Retriever Legend's blog

散歩好き、本好き、惰眠好き、犬大好きの彼(旦那)の戯言を僕が代弁します。

ポストマルクス

2011-05-03 21:15:50 | 読書ノート
極私的な書き物と空いた時間に妄念が消費されています。
その隙間に雑読をしています。

たまたま、ポスト資本主義関係が重なりましたので、数行のメモをします。

「未来への帰還 ポスト資本主義への道」(Toni Negri インパクト出版)



トニ・ネグリはアントニオ・ネグリのことで、この後に出版された「帝國」の原型が短文で書かれています。
「帝國」はイメージがストンと落ちるところと結べないところが混在したままになっています。
へそ曲がりの僕としては、いくつかの疑義を持ちましたがイデオロギーが大変イメージしやすい内容となっています。

* 「資本主義はどこへ向かうのか」(西部 忠 NHK出版)



これは「駄本」の典型でした。

資料の読み方が、「―だろう。」「―ないか。」「―であろう。」「―べきであろう。」の連発で、自らの思惟しきった言葉が希薄です。
結論が、「資本主義を超えるオルタナティブ」として「コミュニティ通貨」を提案し、「統合型コミュニケーション・メディア」と「言えるだろう。」と。

どのような貨幣であろうと「貨幣の諸形態」は払拭しきれず、「貨幣から資本へ」の芽はあり続けると考えます。
ただ「減価貨幣」にはその芽が無いのかもしれません。

* 「日本文化論のインチキ」(小谷野 敦 幻冬舎新書)



これこそ雑読の典型でしたが、楽しく読めました。

「日本文化論」を論じる論客の足元を、豪快に切り捨てています。
恩師(東大比較文学部平川祐弘教授)をも、切り捨てています。

どのような識者も「日本文化論」を論じると、「学問」を忘れてしまう、と。

歴史の法則性を見出したことはヘーゲルの罪と断じています。また、マルクスについても同様の指摘をしています。(同書54P~)
自然科学では「反証可能性」が担保されませんと、似非科学、擬似科学 (いわゆるオカルト)になります。
社会科学に「反証可能性」を持ち込むと、「資本主義の終焉」は似非社会科学となり、このことを拠り所に「反共」を論じる方もいます。

マルクスの原始共同体(論)は、「自然的な共同組織は土地の共同的占取、利用の結果ではなく、前提として現れる」(うろ覚え誤謬はご容赦を)としアジア的生産様式の成立基盤へと論じています。

以前に当ブログでも書きました「アマゾンの少数民族ヤノマミ族」は、マルクスの原始共同体(論)とは、別の位相で共同体があると言えます。

誤解されても良いのですが、僕は「ポストマルクス」は「マルクス」と考えています。(マルクス主義ではありません)

(2011.04.30記)