「マスゴミ」(08.05.21)に「革命的共産趣味者同盟」さんが『意味ある死に方を指導致します。』とコメントを寄せてくれました。
ネット上で、『自死は、究極の自己否定だ』と散見します。
ちょっと考えると、『自死は、究極の自己肯定』であることに、自死する自分を「肯定」していることに気づきます。
自死する自分を「否定」すると、「革命的共産趣味者同盟」さんが書かれたように、表現は様々とありますが「意味ある死に方」の、『究極の自己否定』に展開されます。
「カオス共同体 その4」にも書きましたが、この辺りが理解されないようです。
ただ、「アブナイ」が漂っていますが・・・
ネット上で、『自死は、究極の自己否定だ』と散見します。
ちょっと考えると、『自死は、究極の自己肯定』であることに、自死する自分を「肯定」していることに気づきます。
自死する自分を「否定」すると、「革命的共産趣味者同盟」さんが書かれたように、表現は様々とありますが「意味ある死に方」の、『究極の自己否定』に展開されます。
「カオス共同体 その4」にも書きましたが、この辺りが理解されないようです。
ただ、「アブナイ」が漂っていますが・・・
イスラム原理主義者の自爆テロも同様、自分の死の意味付けと考えます。
「意味」に大きな価値をみているようですが、事実的、表現的、認識的、又は観念論的、行動論的な意味に価値をみているのでしょうか。
これらは単に「言語単位」です。
「自死」によって語られる思想(=内包)の意味なのでしょうか。
としても、自ら死する本人とは関係があるはずもなく、他者からの「意味付け」にすぎません。
革命的共産趣味者同盟さまの「意味」の次の「次元」が、「事実存在」であるならば、自ずと「自己肯定」と「自己否定」の領域となります。
おそらく彼は死刑でしょう。それなら、硫化水素で充分だったのに。