2009/07/14 ・追加・まんじゅうや追加・
7月9日より前橋市の三大祭りの一つ「前橋七夕祭り」が始まった。
前橋の三大祭りとは、1月9日の「初市・だるまの市」。
7月の「七夕祭り」、10月の前橋祭りである。
この三大祭りのうちいつも雨にたたられて散々だったのが、この七夕。それは、まだ梅雨明け目前だから仕方がないと言うものの、梅雨の晴れ間というものもある。
そして、この七夕に続いて、実は8月に花火大会がある。
それがどういう事か、ここ5-6年七夕祭りに雨が降られたことがない。前日雨にたたられても、当時になると小雨になり薄日が差したりする。
丁度今の高木市長に代わってから、偶然に雨に降られていない感じた。同じく不思議なことに花火大会で夕立に逢うこともない。
2009/07/11は、何やら薄日が差す日和で、大勢の人が出た。
いつものシャツター通りが人混みで埋まる。これだけ人が出れば、商店の人も張り合いがある感じはする。
最近出来ている○○モールというのは、本来こういうアーケード街の筈なのだが。
今日は、小中学生も部活帰りで、浴衣姿は少ないが明日の日曜日はたくさん出るだろう。
アーケード街から外れて振り返ると、前橋に初めて出来たデパートの荒れた姿が目に入る。
3階建ての1-2階までに、初めてエスカレーターが出来たと子供の時に記憶する。
当時のデパート名は「アサヤ」といった。
その後、貸しビルになっているが裏から見るとみすぼらしくなっている。
裏通りをぐるりと廻ってみると、右側の近代的な再開発ビルと左側の昔ながらの建物が並ぶ。
正面のコンクリート作りの建物は、洒落た本屋だった。丁度神田(東京)の古本屋街の一画にあるような。
それがある時潰れてしまった。
その後何になったのか忘れたが、凡そ20年も前のことだったかも知れない。
それから、今までのように空き家になっている感じがある。
交差点に来ると、「片原饅頭」というかっては「前橋名物」の酒まんじゅう屋の姿がある。
「片原まんじゅう」というのは、昔手のひら大の大きな饅頭で、薄皮饅頭。
一見タダの「酒まんじゅう」の様だが、中のあんこが透けて見えた。そして、そのあんこが多く美味しかった。
その後二回りも小さくなったが、「薄皮饅頭」だけは変わらなかった。
それが何時の頃からか、薄皮饅頭ではなくなって単なる「あんこが多い」酢饅頭になり、後継者がいなくなって閉店した。
長男は小生と前高同期、東大へ進学して大学教授になった人物。
よく知っていたけど、甘い物を食べなくなった時代の趨勢というのは仕方がない。
実は、店が閉店する頃に「片原饅頭」に弟子入りして「ノウハウ」を全て学んだ人が、「酒饅頭屋」を起こしてその味を残している。((有)正幸・と言う店らしい)
もらって食べた見たら、閉店間近の「片原饅頭」の味がした。
この片原饅頭というのは、今でも「和菓子」を製造している会社が元々譲ったという。(正確には覚えていない)
そして、片原饅頭には本店というのがあった。
今では有料駐車場になっているところの国道17号沿いにあって、同じ「酒饅頭」を売っていたのだが、それは「薄皮饅頭」ではなかった。
その昔、「片原饅頭」を買うには予約して、その時間に行かないと買えないという大人気だった。
それで急に買って行こうとすると間に合わないから、その本店の方で買ったことがある。
記憶では、値段は同じか少し高く、坂下の「片原饅頭」に遠く及ばなかった、只の「酒饅頭」だった。
片原饅頭の変遷を考えてみると、大判の酒饅頭が中型になった頃だったかも知れない。
それは、作っていた職人が止めて大判の酒饅頭が作れなくなったのかどうかは知らないが、兎に角職人が変わった。
次に、もう一度小さくなった時は、「薄皮饅頭」ではなくなっていた。
その薄皮饅頭というのは、皮の上下はオブラートを重ねたように薄く、黒いあんこが見えたもの。時として、その皮が破れてあんこが見えていたものもあった。
その技術というものが継承されなかったのは、聞くところによると店の主人は職人でなく、女将さんは「売り子」だったことだ。
やはり伝統技術というものは、家族で守らないと継承されない。
もし、家族が職人であったなら、今でもあんこが見える薄皮饅頭として「片原饅頭」は前橋名物として食べられたかも知れない。
人を雇って事業を行うというのが、いかに難しいかと言う事だろう。
小さな会社というものは、そこで使う免許、資格というものは全て社長が持っていて成り立つ。
免許を持っている人を雇って事業をやるなど、今ではあり得ないだろうが昔は多かった。
‥‥‥‥‥
そして、その当時大人気で冠婚葬祭の引き物としてもてはやされたのが、アーケード街の入り口の煎餅屋・萬栄堂だった。不思議なことに、亡き父の同級生だった。
有名だったのは、「瓦煎餅の三山煎餅」。
三山は、赤城、榛名、妙義の山の絵が刻印してあった。
その店も、アーケード街から出で国道に店を構え、その後どうしたのか分からない。
街の変遷は何か残しておかないと薄れてしまう。事実、「片原饅頭」が二つあったことさえ誰も知らない。
最近は、無駄にも街の写真を撮っておくと結構記念になったりする。
7月9日より前橋市の三大祭りの一つ「前橋七夕祭り」が始まった。
前橋の三大祭りとは、1月9日の「初市・だるまの市」。
7月の「七夕祭り」、10月の前橋祭りである。
この三大祭りのうちいつも雨にたたられて散々だったのが、この七夕。それは、まだ梅雨明け目前だから仕方がないと言うものの、梅雨の晴れ間というものもある。
そして、この七夕に続いて、実は8月に花火大会がある。
それがどういう事か、ここ5-6年七夕祭りに雨が降られたことがない。前日雨にたたられても、当時になると小雨になり薄日が差したりする。
丁度今の高木市長に代わってから、偶然に雨に降られていない感じた。同じく不思議なことに花火大会で夕立に逢うこともない。
2009/07/11は、何やら薄日が差す日和で、大勢の人が出た。
いつものシャツター通りが人混みで埋まる。これだけ人が出れば、商店の人も張り合いがある感じはする。
最近出来ている○○モールというのは、本来こういうアーケード街の筈なのだが。
今日は、小中学生も部活帰りで、浴衣姿は少ないが明日の日曜日はたくさん出るだろう。
アーケード街から外れて振り返ると、前橋に初めて出来たデパートの荒れた姿が目に入る。
3階建ての1-2階までに、初めてエスカレーターが出来たと子供の時に記憶する。
当時のデパート名は「アサヤ」といった。
その後、貸しビルになっているが裏から見るとみすぼらしくなっている。
裏通りをぐるりと廻ってみると、右側の近代的な再開発ビルと左側の昔ながらの建物が並ぶ。
正面のコンクリート作りの建物は、洒落た本屋だった。丁度神田(東京)の古本屋街の一画にあるような。
それがある時潰れてしまった。
その後何になったのか忘れたが、凡そ20年も前のことだったかも知れない。
それから、今までのように空き家になっている感じがある。
交差点に来ると、「片原饅頭」というかっては「前橋名物」の酒まんじゅう屋の姿がある。
「片原まんじゅう」というのは、昔手のひら大の大きな饅頭で、薄皮饅頭。
一見タダの「酒まんじゅう」の様だが、中のあんこが透けて見えた。そして、そのあんこが多く美味しかった。
その後二回りも小さくなったが、「薄皮饅頭」だけは変わらなかった。
それが何時の頃からか、薄皮饅頭ではなくなって単なる「あんこが多い」酢饅頭になり、後継者がいなくなって閉店した。
長男は小生と前高同期、東大へ進学して大学教授になった人物。
よく知っていたけど、甘い物を食べなくなった時代の趨勢というのは仕方がない。
実は、店が閉店する頃に「片原饅頭」に弟子入りして「ノウハウ」を全て学んだ人が、「酒饅頭屋」を起こしてその味を残している。((有)正幸・と言う店らしい)
もらって食べた見たら、閉店間近の「片原饅頭」の味がした。
この片原饅頭というのは、今でも「和菓子」を製造している会社が元々譲ったという。(正確には覚えていない)
そして、片原饅頭には本店というのがあった。
今では有料駐車場になっているところの国道17号沿いにあって、同じ「酒饅頭」を売っていたのだが、それは「薄皮饅頭」ではなかった。
その昔、「片原饅頭」を買うには予約して、その時間に行かないと買えないという大人気だった。
それで急に買って行こうとすると間に合わないから、その本店の方で買ったことがある。
記憶では、値段は同じか少し高く、坂下の「片原饅頭」に遠く及ばなかった、只の「酒饅頭」だった。
片原饅頭の変遷を考えてみると、大判の酒饅頭が中型になった頃だったかも知れない。
それは、作っていた職人が止めて大判の酒饅頭が作れなくなったのかどうかは知らないが、兎に角職人が変わった。
次に、もう一度小さくなった時は、「薄皮饅頭」ではなくなっていた。
その薄皮饅頭というのは、皮の上下はオブラートを重ねたように薄く、黒いあんこが見えたもの。時として、その皮が破れてあんこが見えていたものもあった。
その技術というものが継承されなかったのは、聞くところによると店の主人は職人でなく、女将さんは「売り子」だったことだ。
やはり伝統技術というものは、家族で守らないと継承されない。
もし、家族が職人であったなら、今でもあんこが見える薄皮饅頭として「片原饅頭」は前橋名物として食べられたかも知れない。
人を雇って事業を行うというのが、いかに難しいかと言う事だろう。
小さな会社というものは、そこで使う免許、資格というものは全て社長が持っていて成り立つ。
免許を持っている人を雇って事業をやるなど、今ではあり得ないだろうが昔は多かった。
‥‥‥‥‥
そして、その当時大人気で冠婚葬祭の引き物としてもてはやされたのが、アーケード街の入り口の煎餅屋・萬栄堂だった。不思議なことに、亡き父の同級生だった。
有名だったのは、「瓦煎餅の三山煎餅」。
三山は、赤城、榛名、妙義の山の絵が刻印してあった。
その店も、アーケード街から出で国道に店を構え、その後どうしたのか分からない。
街の変遷は何か残しておかないと薄れてしまう。事実、「片原饅頭」が二つあったことさえ誰も知らない。
最近は、無駄にも街の写真を撮っておくと結構記念になったりする。