英語を含む外来語と日本語との大きな相違点がある。前者は音標文字であり音の相違で識別するが、後者は表意文字であり、書かれた文字を眼で識別することが基本であり音の差異による識別は少ない。日本語は例外的な表意文字の文化だ。
私がフランス語をアテネフランセで勉強し始めた時に、最初に行われたのが舌と鼻を使い音を作る訓練だった。それは先生の鉛筆を口の中に差し込まれ舌を押さえつけたりしてフランス語の音がでるようにする。テキストの単語はスペルではなく、全て発音記号で書かれている。こうした教育をうけると、日本人もフランス人と同じ発音ができるようになる。フランス語の教えかたが定型化されている。
そうした教育方法は、日本語の表意文字の勉強では不要であり、ひたすら筆記によって漢字を覚えてゆく。
ならば、アメリカ英語はどうかというと、実に理屈抜きで先生の発音を耳で覚えてまねろというわけだ。だから、発音記号の勉強はしない。実は、そこがフランス語を勉強してきた人間にはよくわからないところだ。もちろんいくつかの発音記号と口や舌の使い方は学習機会もあるが、あまり勉強した記憶がない。
だが、表意文字世界の日本人は、そこを省かれると話せるかどうかは耳の良し悪しの差だけになる。その辺りの表意文字と音標文字との相違は、日本人が英語を話さない要因と捉えることもできる。他方で外国人にとって日本語が難しいと嘆く要因は、まさにそこにある。耳で覚えてきた学習が通用しなくなるからだ。まして漢字となると眼によるパターン認識だから、これまでにしたことがない語学の訓練が必要になる。
そうした表意文字と音標文字の違い、つまり眼でパターン認識で覚えるか、耳で覚えるかの違いがある。
じゃあ日本人が綺麗な英語が発音できるようになるためには、つまり口や歯や舌や鼻の動かし方を図解的に学べばよいことになる。
だが私が受けてきた高等学校までの教育では、そうした経験は無かった。高校で発音の授業は1学期だけ一コマあったが、冒頭に先生が言い放ったのは「発音なんて勉強しなくてよいです。どうせ入試で出題されませんから!。」以来私は英語の発音が出来ないまますごしてきた。アメリカ英語は、まさにその発音こそが一番の生命なのだが、概して英語を教える人間は、フランス語を教える人間よりもいい加減な輩が多いというのが、私の理解だ。
追記:米不足?という風評
調度、米がなくなったし台風前だから調達しておこうと、朝近所のスーパーにでかけた。米に関する商品がすべてない。はあっ!?・・・。
ならば業務スーパーへゆく。ここも全部ない。つまり京都のスーパーには米がないことになる。
であれば開店時間が遅い百貨店へゆこう。ここは時折自由に米をブレンドして買っているからだが。だがここも選べる米が皆無・・ええっ!??。唯一魚沼産コシヒカリ5kgが6袋だけあった。実際食べてみればわかるが去年から魚沼産は天候不良で本来の美味しさではない。といってこれしかないのだからやむなく調達した。
農水省が発表している今年の米の作況指数は101。これは例年並みに収穫できていることをあらわす数値である。一部に暑さで収穫が落ちた新潟米などもあるが全国値で見れば平年並みの収穫である。
考えられるのは流通の出荷調整だろう。それに風評が加わり買い急ぎが始まった。風評をみるとインバウンド達が沢山やってきてたらふく食べた?。はぁーーっ!!!、それって日本人の米の消費量の1%以下じゃないの。どうせ直ぐに納まる現象だけど、私に午前中のクリエイティブな時間を米探しに走り回されたアホ風評に嫌気がさす。情けないことに日本人は米不足の風評が出回ると水呑百姓根性が立ち上がるみたいだ。
もしホントに米不足なら、円高基調で小麦粉の値段も下がってくるからパン食でいいんじゃないの(さらに米離れが進むけど・・・)。あるいはNIKKAにフィリピン米でも持ってきてもらおうか・・・。
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