みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#477 神の法第四戒

2020年01月14日 | 神の法
第4戒
安息日と命
 
p141~
The Sabbath and Life
The Fourth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

回復、及び堕落の作用の抑制という偉大なる御業の対象には、土(soil)も含まれている。

この休息によって、土も回復され、再び活力を与えられる。

畑を雑草だらけにしておくと、雑草が、地中から表土にミネラルを吸い上げるので、土に活力を取り戻すことができる。

葡萄と樹木を生えるままにし、実を刈り取らずに放置することによって、木々に活力が戻る。

地面に落ちて腐る実も、土に栄養を与える。

土の再生という点で、安息制度には非常に大きな意味がある。

信仰のない人間は、神の御業よりも自分の手の業を優先し、神の安息制度よりも自分が作り出した休息の制度を採用する。

神の方法は粗雑だと言いながら、農薬の噴霧や化学肥料などの人工物を利用する。

その結果、土地は着実に破壊され、濫用されている。

土を、科学的に作り出せるものと考えたり、再生可能なものと考える人がいる。

土がなくてもやっていけるとすら考える人もいる。

土に対して敬意を持って接する科学者はほとんどいない。

例外:
Sir Albert Howard: An Agricultural Testament
Friend Sykes: Modern Humus Farming
William A. Albrecht: Soil Fertility and Animal Health
Joseph A. Cocannouer: Weeds, Guardians of the Soil, and Water and the Cycle of Life。

これらの著者や他の人々は、土に対する大規模な濫用の実態について触れている。

土壌内における微生物の働きや、土壌再生における堆肥と木の貴重な役割などについて説明している。

地球の生命サイクルにおける野生の動物と鳥の役割については、ほとんど触れていない。

土地は休息によって再生される。

もし休息を与えず、ただ搾取するだけならば、最終的に砂漠と化してしまう。

バビロンやサハラには、かつて多くの人が住んでいたが、今では砂漠になっている。

神がイスラエルとユダを捕囚に送ることを決定された時、その目的は、人々を罰することだけではなく、土地を回復することにもあった。



#476 神の法第四戒

2020年01月13日 | 神の法
第4戒
安息日と命
 
p141~
The Sabbath and Life
The Fourth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

安息日によって、人々は創造の安息を想起した。

安息制度によって、イスラエル人は自らの贖いと再生を想起した。

安息日の目的は、ヘブル3章が明示しているように、約束の土地、イエスキリストにある新しい創造にある。

安息日は、キリストにあって万物を回復し、償還する。

他の安息年と同様に、ヨベルの年に、負債は帳消しになった。

借金の取り立ての制限に関する今日の法律は、この聖書律法の応用である。

ヨベルの年においても、いなかの土地はもともとの所有者のもとに戻された。

安息年のときのように、奴隷は解放された。

ヨベルの年は、契約の人が新創造による偉大なる安息の前味を楽しむことができる2年間の祝日であった。

ヨベルの年は、贖罪日の夕方に始まった。

新しい創造にとっての基礎、すなわち、契約の小羊の血による贖いを顕示した。

このように、創造と再創造は、安息日にとって中心的な役割を果たした。

人間は、時が始まる前に宣言された神の完成された贖いの御業の中に休息する。

信仰によって、人間は、最終的な勝利を期待し、現在の解放を楽しみつつ、信仰によって神からの賜物に満足しながら生活する。



#475 神の法第四戒

2020年01月12日 | 神の法
第4戒
安息日と命
 
p140~
The Sabbath and Life
The Fourth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

レビ記25:8~12
あなたは、安息の年を七たび、つまり、七年の七倍を数える。安息の年の七たびは四十九年である。あなたはその第七月の十日に角笛を鳴り響かせなければならない。贖罪の日に、あなたがたの全土に角笛を鳴り響かせなければならない。あなたがたは第五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰らなければならない。この第五十年目は、あなたがたのヨベルの年である。種を蒔いてはならないし、落ち穂から生えたものを刈り入れてもならない。また手入れをしなかったぶどうの木の実を集めてはならない。これはヨベルの年であって、あなたがたには聖である。あなたがたは畑の収穫物を食べなければならない。

ヨベルの年が存在したかどうか定かではないと考えていたミックレムは、ヨベルの年が贖罪日に開始したならば、それは非常に奇妙なことであると述べた。

その答えは直後の律法の中にある。

レビ記25:13~17
このヨベルの年には、あなたがたは、それぞれ自分の所有地に帰らなければならない。もし、あなたがたが、隣人に土地を売るとか、隣人から買うとかするときは、互いに害を与えないようにしなさい。ヨベルの後の年数にしたがって、あなたの隣人から買い、収穫年数にしたがって、相手もあなたに売らなければならない。年数が多ければ、それに応じて、あなたはその買い値を増し、年数が少なければ、それに応じて、その買い値を減らさなければならない。彼があなたに売るのは収穫の回数だからである。あなたがたは互いに害を与えてはならない。あなたの神を恐れなさい。わたしはあなたがたの神、主である。

この法律を分析することによって、次のことが明らかになる。

多くの人は、その目的は人道主義であると考えているが、そうではない。

たしかに、安息年に、貧しい人々は畑から取って食べることができた。

彼らは毎年畑で落穂拾いをすることができたので、特に貧者のために安息年を用意する必要はなかった。

安息日や安息年の理由は安息そのものにあった。

安息制度の目的は、安息そのもの、すなわち、贖いと再生による休息と解放にある。

モーセ律法における、安息の原理の最高表現であるヨベルの年において、ヨベル(安息)は、「贖罪日」にラッパ(つまり、雄羊の角笛)を吹き鳴らすことから始まった。

ミックレムは、これを奇妙だと考えたが、ギンスバーグはレビ記25章9節の注釈においてその意味をきわめて鮮やかに示した。

ヘブライ人は、大贖罪日に、平安を感じつつ、天の父が自らの罪を帳消しにしてくださった。

その赦しの恵みによって再び御父とつぎあわされたということを理解した。

その日の終わりに、彼らはみな全地において、角笛を7回吹き鳴らすことにより、「我々も土を休ませ、すべての抵当権付きの家族財産を債務者に返し、すべての奴隷を解放し、親族のもとに帰した」と宣言した。

神が人の負債を赦してくださったので、彼も自分に負債のある者を赦さなければならない。



#474 神の法第四戒

2020年01月08日 | 神の法
第4戒
安息日と命
 
p139~
The Sabbath and Life
The Fourth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

レビ記25:20~22
「あなたがたが、『もし、種を蒔かず、また収穫も集めないのなら、われわれは七年目に何を食べればよいのか。』と言うなら、わたしは、六年目に、あなたがたのため、わたしの祝福を命じ、三年間のための収穫を生じさせる。あなたがたが八年目に種を蒔くときにも、古い収穫をなお食べていよう。九年目まで、その収穫があるまで、なお古いものを食べることができる。」

これらの律法は、イスラエルの歴史においてあまり守られなかったということに注意すべき。

出エジプトとバビロン捕囚の間に、70回も無視されたため、土地を休ませるために70年の捕囚が課せられた(第2歴代誌36:21)。 

これは、時代の半分以上もの間、律法が守られなかったということを意味する。

捕囚後、この律法は遵守されるようになった(しかし、他の律法は破られたが)。

ユリウス・カエサルは、ユダヤ人の習慣を知っていたので、7年目はユダヤ人から徴税しなかった。

しかし、オーラーによれば、ヨベルの年は無視され、安息年だけが守られたそうだ。

安息年には、刈り入れも種まきも禁止された。

昆虫を殺そうとしたり、畑における自然の過程を妨害する行為がすべて禁止された。

通行者や召使、主人が食する場合を除いて、果実は実ったままで畑に放置しておかねばならなかった。

収穫はすべて禁止され、自分たちが食べる分を取ることしか許されなかった。

安息年に収穫や貯蔵を禁止する戒めは、レビ記25章20節に記されている。

しかし、土地の安息に関して、律法にはさらにヨベルの年の規定がある。

ヨベルの年は、50年ごとに訪れた。

「贖罪日」にラッパの音によって開始が宣言された。

49年目が安息年なので、ヨベルの年は2つの安息年の連続であった。

コメント:
常識を疑え3(別ブログに連載中)

なぜ鳥は空を飛ぶことができるのか。

空を飛んでいる鳥を見ていると、難なく飛んでいるので、その巧妙さが分からない。

実は、空を飛ぶには、考えられないほど緻密かつ精巧、複雑なメカニズムを要する。

大昔、小型の恐竜の前足が長い年月を経て翼へと進化し、大空を飛べるようになった。

そんな説明を聞いて、なるほどと子供心に納得していた。

具体的に検討してみよう。

陸上の動物が空を飛べるようになるためには、まず前足の骨の形状が変化する必要がある。

滑空に必要なパワーを産み出すためだ。

それぞれの骨の形状は、飛ぶための機能を備えていなければならない。

航空機のように、体幹に近い部分が太くて頑丈な構造である必要がある。

その根部に付着している筋肉は翼を広げて、羽ばたくだけの筋量と筋力を備えている必要がある。

次に、羽毛。

これが無ければ、飛行に不可欠な浮力も揚力が得ることができない。

羽毛は鳥類に特有な表皮の変形物で、角質化した表皮が突き出し,先端に細かい切れ込みができたもの。爬虫(はちゅう)類の鱗(うろこ)と相当する。

以上の体の形状的変化は、遺伝子の変異が不可欠であることは言うまでもない(キリンの首を参照のこと)。

体の形質が突然変異で変化しても、それに対応して、中枢の形質が変化しなければ、その体の形質は機能しない。

ドライバのないプリンタが機能しないのと同じ。

飛行機と同様に、離陸するためにある程度の滑走か、または崖から飛び降りて浮力を得る必要がある。

これらの知識が中枢神経系にあらかじめインプットされていなければならない。

また、前足を羽ばたくという指令を末梢運動神経を介して筋肉に命令する必要もある。

これらの形質転換は、いったん進化の方向性へと始動を始めた途端、短時間で完了しなければならない。

何故か。

進化の過程が緩徐であれば、弱肉強食および適者生存の仮説により滅亡することが必然となるから。


#473 神の法第四戒

2020年01月05日 | 神の法
第4戒
安息日と命
 
p138~
The Sabbath and Life
The Fourth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

イエスは「安息日は人間のために造られたのであって、人間が安息日のために造られたのではない。それゆえ、人の子は、安息日の主でもある。」(マルコ2:27~28)と言われた。

安息日は、まことの人、完全な人間である主イエスキリストのために造られた。

故に、主イエスキリストは安息日の主。

また、安息日は、再生と命の原理として、キリストに贖われた人々である契約の人のためにも創造された。

この意味を理解するには、2つのことを理解する必要がある。

安息日の主要な目的は礼拝にではなく、休息にあったということ。

真の礼拝は、人間にとって休息であり、リフレッシュ効果を持つ。

この条件を満たしていない限り、礼拝は、安息日の休息にとって不可欠な側面とは言えない。

安息日の本質は休息。

次に、安息日を人間を中心に考えてはいけない。

もっぱら人間に関するものとして考えているため、その意味を見失っている。

地球の観点から安息日を見ると、さらにその意味を理解できる。

この戒めにおいて、安息日が人間のためであるのと同様に、動物のためでもあるということが分かる。

安息年は土地そのものに対しても必要。

この安息年に関するコメントには興味をそそられる。

ゲイラーによれば、当時、肥料の欠落と輪作方法に関する正しい知識があったので、土地を休ませるという習慣は東洋全域において一般的だった。

律法は次のように述べている。

出エジプト記23:10~11
六年間は、地に種を蒔き、収穫をしなければならない。
七年目には、その土地をそのままにしておき、休ませなければならない。民の貧しい人々に食べさせ、その残りを野の獣に食べさせなければならない。ぶどう畑も、オリーブ畑も、同様にしなければならない。

ついで主はシナイ山でモーセに告げて仰せられた。

レビ記25:1~7
「イスラエル人に告げて言え。わたしが与えようとしている地にあなたがたがはいったとき、その地は主の安息を守らなければならない。六年間あなたの畑に種を蒔き、六年間ぶどう畑の枝をおろして、収穫しなければならない。七年目は、地の全き休みの安息、すなわち主の安息となる。あなたの畑に種を蒔いたり、ぶどう畑の枝をおろしたりしてはならない。あなたの落ち穂から生えたものを刈り入れてはならない。あなたが手入れをしなかったぶどうの木のぶどうも集めてはならない。地の全き休みの年である。地を安息させるならあなたがたの食糧のためになる。すなわち、あなたと、あなたの男奴隷と女奴隷、あなたの雇い人と、あなたのところに在留している居留者のため、また、あなたの家畜とあなたの地にいる獣とのため、その地の収穫はみな食物となる。・・・」




#472 神の法第四戒

2020年01月04日 | 神の法
第4戒
安息日と命
 
p137~
The Sabbath and Life
The Fourth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

旧約時代、安息日の遵守違反には死刑が適用された。

このことは、2つの明白な事実を意味する。

違反者に死刑が適用されるほど、安息日の律法には、非常に重要かつ基礎的な原理が含まれている。

この律法は、安息日の律法を破ることそのもののうちに、ある種の死が含まれている。

つまり、安息日を破ることは死を招くという事実を伝えている。

預言者たちはこのことをはっきりと伝え、服従は命であると暗に示した。

よくある事に詳し過ぎて、かえって無知になるということがある。

知っているつもりになって、調べようとしないからだ。

われわれは、事実を、すでに精通している枠組みの中に押し込めることにも慣れている。

幾世代にもわたって、教師たちは、謙遜の例として、凱旋の行進中のローマ将軍に向けて語られた「あなたは人間だということを忘れるな」という言葉を引用してきた。

しかし、この言葉の真意は、まったく別のところにあった。

勝利者は、国の最高官吏もはるかに及ばないほどの格別の扱いを受けた。

勝利した将軍には、古代ローマの所有する最高の記章、すなわち、国家の主神ジュピターの象徴が与えられた。

4頭馬に引かれた戦車に乗った将軍の頭上には金の花輪がかかげられていた。

たしかに、これをかかげ、支えていた奴隷は、将軍に向かって「あなたは人間であることをお忘れなさらぬよう」と繰り返して言わなければならなかった。

しかし、この言葉には「勝利と同時に、将軍は国の主神と同等の者と見做された」という意味しかなかった。

われわれにとってはこの言葉の意味は「あなたは死すべき人間であることを忘れるな」という意味であり、しかし、ローマ人にとっては「あなたは神であることを忘れるな」という意味だった。

このように、何かを理解するには、その文脈を知ることが重要。

コメント:

富井師に次のような質問をした。

--

ダニエル7章に関して確認しておきたいことがあり、貴兄のご意見をお聞きしたいと思います。

ダニエル7章13節にこうあります。

私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。 

この聖句はマタイ24章30節と酷似した内容であり、旧約時代の終わりを預言していると理解して良いでしょうか。

次に22節。

しかし、それは年を経た方が来られるまでのことであって、いと高き方の聖徒たちのために、さばきが行なわれ、聖徒たちが国を受け継ぐ時が来た。

「さばき」とあるので最後の審判と世の終わりの預言、そして「聖徒たちが国を受け継ぐ時が来た」とあるので、万物の回復の預言と解釈してよいでしょうか。

そうすると、15節以下は現在進行中の新約の時代について書かれていると理解されますが、いかがでしょうか。

以上です。

宜しくお願い致します。

--

質問に対する回答を以下に掲げておく(彼のサイトにも同じ記事がアップされている)。

--

メールありがとうございました。

 >ダニエル7章13節にこうあります。
 >私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。
 >この聖句はマタイ24章30節と酷似した内容であり、旧約時代の終わりを預言していると理解して良いでしょうか。

そうです。

 >次に22節。
 >しかし、それは年を経た方が来られるまでのことであって、いと高き方の聖徒たちのために、さばきが行なわれ、聖徒たちが国を受け継ぐ時が来た。
 >「さばき」とあるので最後の審判と世の終わりの預言、そして「聖徒たちが国を受け継ぐ時が来た」とあるので、万物の回復の預言と解釈してよいでしょうか。

「さばき」は、紀元70年の審判を指します。
19節に「第四の獣」とあり、これはローマ帝国です。
「聖徒たちが国を受け継ぐ時が来た」というのは、クリスチャンが神の国を受け継いで、世界を統治する者となった、ということを意味します。
紀元70年にイエス・キリストが再臨され、神殿崩壊とイスラエルの滅亡により、背教のユダヤ人に対する裁きが行われたと同時に、そのイスラエルを滅ぼしたローマ帝国に対する裁きも実行されました。ティトゥスの死です。
そして、それ以降の世界は、ローマ帝国は存続しますが、霊的(法的・契約的)な意味で、世界の主権は彼らから奪われ、イエス・キリストに与えられました。
現在も、アメリカが世界を支配しているように見えますが、実質的に支配者であるのは、イエス・キリストであり、イエス・キリストの体である教会(つまり、クリスチャン)です。
この支配は徐々に広がっていく性質のもので、霊的な変化は、徐々に実際的な変化となって現れます。
その後、キリスト教は、迫害していたローマを逆に乗っ取り、ローマ帝国の国教になりました。
ローマ帝国からヨーロッパ諸国が生まれ、キリスト教はヨーロッパに広まり、実際的な支配は拡大して行きました。
現在は、一時的に悪魔側の勝利が続いていますが、それは、神が人間に悪魔の支配の本当の姿を見せて、御国を求めさせるためです。人間だけでやっていくと宣言した共産主義によってどれだけの地獄が生まれたか。そして、その共産主義の黒幕であったタルムードユダヤ人の世界支配が広まるにつれて、人々の生活がいかに悲惨になっていくかをわれわれは目の前で見ています。

 >そうすると、15節以下は現在進行中の新約の時代について書かれていると理解されますが、いかがでしょうか。

この7章は、紀元1世紀のイエス・キリストの来臨(紀元27年からの初臨と紀元70年の再臨)によって、4つの世界帝国、つまり、サタンの支配の手段が滅びて、イエス・キリストに世界を支配する権力が与えられたことの預言です。
15節以下の第4の獣に関する預言は、「紀元1世紀においてローマ帝国に対するイエス・キリストの勝利と、それに続いて、全世界がイエス・キリストの支配下に入った」という意味で、現在進行中の預言でもあります。

--

以上、彼の教会メンバーS兄からのご回答。



#471 神の法第四戒

2020年01月03日 | 神の法
第4戒
自由のしるし
 
p135~
The Sign of Freedom
The Fourth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

すでに見たように、安息日は、休息の日、贖いの日、解放の日。

ヨベルの安息日の大宣言は、全地のすべての住民に対して自由を宣言すること(レビ記25:10)。

しかし、奴隷の保障と「休息」は擬似休息になることがあった。

刑罰として強制的に奴隷にさせられる人がいた。

償いを行わなかった泥棒は、奴隷として売られた(出エジプト記22:3)。

借金の代わりとして人が売られる場合もあった(申命記15:12)。

クラークが述べたように、労働の値が、償わねばならない金額と同等になった場合、その労働は終了した。

またそれは最長でも6年間に限定されていたと考えられている。

自由を捨てて、自ら奴隷になる人もいたが、安息年には解放された。

奴隷の身分であり続けることを望んだ人もいた。

その場合、自分の耳を突き刺して、自分があたかも女性のように、恒久的な従属の状態にいるということを示した(出エジプト記21:5~7)。

不信者は、生まれながらの奴隷であるから[訳注:つまり、生まれながらのサタンの奴隷を象徴するから]、この形式を取らずに終身の奴隷として留まることがあった(レビ記25:44~45)。

奴隷が主人に鞭打たれることがあり(出エジプト記21:20、申命記23:15)、虐待によって不具にさせられた場合は、それがユダヤ人であれ外国人であれ、自由の身になった(出エジプト記21:26~27、レビ記24:17)。

奴隷は割礼を受けなければならず(出エジプト記12:44、創世記17:12)、聖なる食物を食べることができた(レビ記22:10、出エジプト記12:44)。

奴隷は、家の中である権利と地位を与えられ(創世記24:2)、相続に与った(箴言17:2)。

第4戒が述べるように、安息日に休息する権利を有していた。

借金と盗みの場合を除き、奴隷は生まれながらの奴隷か、もしくは、自由選択による奴隷のいずれかであったから、逃亡奴隷は自由になることができた。

そのような奴隷を主人のもとに戻すことは禁止されていた(申命記23:15~16)。

クリスチャンは自発的に奴隷になることはできない。

彼らは、人の奴隷になるべきではない(1コリント7:23)。

または「再び奴隷のくびきにつながれてはな」らない(ガラテヤ5:1)。

奴隷制や社会主義、福祉主義という、似非保障や擬似解放の道を、クリスチャンは選択してはならない。
クリスチャンの安息日は、社会主義の奴隷制ではない。

◇◇ 

新年あけましておめでとうございます。

今年もどうぞ宜しくお願い致します。
 
・・

神の御心とは何か。

それは、すべて聖書に書かれているはず。

神の御心を知るために聖書を学んでいる。

聖書律法は、神の祝福を受けながら、この世を豊かに歩んでいくための生活指針、すなわち神がわれわれに従うよう望んでおられる願いであり、御心そのもの。

今や、この世の人間教(学)によってがんじがらめに絡め捕られてしまい、神による啓示が塞がれてしまっている。

われわれが旧約律法に対して盲目なのは、敵の策略による。

この世を支配している人間教(バベルの塔)をぶっ飛ばすべく、今年も神の御心をさらに深く追及していきたいと思う。

敵の霊に容易に騙られないために必要な武器のひとつが神学、すなわち御心の探求だ。 

この邪悪な闇の時において、敵の霊を叩き潰せるように、神のすべての武具を手に取れ(エペソ6:13)。