コメントありがとうございます。
コメント欄に収まらないため、こちらに書きます。
哲学は、知、智、知恵とかを愛することと考えています。(知識ではありません。)
ヘルマン・ヘッセの「ナルチスとゴルトムント」(知と愛)も「知」と「愛」の友情の物語ですが、哲学のひとつのスタイルと考えます。
僕は、人は「ひとり」で生まれてきて「ひとり」で死んでいくと考えています。
その間に(とても長い時間それとも瞬く間のことなのか?)、様々な人々(両親、兄弟、クラスメート、知人、友人、同僚、、配偶者、子供等)と出会い別れ、そして喜び、悲しみ、悩み、希望、絶望等が生じては消えていきます。
また、貧困、殺戮、戦争、不平等、不自由、差別など社会(体制)の「ゆがみ」に組み込まれています。
これらの喜び、悲しみ、苦悩、怒り、希望、絶望等は、神様、仏様、霊などが与えた試練、褒美とは考えていません、無神論者です。
この例えの良し悪しは問わないでください。
ひとつの林檎「ふじ」を切り分けて何人かで食べたとします。ひとりは「ふじ」の中でも飛び切り美味しい、ひとりは果肉の歯触りは良いが果汁に奥行きがない、ひとりは「むつ」にはかなわない、ひとりは果物はイチゴ等千差万別です。
後日、同じ生産農家の「ふじ」を食べたときに、まったく別の感じ方をするときがあります、このことは人の奥行きが現れることで、困難な事柄が含まれています。
姿かたちは人間なのですが、その時の自分は他人と異なっていることに、以前の自分と、昨日の自分と、今の自分と異なっています。
そのような自分を「□□です。」と言うことができません。
様々な人々との係わり合い、社会(体制)の「ゆがみ」にまみれてしまっている自分を「□□です。」と言うことができません。
異なっている自分は「何か」、「何者なのか」について考えること、深く、深く考えることがその人の「哲学」です。
ですから、他の人が考える(考えてくれる)ことでもなく、社会(体制)の「ゆがみ」を正すことでもありません。
大学(院)の哲学担当教授の著作を読みますと、研究対象の哲学者の考えたことについてはとてつもない知識量を持っていることが分かりますが、教授自身は単なる研究者であり、哲学者でない場合がほとんどです。
初めに書きましたように、知、智、知恵とかを愛することであって、哲学書を読むことでも、精緻な言語で文章をひねり出すことでもありません。
考え方のルールはありません、難解な言葉を使う必要もありません、何を考えるのかも決まっていません、日々の生活(これは大切です)の中で、自分自身ふっと立ち止まる、ちょと疑問を持つ、ちょっとだけ褒めてみる等が哲学入門です。
ですから、カタバミさんの中に、既に哲学入門書、哲学書は書かれており、それを読む(考える、深く考える)だけのことと考えます。
蛇 足
政党等、宗教等の理念が実現すれば、人間として解放されると呪文のように言われますが、ひとりひとりの「個」が尊重されますと政党等、宗教等の組織は成り立ちませんので、本来の人間の実現とは間逆のカルト(洗脳)です。
ですから逆からのアプローチが不可欠となります。
取り急ぎメモしましたので、分かりづらい点はご容赦ください。
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哲学は、知、智、知恵とかを愛することと考えています。(知識ではありません。)
ヘルマン・ヘッセの「ナルチスとゴルトムント」(知と愛)も「知」と「愛」の友情の物語ですが、哲学のひとつのスタイルと考えます。
僕は、人は「ひとり」で生まれてきて「ひとり」で死んでいくと考えています。
その間に(とても長い時間それとも瞬く間のことなのか?)、様々な人々(両親、兄弟、クラスメート、知人、友人、同僚、、配偶者、子供等)と出会い別れ、そして喜び、悲しみ、悩み、希望、絶望等が生じては消えていきます。
また、貧困、殺戮、戦争、不平等、不自由、差別など社会(体制)の「ゆがみ」に組み込まれています。
これらの喜び、悲しみ、苦悩、怒り、希望、絶望等は、神様、仏様、霊などが与えた試練、褒美とは考えていません、無神論者です。
この例えの良し悪しは問わないでください。
ひとつの林檎「ふじ」を切り分けて何人かで食べたとします。ひとりは「ふじ」の中でも飛び切り美味しい、ひとりは果肉の歯触りは良いが果汁に奥行きがない、ひとりは「むつ」にはかなわない、ひとりは果物はイチゴ等千差万別です。
後日、同じ生産農家の「ふじ」を食べたときに、まったく別の感じ方をするときがあります、このことは人の奥行きが現れることで、困難な事柄が含まれています。
姿かたちは人間なのですが、その時の自分は他人と異なっていることに、以前の自分と、昨日の自分と、今の自分と異なっています。
そのような自分を「□□です。」と言うことができません。
様々な人々との係わり合い、社会(体制)の「ゆがみ」にまみれてしまっている自分を「□□です。」と言うことができません。
異なっている自分は「何か」、「何者なのか」について考えること、深く、深く考えることがその人の「哲学」です。
ですから、他の人が考える(考えてくれる)ことでもなく、社会(体制)の「ゆがみ」を正すことでもありません。
大学(院)の哲学担当教授の著作を読みますと、研究対象の哲学者の考えたことについてはとてつもない知識量を持っていることが分かりますが、教授自身は単なる研究者であり、哲学者でない場合がほとんどです。
初めに書きましたように、知、智、知恵とかを愛することであって、哲学書を読むことでも、精緻な言語で文章をひねり出すことでもありません。
考え方のルールはありません、難解な言葉を使う必要もありません、何を考えるのかも決まっていません、日々の生活(これは大切です)の中で、自分自身ふっと立ち止まる、ちょと疑問を持つ、ちょっとだけ褒めてみる等が哲学入門です。
ですから、カタバミさんの中に、既に哲学入門書、哲学書は書かれており、それを読む(考える、深く考える)だけのことと考えます。
蛇 足
政党等、宗教等の理念が実現すれば、人間として解放されると呪文のように言われますが、ひとりひとりの「個」が尊重されますと政党等、宗教等の組織は成り立ちませんので、本来の人間の実現とは間逆のカルト(洗脳)です。
ですから逆からのアプローチが不可欠となります。
取り急ぎメモしましたので、分かりづらい点はご容赦ください。
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