Retriever Legend's blog

散歩好き、本好き、惰眠好き、犬大好きの彼(旦那)の戯言を僕が代弁します。

内と外と その3

2011-05-04 07:07:07 | 異形の滓
カタカナは苦手です。

ドストエフスキーの作中の名前、ラスコーリニコフはRとかアレクセイはAと置き換えて読んだものです。
ウッダーラカ・アールニとその弟子(と言われる) ヤージュニャヴァルキヤは、僕的にはUと弟子のYと読みます。

前述しましたように、僕自身、古代の西洋、東洋の哲学の素養はまったくありませんので、それらに連なる現在の思想(特に現象学)の状況についてだけをメモすれば、宮元啓一氏は的確に捉え批判していると考えます。
真我(アートマン)=認識の主体は、認識の対象とならない 現代の思想の通底にあると。




懐中電灯の例えを書きましたが、空間は曲がっている等は別にして、明りを鏡に反射させることにより、懐中電灯を照らすことができます。

懐中電灯(認識主体)は光を鏡(認識対象)に反射させて、懐中電灯(認識主体)を照らす(自己反省)ことができます。

また、珈琲について書きましたが、豆が劣化、喉が渇いていた、辛い食べ物を食べた、二日酔い、煙草が切れた、湿気が多い等の理由があります。

これらの理由を捨象した純粋な味(味の同一性)は、日々の生活にはあり得ません。
味覚に差異が出る認識主体(自己)への認識対象(珈琲)からの問の契機と認識すべきと考えます。

(2011.03 .27記)