろそろと進む。ようやく出口が見えてきた。岩壁に沿って造られたトンネルが出口付近で急カーブしているため光が全く入らないことから真っ暗になったようだ。トンネルを抜けると玄倉ダムが見えた。この付近の水の色はユーシンブルーと、呼ばれ、このコースのハイライトのはずだった。しかし日の光の関係なのか深い青緑色の水だったが、もっと綺麗な色を想像していたので少し期待外れとなった。

 林道を歩き続ける。前日の雨によるものなのか、それともいつも流れているのか分からないが道の両側にいくつかの滝がある。

 

 岩壁に沿って水が流れてくる場所では、知床のオシンコシンの滝に行った時のことを思い出した。

ここが神奈川県!神奈川県にこんな場所があるのだ!出発して3時間ほどで目的地のユーシンロッジ前の広場に到着した。

2人連れが2組休んでいた。この場所に来るには、同じバスに乗るか、ひとつ前のバスしかないはずだと思い尋ねてみると、後の山を越えてきた人達だった。お願いして二人の写真を撮ってもらい、お弁当を食べる。

それにしても寒い。天気はよいが風が冷たい。ここは風の通り道なのだろうか?他の2組はそれぞれお湯を沸かしているので寒さが応えていないよう見える。コンロを持たない僕たちは早々に退散し、早めに元の道を戻る。

バスの出発までは時間があるので、少し遠回りして河原に下りてみた。

 

河原から眺めた丹沢の山々はより高く、より大きく、より立派に見えた。

帰りは下り道なので2時間半ほどで玄倉バス停に到着した。バスが来るまで1時間ほどあり付近を散歩する。この辺りは、夏はキャンプ地になのだろうか。いくつかのバンガローがあった。

 バスの到着時間が近づいてきて、人が集まってきた。バスはこの時間しかない。全員がこのバスに乗るのだ。ユーシンロッジであった人達に再会しそこでまた二人の写真を撮ってもらった。

バスに乗車すると朝、同じバスに乗り、僕らより先まで行った人が乗っていて挨拶する。檜洞丸に登ってきたという。地図を見ると中川温泉から入って石棚山を越え檜洞丸への往復。同じくらいの年齢だと思うが、ものすごい健脚、どのくらいのスピードで歩くのだろう。

新松田駅に到着したときは、暗くなっていた。駅前の居酒屋で二人での反省会。いつもは生ビールで乾杯するのだが、きょうは寒いのでいきなり熱燗にした。

太田君が誘ってくれたおかげで素晴らしい1日を過ごすことが出来た。紅葉は終わっていたが、丹沢の自然美を堪能した一日だった。

ここで皆さんに提案です。この素晴らしい景色をみんなで共有しようと思います。来年新緑の頃、イレブン会でユーシン渓谷ウォークを計画いたします。往復で約5~6時間、行きも帰りも同じ林道を歩きます。疲れたら途中の河原で遊んでいれば大丈夫です。

その時期が近づいてきましたら皆様にご連絡致します。新緑のユーシン渓谷を一緒に歩けたらと思います。

 

             (2015/12/04   奥山)

              

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柳原 瑛君を偲ぶ。  (Okuyama_Iwao)

2015年07月15日 | 奥山

 

柳原 瑛君を偲ぶ 

柳原瑛君の通夜と告別式が2015年7月13日、14日に鶴見奉斎殿で執り行われ、11期からは約20人が参列していた。

私が栄光を卒業して柳原君に初めて会ったのは、7~8年程前だった。六本木交差点近くの静かな店で飲みながら二人で話していると、きちんとした身なりの紳士が近づいてきた。蒲谷亮一君だった。そしてその後から柳原君が笑いながらやってきた。近くの席で、自治省OB10人くらいで集まりをしていたところ、私の姿が見えたからだという。柳原君が公務員になったことは噂で聞いていたが、会ったのは初めてだった。柔らかい物腰と静かで落ち着いた話しぶりだった。深々と椅子に座り、上から目線で話しかける私が知っていた官僚とは大きく違っていた。

その後、飲み会で会ううちに、少しづつ話すようになった。2010年3月、柳原君と太田元夫君の3人で2泊3日の西伊豆ウオークに出かけた。柳原君が電車・バスの切符や宿の手配だけでなく、地図・観光案内・時刻表ほか種々の資料を準備してくれた。その緻密さ、心使い、手配のよさが素晴らしく,こんなに丁寧なことをしてくれる人が官僚(!)と驚いてしまった。

一緒に歩きながら、退官後に始めたという山歩きに奥さまと二人でよく出掛けること、日本にある3,000メートル越えの山(21峰)を全て踏破したことなどの話を聞いた。奥の細道を踏破した太田君に匹敵するような偉業の話だった。

  柳原君は、山に詳しいだけでなく健脚だった。登りは少し遅れ気味になるが、下りになると、一気にスピードを挙げる。下りでは、何回も大きく離されてしまった。彼に言わせると「登りは馬力で、下りは技術力」なのだそうだ。

山が好きで、お風呂が好きで、お酒が好きで、タバコが好きだった。

泊まった宿で風呂に入ったあと盛り上がり、3人で日本酒を何本も空けた。酔っぱらってくると国家政策や政治家の批評をしてくれた。官僚らしくない彼だったが、官僚としての能力の高さを感じてしまう話だった。

次は2011年2月に3人で三浦アルプスに出かけた。このときもウオーキング→ お風呂 → 飲み会だった。

2011年5月、太田君と二人で鶴見側50Kmウオークに参加した。35Kmを過ぎた辺りで、雨具でも水を通してしまい、雨具が役立たないほどの大雨となった。そんな大雨の中、柳原君はわざわざ新鶴見橋の袂まで迎えに来てくれた。私はそこで歩きを中止し柳原君と二人で近くのお風呂に入りに行った。その後、一人で雨の中をゴールまで歩き続け、戻ってきた太田君と3人でまた飲み会をしてしまった。

2013年4月29日、3人で三島から箱根まで旧街道を歩いた。美しい富士山が見える天気の良い日だった。緩やかな長い登りが続く道だった。それまで遅れたたことがない柳原君が遅れるようになった。休憩地の山中城址で待っていると、健脚の彼が遅れて到着し、そのままバターンと寝ころんだ。いま思うと、もしかしたらこの頃から体調が・・と考えてしまう。次回は「熊野古道」を約束し、柳原君が計画を立ててくれることとなった。

「熊野古道」が実現しないうちの2015年3月、小細胞肺癌で入退院を繰り返しているというメールが入った。

【=今朝犬と近所を散歩していたらしだれ桜があっという間に開花です。今年の桜は早そうです。水野君の観音崎の計画も飲み会だけになりそうですね。3月16日から3日間4回目の抗がん剤の投与をしました。といっても毎日2時間位点滴をして後は1カ月近く状態観察で何もすることありません。何をやっても構いませんし仕事もOKです。2月には肺の中の影は消えましたので、目下は再発・転移予防の治療です。4月になって、更に2回抗がん剤を続けるか決めることになりそうです。抗がん剤治療場合、副作用が問題です。ガンの種類、個人の体力等によって差が大きいようです。私の場合いまのところ大きな支障は出ていませんが、投与のたびに白血球がかなり減少し、免疫力が低下するので、出かけて人と会えないのが最大の問題です。仕方なく家の中で手足を動> かしていますが、体力は落ちますね。暖かくなりましたし、いつ外出できるようになるのかが当面の課題です。外出できるようになったらご連絡します。(女房の監視が 厳しい。)=】

話を聞くと12月に山に行ったところ突然体調が悪くなって中断した。病院に行ったところ小細胞肺癌が発見されたという。11月29日の飯野ビルの忘年会では、こんなに元気だったのに信じられなかった。

Googleで検索すると小細胞肺がんは進行が早いこと、手術ができない癌であること、脳に転移することが多く非常に難しい癌であること、が分かった。お見舞いに行くべきなのか行かない方が良いのか分からなかった。通っている放送大学で肺がんにかかった友人から「弘明寺の身代り不動のお陰で癌を克服し1.5年後に復帰した。」という話を聞いた。そこで弘明寺に行き身代わり不動のお守り貰って郵送した。1週間ほどして入院中の彼からお守りのお礼と、元気で退屈しているという電話が掛かってきた。

5月2日(土)太田君と二人で横浜東部病院にお見舞いに出かけた。顔色が少し白かったが、癌があるとは思えない程元気で太っていた。個室だったので色々な話をした。旅行した時の写真をもとに色鉛筆で書いた絵を何枚も見せてくれ、帰りには玄関まで送ってくれた。3人一緒の写真をと思ったが次に会うときはもっと元気になっていると思って写真は撮らなかった。

 5月11日に退院したのち、花川泰雄君・太田君と私に次のようなメールが来た。 

【=御無沙汰しております。いよいよ若葉の季節というところですね。私のことですが、先週金曜日に主治医とCT,ペットの検査結果を見たところ肺の中にまだ癌がのこっており、脳の方にも微小な転移が2カ所見られることから、引き続き抗がん剤の治療を続けることになりました。こんどは薬を変えて1週間ごとに3回点滴することになり、前と同じ済生会横浜市東部病院に1カ月位の入院になりそうです。前回は白血球を除き、たいした副作用でませんでしたが、今度はどうなるのか心配です。またご連絡します。先日来お願いしておりました拙宅にお越しいただく件ですが、6月30日(火)、7月1日、2日のご都合はいかがですか。皆さんのご都合のよい日で調整したいと思いますので、ご都合の悪い日をご連絡下さい。そのうえで私の方で日程を調整してご連絡します。なお、当日ですが12時にJR鶴見駅西口改札(出口は一つです。)に集合し、そこから我が家の近くのフレンチのレストランで昼食を取り、その後我が家に寄っていただこうと考えております。よろしくお願いします。=】

7月1日に、元気になった柳原君にまた会えると楽しみにしていたところ、6月28日3人宛に、次のメールが来た。

【=7月1日に開催を決めました昼食のけんですが、先週6月26日にその前の週に取ったMRIやCTの検査結果を担当医と分析しました。その結果、①肺がんの方は、治療効果が見られないから抗がん剤を替えること、②新たに頭部にガンが数カ所転移しているのが見つかったのでガンマーナイフでX線治療をすることになり、早ければ火曜に入院することになりました。(1カ月近く入院の予定です。) そんなことで残念ながら7月1日昼食はキャンセルしました。また機会を改めたいとおもいます。突然会合をキャンセルして申し訳ありません。=】

7月10日、花川君から電話とともに次のメールが来た。

【=先ほど、奥様から電話があり、今朝、柳原瑛君が帰天されたとのことでした。3日前にご自宅に電話した際、お嬢さんから容体が急変したこと、奥様からも肺がんが脳に転移し、場所が悪く手術も出来ず危険な状態となった旨お聞きし、心配していたところですが帰らぬ人になってしまったことは残念です。=】

 柳原君のことはずっと気になっていたが、このメールには驚いた。直ぐには信じられなかった。2ケ月前に病院へ行ったときはあんなに元気だったのに...残念以外に言葉が見つからなかった。

7月13日通夜、棺に入っていた柳原君は2ケ月前とは全くの別人になっていた。髪が真白、頬はこけ、痩せた柳原君だった。たった2ケ月でこんなにも変わってしまうものだろうか。棺の中の人は柳原君とは違う人のようにさえ思えた。家族から「苦しまないで息を引き取った。」という話を聞いて少しほっとした。心の中で「ご冥福を...」と祈りながら別れを告げた。

 <最後に> 

私が11期の幹事になったのは、2011年8月に故山田博君から「肺癌で余命1.5年と宣告された。イレブン会の幹事を担当して欲しい。」という電話からだった。山田博君がヘビースモーカーだったとことをあとから聞いた。そして柳原君、彼のザックにはいつも数箱の煙草が入っていた。栄光で一番親しかった57歳で亡くなった岩部晃一君もヘビースモーカーだった。いま改めて煙草の怖さを感じている。

ご冥福を心からお祈りいたします。    (合掌)

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太田君とスキーに行ってきました。 (Okuyama_Iwao)

2015年02月01日 | 奥山

太田君とスキーに行ってきました

1月29日(木)東京駅6時36分発の新幹線に乗車、8時過ぎ越後湯沢駅到着。迎えのバスで宿泊先のホテルへ。スキー場へは車でしか行ったことがないので駅からバスに乗ってスキー場のホテルへ行くイメージがわからず駅でまごまご。

   

新幹線車窓        越後湯沢駅前

ホテルに荷物を置いてガーラ湯沢スキー場へ。

今シーズン初めてなので慎重に滑り始める。太田君は10年ぶりということだったが、丁寧な滑りでゆっくりと下りてきた。ガーラ湯沢のメインゲレンデを3回程滑って、石打丸山へ。

ガーラ湯沢には数年前に一度きたことがあったが石打に行くコースをすっかり忘れてしまい同じリフトに何回も乗って行ったり来たり。ようやく石打に到着、若い頃きた石打の山頂はすり鉢型の急斜面だったが、いまは均されて広い斜面、滑りやすくなっていた。二人の心がけが良く快晴、最高のスキー日和。周囲の山々の景色が素晴らしい。

リフト管理の叔父さんにシャッタ-を押してもらう。

石打で昼食、スキー人口が減っていること及び平日なこともあるがスキーに来て待たないで昼食ができるのは珍しい。天気に恵まれただけでなく食堂でも幸運だった。心がけが良いせいとしか思えない。

 

 久しぶりのスキーだということもあり2時半にあがりシャトルバスでホテルに戻る。15:00ホテルでお風呂に。13階にある大浴場へ。湯沢の町が見られる露天風呂、顔にあたる冷たい風が気持ち良い。さあ困った夕食までまだ時間がある。部屋に戻り持参したお酒とおつまみで二人での宴会開始。6時の夕食の頃はもうすっかり出来上がっていた。食事のときは、飲むつもりがなかったがホテルでのサービスの地酒もあってまた飲んでしまった。

 

もうふらふら二人ともそのままベッドへ入り(19:00頃?)寝込んでしまった。ふと目が覚めて時計を見ると11時30分、隣のベッドの太田君は寝ている。そこでまた寝続ける。次に目が覚めたのは3:00AM。そこでまた寝て、次に目が覚めたのが6:00少し前。お風呂に入って漸く眼が覚めた。実に10時間以上眠っていたことになる。朝食後、シャトルバスでガーラ湯沢スキー場へ。この辺りは無料のシャトルバスが走っていてスキー客以外に地元の人も利用できるようになっている。

2日目のガーラ湯沢。昨日と異なり大勢が滑っていて少し怖い。人ごみを避けながら滑る。途中休憩を挟んで12:00にスキー場を離れてホテルに戻りそのまま帰る支度をして越後湯沢駅へ。

乗る電車の時間は15時09分、それ迄2時間以上ある。昼食を兼ねて居酒屋へ。そこでまた地酒!新幹線の乗る頃にはもうふらふら。

 

また飲んでしまった。

今回のスキー、飲みに来たのか滑りに来たのか!滑っていた時間と飲んでいた時間とどっちが長かったのか分からなくなった。ともかく我が家には17:30分頃無事到着。それにしてもよく飲んだ。

今回は、スケジュールの調整がうまくいかず参加できなかったS君、締め切り後連絡があったT君、F君、次はご一緒しましょう。

そしてその時は、飲むことを減らして滑ることを主体にしたスキー行にしたいと思います。

 

 

 

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閲覧数が10万件を超えました。(Okuyama_Iwao)

2014年10月12日 | 奥山

閲覧数が10万件を超えました

 

 2014年9月末にブログの閲覧数が10万件(訪問者は約5万人)を超えました。2011年8月末にブログを開設して約3年と1ケ月(37ケ月、250週、1,125日)で達成したことになります。単純に計算すると1ケ月約2,700件、1週間で約400件ですが、直近の1ケ月では約6,000件、1週間では約1,500件になっています。11期生は現在150人、連絡可能なメールアドレスの人は約100人です。特別な宣伝をしていませんが、いつのまにか11期以外の人も閲覧するようになりました。

故山田博君から栄光イレブン会の幹事を引き継いだ際に連絡用に設定したブログで、開設当初は1週間で数十件の閲覧しかありませんでした。それがこのような多くの件数となりました。これもご支援していただきました皆様のおかげと感謝しております。ありがとうございました。

 栄光11会ブログは個人情報を扱う場合があります。ブログ管理者として、従来から個人情報の取り扱いには注意をしてきました。名前、写真以外は一切掲載していません。タイトル欄については、名前を英字にしています。閲覧者が増えたことから、機密保護に関しては、今まで以上に注意を払い個人情報が一切外部に漏れないように努めていきます。これからも皆様方のご支援、ご協力をお願いいたします。

栄光11会のブログは、皆様方からの投稿で成り立っています。

投稿をお待ちしております。       

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太田君と三浦七福神を歩く   (Okuyama_Iwao)

2014年02月20日 | 奥山

 太田君と三浦七福神を歩く

         

 

 関口君が主催した横須賀イレブン会(2014/1/18)に合わせて、太田君と三浦七福神を歩いたので、その時の様子をご報告いたします。

 私が歩く楽しさを覚えたのは、太田君が「奥の細道踏破(*1)」を始めたばかりの頃、鹿沼~日光間を一緒に歩いたことがきっかけだった。30Km以上歩いて、夕方ゴールの日光に到着し、疲れ切って入った温泉は暖かくて気持ちよかった。帰りに東武特急の駅待合室と電車の中で飲んだ缶ビールがとにかく最高だった。  

その後、歩くことと、飲むことのどちらを優先したか分からくなったが、彦根~大垣、逗子~二宮、鶴見川50Km、柳原君を含めた3人での西伊豆、入会したトレッキング会など、この数年間で400Km~500Kmくらい一緒に歩いている。スーパーやデパートでの荷物運び以外には家内とめったに歩かなくなった私がである。歩くだけでなく、何回も一緒に風呂に入り、時には同じ部屋に泊まったこともある。少しアブナイ関係になっているようだ。

 三浦七福神は、昨年(2013年)の正月に二人で歩いたコースで、途中道を間違えたり、通行止めで迂回させられたりしてかなり長距離だったことを覚えている。今回は昨年と逆のコースを歩くことにした。

三崎口駅で記念写真を撮り8時30分に出発、最初の妙音寺(鶴園福禄寿)に向かう。非常に寒い。駅で待っていた太田君の話では雪がちらついていたとか。駅前の坂を下り右折すると15分ほどして妙音寺に到着した。

      

  昨年参拝したときにはなかった四国八十八ケ所のお砂踏み巡礼が新設されていて山門が立派になっていた。

  

 改築をしたお寺を見ると、いつも檀家のことが気になってしまう。私事で恐縮だが、私は家の近くにある寺の檀家になっている。この寺から時々「当寺は由緒があり・・・(中略)・・・古くなったXXを改修したい。ついては寄進をお願いしたい。」という寄付の依頼が来る。「古い方が格調高いしまだ修理をしなくても・・・とか、住職はジャガーの最高級車、こっちは国産車なのに・・・」と心の中で思いながら檀家の習性、仕方なしに寄付をする。「お砂踏み巡礼と山門」どうしても檀家のことが心配になる。

 閑話休題、妙音寺の話。本堂の横から急坂を登った山頂には大きな大日如来像が聳え近くの太子堂に福祿寿が祀られている。寿老人の長くてつるつるした頭が後頭部の髪が少なくなってきた私には心にひっかかる。

      

  次は圓福寺(金光恵比須尊)。前回は道を間違えて遠回りしたところだが、今回は慎重に方向を確認し坂を下る。辺りは冬の田園風景が広がり収穫した大根が並んでいる。横浜から1時間ちょっとでこんな光景に出会えると感激しながら先に進む。金田湾に出た。右折し海岸線を歩いて行くと三浦七福神と書かれた赤い幟が見えてきた。右折するとすぐに圓福寺に到着。こんなに近かった、これは幸先がいい。今回は道に迷わないような気がしてきた。

  

 次は前回、同じような場所を行ったり来たりしているうちにどこを歩いているか分からなくなって辿りついた慈雲寺(白浜毘沙門天)だ。地図によると三浦霊園の横を通ると比較的早く着きそうだ。そこで三浦霊園と書かれた看板の前にいた人に道を尋ねた。「松輪の方だから、このバス通りを真っ直ぐに行って二股に分かれた所から右の道へ….」との答え。本当は教えてくれた道と反対の三浦霊園の方に行きたいのだが、道を聞いた手前、逆らうわけにもいかず、教えてくれた通りの道を歩く。

少し行くと三浦義村の墓所の案内が見えた。急な石段を登ると小さな社とともにお墓があった。

 

三浦一族のお墓は油壺付近と思っていた上に三浦義村という人の名前を聞いたことがない。家に帰って調べてみた。和田一族が北条氏に対し蜂起した和田合戦の際に起請文を差し出したにもかかわらず蜂起直前に北条氏に寝返り、和田一族が戦いに敗れた原因だと鎌倉武士の間で囁かれ、評判がよくなかったらしい。関ヶ原の小早川秀秋のような人のようだ。歴史上の人物として評判が悪かったが、領民に対しては評判がよく江戸時代に新しく墓所がこの場所に建立されたという。

 また話が脱線してしまった。先を急ごう。途中から右折して丘の上へ、一面大根やキャベツの畑が広がる見晴しのよい場所へ出た。家族全員で大根を出荷している農家で慈雲寺への行き方を尋ねる。

    

誰も慈雲寺を知らない。どうして知らないのかと不思議に思って持っていたガイドブックを見せると「ああ~毘沙門ね、毘沙門ならこの道を左に行って、あそこに見える共同出荷場の後の方」と指を指して教えてくれた。どの建物が出荷場なのかわからなかったが、わかったふりをして歩きを再開した。ところが、なかなかそれらしい建物が見つからない。30分以上歩いて漸く共同出荷場らしき建物に到着した。振り返ると道を尋ねた農家が谷戸をはさんで反対側の丘の上に見えた。

直線距離は近いがぐるりと遠回りし迂回してきたからだ。歩くと近いが車の場合は迂回しなければならずかなり遠回りになる。道を尋ねる度に道に迷うようだ。漸く慈雲寺に到着し参拝する。

 

 丘を下ると毘沙門湾に出た。太田君と相談し、昨年とおなじように岩礁地帯を歩くことにする。

このコースは「三浦岩礁の道」と名付けられ、「関東ふれあいの道」に指定されている。天を衝くような観音岩、荒々しい岩と海に盗賊も怖気づいたという盗人狩りなど、切り立った崖や岩場が広がる岩礁地帯で、素晴らしい景観を呈している。これだけの景勝地でありながら観光客の姿は殆ど見られない。交通の便がよくないことだとは思うが、少し勿体ない気がする。

              

                   遠くに見える尖っているのが観音岩

         

              盗人狩付近

 1時間弱で宮川湾のヨットハーバーに到着する。前回はここから丘に登ってバス通りに出たが、天気が良いのでこのまま城ヶ島方向に宮川湾沿いの岩礁地帯を歩いて行きたくなった。そこで、行けるかどうかをヨットハーバーの管理人に打診したところ「今は潮が引いているので歩いて行けるよ。」と言われ、このまま岩礁地帯を城ヶ島方向に進むことにした。ところがこちらは通る人が少ないと見えて整備されていない。

      

「こんなところで転倒したらきょうの飲み会、格好がつかないなあ。スキーで転倒したとも言えないし・・・」と思いながら手足を使って慎重に一歩一歩前に進む。太田君はひょいひょいと岩を跳びながら先を歩いていく。こんなところで足の長さと運動神経の差が出るとは思わなかった。

   

30分ほどで岩礁地帯を通り抜け、城ヶ島大橋が見える「通り矢」についた。以前から「通り矢」という珍しい地名が気になっていたが、来たのは初めてだった。右側は直角にそそりたつ崖、左側が海、もし津波が来たらどうやって逃げるのかと心配になってしまう。

  

そろそろお腹が空いてきた。時計を見たら1時15分を過ぎていた。北条湾をぐるりと周ると三崎港に入った。昼食が気になりスピードを挙げる。しばらくして海南神社(筌龍弁財天)に到着。源頼朝が手植した大銀杏があるような大きな神社だが空いたお腹には勝てない。

 

   参拝を早々済ませて三崎魚市場の2階にある食堂へ行き地魚の刺身定食を食べる。魚市場の人が利用するだけあって新鮮で美味しかった。食事が終り出発しようとすると帽子がない。慌てて付近を探したが見つからない。すると外で並んでいた人から「帽子、ここにありますよ!」の声。食事前に並んでいた時に椅子の上に置き忘れたらしい。どうもボケが進んでいるようだ。食事終了後,魚市場からあまり離れていない見桃寺(桃林布袋尊)へ向かう。どうしてここが七福神と思うような普通の家の形をした小さな寺。本堂らしき所へ向かう。扉が閉まっていたこともありお賽銭なしで祈願したが、賽銭なしの祈願では効果の程が気になる。

    

 

頼朝が歌舞伎園宴楽を催したことから名前がつけられた歌舞伎島公園横を通り諸磯湾へ。ヨットが並んでいる。栄光時代に宿泊した海の家辺りには瀟洒な家が建っていた。いま栄光の海の家はどうなっているのだろうか。南仏風のシーボニア、油壺湾のヨットハーバーを左側に見ながら小網代湾にある小さな白鬚神社(長安寿老人)に出た。

   

前回、小網代の森の通り抜けができなく大きく迂回した。事前に「通れるらしい。」と耳にしていたが気になって付近にいた人に聞いてみたがはっきりしない。太田君に「通行止になっていたらごめん。」とことわって、横にある細い山道に入る。「通行止めだったらこの道を戻るしかない。」と思いながら奥まで進んでいくと、そのまま森を通過してしまった。

 看板が出ていたが、小網代の森付近は鳥獣類の狩猟ができるようだ。道に迷った昨年、犬を連れオレンジ色の派手なチョッキを着て背中に猟銃を背負った狩猟家二人に出会った。向こうは目立つオレンジ色だが、こちらは普通の色の服、誤射を心配しながら歩いたことを思いだした。きょうは狩猟家に会わずほっとした一方少し残念な気がした。小網代の森を抜け、新しく開拓された農地の上の見晴らしのよい丘に出る。

 

 

 晴れていれば、相模湾の先、富士山や伊豆半島・丹沢・箱根が正面に見えるはずだったが生憎霞んでいて見えなかった。ここから畑の中をほぼ北に向い、大根畑を抜けると、間もなく延寿寺(壽福大黒天)の横についた最後なので正面にまわって参拝する。

 

 

これで三浦七福神すべてがお参りできた。出発点の三崎口駅に戻り記念撮影する。16時を少し過ぎていた。

     

18:00からの横須賀イレブン会までまだ時間がある。来るときの電車の中から見つけた京浜久里浜駅近くのお風呂(万葉)に立ち寄り汗を流す。2階にあるコーナーで生ビールと枝豆で、11会の予行演習をする。風呂上がりの生ビールはいつでも美味い。

これからが本来の目的である11会の飲み会だ。きょうは三浦七福神ウオーク、岩礁地帯ウオーク、飲み会と1日で3回も楽しんだ、江崎グリコのような一日だった。43,000歩。

 また太田君と一緒にお風呂に入ってしまった。

 アブナイ関係がまだまだ続く。 

 (*1) 奥の細道ブログ

http://okuhoso.exblog.jp/

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新年おめでとうございます。  (Okuyama_Iwao)

2014年01月01日 | 奥山

新年おめでとうございます。

 皆様方のご支援によりこのブログも3回目のお正月を迎えることができました。2011年8月に開設してから約2年半、この間約50人の方からの投稿をいただき、延べ30,000人を超える訪問者と60,000件を超える閲覧がありました。厚く御礼申し上げます。

栄光11会ブログは皆様方からの投稿で成り立っています。その投稿ですがこのところ少なくなり困っております。まだ投稿されていない方,既に投稿された方どなたでも結構です。内容、長さ、形式も自由です。11期の仲間に知らせたい明るい話題、楽しい話の投稿をお待ちしております。

若さを保つ秘訣は、「きょうよう と きょういく」(きょう用が有り、きょう行く所がある)とか。私の今年は、より多くの楽しみを見つけ、より沢山出かけようと思っています。

本年もどうぞご支援のほどよろしくお願い致します。

       2014年1月1日

 

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横浜観光スポットウオーク(11月21日)ご報告 (Okuyama_Iwao)

2013年12月20日 | 奥山

11月21日(木) 晴れ。全員の心がけが良いせいか、文字通りの秋晴れ、素晴らし天気。関内駅9:00に集まったのは久しぶりの佐野君、強歩会コースを一緒に歩いた中澤君、力也君、水野君、太田君と奥山の6人。

 

    左から 奥山・太田・佐野・水野・中澤・山口

改札口を出 て南に向かう。「港はこっち、道が違うのでは?」という質問、「いいえこちらです。」と言いながら反対方向の大通公園へ。

  

伊勢佐木町・長者町駅付近を左折する。水野君からパチンコの話を聞きながら山手の丘を目指す。彼は50年間で1,800万円くらい投資したそうだ。同期のF君にこの話しをしたところ、F君から「俺は50年でその10倍くらい飲み代を払った。しかも肝臓病つきだ。」と言われたとか。遊びとは金がかかるものだ。

山元町で右折し根岸森林公園に向かう。道路に出ていた森林公園への案内看板を無視して狭い道へ入る。我々は裏口から入って表口から出るのだ。階段を登ると古くて大きな建物が突然現れた。幕末に横浜の居留人向けの娯楽施設として開設し、第二次世界大戦の激化で閉鎖された根岸競馬場の建物だ。

  

元が競馬場だったこともあって森林公園は広い。歩いている私たちを練習中のランナーが追い抜いていく。紅葉が始まり秋を感じさせる落着いた景色。生物学に詳しい水野君が木や花の名前ばかりでなく、その性質や特徴を丁寧に説明してくれる。しかし素養のない私は聞いるそばから忘れてしまう。桜の木が沢山ある場所で「春になったら、きっと桜が綺麗だ、ここでお花見をしよう。」と水野君。「桜は南太田近くの大岡川が一番きれい。花見をするなら大岡川」と私。「いやここの方が綺麗なはずだ。」と引き下がらない彼。大岡川の桜を見てもいない癖に頑固なやつだ。

   

    

     根岸森林公園 

中澤君はしきりにあちこちで写真を撮っている。趣味が水彩画の彼は、あとで写真を見ながら画を描くそうだ。トイレ休憩ののちイタリア山庭園へ向かう。庭園の下の方も案内しようとすると「降りたらまたここを登って戻るの?さっきは、もう登りはないといった筈!」とあちこちから不満の声

   

    イタリア山庭園

仕方なしにその場所から引き返し山手の丘を歩き続ける。しばらくすると横浜の男子中学・高校生がその前を通ると必ずドキドキするフェリス女学院が見えてきた。この付近はフェリスだけでなく雙葉・共立と女学校が並んでいて中学・高校男子生徒の憧れの聖地。その昔、フェリスのテニス部に入っていた従妹から聞いた話を思い出した。「山口力也さんって知っている?クラブで人気なの。」その話を力也君に伝えると「大学時代フェリスのテニス部コーチをしていた。」ことを話しただけでなく、更に「清泉女学院でも教えていた。」と付け加えた。一人だけいい思いをしながらいままで黙っていたとは汚い奴だ。しかし羨ましい大学生活を送ったものだ。

  フェリス女学院

対抗意識が働いて、目の前に有る横浜山手カトリック教会を示して「横浜の住人は、この教会で結婚式をするのが理想なんだ。ここは映画にも良く出てくるんだ。僕の結婚式はここだったんだ。」と自慢するが誰も聞いてくれない。

 

   横浜山手教会

小島君・荒木君との待ち合わせ時間(12:00)が迫ってきた。少し歩くスピードを上げる。太田君に先に待ち合わせ場所に行くことをお願いする。困ったときの太田君頼み。気のいい彼は何でも聞いてくれる。

港の見える公園~フランス山を過ぎて、石の公園ともよばれている山下公園の一番端へ。有名な山下公園もこの辺りまで来る人は少ない。どうも我々は裏口からばかり入っているようだ。

荒木君・小島君と合流し8人になって公園前で昼食。先着20名までという海鮮丼(1,030円)を注文した。具が沢山乗っていて確かに安くて美味い。ただこの海鮮丼は先着20人限定で、これで8人が決まってしまった。かなり混んでいたが「他のお客さんたちは?」と少し気になってしまう。何人かが生ビールを注文した。そのあと更に追加の生ビールを注文したのは太田君と私の二人だけだった。

     

午前中は仕事で午後から参加の吉川君から電話があり13:30分水上警察署前で待ち合わせすることにした。リュックを担ぎ野球帽をかぶった吉川君が現れた。仕事 = スーツ姿を思い浮かべてしまう私、思い込みが激しくなってきた。9人になって大桟橋へ。

 

 小島君から「高校時代サッカー部の彼が試合に出るときは、大勢の女学生が見に来てキャーキャーとよく言われた。追っかけまでいた。」いう話を聞いた。サッカー部ということは知っていたが、彼が女学生に<もてた>という話を聞いたことが無い。誰も覚えていない高校時代の話、まあ好きなことを言わせておこう。

大桟橋を過ぎ赤レンガ倉庫へ。ここが初めての佐野君や中澤君が中に入る。あんなに狭苦しくて暗い場所に入る気もしない私は待ち合わせ時間を設定して辺りをぶらぶらする。 

 再び集合し海上保安庁前から海岸線をMM地区へ向かう。横浜に来る観光客があまり通らない道。インターコンティネンタルホテルの裏側に行きぷかり桟橋横を通り臨港パークへ。

  

目の前に芝生が広がっている。「MM21にこんな所があるんだ。初めて来た。」と荒木君。そろそろ疲れてきてベンチで座る人が増えてきた。急きょ予定コース変更しUターンしてパシフィコ横浜裏から万葉の湯へ。お風呂に入っていい気分になったところで反省会。生ビールが美味い。天気が良く気持ちがいい一日だった。合計28,000歩

 最後に、参加された佐野君からメール、中澤君から葉書が届きました。披露させていただきます。

(佐野君からのメール)

昨日は幹事役ご苦労様でした。お世話になりました。 また早速の写真、有難うございました。 15㎞の長丁場を歩いたのは何年ぶりだったろうか? 皆さんとのワイワイ楽しい会話についつられて、気が付いたら完歩出来ていました。やはり若いとき同じ釜の飯を食った仲間いいものですね。 お陰様で今日は足の痛みは全くありません(が、やはり「腰痛は」普段よりきついようです)。これに懲りずまた参加しますので宜しくお願いします。 来年の桜の季節が待ち遠しいですね (^Λ^)

 

(中澤君からの葉書)

横浜散策ありがとうございます。写真もお礼致します。初めて歩く道で絵になる美しいポイントが沢山撮れて愉快なWalkingでした。無機的な東京の風景と違って横浜の街は手作り感が残っているのが気に入りました。事前に下調べで歩いていただき感動感謝しています。現役時代の念を入れる奥山さんの仕事ぶりが想像され感じ入りました。三浦半島も写真で3ケ月水彩を楽しみましたが横浜は半年楽しめそうです。

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山田くんを偲ぶ(その2)  (Okuyama_Iwao)

2013年12月13日 | 奥山

 

と山田君は、彼が横須賀、私が横浜ということもあり栄光時代も卒業後もほとんど付き合いが無かった。2011年(2年前) 8月のある日の夕方電話がかかってきた。「山田です。」山田さんという名前に心当たりがない私「どちらの山田さんですか?」「栄光学園で一緒だった山田です。」それでもすぐに思い出せなかった。

 話しているうちに、背が高い山田君の姿が浮かんできた。電話は「いままで幹事をしてきた栄光11会の幹事を、関口君と二人で引き受けてほしい。」という話だった。突然のことでよくわからなかった。誘われて横須賀(お太幸)の飲み会に1、2度出席したことがあるが、栄光11会が何かもわからず、またどうして私が幹事にと思い詳しく聞くと「肺がんにかかり余命1.5年と宣告された。いままで自分がしていた幹事を他の人に引き継いでいる。11会の幹事を是非お願いしたい。」という内容だった。このような依頼を断るわけにもいかず、幹事を引き受けることにした。そこで関口君に幹事を引き受けたこと及び連絡用にブログを開設することを電話連絡した。

 2011年8月25日、横須賀(お太幸)で栄光11会が開催され、その席で山田君から幹事交代の説明があった。その時の様子が『栄光11会ブログ』の第1回目の記事(2011/8/25)である。山田君は元気そうに挨拶をしていたが、時々疲れた表情を見せ壁に寄りかかって座っていた。

 その後、山田君と連絡を取り合うようになった。カラオケとパチンコが好きで、時々奥様と一緒にでかけていることがわかった。ブログへ何回(*1)も投稿してくれた。2011年10月横須賀へ神輿担ぎに出掛けた時、関口君と3人で会うことにした。待ち合わせ場所に行くと山田君は来ていなかった。体調が悪くなって途中で帰ってしまったことを聞いた。その後何回か電話をしたがいつも明るく元気な声が返ってくるので安心していた。 

 2012年12月22日、関口君から「山田君が衣笠のホスピスに入院した。これから見舞いに行く。」という電話を受けた。見舞いに行った方が良いかどうか迷ったが、関口君の様子を聞いてからと思い自重した。12月23日、関口君から個室にいて話ができるという連絡があった。そこで奥様の了解を得て12月24日水野君・太田君の3人で病院に行った。山田君は疲れた様子だったが、ベッドから起き上がり椅子に座って待っていてくれた。水野君がパチンコの話をすると笑いながら相槌を打ち、奥様は泣きながら笑っていた。これだけ元気ならば大丈夫ということで、その日はすぐに帰った。

 12月29日山田君が亡くなったという電話を受けた。24日に3人で行った時はあんなに元気だったのに、どこか信じられなかった。告別式は12月31日だった。近親者のみの葬儀と聞いていたが大勢の11期の仲間が参列した。迷惑を掛けてはいけないということで関口君と蒲谷君だけが残り、他の人は焼香してすぐに退席した。後日、水野君から「何故、出棺まで立ち会わなかった。どうして校歌・千里の波涛を歌って送り出さなかった。」とのお叱りを受けた。後悔先に立たず。なぜあの時、最後まで立ち会わなかったのかと悔やんでも始まらない。

 年が明けて翌日、山田君から「あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。平成25年 ガンばって元気に過ごしています。」と書かれた年賀状が届いた。亡くなった人から届いた初めての手紙だった。仲間の一人が、「天国から届いた年賀状、非常にめでたいことだ。」と話していた。

いまこの文章を書きながら山田君の投稿を読み直し、元気な頃の写真を見ていると、また明るい声で「山田で~す。」と電話がかかってきそうな気がしてならない。

  (*1) 山田君からの投稿

 ◎近況報告   2011/09/08

 ◎城廻りの旅  2012/05/07

 ◎趣味をつなぐ 2012/06/08

       

        山田君からの年賀状

 

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69歳になりました。   (Okuyama_Iwao)

2013年06月12日 | 奥山

 69歳になった。数え年で70才、杜甫の「人生七十古来希也」の年だ。日本人男性の平均余命は79.64歳、健康で普通の日常生活がおくれる平均健康余命に至っては70.42歳だ。残りわずかになって来たようだ。 

       

          2013.5  チェスキークロム(チェコ)

 父は肝硬変で72歳で死んだ。私が36歳の時だった。母は家の近くで転倒し骨折して入院した。入院が長引き寝たきりになって、最後は少しボケがでて83歳で亡くなった。私が56歳、子会社に移籍した年だった。その頃から、「いまの仕事ばかりの生活で本当によいのだろうか?」「退職後の生活はどうなるのだろうか?」「ソフトランディングするには、どうしたらよいのだろうか?」を意識するようになった。

 60歳になった頃、生涯学習の講習会を受講したり、町会の役員を引き受けてみた。どちらも定年後の人達の仲間づくり、余裕時間の消化づくりのようで何かもの足りなかった。

 65歳になったとき、横浜市から公共施設に割引料金で入場できるカードが送られてきた。カードに赤く大きな【寿】という字が印刷されていた。スキー場でのシニア割引リフト券や映画館のシニア料金は、<得>をした気になっていたが、赤く大きな【寿】という字には抵抗感があった。子会社を退任したのが65歳。そのあと、68歳まで非常勤で大河原君の会社(JC-comsa)のお手伝いをしていた。

 JC-comsaを退職する直前(2012年10月)に放送大学に入学し、好きな科目、気になる科目だけを選択受講することにした。入学理由の一つが、仕事を辞め、頭を使わなくなることへの不安があったからだ。放送大学は、千葉県に本部があり、各県に1カ所(東京は3~4か所)づつの学習センターがある。学習センタ-には、視聴覚室があって好きな時間に好きな科目のDVD受講ができ、テレビ放送を見なくても勉強できるようになっている。

 幸いなことに、私の家から比較的近いところに神奈川県の学習センターが在り、通っているジムは道路の反対側に在る。ジムに通いエアロビックで汗をかきシャワーを浴びさっぱりしてから学習センターに行き講義を聴いている。大きな教室で聞いた大学時代の抗議に比べ、DVDによる授業は受講者を集中させ真面目に授業を聴かなければならないようになっている。久々に味わう試験場の雰囲気、緊張感は中々いいものだ。試験の時は若い人の姿を見かけるが、普段学校やクラブ活動で会う人は、ほとんどが同年輩またはそれ以上の人達だ。向上心が強く勉強好きで、大学院を含め卒業と再入学を繰り返し、10年以上通い続けている人が数多くいる。

       

         2013.5 ブタペスト(ハンガリー)

  最近になって、自分がいなくなった時に家族が困らないようにとの準備を始めた。死んだときの連絡先、対応方法、その他の色々なことを整理している。自民党政権になって変わった相続税の説明会にも出席した。ただ心の中のどこかで、「いますぐにその時が来る。」とは思っていないところがあり、作業が遅れ気味で未だ整理が終っていない。数年前、ふと気になって、脳神経外科でアルツハイマーの検査を受診した。いまのところ正常のようだ。ボケや認知症が発生しないうちに整理を終え、家族に残したいと思っている。

 体を動かすことが好きなので、ジムでのエアロビックスや水泳とは別に冬はスキー、春・秋はウオーキング、夏は神輿担ぎをしている。ただ今シーズンのスキーは一緒に行く人の都合で例年よりも回数が減ってしまった。また大好きなバイクも1年程前に妻から遠乗りを禁じられた。若い頃からの夢だったカナディアンロッキーでのスキー滑走、北海道一周バイクツーリングの実現が難しくなってきた。

          

          2013.2 かぐらスキー場(新潟)(左が私)

  三浦雄一郎さんが80歳でエベレストの登頂に成功した。両足に2Kgの重りの入った靴を履き、20Kgのリュックを背負って訓練を続け、世界最高峰に挑戦し成功したことに感動を覚えた。ただ下山途中で脱水症状になりヘリコプターで降りてきたことが気になった。三浦さんほど鍛錬し、訓練し続けた人でも80才になると若い人とはどこか違うところがあることを感じた。その80歳まであと10年、何とか健康年齢で有り続けたいと願っている。頭が正常で身体の自由が効かなくなった場合、思った通りの行動が出来なくなる無念さ、好きなことを我慢しなければならない辛さを想像することは難しくない。そして逆の場合は家族が大変だ。よく言われる、理想的な生き方のGNP(元気で、長生き、ぽっくりと)をめざしているが神のみぞ知る。自分の力では、どうしようもない。

     

        2012.4  ダータネルス海峡(トルコ)

  60歳をすぎて上半身の衰えを感じてきた。髪の毛が減り、頭頂部は皮膚が見えるようになってきた。せめて下半身の衰えを遅らせ、いつまでも69・69が続いていったらと願っています。69歳になりました。  

       

         

 

 

 

 

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【競歩会コースを歩こう。】ご報告   (Okuyama_Iwao)

2013年04月09日 | 奥山

 4月4日(木)晴れ。心がけが良いせいか二日続いた雨が上がり、最高のウオーキング日和。集合時間8:30の京急浦賀駅に、4人(太田・中澤・中里・奥山)全員が予定より早く到着し8:20に出発した。

     

       (京急浦賀駅 左から 太田・中里・奥山・中澤)

さあこれから34Kmだ。浦賀湾の海岸線に沿って歩きはじめる。出発前、山岳部にいた中里君は大丈夫だと思っていたが、長距離を歩いたことがないという中澤君のことが気になり後からついて行く。背筋を伸ばしてきちんと歩く姿に「これなら大丈夫。」とまずは一安心。浦賀の渡し(西側)を右折すると最初の登り。

        

           (浦賀湾の渡し船)

 4人で話しながら歩いていく。中澤君から20年位ガラス工芸を続けていること、東京までの30Kmを好きな自転車で週1回往復していることを聞いた。なる程、足が強そうに感ずるわけだ。大学近くの利根川沿いを1時間程度歩いている中里君、テニスの太田君を含め3人とも私より鍛えている。

久里浜が近くなった。せっかくの機会なので左に曲がって「ペリー来航記念碑」を見ようと思ったが、まだ先が長いこと、三崎口までどのくらいの時間がかかるかわからないので予定通りまっすぐ進む。久里浜からは長く続く尻こすり坂、栄光時代、練習もしないのに一気に駆け上がった記憶がある。若い頃は元気だった。道の両側に名前の知らない花があちこち咲いている。春爛漫。太田君はしきりに写真を撮っている。

         

                (尻こすり坂付近の桜)

 野比からは左側に青い海が展がる長い海岸線。ずっと先に見える丘の先端が三崎・城ケ島だとすると、右側の丘が引橋か。対岸の房総半島と同じような距離に見えてしまう。三浦海岸付近でトイレ休憩。10:10、思った以上に早いペース。少しゆっくりしようと思ったが、全員元気で5分程度の休憩ですぐに出発。

    

      (三浦海岸:正面の丘が引橋付近)

三浦海岸で右折、引橋までの長いのぼりが始まった。きょうのコースで一番きつい所だ。頑張って歩き続け丘の上に出た。一面にキャベツ畑が広がり正面には美しく大きな富士山が見える。坂を上りきると「引橋」。

    

        (キャベツ畑と大根の花)

     

          (引橋付近からの富士山)

 さあここからは下り。気持ちのよい歩きを続ける。三崎口駅が見えてきた。11:30、予定より45分くらい早く到着した。三崎口から参加する人と一緒にお弁当を食べるつもりだったが、お腹が減ってしまい先に昼食をとることにした。3月31日(日)にお弁当を食べる場所を探しに来たとき、桜が満開で「お花見をしながらの弁当、缶ビールを~~」と考えていた場所は花が散って景色が変わってしまった。わずか4日間なのに「3日見ぬ間の桜かな!」を実感。三崎口駅で、大久保清邦君、相澤君、山口力也君、長谷川和生君及び三浦海岸から違う道を歩いてきた柳原君と合流。

           

    (昼食後の休憩:左から中里・大久保・相澤・柳原・中澤・奥山・長谷川)

昼食後の12:50出発。

     

 (三崎口駅:左から奥山・太田・中澤・大久保・中里・長谷川・柳原・山口・相澤)

 初声・長井を通り抜ける。大久保君から会社時代にニューギニアのジャングルでヘリコプターを待っていた話、長谷川君から毎日10,000歩数歩いている話を聞きながら歩き続ける。そろそろ疲れが出てきたのだろう。左足を引きずりはじめた人、腰が落ちたような歩き方、股を広げたような歩き方をする人が気になる。長い塀が続く武山の自衛隊を越えたら休憩しようと思っているうちに「林交差点」に到着した。時計を見たら14:00だった。ここで水野君と15:00時に落ち合う予定。

    

         (武山・自衛隊)

 それにしても早すぎる。バイクで下見をしたときの区間ごとの距離の測定を誤ったかもしれない。林交差点、ロータリの中で水野君が来るのを待つ。天気が良くお昼寝をしたい気分。水野君がバスから降りてきた。15:00時に「出発」、疲れていた人が心配だったがみな元気になっていた。のんびり、ゆったりでき丁度良い休憩になった。

     

          (林交差点での休憩)

 水野君から佐島経由を薦められた。道路上の看板を見ると葉山まで「8Km」、次の集合場所「;葉山御用邸前:16:15」が厳しくなってきた。そのまま真っ直ぐ歩き続ける。集合時間に遅れないように足が強い太田君に先に行ってもらい、残りはあとから行くことにした。

 秋谷・立石で小休止。付近は整備されて綺麗な公園になっていた。力也君は明日(4月5日)ゴルフだとか。元気そのものだ。かくいう私も(4月6日・4月7日)はさくら祭りで神輿担ぎの予定。元気でいること、楽しんで生活できることは大変ありがたい。

    

       (秋谷・立石付近)

     

        (長者ケ崎 遠望)

長者ケ崎で益井君が前から歩いてきた。本来は御用邸からの参加予定だが気になって逗子の家から迎えに来てくれた。16:00過ぎに御用邸前到着。警備のお巡りさんに挨拶する。

       

              (葉山:御用邸前)

 右折し一気に逗子に向かう。残り5Km、ゴールが近くなったのか歩くペースが急に早くなってきた。最後尾を歩いていた私からは、先頭がはるか先に見える。スピードを上げて漸く追いついたとたん逗子に到着(17::30)。全員が無事にゴールインできた。歩き通した。

待っていてくれた川原君と合流し中華料理屋さんで慰労会。

    

汗を拭き、着替えをしたあとに飲んだ一杯目の生ビールが美味しかった。大きな病気をしたにもかかわらずバスに乗らず歩き続けた相澤君、初めて30Kmを歩いた中澤君、中里君のビールは私以上に美味しかったのではないかと思ってしまう。お互いの健闘を称え合い、酔っ払った顔での集合写真を撮って解散。

 天気に恵まれ、風を感じながら歩いた楽しく気持ちの良い1日。参加された方々に改めてお礼をいいます。どうもありがとうございました。

        

    前列左から:柳原・益井・山口力也

    後列左から:奥山・太田・中澤・中里・長谷川和生・相澤・水野・大久保

  

コメント
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