石炭が国の基幹産業だった時代、筑豊炭田の中心都市として大いに繁栄した飯塚。
五木寛之の『青春の門』でも、筑豊の大都会として描かれています。
石炭景気で賑わっていた昭和6年、中座を前身として建築された芝居小屋、嘉穂劇場。
枡で区切られた広い客席から舞台を見たところ。
間口十間(約18m)のこの空間、柱が使用されていません。
ちょっと暗いですが、前と逆方向。舞台側から見た1階、2階の客席です。
写真の手前側、円盤状の部分は廻り舞台。
舞台の横には、綱元と呼ばれる場所。吊りものや様々な道具をここで操作します。
廻り舞台の傍にある階段を下りると、そこは「奈落」
本来は仏教用語で「地獄」を意味する奈落。暗くて深いことから、
舞台の真下のスペースや花道の床下のことを「奈落」と呼ぶようになったとか。
しかし一説には、一見華やかな演劇舞台の陰には、
様々な嫉妬や怨恨が潜んでいるからとも言われるそうです。
これが、花道の床下部分。役者さんは、狭く、天井が低いこの通路を駆け抜け、
再び舞台裏手から登場して、観客を驚かせる・・・・。
美空ひばりや津川雅彦がまだ初々しい頃のこんな古いポスターが飾ってありました。
嘉穂劇場は、平成15年7月九州北部を襲った集中豪雨により、
客席や舞台、花道等が浮き上がるなどの被害を受け、一時使用できない状態になっていました。
このとき、津川雅彦が芸能人仲間に呼びかけて、中村玉緒、明石家さんま、
中村勘九郎など大物俳優、芸人による復旧チャリティイベントが行われたそうです。
こんな協力や努力が実り、1年に及ぶ復旧工事を経て、嘉穂劇場は公演を再開しました。
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嘉穂劇場の近くの交差点。平成15年豪雨の記録が残されていました。
私の胸近くまで水に浸かったなんて、生きた心地がしなかったでしょうね。
五木寛之の『青春の門』でも、筑豊の大都会として描かれています。
石炭景気で賑わっていた昭和6年、中座を前身として建築された芝居小屋、嘉穂劇場。
枡で区切られた広い客席から舞台を見たところ。
間口十間(約18m)のこの空間、柱が使用されていません。
ちょっと暗いですが、前と逆方向。舞台側から見た1階、2階の客席です。
写真の手前側、円盤状の部分は廻り舞台。
舞台の横には、綱元と呼ばれる場所。吊りものや様々な道具をここで操作します。
廻り舞台の傍にある階段を下りると、そこは「奈落」
本来は仏教用語で「地獄」を意味する奈落。暗くて深いことから、
舞台の真下のスペースや花道の床下のことを「奈落」と呼ぶようになったとか。
しかし一説には、一見華やかな演劇舞台の陰には、
様々な嫉妬や怨恨が潜んでいるからとも言われるそうです。
これが、花道の床下部分。役者さんは、狭く、天井が低いこの通路を駆け抜け、
再び舞台裏手から登場して、観客を驚かせる・・・・。
美空ひばりや津川雅彦がまだ初々しい頃のこんな古いポスターが飾ってありました。
嘉穂劇場は、平成15年7月九州北部を襲った集中豪雨により、
客席や舞台、花道等が浮き上がるなどの被害を受け、一時使用できない状態になっていました。
このとき、津川雅彦が芸能人仲間に呼びかけて、中村玉緒、明石家さんま、
中村勘九郎など大物俳優、芸人による復旧チャリティイベントが行われたそうです。
こんな協力や努力が実り、1年に及ぶ復旧工事を経て、嘉穂劇場は公演を再開しました。
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嘉穂劇場の近くの交差点。平成15年豪雨の記録が残されていました。
私の胸近くまで水に浸かったなんて、生きた心地がしなかったでしょうね。