いわゆる小説と言われる類に手を出したのは中学生になってからですが、高校時代から本とまじめに向かい始めたと思うところがあります。
集中的に読んだ著者もいれば、関心が薄れまったく手にしなくなった著者もいれば、思いだしたように読み続けている著者もいます。
思い出したように読み続けている(読み返している)著者の一人に、カール・マルクスがいます。
全著作を読む気は毛頭なく、関心領域にトゲとなるところに関する著作を読むという、主義者の嘲笑を得る為のような読み方です。
高校時代から断続的に読み続けているマルクスですが、当時からスポッと抜け落ちている、書かれていない領域が気になっています。
マルクス読みでないので断定などできませんが、プルードンに対峙していたことが原因の一つと密かに考えています。
書かれていない領域、大きな物語の足掛かりは、他の哲学者、思想家に垣間見ることができます。プルードンはその内の一人と考えています。
ただ、プルードンの著作はほとんど翻訳出版されていないことから、数冊の著作と断片的な又聞きのような知識しかありませんし、そもそもルイブラン批判の『経済的諸矛盾の体系』(いわゆる「貧困の哲学」)すら翻訳出版されていません。
数年前に購入し見もしていなかった「プルードン・セレクション」 (平凡社ライブラリー)が、崩れた本の間から出て来たのを機会に読み始めました。多分に生誕200年を意識して出版されたのでしょう。(彼女が文庫本整理をしていて出てきました。)
コミュニティを妄念する位相からは、政治的、社会的、実存的要素があり、マルクスは政治的スタンスに、プルードンは社会的スタンスに重心があると言えます。
読み終えていないので、マルクス「哲学の貧困」からの射程がどのような質なのか言及できませんが、マルクスはプルードンに対して論争(理論的な闘い)のためではなく、政治闘争をしたと言えます。1868年の国際労働者協会ブリュッセル大会でプルードン主義者は政治的に敗退しました。
「プルードン・セレクション」 (河野 健二編集 平凡社)
書かれている事柄(知識取得)と事柄の捉え方(思惟方法)とはまったくの別物で、書かれている事柄に心酔、傾倒、崇拝、夢中等にならなければ主義者にはなれません。(いわゆる「かぶれる」という奴)
自己肯定の視点は、非論理的あぶら汗に見舞われつづけ、主義者への素質十分ですが、自己否定の視点は、論理的苦渋に見舞われ続けますが、主義者とは無縁の位相を保持し続けます。
で、様々な哲学者、思想家の膨大な著作は、書かれている事柄ではなく事柄の捉え方(思惟方法)が重要なのであって、書かれている事柄は弁証法における(正反=相互媒介は自ずと合=止揚はしません。)正反が相互媒介となる触媒(契機)そのものです。
ヘーゲルの著作にはヤハウェを確認できますが,マルクスの著作にヤハウェを感じるときがあり、自分自身にそのような幻想があるのかもしれません。
様々な先哲の著作は、止揚が留まることなく永久機関たらしめる触媒のひとつと考えます。
集中的に読んだ著者もいれば、関心が薄れまったく手にしなくなった著者もいれば、思いだしたように読み続けている著者もいます。
思い出したように読み続けている(読み返している)著者の一人に、カール・マルクスがいます。
全著作を読む気は毛頭なく、関心領域にトゲとなるところに関する著作を読むという、主義者の嘲笑を得る為のような読み方です。
高校時代から断続的に読み続けているマルクスですが、当時からスポッと抜け落ちている、書かれていない領域が気になっています。
マルクス読みでないので断定などできませんが、プルードンに対峙していたことが原因の一つと密かに考えています。
書かれていない領域、大きな物語の足掛かりは、他の哲学者、思想家に垣間見ることができます。プルードンはその内の一人と考えています。
ただ、プルードンの著作はほとんど翻訳出版されていないことから、数冊の著作と断片的な又聞きのような知識しかありませんし、そもそもルイブラン批判の『経済的諸矛盾の体系』(いわゆる「貧困の哲学」)すら翻訳出版されていません。
数年前に購入し見もしていなかった「プルードン・セレクション」 (平凡社ライブラリー)が、崩れた本の間から出て来たのを機会に読み始めました。多分に生誕200年を意識して出版されたのでしょう。(彼女が文庫本整理をしていて出てきました。)
コミュニティを妄念する位相からは、政治的、社会的、実存的要素があり、マルクスは政治的スタンスに、プルードンは社会的スタンスに重心があると言えます。
読み終えていないので、マルクス「哲学の貧困」からの射程がどのような質なのか言及できませんが、マルクスはプルードンに対して論争(理論的な闘い)のためではなく、政治闘争をしたと言えます。1868年の国際労働者協会ブリュッセル大会でプルードン主義者は政治的に敗退しました。
「プルードン・セレクション」 (河野 健二編集 平凡社)
書かれている事柄(知識取得)と事柄の捉え方(思惟方法)とはまったくの別物で、書かれている事柄に心酔、傾倒、崇拝、夢中等にならなければ主義者にはなれません。(いわゆる「かぶれる」という奴)
自己肯定の視点は、非論理的あぶら汗に見舞われつづけ、主義者への素質十分ですが、自己否定の視点は、論理的苦渋に見舞われ続けますが、主義者とは無縁の位相を保持し続けます。
で、様々な哲学者、思想家の膨大な著作は、書かれている事柄ではなく事柄の捉え方(思惟方法)が重要なのであって、書かれている事柄は弁証法における(正反=相互媒介は自ずと合=止揚はしません。)正反が相互媒介となる触媒(契機)そのものです。
ヘーゲルの著作にはヤハウェを確認できますが,マルクスの著作にヤハウェを感じるときがあり、自分自身にそのような幻想があるのかもしれません。
様々な先哲の著作は、止揚が留まることなく永久機関たらしめる触媒のひとつと考えます。