Retriever Legend's blog

散歩好き、本好き、惰眠好き、犬大好きの彼(旦那)の戯言を僕が代弁します。

石川啄木

2012-01-13 18:30:39 | 未分類
ちょっと一服

今朝の朝日(01/12)の道内記事「北の文化」において、啄木の釧路における足跡を北畠立朴(釧路啄木会会長)が『啄木の北海道漂泊一年』と題して簡単に書かれていました。

啄木が1907年5月5日に来道(函館に)して、1908年4月5日に離道(釧路から)するまでのうち、主に釧路時代について書かれており、歌碑の写真のキャプションに歌碑が二十数基あると書かれています。

読んでいて、2か月余りの滞在ですが、釧路市民のアイデンティティのひとつなのかもしれません。

啄木が22歳の1907年9月14日に、札幌駅近くの北七条西4丁目4の未亡人田中サト宅に、9月27日に小樽に向かうまで下宿していました。

昔日、高校の体育実技の時間に、体育教師がグランドに接している木造の古民家の一軒を指差して、あの家が啄木の逗留した家です、と。

当時、体育教師は全身筋肉でできていると考えていたことと、札幌駅周辺に逗留していたはずなのに場所が異なることから、印象に残っています。

1907年5月に母校が創設されましたので、教師の中で言い伝えられていたのかとも思いましたが、母校が開校し場所は中島公園の一角か周辺だったので、現在の場所とは異なります。

それとも、札幌駅に出迎えた向井夷希微か松岡蕗堂の家等であり、啄木が泊ったのかもしれませんが、想像の域をでません。



函館市宝来町の「茶房ひし伊」で、珈琲を飲んだことがあります。
この「茶房ひし伊」は質倉の内装を今風 (?)に改造して、外観に比べ雰囲気にちょっと嫌味があります。

昔日啄木の妻節子が通ったとの話が伝えられています。

立待岬に向かう途中に石川啄木一族の墓があり、佇むことなく通り過ぎたことがあります。

函館、小樽、札幌、釧路と駆け抜けた啄木ですが、其々の地で慈しまれています。
これは、北海道の厚みと深みのない風土(実存的、歴史的、文化的な背景)を物語っているとも言えます。

(2012.01.12記)