栄光イレブン会

栄光学園11期卒業生の親睦・連絡・活動記録

ブログ開設:2011年8月23日

山口日出男君を思う(Chigusa_Tadaaki)

2012年02月25日 | 田中(石)・田村・千種

 

 

 東電の経営をどうするか新聞紙上でかまびすしい。東電の社長に某政府系企業の元社長がなりたがっているが、財界は丹羽中国大使を推していて、丹羽さんは固辞していると言ううわさを聞く。丹羽さんの話を聞くと山口日出男君を思い出す。

 

山口君がなくなって何年になるだろうか。確かあれは9月の事だったと思うが、大きな仕事が終わったので山口君の慰労会をしようと六本木の焼き鳥屋を予約していたところ、直前に秘書の方から体調を崩したとの知らせが入り、キャンセルになった。そして山口君の訃報を聞いたのはそれから1月もたっていなかったように思う。その前に肩が凝ってしょうがないと言うので、私が行きつけの鍼灸院を紹介したが、あれはガンのせいだったと言うのは後で理解したことでした。

 

彼のしていた大きな仕事と言うのは、ご存知の方もおいでと思うが、当時の伊藤忠社長であった丹羽さんから伊藤忠の問題点を洗い出すように頼まれたことだった。我々の仲間のほとんどはもう現役でないので当時の話を聞いても直接の影響はないであろうし、かつもう時効と思うので、彼から聞いた話を披露しますがこれはすべて伝聞であることをご理解ください。

 

当時、伊藤忠は投資の失敗から会社が危機的な状態にあった。社長になられた丹羽さんはその原因を調べて抜本策を提言する仕事を山口日出男君に指示した。山口君はあのまじめな性格からその仕事を真摯に受け止め必死になって調査したようだ。それがどれほど彼にとって負担であったかということを示す逸話を聞いたのでそれを披露しておこう。ある元社長の所に話を聞きに行った時の事、部屋に入るといきなり「お前は俺の首を取りに来たのか」と言われたそうだ。状況から判断すれば当然のことではあるが、この元社長は山口君ご夫妻の仲人であり、かつ元社長にとっては最初の仲人であったとのことである。この話をした時の彼は本当につらそうであった。

 

彼からは時々個人的に相談を受けていたが、彼なりに立派に仕事を完結させ結果を丹羽社長に報告に行った時のことです。社長から自分は辞任すべきではないかと言われたので、給与を返上すれば辞任する必要はないと思うと話したことを白状していました。その時のほっとした彼の表情が印象的でした。そして彼が亡くなったのはそれからすぐの事でした。

 

丹羽さんのような方が東電の社長になっていただきたいと思うが、しかしその時は誰が山口君の役割を演じるのだろうかと心配性の私は気になります。

 

                             (千種*忠昭)

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栄光11会の要領

2012年02月22日 | ◆お知らせ・行事案内

 2月22日現在の<出席>のご返事をいただい方は68人で、当初予想を遥かに超え、幹事として大変ありがたく感謝しております。 

 

 

当日の要領は以下の通りです。    

 

1.受付開始 17:40 ~

  有賀英樹君、黒川尚男君、中村和義君が受付を行います。

2.開会

  (1) 幹事自己紹介 司会 奥山 巌、写真撮影 関口 進

  (2) 宴会概要説明

3.乾杯 山田 博     

4.開宴・食事

5.近況報告(食事をしながら)  一人 1~2分

  神奈川・東京以外から出席された方

 

  (1)梅村正明  (2)田島卓也  (3)露無慎二  (4)長島保之  

(5)野崎 昂  (6)長谷川和生 (7) 畑田眞夫 (8)藤村道男

(9)増山正晴  (10)山口隆雄

 

6.歓談 (歓談開始後、座席移動して頂いて結構です。)

       ~ ~ ~

7.歌唱  20:00 ~     

  (1) 曲目 EIKO High Forever 千里の波涛

  (2) 歌唱指導 田中石城

8.閉会の言葉  後藤典彦

9.出席者全員の集合写真  

10.解散 20:40

 

 挨拶等のお願いを幹事の独断で指名させていただきました。

 よろしくお願いします。  

 

                   (幹事: 関口 進、奥山 巌)

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近況報告(Suzuki_Taketo)

2012年02月18日 | 鈴木(武)・関口・高野

 

 

皆様、御無沙汰しました。

 

 <1.御挨拶>

お世話になった先生は殆ど、また同期の方々まで何人か逝かれた状況で、小生が元気でいるのは不思議な感じです。自己紹介と近況報告いう事で書かせて頂きます。

 

皆様御存じのように、栄光卒業後、慶応の(機械)工学部へ入学してオーケストラ等の部活動を楽しむ等、2年間は普通の学生生活でした。しかしながらその後、父が悪性リンパ腫、母が肺性心で相次いで他界し、金沢八景にあった父の会社の継続、当時武蔵小金井にあった大学、さらに一人っ子として両親夫々の入院先である横浜と東京への往復とすっかり生活が変わってしましました。皆様と突如御無沙汰する事になったのはそれが理由でした。ここで改めてお詫び申し上げます。

 

<2.会社員生活>

幸いにして、休みの日に実験を指導してくれたりして卒業は出来る事になりましたが、教授はそのまま研究室に残ることを望まれ、それを願い下げた結果、筋違いの電電公社へ入社しました。

電電公社では一人きりの生活に区切りを付けたかったのか、3年の訓練期間終了と共に当時の局長秘書と恋愛結婚(現在も継続)しました。業務はNEC、日立、富士通の方々と当時の国策でIBM対抗システムの開発を担当していました。しかしながら、IBM/日立事件の勃発で方向転換、労務・人事やら国会対応関係一般を経験後、データ部門の分社化で指導頂いた当時の真藤総裁の命で日米摩擦の緩衝も含んだ役割で米国に赴任しました。84年から藤村さんがベンチャキャピタルを開かれたシリコンバレーに5年、その後米国現地法人の責任者として3年程の米国勤務でした。増山さんが米国に永住を決められ、落ち葉の美しい家にお招き頂いたのを楽しく記憶しております。

 

民営化NTTの誕生の後、リクルート事件で上司が次々と倒れ、帰国後3年程企業通信本部の営業部長を担当した後、1~2年の約束で当時は僅か200人程の通信会社SmartCommunicationのナンバー2として13人引き連れてフィリピンへ赴任しました。

しかしながら思うようには行かないもので、フィリピンで9年以上を過ごし、ライフワークの様にM&Aやら乗っ取りやら、数多くの波乱万丈を経験し、結果的には経営した会社は今や1万数千人の従業員、顧客数6千万を超えるまでに成長し、現在は小生から数えて4代目がdocomoから赴任するNTTでは当時殆ど唯一の海外投資プロジェクト成功例となりました。

当時電源開発におられた宮坂さんやフィリピンでリゾートを経営されていた錢高さんにもこの頃お会いしました。一番クリティカルだったのは買収したPLDT$2Bにも上る社債のデフォルト問題で、固定網設備の大半の購入先ドイツの輸銀KFWから貸換の条件とされた日本政府の支援を得る事でした。親元NTTからはルール上債務保証が出来ないと断られ、種々の方策の中で最終的にJBICが100億円の支援に乗り出してくれて、状況を好転させることが出来ました。正直、この時ほど日本国に感謝した事は有りませんでした。

<3.病気の事>

その間に大病をしました。病名は僧房弁腱索断裂というものです。我々世代が少年期にある種の風邪が大流行したようで、これが原因でリュマチ熱(リュウマチとは違います)を起こし、関節炎、腎炎等になったそうです。思えば小生も中学1年の頃までに一連の病気を経験しています。恐ろしいのは、これが僧房弁や三尖弁に影響し、老年期に閉鎖不全となり、急性心不全で即死に至るという事です。小生は幸いにもこの前症状がマニラのセント・ルークス病院の健診で発見されたことで手術に至り、死を未然に防ぐことが出来た事でした。日本での検診と違い、彼の地では一般健診後にトレッドミルで計測しながら全力疾走させて測定します。小生の場合、その際に初めて異常(逆流)が発見されました。同世代の皆様も同様な危険性を持たれているように思います。負荷をかけた健診は医師に要求すれば可能だそうですので、一度お試しください。

 

<4.最近の状況>

12期の横川さんらがフィリピン在任中に栄光会なるものを組織し、それに乗せられた格好で、年数回若い現役の皆さんと飲み会を重ねております。もし、フィリピンでリタイアを考えられる方がおいででしたらコンタクトして下さい。

フィリピンからの帰国後数年監査役等を経験し、その後ゴルフに精進しようとしましたが、才能に恵まれていないことを思い知らされました。

 

色々あったリクルートの方からの紹介で、現在は一人で平均年齢を引き上げるべく、平均37歳という光通信に入社、社長(40歳)顧問と新規事業の子会社の責任者を担当しております。

自宅は千種さん邸の近くに住まいを設けて15年になります。ゴルフに集中しようと購入した習志野近くのマンションは別荘のようになってしまいました。ゴルフを御一緒して飲んで泊まっても良いというお方がおられましたらご連絡ください。京浜急行から都営浅草線経由で相互乗り入れしている北総線が便利です。

                                        (鈴木*武人)  

 

 

 

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近況報告(Hanashima_Katsuhiko)

2012年02月12日 | 花島・福岡・藤島

 今年は年初より個人的に大きな試練に立たされました。117日より入院し、脳外科の手術をうけました。入院5日間、爾後の自宅療養をふくめ前後2週間休みました。原因はすべて小生の不覚によるものですが、年末の会社の忘年会の帰りに逗子駅頭で転倒し、目の周りにアザ、唇を多少切りました。これで済んだと思い、11213日と業務で香港に出張した折、かの地で頭痛に見舞われ、身体のバランスがとりにくくなりました。帰国後医者に行ったところ慢性硬膜下血腫と診断された次第です。術後の経過は順調で2週間後には仕事に復帰し、今はもとの多元的生活を再開しております。

さてその多元的生活ですが、仕事・教会活動・政治家応援の三つです。

仕事はPPS(特定規模電気事業者)の現役役員をしています。大学卒業後旧日本興業銀行に入行し、50歳で退職し金融調節を担う短資会社に転じ、10年ほど前、そこからスピンオフする形で丁度自由化が始まった電力業界に新規参入しました。

 

ご案内のとおり昨年の3.11以降電力業界は大揺れの状態で、東電の賠償問題、原子力再稼動問題、再生可能エネルギー導入、現行電力制度そのものの改革論議等、百家争鳴の感がありますが、私たちPPSは供給力確保を最優先に、需要家の関心の高まりのなか着実に経営基盤を固めております。とにかくエネルギーというものは、国民の生活に直結する一方、安全保障、グローバルな地政学的視点も必要で、興味の尽きぬ業界です。

 

 

教会活動もここ10年逗子教会ならびに横浜司教区をベースとして、福音宣教の活性化、教会経済財政基盤の強化等の企画に関与しております。第2次大戦後世界各国の宣教会、修道会が布教地日本を目指して司祭、修道者を派遣し、日本のキリスト教信者は急速に伸長しましたが、ここ30年ほどはほぼ横ばいであり、総人口比で約1%、カトリックのみですと0.5%にも満たない状況です。少子高齢化の波への対策の必要性は、教会とて例外ではありません。もう一つボランティア活動として、仲間と『ぶどうの木in湘南』という団体をつくり、薬物依存症者の回復・社会復帰のために微力をそそいでおります。

 

 

最後に政治家応援の話ですが、現在浅尾慶一郎衆議院議員(みんなの党政調会長)の後援会長を承っております。議員は中・高・大学の後輩であり、職場(旧日本興業銀行)も同じくしました。選挙区も一緒です。政治(家)不信が言われる中で、彼のブレのない正論に大いに期待しております。

 

 

このようにかなり多忙な毎日を過ごしており、プライベートでも写真のように初孫も生まれました(今年7月には二番目も誕生予定)。勿論老いは必ずやって来るわけですが、それまで(頭の怪我に気をつけて)出来るだけ豊かな人生を歩めればと念じております。

 

 

最後にいま気に入っている旧約聖書の言葉を添えて、拙稿を終えたいと存じます。

「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」

                          (ヨブ記第2章)

                         

                             

  

当時6ケ月の孫と(いまは1歳になったそうです。)

 

     

 

     娘夫婦とヨットで

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栄光競歩会コースを歩く(Okuyama_Iwao)

2012年02月09日 | 奥山

 

いまから4年程前の話になりますが、太田元夫君の呼びかけで、栄光の競歩会コース(京浜久里浜 ~ 逗子:31km)を歩きました。そのときのことを思い出しながら、ご報告させていただきます。

 

 

2008322日(土)・快晴、京浜久里浜駅・朝9時、集まったのは、奥の細道2,200KMを踏破した太田元夫君、自衛隊で若い頃、2昼夜で120Kmの行軍をしたという田中石城君と私の三人。

 

 

  京浜久里浜駅 出発前

 

最初にへばりそうだという理由から、私が先頭に立って歩きだす。出発するとすぐに尻こすり坂にかかる。中学時代、一気に坂を駆け上った記憶があるが、この日は思っていた以上に長い。坂を上りきると、そこからは下り、気持ちのいいウオークが始まる。

 

野比~長沢~三浦海岸と快調に歩き続ける。昔、この辺は下宮田海岸と呼ばれた静かな漁村だったのが、いまは綺麗に整備され山側には新しい家が立ち並び海側は護岸工事された岸壁が続く。海側に奇妙な三角形の建物が!何かと思って近づくと、これが公衆トイレ。ここで小休止。

 

 

 

 

 三浦海岸駅前を右折する。またまた緩やかな登り、広がった大根畑の向こうに富士山が見える。引橋到着(11:00)、ここまで約2時間。中学時代はこの辺りまで走ってきたような気がしていたが、きょうは遠かった。「ここからは下りが続く。」というぼんやりとした記憶で、「逗子はもうすぐ。」と思ったが、実際は、まだ1/3程度しか来ていない。逗子はまだまだ遠い。

 

初声~武山と平坦な道を歩き続ける。長い、長い塀が続く海上自衛隊の基地脇を通り抜ける。そろそろ昼食と思ったが、食事をする場所が見つからない。すいたお腹を我慢しながら歩き続ける。林の交差点付近で漸くラーメン屋さんを見つけ少しほっとする。スマートな太田君が沢山食べるのに驚く。普段からテニスをして鍛えている人は食べる量が違う。

 

長井付近で太田君の携帯が鳴った。「ごっつあん(後藤典彦君)が後からついてきている。」後藤君の電話は、「京浜久里浜駅に9:00に少し遅れたため、誰もいなかった。そこで一人で歩きはじめ、いま引橋付近にいる。」とのことだった。そこで葉山での待ち合わせを決め、後藤君は三崎口からバスで来ることになった。佐島~秋谷~長者ケ崎と平坦な海岸線を歩き続ける。御用邸前に到着、あと少しと思った途端に元気が出てきて、急にギアチェンジ、スピードが一気に上がる。 

 

長柄トンネルを抜けたところで後藤君と合流し蘆花記念公園に行く。丘の上から相模灘が見える。中学時代、境野先生に暗唱させられた「相模灘の落日」看板が立っていた。

 

 

後藤君の案内で競歩会のゴール地点「聖マリア幼稚園」へ行き記念写真を撮る。競歩会では、確かこの幼稚園に着いてからの昼食、あの時は何時頃だったのだろう?きょうは4時頃の到着。途中で少し寄り道をしたこともあるが、いまから思うと、当時は信じられないほど早く歩いたことになる。あの頃は、みな若く、元気だった。とにかく逗子に到着・ゴールイン。(45,000歩)。

中学時代の思い出に耽りながらの楽しいウオークだった。 

 

 

 

そして最後にサプライズが、ゴール地点に川原君、重山君、武田君、益井君が待っていてくれた。

逗子駅付近のお店でお祝いの飲み会。昔の仲間はありがたい。

 

 

後列(左から)太田 後藤 奥山

前列(左から)重山 川原 田中 武田 益井

 

 

(追記)

ブログに掲載しようと4年前のことを思い出しながら書かせていただきました。改めて写真を

見直すと、今の自分よりはるかに若い。わずか4年間で、こんなに<老けてしまった。>

と少しがっかりしています。

                         (奥山*巖)

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