ルイガノ旅日記

あちこち出かけた場所で目にとまったもの、
心惹かれたものを紹介しています。
よかったらおつきあい下さい。

ロシア 美術館めぐり⑥ ~ エカテリーナ宮殿

2019年03月31日 | 海外旅行

エカテリーナ宮殿はサンクトペテルブルク市街から南西に約25km、ロシア語で「皇帝の村」を意味する「ツァールスコエ・セロー」にあります。もともとは、ピョートル大帝が后(後のエカテリーナ1世)のために建てた夏の宮殿でしたが、娘のエリザヴェータ女帝が即位後、イタリアの建築家を招いてバロック様式の宮殿に大改築しました。写真右奥、金色に輝くタマネギ型のドームは宮殿礼拝堂です。


庭園の奥(東側)に見えるのはパビリオン・エルミタージュ。エカテリーナ2世のために建てられた小宮殿です。


まずは大理石の大階段を上がって、宮殿見学がスタートします。


階段ホールの壁面には、日本や中国の陶器が飾られていました。当時、こうした陶器は金に勝るとも劣らぬ貴重品だったそうです。


最初の踊り場を過ぎると階段は4方向に分かれます。エルミタージュ美術館冬宮の大使の階段ほどの壮麗さはないものの、この階段ホールだけでビル1棟くらい入りそうな大きさがあります。


階段を上がって東側には、眠そうに目をこする「目覚めのキューピッド」。


長さ47メートル、幅17メートルの大ホール(鏡の間)。窓や鏡の効果もあって、ただ広いだけではなく明るく開放的です。「ロシアの勝利」と題する巨大な天井画は、一枚の絵ではなく部分ごとに分けて描かれていました。


江戸時代(1782年)、遭難してロシア領アリューシャン列島に漂着した大黒屋光太夫が、日本への帰国許可を求めるため、時の皇帝エカテリーナ2世に謁見したのもこの部屋でした。絢爛豪華で光まばゆいこの部屋は、江戸時代の庶民(大黒屋光太夫は船乗り)の目にどう映ったのでしょうか。


中央の扉を挟んで、オランダのデルフト焼きの巨大なペチカが設置されています。


ありとあらゆるところが金箔で飾り付けられていました。


ガイドさんの説明では、誰もがいつでも食事することができるよう準備されていたというダイニング。


部屋ごとに意匠を凝らしたエルミタージュ美術館冬宮とは異なり、床の寄せ木細工の模様は、多くの部屋で統一されているようでした。


大きなグランドピアノが霞むほど天井が高いです。


再び階段ホールへ。西の窓際に置かれているのは「まどろむキューピッド」。東側の「目覚めのキューピッド」と対になっています。


全長300メートルを越えるエカテリーナ宮殿。ドア越しに見通すと、どこまでも部屋が続いているように見えます。(写真は、中央の階段ホールから北向きに撮ったもの)

 
皇帝一家のダイニングルーム。白と金で統一された印象から「白の主食堂」と呼ばれます。これに対し、古代ギリシャをモチーフにした「緑の食堂」もありました。


マジョリカ焼きの調度品。

ひとつひとつの小さな花まで、実に精緻!

壁一面が絵で埋め尽くされた絵画の間。


広い宮殿にライティング・ビューローは二つしかなかったのだとか・・・・・・。


肖像画の間。


ナポレオンのロシア遠征を阻んだ第10代皇帝アレクサンドル1世の肖像画。アレクサンドル1世は、肖像画によってかなり印象が異なるような気がします。

玉座に座るエカテリーナ2世に、踏み台が差し出されている場面のように見えます。


エカテリーナ宮殿で二つ目のライティング・ビューロー。どちらも緻密な装飾が施されていました。

 
エカテリーナ宮殿は、広い窓などの開口部が多くて、明るく開放的。反面、これだけ開口部が多いと、厳しい冬の寒さには耐えられなかったそうです。ネヴァ川沿いに建つ更に豪華な冬宮と異なり、夏だけの離宮として割り切って使われたのでしょう。
壁一面が琥珀で装飾された「琥珀の間」は、期待どおりの美しさでしたが、撮影禁止だったため写真はありません。ちなみに、琥珀の間に埋め込まれた琥珀は、2次大戦でナチスドイツに略奪されて未だに行方がわからないそうです。失われた琥珀の間は、1980年代から再現のための努力が始まりましたが、オリジナルの琥珀の間についての資料が乏しく、作業は大変な困難を伴ったとのことでした。努力の甲斐あって、サンクトペテルブルク建都300年にあたる2003年、およそ20年近い歳月をかけて現在の琥珀の間が完成。その美しさを今に伝えています。

人気ブログランキングへ

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ロシア 美術館めぐり⑤ ~ ピョートル大帝 夏の離宮

2019年03月27日 | 海外旅行

ピョートル大帝の時代、ロシアはスウェーデン連合軍との大北方戦争(1700~1721年)を戦いながら、スウェーデンから奪ったバルト地方にサンクトペテルブルクを建設。当時このあたりは茫々たる湿地帯で、都市の建設には大きな犠牲が伴ったそうです。
幾多の困難を越えてモスクワからサンクトペテルブルクに都を移したピョートル大帝は、中心部から直線距離で約40km西に位置し、北にフィンランド湾を望むこの地に夏の離宮を建設しました。


南側に「上の庭園」、北側に「下の公園」を有する広大な宮殿は、ドイツ語で「ピョートルの邸宅」を意味する「ペテルゴフ」と呼ばれます。大帝は離宮建設に先立ってパリのヴェルサイユ宮殿を訪れており、随所にその影響が見られるそうです。このため、ペテルゴフは「ロシアのヴェルサイユ」とも言われます。


残念ながらこの時期は見ることができませんが、ペテルゴフには趣向を凝らした150個以上もの噴水が張り巡らされており、動力装置を一切用いず土地の高低差による水圧だけで水を噴出するのだそうです。写真は、宮殿すぐ下の「大滝」と呼ばれる噴水で、ここからフィンランド湾に向けてまっすぐに水路が引かれています。夏の離宮だけあって、冬場は雪に閉ざされて寒々しいのですが、5月から9月にかけては緑ゆたかな森の間を爽やかに水が流れ、あちこちで噴水が湧き上がって、それはそれは美しい風景を楽しめるそうです。


クロークに荷物を預けて、まずは宮殿2階から見学しました。


最初に入ったのは、白い壁と金箔が印象的なボールルーム。


壁一面にシャンデリア。鏡が多用されているので、広いホールがなおいっそう広く感じられます。

  
続いて、ロシアの過去の海戦の様子が描かれた絵画を壁一杯に飾った部屋へ。




(人に紛れて見えませんが)奥に玉座が置かれた謁見の間。玉座の後ろには、緑の軍服に身を包んだエカテリーナ2世の騎馬像が架けられています。


この緑の軍服姿には意味があります。夫ピョートル3世が国民の信望を得ていなかったことは前回書きました。ピョートル大帝の孫とは言え、ドイツ生まれのドイツ育ちで大のプロイセンかぶれ。ロシア嫌いが高じたピョートル3世は、ロシア軍伝統の緑を排してプロイセン流の青い軍服に変えてしまいました。夫であるピョートル3世を廃するクーデターに際し、エカテリーナ2世はロシア伝統の緑色の軍服を着用して士気を鼓舞したのです。若きエカテリーナ2世が凛々しく描かれていますね。

 
多くの部屋に天井画が描かれていました。

白いダイニングルーム。


白いダイニングには、真っ白な陶器のペチカ。ペチカと言うより装飾品のようです。


肖像画の間。描かれているのは、なぜか女性ばかりでした。


大きなハープが置かれた部屋。壁には花や木、野鳥が描かれています。さりげなく置かれた椅子のクッションや背もたれにも同じ図柄が・・・・・・。


青いソファが印象的な部屋。壁やソファの模様は中国がモチーフのようでした。


豪華な額縁に飾られた肖像画は、ピョートル大帝の娘で、第6代皇帝となったエリザヴェータ・ペトローヴナです。


左の大きな絵は、ピョートル大帝と勝利の女神ミネルヴァ。エルミタージュ美術館(冬宮)の「ピョートル大帝の間」に飾ってあったものと同じ絵のようです。ちなみに、ピョートル大帝は身長2メートルを越える長身だったと伝えられています。


夏の離宮ですから、利用頻度は高くなかったものと思われますが、各部屋には豪華で巨大なペチカが設置してありました。

部屋数の多さやそのつくりの豪華さにクラクラしながら見てまわりました(笑) 

先ほどのホールよりも小さめなダイニングルーム。

 
 この部屋に飾られていたエカテリーナ2世の肖像画。

欧米人にしては小さすぎるベッドですね。昔のヨーロッパでは、完全に横臥すると死人と同じ状態となって魂を抜かれるという言い伝えがあったため、横になって眠る習慣がなかったのだそうです。こんなベッドで疲れがとれたんですかね〜(笑)


地球儀が置かれた部屋。床も壁も木で覆われ、肖像画もないこの部屋は、ピョートル大帝を偲んで造られたのだそうです。絢爛豪華な部屋ばかり見てきたので、この部屋では少しホッとしたと言うか、気持ちが落ち着きました。

 
サンクトペテルブルクは、ヨーロッパに向けて開いた窓であるとともに、バルト海進出の拠点でもありました。大北方戦争を勝ち抜き、列強に肩を並べたピョートル大帝にとって、この夏の離宮から望むフィンランド湾は、さぞかし格別の眺めだったことでしょう。

少々話が固くなってすみませんでした (^-^)ゞ  次は、エカテリーナ宮殿の記事をアップします。

人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ロシア 美術館めぐり④ ~ エルミタージュ美術館(その3)

2019年03月22日 | 海外旅行
今回は、最も新しくエルミタージュに仲間入りした新館(旧参謀本部)の記事です。
宮廷広場を挟んで冬宮の反対側にある旧参謀本部(1828年完成)は、両翼がゆるやかな曲線を描き、まるで鳥が翼を広げたような美しい建物です。ここにはかつて、財務省と外務省(向かって左、東側)、軍参謀本部(右側)が入っており、それらが中央の凱旋アーチで連結されています。2014年12月、この東翼部分が国立エルミタージュ美術館新館としてオープンしました。


入り口を入ると、まずはこの階段を上って展示場に向かいます。


現代彫刻が多数展示された吹き抜けのホール。ここを抜けるとロシアの現代美術の部屋が続きます。新館の広さもなかなかのもので、すべて観ようとすればかなり時間がかかると思いますが、私たちはエレベータで4階(近代西欧美術のフロア)に上がり、印象派の作品を主体に観て回りました。


なかでも、私たちが一番楽しみにしていたのは「モネの部屋」です。


『モンジュロンの庭の片隅』と『モンジュロンの池』
モンジュロンとはパリ近郊の町で、自宅の居間に飾る絵をモネに依頼したエルネスト・オシュデ(実業家でモネのパトロンの一人)の別荘があった場所です。


モネの初期の作品(1867年)『庭の女(Lady in a garden)』
庭をテーマにしたモネの絵は、構図や色彩にも惹かれるものがありますが、モネがもっとも描きたかったものは「光」や「風」であったと言われています。


一番右は『ボルディゲーラの庭(Garden at Bordighera, Morning)』
ボルディゲーラはイタリア西部、地中海沿岸の町です。モネは、ルノワールと一緒に出かけた共同制作の旅の最後にここを訪れました。シュロの木が生い茂るこの町の美しさに魅了されたモネは、改めて一人で訪れてこの絵を描いたそうです。


上の写真一番左は、『ジヴェルニーの牧草地(Meadows at Giverny)』
ジヴェルニーはパリ北東にあたるノルマンディー地方の静かな村で、モネが晩年の43年間をすごした場所。パリのオランジュリー美術館が所蔵する『睡蓮』などは、ジヴェルニーの自宅の庭を描いたものです。


『ル・アーブルの大きな波止場(The Grand Quai at Havre)』
ル・アーブルは、モネが少年期を過ごしたセーヌ川河口の町ですが、『印象:日の出』を描いた場所でもあることから、印象派発祥の地とされています。


フランス印象派の一人で、モネとも親交の深かったカミーユ・ピサロ 『マルケ河岸=晴れた日の午後』
マルケ河岸とは、パリの中心部、ルーヴル美術館にほど近いセーヌ河岸のことのようです。


同じくピサロ 『テアトル・フランセ広場』


ルノワールの部屋も人気がありました。


オーギュスト・ルノワール 『ジャンヌ・サマリの肖像』
モデルのジャンヌ・サマリはコメディ・フランセーズの女優で、ルノワールとは恋仲だったとの噂もあるようです。


ルノワール『女性の肖像』
ルノワールの描く女性像は、知的でエレガントな雰囲気がありますね。


新館ではあまり時間が取れなかったのですが、エルミタージュ本館よりも空いていた上に、近代西欧美術に焦点を絞ったおかげで、かなりゆっくり観賞できました。


「ゴーギャンの部屋」
これら3枚はすべてタヒチ2期に描かれたもので、右から『果実の収穫』、『母性Ⅰ』、『二匹の山羊のいる風景』


オーギュスト・ロダン 『永遠の春』


19世紀から20世紀にかけての近代絵画の部屋です。


キース・ヴァン・ドンゲン 『黒い帽子の女』


こちらの部屋には、マネやドガの絵が集められていました。


エドガー・ドガ 『裸婦』


19世紀のフランス印象派エドゥアール・マネ 『マドモアゼル イザベル・ルモニエの肖像』


こちらはアメリカ人画家、アルフレッド・ヘンリー・マウラー 『庭の中で(in the garden)』


「青の時代」を中心に初期の作品が30数点と、「ピカソの部屋」の充実ぶりもすごかったです。


ピカソの支援者だったらしい『Benet Solerの肖像』


『楽器(Musical Instruments)』


19世紀のフランス人画家、フランソワ・フラマン 『Bathing of Court Ladies in the 18th Century』


最後の絵は、ロシア出身の抽象画家ワシリー・カンディンスキーの『コンポジションⅥ』
じっと観ていても何が描かれているのかわかりませんが、それでいいのだそうです。現地ガイドのワシリーさん(たまたまですが、カンディンスキーと同じ名前でした)は、「20分見つめていると、音楽が聞こえてきます」と表現していました。長くなりますが、「Artpedia 近現代美術の百科事典」の解説の一部を引用します。
《カンディンスキーは作品を通じて、内面に直接働きかける色彩への意識を強め、現実の外形の代わりに色彩の「響き」によって精神的な内容を伝えることを思い描いていた。1910年から1913年までの間に描かれた「コンポジション」シリーズはカンディンスキーの代表的な精神的表現である。》


所蔵美術品は310万点に及ぶと言うエルミタージュ美術館。私たちは、新館部分を合わせて5~6時間かけて観て回りました。ガイドさんが要所要所で詳しい説明を交えながら効率よく案内してくれたおかげで、かなり密度の濃い見学ができたと思います。とはいえ、絵画のみならずロマノフ王朝の絢爛豪華な宮殿も一緒に観て回るわけですから、時間はたっぷりあるに越したことはありません。日程に余裕を持って出かけたいものですね。
エルミタージュ美術館の記事はこれで終わりますが、ロシア旅行記はまだ続きますので、もう少しおつきあいください (^-^)ゞ


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ロシア 美術館めぐり③ ~ エルミタージュ美術館(その2)

2019年03月19日 | 海外旅行
エルミタージュ美術館の記事を続けます。今回は引き続き本館(冬宮、小エルミタージュ、旧エルミタージュ、エルミタージュ劇場および新エルミタージュ)の絵画です。

エカテリーナ2世の肖像画(光の反射や映り込みを抑えるため、斜めから撮った写真が多くなりました)。
ドイツの貴族出身であったエカテリーナは、ロシア国民の信望に欠ける夫のピョートル3世をクーデターにより排し自ら皇位につきます。その後、ロシアの強大化・領域拡大や文化の発展に努め、ロシア史上最長の34年にわたって知的で意志の強い啓蒙君主として君臨しました。


広い「レオナルド・ダ・ヴィンチの部屋」に、絵画としては『ブノアの聖母』と『リッタの聖母』の2枚だけが展示されています。こちらは1478年に描かれた、ダ・ヴィンチ初期の作品、『ブノアの聖母』。


1490年から1491年にかけて製作した『リッタの聖母』。エルミタージュ美術館がこれらの作品を収蔵したのは意外に新しく、『リッタの聖母』が1865年、『ブノアの聖母』は1914年です。


こちらは「ラファエロの回廊」と呼ばれ、ヴァチカン宮殿のラファエロのフレスコ画を複製し、回廊を再現したもの。本家ヴァチカンの原画はすでに一部失われてしまったため、今となっては大変貴重な存在です。


こんな美しいフレスコ画が延々と続きます。様々に意匠を凝らした豪華な部屋やホールが連なるエルミタージュの中でも、この回廊は独特の雰囲気があります。


大きなタペストリーが飾られた「ラファエロの間(マジョリカの間)」には、高価なイタリア製のマジョリカ焼きの皿や壷などが多数展示してありました。


ラファエロがイタリアのペルージャで修行していたころ描いた『コネスタビレの聖母』


こちらはフィレンツェに拠点を移してからの作品、『聖家族』。エルミタージュは、かつてラファエロの作品を5点収蔵していましたが、スターリンによって3枚が売却され、今残っているのはこの2枚だそうです。


広い美術館を移動して、次は「イタリア美術の間」へ。館内の展示室をすべて歩くと、総距離は20kmとも25kmとも言われるエルミタージュ。効率よく歩くのも大変です (^-^)ゞ


イタリア美術は「小イタリア天窓の間」と「大イタリア天窓の間」の二間続き。天井に設けられた大きな天窓のおかげで、自然でやわらかい光が注いでいました。


孔雀石やラピラズリの壷やテーブルがあまりに豪華なため注目されませんが、その脚の装飾もまた見事です。


「古代絵画史の画廊」には、18世紀のイタリアの彫刻家、カノーヴァの作品が多く展示されていました。


カノーヴァ 『キューピットとプシュケ』


続いて「スペイン美術の間」へ。フランシス・ゴヤ『アントニア・サラテの肖像』


フランチェスコ・スルバラン 『聖母マリアの幼年時代』


エル・グレコ 『使徒ペテロとパウロ』


こちらはオランダ絵画、「レンブラントの部屋」。エルミタージュは、レンブラントの作品を24点所蔵しており、これはアムステルダム国立美術館にも匹敵する規模です。
レンブラント・ファン・レイン 『天子のいる聖家族』。幼いキリストを慈愛のまなざしで見守る聖母マリア夫婦が、舞い降りるかのような天使とともに詩情豊かに描かれています。


キリストとキリストを抱き降ろす人が眩い光に包まれた『十字架降下』。光と影の魔術師とも言われるレンブラントらしい作品です。


レンブラント晩年の傑作と言われる『放蕩息子の帰還』


大使の階段ほどではありませんが、こちらも華麗な階段です。


「12本の円柱の間」


重さ19トンの巨大な「コリヴァンの飾り鉢」は、製作に14年も要したそうです。


ロシア帝国建国の祖であり、ヨーロッパ辺境の3流国であったロシアの近代化・西欧化を推進したのはピョートル1世ですが、そのロシアを政治的にも文化的にも列国に比肩する強国に変貌させたのはドイツ出身のエカテリーナ2世でした。とりわけ、自らの隠れ家として小エルミタージュを建設したことを発端として現在のエルミタージュ美術館の礎を築いたのは、彼女の偉大な功績です。ロシア史に華麗な一時代を築いたロマノフ王朝の歴代皇帝の中でも、後に「大帝」と称されるのはこの二人だけであり、ロシアにとって特別な存在であることがよくわかりますね。
次は、印象派の作品が充実していたエルミタージュ美術館新館(旧参謀本部)の記事をアップします。

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ロシア 美術館めぐり② ~ エルミタージュ美術館(その1)

2019年03月16日 | 海外旅行
さて今回は、ロシア旅行最大の目的だったエルミタージュ美術館ですが、その構成はパリのルーヴル美術館以上に複雑です。ロマノフ王朝歴代皇帝の居城であった冬宮(冬宮殿)を中心に、エカテリーナ2世が建設を命じた小エルミタージュ、旧エルミタージュとエルミタージュ劇場、その後ニコライ1世による新エルミタージュを加え、更に1988年、エルミタージュに移譲された旧参謀本部の東翼部分からなります。所蔵する美術品は優に300万点を越え(ルーヴルは約38万点)、まさに世界第一級の美術館と言ってよいでしょう。(写真は、宮殿広場から見た冬宮)


いよいよエルミタージュ美術館の中に入ります。まず最初は、大使の階段(ヨルダン階段)から。このアングルからはやや頭上に余裕がない印象を受けますが、最初の階段を過ぎると吹き抜けとなって圧倒的な空間が広がり、更に階段が二手に分かれる二つめの踊り場から一気に視界が開けます。見る人を感動させずにはおかない豪奢で精緻な設計です。


サンクトペテルブルクは、ヨーロッパに開かれた窓のような存在で、ロシア帝国の外交の表舞台でした。着任挨拶に訪れる各国の大使・公使、外交使節は、冬宮に入るとすぐにこの階段を上り、控えの間、そして謁見の間へと通され皇帝に拝謁します。この階段は、ロシアの国力、文化レベルの高さ、皇帝の権威を諸外国に知らしめる役割も担っていたのでしょう。


ピョートル大帝に因んで作られた謁見のための部屋、「ピョートル大帝の間」。玉座は、第4代皇帝アンナ・ヨアノブナが使用したものだそうです。後ろに掲げられた絵は、アルコニーニの手になる『ピョートルとミネルヴァ』。ミネルヴァとは、ローマ神話の知恵と工芸の女神です。


冬宮2階から見る中庭。淡いグリーンで統一された宮殿の外壁は、さわやかさと落ち着きを兼ね備えた気品を感じさせます。


かつてはロシア戦士の彫像が置かれ、その手にロシア帝国各県の紋章が握られていた「紋章の間」。


ナポレオンとの戦いに勝利したことを記念して作られた「1812年祖国戦争の間」には、当時の将軍332名の肖像画が飾られています。右手の大きな肖像画は、このときのロシア軍総司令官クトゥーゾフ元帥。時のロシア皇帝アレクサンドル1世の騎馬像は、この部屋の最も奥まった場所に掲げられています。


ロシア陸軍中将であったパーヴェル・アレクサンドロヴィチ・ストロガノフ(1772-1817)の肖像画。政治家や学者を輩出したストロガノフ家は、ロシアの芸術・文化の保護・育成にも大きく貢献しました。ロシアを代表する料理のひとつとされるビーフストロガノフは、19世紀末にストロガノフ家お抱え料理人が考案したものだそうです。


歴代皇帝が謁見を受けた部屋、「ゲオルギーの間(大玉座の間)」。部屋の周囲を飾る白いカラリア大理石の柱はイタリアから輸入されたもの。ゲオルギーとは、キリスト教の聖人「ゲオルギオス」のロシア語表記です。


玉座にも後ろのタペストリーにも、ロマノフ家の紋章である双頭の鷲が銀糸で刺繍されています。


16種類もの木を使った寄せ木細工の床。豪華に装飾された天井や壁、調度品や美術品に目が行きがちですが、部屋ごとに異なる意匠で作られた床もまた美しいものでした。


レオナルド・ダヴィンチの弟子であり養子でもあるフランチェスコ・メルツィの『フローラ』


小エルミタージュ、パヴィリオンの間に置かれた『孔雀座のからくり時計』。イギリスで製作されたこの時計は、ポチョムキン公爵からエカテリーナ2世に贈られたプレゼントです。


同じくパヴィリオンの間の一角。ドーム型の天井の繊細な装飾、多色大理石の円柱など、洗練された雰囲気のあるコーナーです。歴代皇帝たちが、ここで優雅なお茶のひと時を過ごしたのかもしれませんね。


ナポレオンのロシア遠征(祖国戦争)を退けたアレクサンドル1世のメモリアルホール、「アレクサンドルの間」。金や銀の食器を主体に展示していました。


何気なく飾られている時計も豪華。床のモザイク模様も見事です。


「フランス美術の間」。ロココ様式の天井が優美な曲線を描いていました。


18世紀のフランスを代表する彫刻家、エティエンヌ・ファルコネ 『指を噛むキューピッド』


同じくファルコネ 『冬』


この写真はエルミタージュ美術館一帯を俯瞰したものですが、手前右側の壮大で華麗な建物が冬宮、その左の縦に細長いもの(正面は工事中なのか、幕がかけられています)が小エルミタージュ、写真には写っていませんが更にその左のネヴァ川沿いに旧エルミタージュ、その後に続く部分が新エルミタージュです。エルミタージュ劇場は旧エルミタージュの左側にあり、渡り廊下ですべての建物が繋がれています。宮殿広場を挟んで向かい側に建つのが旧参謀本部で、中央の門より左側(東翼)がエルミタージュ新館です。

(ミュージアムショップで買ったガイドブックより)

「エルミタージュ」とは、フランス語で「隠れ家」を意味します。エカテリーナ2世が、公務を離れた時間の安らぎと憩いを求めるとともに、ドイツの画商ゴツコフスキーから買い求めた225点の美術品などを飾るために建設したのが、最初の隠れ家である小エルミタージュ。その後もコレクションは増え続け、時を経ずして旧エルミタージュ、エルミタージュ劇場が建てられました。
長くなってしまいましたので、一旦ここで小休止しますが、この次も引き続きエルミタージュ美術館の記事をアップする予定です。

人気ブログランキングへ
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする