京都の桜も今週末は満開なのだが、最近の私には少し食傷気味である。ならば奈良へ、というわけで京都から近鉄の急行に乗れば50分でゆける大和郡山にでかけた。めざすは禅宗寺院の慈光院である。大和平野を一望に眺め降ろす借景庭園として、私は理解している。
さてその大和平野なのだが、私が学生時代の記憶では、田畑が続き大和特有の様式を持った民家による集落と、その背後の山が霞んでいるといった、まさに日本の田舎というのに相応しいランドスケープがあった。
だが今は、そうした過去の記憶を思い起こすには、大きな想像力が必要だ。 田畑が新興住宅地に変わり、民家も新しい平凡な建物に建て変わり、それに工場やディスカウントストア或いは公共建築といった大規模建築がやたらに目に付き、どこにでもある現代の個性のない郊外の風景に変わってしまったからだ。写真家入江泰𠮷の世界でもある奈良の日本の田舎というランドスケープも、今では完全に失われているといってよい。
私が慈光院の借景庭園を知ったのは、樋口忠彦「景観の構造」を読んでからである。現在の慈光院では、おそらく目隠しのために後から植えられたと推測される松も、押し寄せる現代の雑然とした風景に、かろうじて耐えているようで痛々しい。
この地方には、歴史的風土保全地区といった狭い範囲の風景を保全しようとする法律はあるが、遠くの山並みに至る迄の広範囲の風景を保存する法律は存在しない。それよりは、大阪の郊外タウンとして街が発展する方が、新たにこの土地に引っ越してきた居住者には関心が強いのだろう。
ランドスケープに関心がない国民の意識、稚拙な現代の建築技術などどれ一つとっても、ランドスケープという視点からは、古来から形成してきた伝統に太刀打ちできないようだ。つまり私達がしてきたことは、大変貧しい精神と感性と技術とによって、古来から続いてきた風景を、大規模に破壊してきたのである。壊した風景はもとに戻らない。
それが現代人がしてきたことである。奈良を歩くとそんなことを痛感させられる。現在の奈良には、かつての日本の田舎の風景は、もはや存在しないのである。
大和郡山市・慈光院,2010年4月3日撮影.
EOS40D,EF16-35mm,f2.8,
シャッター:1/200,絞りf7.1,焦点距離35mm,ISO100.
さてその大和平野なのだが、私が学生時代の記憶では、田畑が続き大和特有の様式を持った民家による集落と、その背後の山が霞んでいるといった、まさに日本の田舎というのに相応しいランドスケープがあった。
だが今は、そうした過去の記憶を思い起こすには、大きな想像力が必要だ。 田畑が新興住宅地に変わり、民家も新しい平凡な建物に建て変わり、それに工場やディスカウントストア或いは公共建築といった大規模建築がやたらに目に付き、どこにでもある現代の個性のない郊外の風景に変わってしまったからだ。写真家入江泰𠮷の世界でもある奈良の日本の田舎というランドスケープも、今では完全に失われているといってよい。
私が慈光院の借景庭園を知ったのは、樋口忠彦「景観の構造」を読んでからである。現在の慈光院では、おそらく目隠しのために後から植えられたと推測される松も、押し寄せる現代の雑然とした風景に、かろうじて耐えているようで痛々しい。
この地方には、歴史的風土保全地区といった狭い範囲の風景を保全しようとする法律はあるが、遠くの山並みに至る迄の広範囲の風景を保存する法律は存在しない。それよりは、大阪の郊外タウンとして街が発展する方が、新たにこの土地に引っ越してきた居住者には関心が強いのだろう。
ランドスケープに関心がない国民の意識、稚拙な現代の建築技術などどれ一つとっても、ランドスケープという視点からは、古来から形成してきた伝統に太刀打ちできないようだ。つまり私達がしてきたことは、大変貧しい精神と感性と技術とによって、古来から続いてきた風景を、大規模に破壊してきたのである。壊した風景はもとに戻らない。
それが現代人がしてきたことである。奈良を歩くとそんなことを痛感させられる。現在の奈良には、かつての日本の田舎の風景は、もはや存在しないのである。
大和郡山市・慈光院,2010年4月3日撮影.
EOS40D,EF16-35mm,f2.8,
シャッター:1/200,絞りf7.1,焦点距離35mm,ISO100.