Retriever Legend's blog

散歩好き、本好き、惰眠好き、犬大好きの彼(旦那)の戯言を僕が代弁します。

広辞苑

2007-11-17 06:38:41 | 未分類
ちょっと一服

広辞苑 第6版が年明け早々に発売になります。
広辞苑は、第4版机上版を使用しています。
第5版CD-ROM版は、いつの間にか読めなく(劣化?)なり、第4版を重宝しているありさまです

第5版CD-ROM版は、なかなか優れものでした。
第6版は、DVD-ROMのため、現在使用中のPC(化石)では利用できません。

DVD-RAMドライブとの換装か、外付けにすれば良いだけなのですが ・ ・ ・
バルク物のメモリー168Pin SDRAM (いかに化石かを物語っています。)は、手元にあるのですが、増設していません。

IntelCore2Duoが主流のようですが ・ ・ ・

辞典や事典は、探した文字、項目のある箇所の両ページを読むようにしていますが、ネット検索で済ますことが多くなってきており、反省している次第です。



彼は、化石PCの起動時のロゴマークに愛着があるみたいで、ニャー。



守屋前事務次官証人喚問 その2

2007-11-16 05:31:09 | 未分類
日米防衛人脈の利権構造のほんの一部が明るみに出たことになります.
日米安全保障戦略会議について、朝日で報道されていました。

防衛利権、迫る検察 過剰接待捜査 山田洋行元専務逮捕(07年11月09日 朝日)

国防族議員ピリピリ
 宮崎元専務が逮捕された8日、東京都内で日米の「国防族」議員と軍需産業の交流の場である「日米安全保障戦略会議」が開かれていた。
 3日間の予定で始まった同会議初日の7日、来賓の自民党の伊吹文明幹事長や石破防衛相、シーファー駐日米大使は姿を見せなかった。基調講演を予定していた久間章生元防衛相は入院中のため欠席。討論会に出席予定だった民主党の前原誠司前代表も出席を見送った。  以下略

*入院中の久間元防衛相からはビデオメッセージが届いた(07年11月16日 朝日)

社団法人 日米平和・文化交流協会のHPに11月7日・8日・9日の3日間の日米安全保障戦略会議の案内が掲載されています。
同会議のプログラムに、ロッキード・マーティン・コーポレーション、ノースロップ・グラマン・コーポレーション、ザ・ボーイング・カンパニー、レイセオン・カンパニー、三菱重工業株式会社、川崎重工業株式会社、日本電気株式会社の社名がでてきます。

同HPに理事名簿が公開されています。
理事 秋山 直紀 
理事 久間 章生   
理事 額賀 福志郎 ※ 8月27日をもちまして、理事を辞任いたしました。 

防衛族議員、軍需産業、米国要人との間には、巨額が動き、防衛族議員も潤うのでしょうね。
この利権構造を維持するために、危機を煽り、国民を不安にさせつづけ、防衛族議員は利権に手をだし、おこぼれに官僚が群がっている構図です。

防衛族議員、軍需産業の最大の敵は、「平和」です。



分厚い本に夢中だから、無理だニャー。


守屋前事務次官証人喚問 その1

2007-11-15 21:03:06 | 未分類
11月15日の参院外交防衛委員会の守屋前事務次官証人喚問において、キーパーソンの名前が出ました。
久間元防衛相と秋山直紀日米平和・文化交流協会専務理事の名前です。

米ゼネラル・エレクトリック(GE)製エンジンの納入代理店の商標争奪戦です。
【 山田洋行 久間元防衛相 秋山直紀専務理事 】対【日本ミライズ 守屋前事務次官 宮崎元伸(山田洋行元専務) 】を世間にさらしました。

久間氏と4人で料亭=額賀氏は米国防総省OB囲む-守屋前次官喚問で証言(07.11.15時事通信)

この日は「記憶が間違っているかもしれない」と断った上で、2人の名前を明かした。
 証言によると、久間氏が参加した宴席は2、3年前、東京・六本木の料亭で開かれた。
知人で日米平和・文化交流協会専務理事の秋山直紀氏から「(久間氏と)飲むから来ないか」と言われ、出向いた。あと一人は宮崎容疑者だったという。
 代金を支払った人物、話の内容は「覚えていない」とし、同容疑者による接待だったかどうかは明言しなかった。
 額賀氏については、元米国防総省日本部長のジム・アワー氏が来日した際、東京・神田の料亭で囲む会が開かれ、「自分の後に、宮崎容疑者が来た。それから額賀氏が来て最初に帰った」とした。 以下略

守屋前次官は、【 山田洋行 久間元防衛相 秋山直紀専務理事 】を道連れにするようです。
額賀財務相(元防衛庁長官)も脇が甘いというか、自業自得です。

秋山直紀についてですが、日米平和・文化交流協会の専務理事である秋山直紀は、日本の安保防衛政策に重大な影響力を持つ影の人物といわれています。

さて、久間元防衛相は逃げ切れるでしょうか。



時事ものばかりで、「酔生夢死」と「読書ノート」はどうしたのかな、ワン。


沖縄ノート その2

2007-11-14 05:53:02 | 憲法・非戦・平和
曽野綾子の検証取材『或る神話の背景』などで、「集団自決」と「軍の命令」の信憑性に疑問が提起されたと言われていますが、『或る神話の背景』は保守べったりオバサンの悪意に満ちたトンデモ系の駄本です。

11月9日大阪地裁での「沖縄集団自決訴訟」のやり取りが、産経に掲載されていますが、人間のおぞましさと哀れさに満ち溢れています。

沖縄集団自決訴訟の詳報(11月9日産経)
沖縄の集団自決訴訟で、9日、大阪地裁で行われた本人尋問の主なやりとりは次の通り。                                
 《午前10時半過ぎに開廷。冒頭、座間味島の守備隊長だった梅沢裕さん(90)と、渡嘉敷島の守備隊長だった故赤松嘉次さんの弟の秀一さん(74)の原告2人が並んで宣誓。午前中は梅沢さんに対する本人尋問が行われた》


被告代理人「『明日は米軍の上陸だから民間人を生かしておくわけにはいかない。万が一のときはこれを使って死になさい』と軍人から手榴弾を渡されたという女性の手記は知っているか」
梅沢さん「言うはずがないと思う」
被告代理人「別の女性は『昭和20年3月25日の夜、忠魂碑の前で日本兵に、米軍に捕まる前にこれで死になさい、と言われて手榴弾を渡された』と証言しているが」
梅沢さん「そういうことは知らないし、ありえないと思う」
被告代理人「手榴弾は重要な武器だから、梅沢さんの許可なく島民に渡ることはありえないのでは」
梅沢さん「ありえない」



赤松さん「曽野綾子さんの『ある神話の背景』が無実を十分に証明してくれたので、安心できたのだと思う」
原告代理人「『ある神話の風景』は、どういう経緯で読んだのか」
赤松さん「友達が教えてくれた。無実がはっきり証明され、信頼を取り戻せた」
原告代理人「集団自決を命じたと書いた本はどうなると思ったか」
赤松さん「間違った書物は削除、もしくは訂正になると思っていた」

帝國軍人は、沖縄で何を守ろうとしていたのでしょうか。
原告とその背後の人々の意に反して、帝國軍人の非人間的な実態が曝け出されました。

原告とその背後の人々には、沖縄の人々に対しての差別の意識があるのではと考えます。

この裁判の判決は、来春でるようですが、予断を許さないと考えます。



保守べったりオバサンの父は、○○って噂ほんとかな、ワン。


沖縄ノート その1

2007-11-13 20:02:27 | 憲法・非戦・平和
「沖縄ノート」(大江健三郎 岩波新書)の読後感を書くものではありません。

平成17年8月5日、沖縄の座間味島を守備した陸軍海上挺進隊第一戦隊長 梅沢裕・元少佐(88)と、渡嘉敷島を守備した同第三戦隊長故赤松嘉次・元大尉の弟、赤松秀一氏(72)が、大江健三郎氏と岩波書店に対し、名誉棄損の謝罪広告等を求めて大阪地裁に訴えがありました。

「沖縄ノート」203Pからの『「本土」は実在しない』の章の208P以降の内容について軍の命令有無に端を発し、固有名詞が特定されるとの訴えとなっています。

11月9日に大阪地裁で「沖縄集団自決訴訟」で本人尋問が行なわれたことから、各紙の報道記事を追っていると、産経の「正論」の内容に引っかかりました。

集団自決と検定 作家・曽野綾子 それでも「命令」の実証なし(07.10.23 産経)
略  私はノン・フィクションを手掛ける場合の私なりの原則に従ってやった。それは次のようなものである。
(1)愚直なまでに現場に当たって関係者から直接談話を聴き、その通りに書くこと。 略  私は、当時実際に、赤松元隊長と接触のあった村長、駐在巡査、島民、沖縄県人の副官、赤松隊員たちから、赤松元隊長が出したと世間が言う自決命令なるものを、書き付けの形であれ、口頭であれ、見た、読んだ、聞いた、伝えた、という人に一人も会わなかったのである。 略  この私の調査は『集団自決の真相』(WAC社刊)として現在も出されているが(初版の題名は『或る神話の背景』) 以下略

なぜノン・フィクションを書く場合の原則を書いているのか、何かのいい訳のような奇異さを感じました。

時々、大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会のHP、沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会のHPを覗いていますが、大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会のHPにその原因が書いてありました。

安仁屋政昭・沖縄国際大名誉教授の陳述書(2007年7月12日 大阪地方裁判所第9民事部合議2係 御中 安仁屋 政昭)の中に、

富山真順氏の証言は、つぎのとおりです。
① 1945年3月20日、赤松隊から伝令が来て兵事主任の富山氏に対し、渡嘉敷の住民を役場に集めるように命令した(非常呼集)。富山氏は、軍の指示に従って「17歳未満の少年と役場職員」を役場の前庭に集めた。
② そのとき、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手榴弾を2箱持ってこさせた。兵器軍曹は集まった20数名の者に手榴弾を二個ずつ配り、「米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら一発は敵に投げ、捕虜になるおそれのあるときは、残りの一発で自決せよ」と訓示をした。
                                             
略 そして沖縄の出張尋問が終わった後の1988年3月30日、富山氏は、私に「玉砕場のことは何度も話してきた。曽野綾子氏が渡嘉敷島の取材にきた1969年にも、島で唯一の旅館であった『なぎさ旅館』で、数時間も取材に応じ事実を証言した。あの玉砕が、軍の命令でも強制でもなかったなどと、今になって言われるとは夢にも思わなかった。事実がゆがめられていることに驚いている。法廷のみなさんに真実を訴えるためにも、わたしの証言を再確認する次第である」と語っています(乙11号証-70頁上段)。 以下略

曽野綾子は、『愚直なまでに現場に当たって関係者から直接談話を聴き、その通りに書くこと。』と言いながら、自分の意図に反する談話は、書かないという破廉恥行為を犯していたのです。
その意図とは、何とかして「集団自決」と「軍」の因果関係を否定し、住民が自発的に自決したというストーリーに持っていきたいのだろうと考えますが、墓穴を掘っています。



「沖縄ノート」(大江健三郎 岩波新書)