列挙しましたA・B・Cは「私」の「意義(Sinn)」の一部であり、指示対象とともに「私」の「意義(Sinn)」は重層的にあります。
「私」という語彙(言語)は、「意味」と「意義(Sinn)」でなりたっており、また、そのように日々の生活の「私」は在ります。
列挙しましたA・B・Cは、「私」とともに「他者」が在って認識されることで、様々に在る「私」は「他者」に委ねられていることから、「私」の「核(中心)」は「他者」に在るといえます。(これらの事柄から「社会的」、「類的」には、さらに「対象化」の連関と区別の考察(論理)が必要です。)
「脱核(中心)化を認識することは、ひとつの核(中心)化を励起させる」と言い換えることができます。
列挙しましたA・B・Cは、「経済・哲学草稿」の第三草稿〔3〕、〔5〕に述べられている「A=自然=対象的存在」、「B=人間=意識的存在」、「C=社会=社会的存在」であり、「私(人間)」の「在る」ことを規定し、社会的関係の総体といえます。
「経済・哲学草稿」において、これらは「私」は「他者」を通して現実化する、このことに「労働」の概念により、「私」と「他者」の関係性は「労働」により生起している云々と「疎外(論)」と「資本論」へと展開されています。*
「労働」については、マル経、近経、また天職概念のプロテスタントの考え方に違和感があり、単純に辞書的な「からだを使って働くこと」が自分の中にしなやかにあり続けています。
「からだを使って働くこと」に特定の時代を区切りとっての言語表象(労働表象)は、特定の時代の解釈に過ぎず、その解釈に身(思想)を委ねることに抗いたいだけなのかもしれませんが。
「私」が認識する自分は、まるで自己同一性を絶望的に肯定しているが如き振る舞いをしています。
*「物象化論の構図」(廣松渉 岩波現代文庫)Ⅰ第三節に「疎外論」と「物象化論」について述べられています、これらのことについては別稿で。
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