他者の為 その2
自分の中に、感覚、信条、思想、感性などよる様々な「慈しみ」があります。
他者に対して、行為、表情、言葉などにより「慈しみ」の関係ができます。
自分の「慈しみ」の営為は、「慈しみ」のギャップの解消に向かうベクトルを持っています。
他者のためになった、ならなかった、不十分だったなどは、副次的(軽いとの意味ではありません)なことであり、一義的にはこれらの営為は、自分のためになされていることです。
極端な書き方をしますと、他者の困った事柄を軽減、解消してあげたいという自分の中の感覚、信条、思想、感性などを充足させることが一義的であることになります。
困っている他者の意向が汲み取れず、自分の感性の貧しさを嘆く前に、自分自身の感覚、信条、思想、感性などの在り方の質が問われます。
他者を通して自己の一端を認識することより、自己を通して他者を認識することに重きが置かれる逆立ちの位相が多く、コミュニケーションが深化しない場合が多いです。
他者の意向が充分に汲み取れることに意味はあるのでしょうか?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/83/c60712e20745f451ff90ba11859a4061.jpg)
昨夜の商いは、危うく日付が変わるところでした。
そのため、ちょっと寝不足です。
自分の中に、感覚、信条、思想、感性などよる様々な「慈しみ」があります。
他者に対して、行為、表情、言葉などにより「慈しみ」の関係ができます。
自分の「慈しみ」の営為は、「慈しみ」のギャップの解消に向かうベクトルを持っています。
他者のためになった、ならなかった、不十分だったなどは、副次的(軽いとの意味ではありません)なことであり、一義的にはこれらの営為は、自分のためになされていることです。
極端な書き方をしますと、他者の困った事柄を軽減、解消してあげたいという自分の中の感覚、信条、思想、感性などを充足させることが一義的であることになります。
困っている他者の意向が汲み取れず、自分の感性の貧しさを嘆く前に、自分自身の感覚、信条、思想、感性などの在り方の質が問われます。
他者を通して自己の一端を認識することより、自己を通して他者を認識することに重きが置かれる逆立ちの位相が多く、コミュニケーションが深化しない場合が多いです。
他者の意向が充分に汲み取れることに意味はあるのでしょうか?
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昨夜の商いは、危うく日付が変わるところでした。
そのため、ちょっと寝不足です。