当ブログとリンク(ブックマーク)しています晴走雨読氏のブログで、福祉について様々な方が書き込みをされています。
書き込みされる方の議論が噛み合わないため、深化の兆しが伺えません。
以前読んだ「差別原論(好井裕明 平凡社新書)」を思い出しました。
障害者をめぐるシンポジウムで、研究や実践の実績があり行政関係者からも一目も二目も置かれている方が、著者と話しをした時に、「キチガイ」という言葉をつかったため「差別的であり使うのはおかしい」と抗議の意味を込めて語ったところ、「私は、障害者問題に理解もある、実践もしてきている、言葉の問題ではない。」旨を話したが、今もおかしいと思っている。(同書51~52P)
家庭のなかで性別役割なるものをできる限り壊し続け、「男であること」を自分なりに位置づけながら「男であること」から解放されようと思い、食事、掃除、洗濯物片付け、参観日、保護者面談、買い物などを営みとしている。(同書187~188P)
差別行為をしなければよいのか、言葉だけを取り上げて批判することに意味はないのか。また、「男であること」から解放されようと思い行うことはあたりまえなのか。などと思いました。
根っこのところには、新しい概念は頭で知ることができても、身体に染み付いている旧態以前の自分を払拭しきれない(新しい概念が認識できない)ことに原因があると考えます。
柳沢伯夫厚生労働相の「女性は子供を産む機械」発言が物語るように、頭の中でジェンダーフリー、男女同権、女性の人権などの言葉は知っているが、知っているだけで根っこのところには「男尊女卑」が揺るぎ無くありつづけている結果です。
同書から引用した個所は、このような問題を提起しています。また、このような事象は、日常に満ち溢れています。
本書からは、著者の誠実さが伝わってきました、また、「差別する側、差別される側」に対して、私は差別をしない、されないから、差別は私と関係ないことだ、の人々を批判しています。この点については共感しました。
ちょっとブレてしまいました。
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