読書ノートNo.9
「まえがき」その8
「精神の日常的なありかたである意識は、知という極と、知の対極をなす対象という極の二つからなっている。23P」
「意識のなかで、自我と自我の対象たる共同体世界とのあいだにずれが生じるとき、そのずれは共同体世界を分裂させる否定的なものである。だから、ずれのあることは対立する両極の欠陥と見ることもできるが、じつは、両極を運動へと誘う原動力なのである。23P」
ひとつの思弁の契機であり、個々人それぞれの思弁の契機があります。
自我の対象は、「共同体世界」だけではなく、「自然」に対してもズレ、対立、否定をみることが出来ます。
ここに吉本隆明「共同幻想論」のネタのひとつが書かれています。自己幻想、対幻想、共同幻想という構造は著者の独創です、念の為に。
「本体そのものがその本質からして否定体であって、内容に区別や特殊な性質が生じるのも、本体が本体そのものと知に二分されるのも、本体が否定体なるがゆえである。25P」
「自己否定」を是とすることになんら違和を覚えませんが、日常生活のために「自己肯定」派が多数であり、また、自分自身の中で、生き易さのために使い分けている所があります。
これが、「共同体世界とのあいだにずれ」のひとつです。
問題なのは、その質なんですが ・ ・ ・
テマリアジサイが雨を欲しがっていますニャー。
「まえがき」その8
「精神の日常的なありかたである意識は、知という極と、知の対極をなす対象という極の二つからなっている。23P」
「意識のなかで、自我と自我の対象たる共同体世界とのあいだにずれが生じるとき、そのずれは共同体世界を分裂させる否定的なものである。だから、ずれのあることは対立する両極の欠陥と見ることもできるが、じつは、両極を運動へと誘う原動力なのである。23P」
ひとつの思弁の契機であり、個々人それぞれの思弁の契機があります。
自我の対象は、「共同体世界」だけではなく、「自然」に対してもズレ、対立、否定をみることが出来ます。
ここに吉本隆明「共同幻想論」のネタのひとつが書かれています。自己幻想、対幻想、共同幻想という構造は著者の独創です、念の為に。
「本体そのものがその本質からして否定体であって、内容に区別や特殊な性質が生じるのも、本体が本体そのものと知に二分されるのも、本体が否定体なるがゆえである。25P」
「自己否定」を是とすることになんら違和を覚えませんが、日常生活のために「自己肯定」派が多数であり、また、自分自身の中で、生き易さのために使い分けている所があります。
これが、「共同体世界とのあいだにずれ」のひとつです。
問題なのは、その質なんですが ・ ・ ・
テマリアジサイが雨を欲しがっていますニャー。
しからば、自己を否定するとはどういうことなのでしょうか。