明日の「敗戦記念日」を考え、先月時間つぶしで読んだ新潮45(2013.8月号)の『昭和天皇と「よもの海」の謎』(平山周吉)の雑感を。
明治天皇が、露国との開戦を決定した明治37年2月4日の御前会議の後に詠んだ歌と昭和天皇とを論じている。
「よもの海みなはらからと思う世になど波風のたちさわぐらん」
昭和16年9月6日の御前会議において「帝國国策遂行要領」を決定(裁可)、前日近衛総理がこの議案を説明したが、昭和天皇は米国との開戦が主で外交交渉が従であるため、交渉に重点を置くように要求し、呼ばれた杉山参謀総長、永野軍令部総長は外交交渉に重点を置くことを天皇に念を押された。
翌日の御前会議で「帝國国策遂行要領」は決定されたが、その中で天皇は「よもの海」を記した紙片を手に読み上げ、「故大帝の平和愛好の御誠心を紹述せんと努めている」旨の発言をした。
御前会議は立憲君主の具現のため天皇は一切発言しないが、天皇は軍部への疑念が解消されず、再度、杉山総長、永野総長に質し、御前会議は未曾有の緊張となった。
東條陸軍大臣は、「聖慮は平和にあらせられる」と顔色を変えたが、翌日には開戦強硬派であった。
「よもの海」は、露国との開戦前に詠まれたのではなく、開戦決定後であり、明治天皇の大御心は出征兵士、赤子への叡慮、御憂いを詠んだものである(智恵者がいた)との異なる解釈から、天皇の発言は無視されることとなり、真珠湾攻撃へ。
昭和50年10月31日の日本記者クラブにおいて「戦争責任」を問われると、「言葉のあや、文学方面はあまり研究していない、答えかねる」旨の不可解な言葉を発しているが、これは天皇のなかに「よもの海」が軍部により「平和」から「開戦容認」に読み替えられた経験から正直な吐露であった、と。
東條英機の悪質さと昭和天皇の個性(平和)を対比する構成となっており、後半に、茨城のり子の詩集「自分の感受性くらい」から『四海波静』を取り上げ、この文章全体のバランスをとっている。
例えば、批判もあるが丸山眞男の「日本ファシズム」批判の視点、また天皇制そのものの視点もなく、出版社の限界なのかもしれません。
四海波静
戦争責任を問われて
その人は言った
そういう言葉のアヤについて
文学方面はあまり研究していないので
お答えできかねます
思わず笑いが込みあげて
どす黒い笑い吐血のように
噴きあげては 止り また噴きあげる
以下略
明治天皇が、露国との開戦を決定した明治37年2月4日の御前会議の後に詠んだ歌と昭和天皇とを論じている。
「よもの海みなはらからと思う世になど波風のたちさわぐらん」
昭和16年9月6日の御前会議において「帝國国策遂行要領」を決定(裁可)、前日近衛総理がこの議案を説明したが、昭和天皇は米国との開戦が主で外交交渉が従であるため、交渉に重点を置くように要求し、呼ばれた杉山参謀総長、永野軍令部総長は外交交渉に重点を置くことを天皇に念を押された。
翌日の御前会議で「帝國国策遂行要領」は決定されたが、その中で天皇は「よもの海」を記した紙片を手に読み上げ、「故大帝の平和愛好の御誠心を紹述せんと努めている」旨の発言をした。
御前会議は立憲君主の具現のため天皇は一切発言しないが、天皇は軍部への疑念が解消されず、再度、杉山総長、永野総長に質し、御前会議は未曾有の緊張となった。
東條陸軍大臣は、「聖慮は平和にあらせられる」と顔色を変えたが、翌日には開戦強硬派であった。
「よもの海」は、露国との開戦前に詠まれたのではなく、開戦決定後であり、明治天皇の大御心は出征兵士、赤子への叡慮、御憂いを詠んだものである(智恵者がいた)との異なる解釈から、天皇の発言は無視されることとなり、真珠湾攻撃へ。
昭和50年10月31日の日本記者クラブにおいて「戦争責任」を問われると、「言葉のあや、文学方面はあまり研究していない、答えかねる」旨の不可解な言葉を発しているが、これは天皇のなかに「よもの海」が軍部により「平和」から「開戦容認」に読み替えられた経験から正直な吐露であった、と。
東條英機の悪質さと昭和天皇の個性(平和)を対比する構成となっており、後半に、茨城のり子の詩集「自分の感受性くらい」から『四海波静』を取り上げ、この文章全体のバランスをとっている。
例えば、批判もあるが丸山眞男の「日本ファシズム」批判の視点、また天皇制そのものの視点もなく、出版社の限界なのかもしれません。
四海波静
戦争責任を問われて
その人は言った
そういう言葉のアヤについて
文学方面はあまり研究していないので
お答えできかねます
思わず笑いが込みあげて
どす黒い笑い吐血のように
噴きあげては 止り また噴きあげる
以下略
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます