Retriever Legend's blog

散歩好き、本好き、惰眠好き、犬大好きの彼(旦那)の戯言を僕が代弁します。

悲惨なるカオス その2/3

2011-05-17 06:41:51 | 東電 柏崎・福島原発の放射能漏れ
*懲りない原発推進派

やっと電波芸者やら御用学者たちの「安全デマ」が減ってきました。

2011.05.05朝日新聞に「原子力守る政策会議発足 自民 原発推進派 はや始動」と如何わしい議員の記事の同じ紙面に東電顧問加納時男のふざけた一問一答がありました。(主旨)
・地元の強い要望で原発ができた。
・東電がつぶれたら株主の資産が減ってしまう。金融市場や株式市場に大混乱を起こす。
・むしろ低線量は体にいい。

その隣に河野太郎の一問一答がありました。(主旨)
・原発事故が、今さら『想定外でした』というのは通らない。
・政・官・産・学・メディアの五角形が『安全神話』をつくった
・「賠償金は東電の存続を前提にしてはダメだ。逆立ちしても鼻血が出ないぐらいまで賠償金を払わせるべきだ。

河野太郎の語るところの「政・官・産・学・メディアの五角形」は、決して市井人の健康は考えていない、原発推進の「政・官・産・学・メディアの五角形」は、東電の存続、株主、金融機関の保護に血眼になっています。

それだけ原発マネーには、政治献金、研究費、広告費、出演料等の魅力があり群がるのでしょう。



*株券、社債は紙クズ

賠償金について、「原発事故、賠償枠組み決定へ 東電特損1兆円計上」(2011.05.12朝日)の報道では、東電の存続が前提で、金融機関や社債権者の負担がなく、最終的に電気料金の値上げにつながる枠組みとなっています。

財務的に破たん状態の東電の株主、社債権者、金融機関等のリスクは当事者の自己責任に過ぎません。株主、社債権者等の損失は、国民には全く関係の無いことです。

東京電力に会社更生法を適用させ、100%減資し、財務大臣が100%の株主となり国の管理下におけば、株主、社債権者等の損失分が電気料金に上乗せされることもありません。

電力供給は曲りなりにも供給(先の計画停電は、原発維持への脅しにしか見えません。)でき、必要があれば計画停電をすれば良いだけのことです。

金融機関等が、このため経営危機になるようなら公的資金を注入(後で返済)すれば良いだけです。

老後の生活費を東電の株、社債から得ている方は、無一文になるのであれば最後の最後には、生活保護を受給すれば良いだけです。

この国は資本主義の国ですから ・ ・ ・


悲惨なるカオス その1/3

2011-05-16 06:48:57 | 東電 柏崎・福島原発の放射能漏れ
*呆れます。

原発からの排水限度濃度は40ベクレル/リットルですが、3月17日以降の暫定基準値は乳児は100ベクレル/リットル、大人は300ベクレル/リットルっておかしくありませんか。

市場に出回る野菜類は安全ですと能書きを垂れていましたが、市場に出回っており真っ赤なウソでした。

原乳は、放射能の濃度が基準を上回らないように他の市町村産原乳と混ぜて管理するっておかしくありませんか。

とうとう母乳の放射能汚染が報道されましたが、この汚染された原乳の乳製品は売れませんから、母乳の替わりに飲まれる乳幼児用粉ミルクにしてしまうのでしょう。

学校グランドの放射線量(内閣官房参与小佐古敏荘氏が抗議の辞任をしました。)20ミリシーベルト云々、土の入れ替え、運動時間の制限など対策をしますが、その校区の住宅街の放射線量は未処理でよいのでしょうか。

これらの線量は、数年から数十年後に症状がでる晩発性障害の危険がありますが、その頃にはこれらを判断した方々は素知らぬ顔をしていることでしょう。


標茶町の銘菓、結構いただけました。


*体内被曝は

 ネットで、福島原発周辺では奇形児が多く死産として扱われている旨が散見され、根拠となるデータが探し出せませんので(国も県も東電も故意に調査をしていない可能性があります。) ブログでは扱いたくないのですが、おぞましい報道があり全文引用します。

大人の基準超す放射性物質=22日採取の水から-千葉県(2011.03.30時事)
千葉県八千代市の睦浄水場の入り口手前で22日に採取した飲用水から、大人の飲用基準(1キログラム当たり300ベクレル)を超える放射性ヨウ素131が検出されていたことが30日、分かった。
 市と県によると、この水から370ベクレルの放射性ヨウ素が検出された。また、同浄水場に給水している北千葉浄水場で22日採取されたサンプルを調べたところ、336ベクレルが確認された。
 北千葉浄水場は、八千代市や松戸市など7市に水を供給している。28日に採取した水から放射性ヨウ素は検出されておらず、県は現在、飲用を控える呼び掛けはしていない。

これらの浄水場の飲用水を利用している市民は、体内被曝したと言えます。飲用禁止の措置をしなかったのは、県の判断なのか、国の判断なのか、東電の判断なのか、いずれにせよ人々を晩発性障害の危険にさらす犯罪行為です。


内と外と その4

2011-05-14 07:35:50 | 異形の滓
当ブログで「玉葱の自我 その1」( 2011.2.13)で、現象学が専門である鷲田清一氏についてメモしました。

『「自分とは何か(何者か)」の問いは、玉葱一枚一枚剥くようなもので最後まで行っても、「自分」、「核」は出てこない。
つまり、「自分とは何か(何者か)」の問いにより「答」が出ると考えることは、幻想である。
とした上で「自分」と「他者」との視点を提示し、人間は他者と交わる存在で、逆から見れば他者を求める存在である』

鷲田清一氏の発言は、宮元啓一氏の指摘する現象学の行き詰まりを如実に語っています。
玉葱(認識主体)の皮を一枚一枚剥いでも「自分とは何か(認識主体)」の答は出ない、幻想である。人間は他者と交わる存在であると話していますが、認識主体そのものの答(自己同一性)になっていません。(ただし、逆説的比喩としては了解できます。)

宮元啓一氏は、『自己は「他者(世界)とか意識(現象)とか経験とかの相関性を完全に捨象した純粋な自己反省によってのみ成立する自己性(自己同一性)によって確立されるものである。」(再掲)
つまり、対象に対する現象とは切り離したところに、他との相関性を捨象し自己反省をしなければ「自分とは何か(何者か)」の答は出てこないと。

惜しむらくは、宮元啓一氏は自己をどのように認識しているのかが書かれていないことです。

僕は、「完全に捨象」とか「純粋」とかの語彙は、日々の営為において幻想だと考えます。また、自己性(自己同一性)は認識対象と認識主体とは一つであり、常に自己反省(自己問答)され続けている事柄と考えています。

(2011.04 .03記)



おらぁは、「Hal」だ!

最終回のUP忘れていました。通して読んでみて、語彙の揺らぎに気付きました、後日推敲し直します。

(2011.05 .14記)


土着宗教

2011-05-13 21:53:16 | 読書ノート
さすが後半の2連休ともなると好きなジャンル(ただ考えたくない、難しいのは勘弁。)の本に手が出ます。
で、積読丘陵から次の二冊に目を通しました。

「激変! 日本古代史 卑弥呼から平城京まで 」(足立倫行 朝日新書)
古代史における「倭国」の体制について書かれています。

「日本の道教遺跡を歩く」(福永 光司 ・ 千田 稔・ 高橋 徹 朝日選書)
古代史における人々の精神の源流について書かれています。

「激変! 日本古代史 卑弥呼から平城京まで」について

邪馬台国の九州説、近畿説、倭国の女王卑弥呼の陵墓、吉備・出雲で墳丘墓、聖徳太子と大化改新、伊勢神宮の誕生等について書かれています。
著者は、文献学者大山誠一氏の説に多くを負うと語っており、「邪馬台国は九州にあった」とか「箸墓古墳の被埋葬者は誰だ。」と踏み込んだ仮説を構築するまでには至っていません。
これは、素人の古代史を研究している者の限界であり、また、素人ゆえの知的な楽しみでもあると考えます。

古事記の偽書説が以前からありますが、この本においても取り上げられており、序文の偽造の可能性があるとされていますが、学界では相手にされていないと。
ど素人の僕は、序文の偽造説に分があると妄想しています。


「激変! 日本古代史 卑弥呼から平城京まで 」

「日本の道教遺跡を歩く」について

この本は学術的であり、天武天皇が向かった吉野には、いったい何があったのか、なぜ桓武天皇は、長岡京にこだわって造都したのか、出雲・伊勢・宇佐の三大社のなりたちなどについて、また、京都、吉野、出雲など日本各地の古代遺跡を探訪し、日本の信仰の源流をたどっており、道教の影響を検証しています。

本書とは逸れますが、天皇の称号の由来を道教の「天皇大帝」に、また、宮中の四方拝の儀式は道教の宗教儀礼そのまま、天皇大帝の聖なる権威を象徴するものとして鏡と剣の二種の神器であり、中臣氏(中臣鎌足か?未確認)が三種説を主張して勾玉が加わり、三種の神器となったとされています。

また、現在の市民の生活の、元旦、初詣、節分、宮参り、ひなまつり、端午の節句、七夕、お札、お守り、おみくじ、門松、 注連縄、流し雛、易者等は道教に由来するものです。

当時、倭国では国全体が道教の強い影響を受けていたことが分かります。

本書は、近代、道教の影響を疎んじているが、その理由は、道教は土着宗教のため儒教、仏教より「下」と見ているためと指摘しています。


「日本の道教遺跡を歩く」

(2011.05.08記)


市民政府

2011-05-11 21:02:57 | 読書ノート
ヘンリー・デイヴィッド ソローという人物は全く知りませんでした。
単にタイトル「一市民の反抗」に惹かれ購入した類の本です。

この3連休に雑多な書籍を読みましたが、示唆に富んだ内容でした。
奴隷制度とメキシコ戦争への抗議として、州政府の人頭税を拒否し投獄されたことに対する、自らの考えが書かれています。
本書は、「市民的不服従」として、ガンディー、キング牧師、マンデラらの市民運動に影響を与えたと紹介されていますが、更に次への視点(国家体制)が主たる意図に読めました。

英語版が収録されており、タイトルは「Resistance to Civil Government」であり「市民政府(民政)への抵抗」と訳せます。
市民政府への抵抗と、更にその現市民政府を否定し、新たなる体制を考えていると。

専制君主制から立憲君主制、そして民主制への進展、現在の民主制は政治において可能な最後の到達点ではないとしています。

「国家が個人を国家よりも高い自立した力として認め、国家自体の力と権威はその個人から生まれると考え、そして個人をそれにふさわしいかたちで扱う ・ ・ ・ 」(同書61P)



「一市民の反抗 ― 良心の声に従う自由と権利」(Henry David Thoreau 文遊社)

民主主義への批判は、民主主義を否定する思想や集団への民主主義的な自由を適用、衆愚政治、多数派支配、時間・手間・費用、利益誘導、科学的な根拠等の制度に対するものが一般的で、その体制に日々暮らす人々からの視点が欠落しています。

ソローは、体制に人々の日々の営為を合わせるのではなく、人々の日々の営為に体制を合わすべきとしています。
文中、ソローは、無政府主義者ではないこと、また教会員であることを拒絶していることが書かれています。

自由、平等、多数決、資本、貨幣、投票、労働、権威、性差、権力、名誉、政治、経済、法律、存在、物象、疎外等の中の、多くの概念が消失した共同体が妄念できます。