愛犬との散歩コースは何通りかありますが、生死を彷徨ってからはオシッコとウンチがメインのショートコース(公園が主)でした。
先週から徐々に距離を伸ばしており、今朝はミドルコースにトライしました。
さすがに後半は、シッポがうな垂れていましたが休むことなく帰宅できました。
まだ爆睡している彼女への一番の吉報になります。(2011.04 .16記)
* * *
異形の滓
何時もの喫茶店で購入した深入りの豆を挽き落として飲みます。
ほぼ同じ味ですが、日によっては美味しく思わないときがあります。
彼女は、何時もと同じ味で美味しいとは言いますが。
宮元啓一氏は、前述しましたウパニシャッド(一群の哲学書で奥義書と訳されます。)から、次のように説いています。
『自己は「他者(世界)とか意識(現象)とか経験とかの相関性を完全に捨象した純粋な自己反省によってのみ成立する自己性(自己同一性)によって確立されるものである。」ので、自己は生、滅の原因は持たない、つまり不生、不死の常住なる実在である。』
また、
『「これより別のものは苦しみに陥っている」は、世界とか意識(現象)とか経験とかの実在性は自律的ではなく他律的であり、自己は、自身の内部から確立されず、外部の実在つまり自己に依存する儚いものである。』
同書145Pより概要
また、
『認識主体に属する認識しようとする要求は、認識対象を対象とする以外ない、認識主体を対象とすることはありえないため、認識主体が無限後退する論理的過失に陥る。』
同書146P~より概要
「インド最古の二大哲人」(宮元啓一 春秋社)
西洋の哲学は唯物と唯識の二元論から唯識論に重きがあり、また心理学に絡め捕られ、対象(現象)を認識することにより自己(同一性)を認識しようと悪戦苦闘しているが、論理的過失に陥っており、「自分とは何か(何者か)」の問いとなっていない。(対象(現象)を認識する外に自己を置いている。)
また、対象(現象)と自己(主体)との相関性は、扇子の扇面、骨とかなめではなく、また、両者を円に例えると重なってはおらず、それぞれ一つの円としてあり、認識主体は『自己反省によってのみ』実在すると。
(2011.03 .26記)
先週から徐々に距離を伸ばしており、今朝はミドルコースにトライしました。
さすがに後半は、シッポがうな垂れていましたが休むことなく帰宅できました。
まだ爆睡している彼女への一番の吉報になります。(2011.04 .16記)
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異形の滓
何時もの喫茶店で購入した深入りの豆を挽き落として飲みます。
ほぼ同じ味ですが、日によっては美味しく思わないときがあります。
彼女は、何時もと同じ味で美味しいとは言いますが。
宮元啓一氏は、前述しましたウパニシャッド(一群の哲学書で奥義書と訳されます。)から、次のように説いています。
『自己は「他者(世界)とか意識(現象)とか経験とかの相関性を完全に捨象した純粋な自己反省によってのみ成立する自己性(自己同一性)によって確立されるものである。」ので、自己は生、滅の原因は持たない、つまり不生、不死の常住なる実在である。』
また、
『「これより別のものは苦しみに陥っている」は、世界とか意識(現象)とか経験とかの実在性は自律的ではなく他律的であり、自己は、自身の内部から確立されず、外部の実在つまり自己に依存する儚いものである。』
同書145Pより概要
また、
『認識主体に属する認識しようとする要求は、認識対象を対象とする以外ない、認識主体を対象とすることはありえないため、認識主体が無限後退する論理的過失に陥る。』
同書146P~より概要
「インド最古の二大哲人」(宮元啓一 春秋社)
西洋の哲学は唯物と唯識の二元論から唯識論に重きがあり、また心理学に絡め捕られ、対象(現象)を認識することにより自己(同一性)を認識しようと悪戦苦闘しているが、論理的過失に陥っており、「自分とは何か(何者か)」の問いとなっていない。(対象(現象)を認識する外に自己を置いている。)
また、対象(現象)と自己(主体)との相関性は、扇子の扇面、骨とかなめではなく、また、両者を円に例えると重なってはおらず、それぞれ一つの円としてあり、認識主体は『自己反省によってのみ』実在すると。
(2011.03 .26記)
私とは一体何者なのでしょうか。
また、最近為政者が「無私」を讃えることが多いようですが、私心を持たぬ私とはどういう存在なのでしょうか。
乱暴に書けば、自分とは、「知り合いから頂いた果物を食べる」と言えます。
社会(他者との関係)、身体(果物を食べる)、精神(好き嫌い、空腹、他者等の認識)の三つ事柄があることが分かります。
ただ、これら三つ事柄は、感情、行動、イデオロギー等は複雑(日毎に異なる場合も多々)で、記憶、経験、文化(環境)の積み重ねに強く影響されますので、内省、自己問答で論理的組立てが困難な性質があります。
ここから、変化する自分に対して変化しない自分の主体を有我(実在)とするか無我(非実在)とするかの分岐点があります。
また、自分(主体)を対象とする認識「自分探し」が麻疹のように流行りますが、ドイツ観念論、現象学、構造主義等を見ましても、自分(主体)そのものは対象から外れています(主要な概念ではなくなっています。)。
鷲田清一氏が書くように、自分を問うことは玉葱の皮を剥くようなもので、幻想だと。
また、社会(他者との関係)について、例えばマルクス=エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』において、上部構造と下部構造の相互作用が生起し、自らを正当化する特定のイデオロギー、虚偽意識としてのイデオロギーが支配体制を強化するが、階級闘争の終結後は、イデオロギー的対立は解消するとされていますが(再確認していませんので誤謬はご容赦を)、僕自身は階級社会が解消されてもイデオロギー的抑圧はあり続けると考えています。
このように、一人ひとりの記憶、経験、文化(環境)の積み重ねが異なることから様々な事柄に対しての理解の仕方、考え方は千差万別です。
「無私」は、個人的な感情、損得を抜きにした「私心」のないありさまですが、人のために何かしたい(欲望=私心)と考え、人のために何かをすることは一見「無私」に見えますが、単に自分の欲望を満たしているだけのことです。
仏教では、自分がある(存在)ことは、現象として現われ変化そのものですから、変化する自分は何者か(主体)と捉える事は出来ないと説かれます。
変化しない主体(有我)に執着することを諌めるために「諸法無我」が説かれました。ただこれは人があるべき究極の自分(主体)であり信仰そのものと考えています。
記憶、経験、文化、社会のまとまった認識から、思惟し、判断し、僕固有の立場、役割、行動、所有等をする、固有名詞を持った自分(主体)としての自我はあります。
何故なら、今傍らに珈琲と煙草と愛犬の鼾があり、この文章をあれこれ考えている自分を確かに認識できます。
為政者が「無私」を唱えることは、理解の仕方、考え方は千差万別なのですが、そのことを(考えること)中断(思考停止)させる危険な狙いがあると断言できます。
晴走雨読さんのコメントを拝見して、かつて大学時代に私は武道(沖縄空手の一種)をしていたのですがその合宿の昇段試験の時のみ会う事が出来る師範という方がとある会合で
「他者から規定される自分になりなさい」と話したのを聞き、当時学生だった私はこれを肯定的に捉え様々思い悩んだりもする中で一つのヒントとなったかつてがふと思い浮かびました。
全くの独り言です。失礼致しました。
何処が悪かったのでしょうか?
無事で良かったですね。
元気に長生きして欲しいですよね。
早朝から犬のお散歩・・・健康な習慣ですね。
マメなご主人様ですね。
私も朝はどちらかというと弱いほうなので耳が痛いです^^
イヌなどの高等動物にも喜怒哀楽があり、人間同様に明確に意思を表出します。
人間は、意志を表出している自分を見ている自分を持っています。ある意味、醒めた自分、客観的な自分を持っています。そこから、強い自己肯定や反省が生まれると思います。
コメントありがとうございます。
諸般の事情により、お礼が遅れて申し訳ありません。
2008年の暮れに、散歩の途中に愛犬は倒れ、失禁状態となりました。
2009年正月から、原因の心嚢水を注射器により取る(心臓の負担軽減)治療と「ペルサンチン」の投薬を始めました。
同年春には、心嚢水も平常に戻り、投薬だけとなりました。
同年6月に、突然、愛犬は身動きできなくなり、動物病院で診てもらったのですが、原因不明と診断され、獣医師に見放されました。
僕と彼女は、「ペルサンチン」の副作用と判断し投薬を止めたところ、愛犬は生還しました。
僕と彼女との奮闘は「僕の異常」のタイトルで、当ブログにアップしました。
人も動物も健康がなによりです。