小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

ジェームス・ディーン

2010-06-24 23:15:03 | Weblog
死んだ小森のおばちゃまにとっては、ジャームス・ディーンが永遠の憧れだそうだ。私も昔はジェームス・ディーンを格好いいと思った。しかし今では、全く魅力を感じていない。彼の魅力とは一体、何なのか。額が広くてリーゼントがきまってて格好いい顔の魅力か?役者の魅力というのは、何が基準になっているのかわからない。彼の作品は、「エデンの東」一つだけ、といっても過言ではない。確かに、「エデンの東」はいい作品である。というより原作者のジョン・スタインベックの小説が素晴らしいのだ。ジェームス・ディーンは確かに、あの役で見事に演じている。他の役者で、あれほどの適役がいるか、といったら、すぐには思いつかない。だが、他の役者でも、上手く演じられた役者はいると思う。ジェームス・ディーンがいいのではなく、ノーベル文学賞作家の、スタインベックの小説である、「エデンの東」のストーリーがいいのである。私には、ジェームス・ディーンの魅力というものがわからない。「エデンの東」と較べると、相当、おちる、「理由なき反抗」では、リーゼントに赤い革ジャン、丸首Tシャツ、ジーパン、の姿が決まっている。しかし、これも外見の格好良さである。私はジェームス・ディーンに魅力を感じない。同じく、邦画では、昭和の国民的人気俳優の、石原裕次郎にも全く魅力を感じない。何が、どこが、良いというのか?さっぱりわからない。やはりこれも、国民に親しみやすそうな顔や性格がうけたのではないだろうか?実生活では、氏は、豪遊し、酒を飲み、女ともよく遊んだと聞く。氏の死亡原因は、肝臓を悪くした、と言われているが、アルコールの多飲による、といわれているが、梅毒が原因だったとも聞く。
現代の人気タレントでも同じである。国民受けしているタレントで、一体、どこが、何がいいのか、さっぱりわからない人が、かなり多い。私が惹かれるタレントは、強い個性を持った人か、芯の強い人である。しかし、国民受けしているタレントには、個性もたいして無ければ、芯も無い人が多い。かえってそれが受けているのかもしれない。強い個性を持った人は、一部の熱狂的なファンを持つが、あくまで一部のファンであって、幅広いファンは出来にくいのかもしれない。なぜなら個性というものは、その個性が好かれるか嫌われるかで、見る人に大きな好き嫌いをつくってしまうからだ。だから、幅広く好かれるタレントの条件とは、あまり強い独特な個性が無く、穏やかで、適度にハンサムで、アクが無くフラットで、突出していなくて、親しみやすい人なのかもしれない。デビューの運も強くあるだろう。結局の所、私にはわからない。
では私が好きな俳優は、といったら、一番は、松田優作である。松田優作は単に、演技だけではない。彼は非常に個性的であり、考えが深く、そして性格がタフなのは、映画の演技だけではない。彼は、もうほとんど地で演技している。殴り方にしても個性的である。ちょっと間をおいて、殴るのである。大下英治の、松田優作のノンフィクション伝によると、空手も習っていたそうである。映画の中だけで格好いい、上っ面の俳優ではない。それが好きなのである。

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ある企業

2010-06-22 23:46:02 | Weblog
さて、医者は仕事がら世間知らずな面がある。「先生。先生」と、煽てられてちやほやされ、病院に就職すれば景気にあまり左右されず、無難に仕事していればリストラされることもない。だが例外もある。
先日、ある所で働いていたら、雇い主の企業の人がやってきた。世の情勢は刻々と変化しており、企業でも生き残りに必死である。それはいいが。世の中は需要と供給の力関係によっている。被雇用者あっての雇用者である。順風の時、被雇用者をなめて、図に乗っていると、苦境になった時、泣くことになる。医療の世界でも情勢の変化が激しい。だから、順風の時、逆風になった時のことを考えて用心しておくことが大切なのである。逆風になったら、今まで切り捨てて一顧だにしなかったのに、低姿勢で、やってきて、お願いします、と頼まれても、こっちも、当然、無視する。なめるなよ。話を上手に聞き出せば、相手が言っている事がウソか本当かは、見えてくるものである。この世の中は力関係が全てである。
いったい、世の中に、時給が半分で、それでいて長時間で、やりがいもなく、交通の不便な所、つまりあらゆる点でメリットが劣る仕事に就く人間など、この世に一人でもいるだろうか。私も大人になったから、笑顔で、「前向きに考えます」と言ったが、「前向きに考えます」というのは、「NO」と言っているのに過ぎない。順風の時、自分は情け無用で割り切るクセに、苦境になった時、人にニコニコ顔で、ほとんどウソとわかる事を、さも本当のことのように言ってだまそうとする根性が気に食わん。相手が誠実な人間だったら、こっちも金銭だけでなく、動いてやってやろうかという気も起こるが。バブルのように、調子のいい時に、図に乗って、人を雑に扱うクセに、苦境になったら偽善ヅラで、ウソついても、人間は動かんよ。

「順調な時に、将来、逆境になるかもしれない可能性を考える事が大切である」

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殺人的テニス

2010-06-22 19:23:00 | 武道・スポーツ
テニススクールに殺人的テニスをする生徒がいる。ドライブを目一杯かけて、力任せに全力で思い切り打つ。相手の歯に当たったら歯が折れるかもしれんぞ。本人は全力で打つことが最高のことだと思っているのだろう。しかし私は違うと思っている。まずフォームがコーチのように美しくない。そして、必ずしもフォームが理想的ではない。手の力だけで打っているところがある。運動では、技術が上達すると外見のフォームも美しくなるのである。全てのスポーツでいえることだが、まずフォームが完全でなくてはならない。体重移動、腰の回転、を使って、体の力で打たなくてはならない。体の力を使うと、手に力を入れなくても大きなパワーが出せるのである。空手の突きでも、腕に力など全く入れない。腕には全く力が入っていない。完全な脱力である。しかし、体重移動、腰、肩、へと力の連動によって、強いパンチが出せるのである。勿論、パンチの力を、より強くするには、より力をいれなくてはならない。しかし、それは、あくまで、体重移動の速さ、体の力を強くすることであって、腕の力ではないのである。水泳においても、やたら力一杯、手をかけばいいというものではない。水泳において大切な事は、水の塊をつかんで、水を逃がさないようにするということである。そうすれば、力を入れなくても大きな推進力が得られるのである。やたら力を入れて水をかいても、水がつかめておらず、水が逃げてしまったのでは、速く泳ぐことは出来ない。これを、骨折り損のくたびれ儲け、という。柔道とかになると、もっと凄い。相手の力を利用して、相手を倒すのであるから。技が大切なのである。ここらへんの所は、空手家の南郷継正氏が本の中で、「ウソ勝ち」と書いている。つまり試合において、相手に勝ったが、強引な力の攻撃によって、相手を倒すことであり、それはどんなスポーツでもいえる事である。「ウソ勝ち」は見ていて美しくない。ここらへんはスポーツにおいて、本人の思考力、意識が関係してくるのである。だから、勿論、「ウソ勝ち」は、テニスに於いてもいえるのである。勝つことだけに意識が行くと、勝つには勝ったが、せこいショットで、乱れたフォームでも、構わないということになってくる。そうすると、体の力を使った正しいフォームが身につかない。ここら辺は、何を価値観とするか、という本人の性格も関係してくる。「人間は自分がつくったところの物になる」とは、サルトルの言葉である。これはオリンピックの体操競技でも言えることである。床体操の二回宙返りで、アナウンサーも解説者も、着地がピタリと決まることだけに価値をおいた事を言っている。勿論、着地がピタリと決まるのは空中での回転の安定さによることも事実ではあるが。しかし体操競技で一番価値があるのは、飛ぶ高さ、や、抱え込み、伸身、屈伸の空中姿勢の美しさである。体操は美しさのスポーツだから、尚更である。着地で、一歩足を踏み出す事など、そんな大した事ではない。むしろ、着地がピタリと決まるように、無理して踏ん張っている着地の方が格好が悪い。しかし、現実には、高さや、空中姿勢の美しさ、などの各選手の比較は、審判の主観によってしまうから、公正な客観的な厳密な採点基準ということになると、着地がピタリと決まることにならざるを得ないのである。

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夏至

2010-06-21 00:04:58 | Weblog
今日は夏至である。今日から日が短くなっていくと思うとさびしくなる。今は7時でも回りが見える。日は暮れない。朝は5時10分前に日が開ける。これから夏本番というのに、日は短くなっていく。極めてさびしい。

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太宰治論2

2010-06-20 00:44:09 | Weblog
太宰治は、弱い、戦わない、というが、はたしてそうだろうか。死ぬ直前、太宰は、文壇の大家である志賀直哉を徹底的に批判している。志賀直哉批判は、作家にとって自殺行為に等しかった。現代でも、作家同士は、たとえ嫌っていても、お互いを激しく批判するということはしていない。だろう。文学の世界においては、真剣勝負の戦いはない。お互い、無難な事を言い合って、争い、戦いを避け、うわべの八方美人を演じている。その中で太宰だけは死を覚悟して戦った。自殺行為とわかっていても命がけで戦った。

太宰は情緒不安定な所があり、激しく本心をぶちまける時もあれば、非常に弱気になる時もあった。太宰を批判する人は、太宰が(ほとんどの時は)弱いから、批判しても、怖くはないから、少なくとも、自分に不利益はもたらさないから、いじめやすい相手であり、つまりは弱い者いじめをして、自分が信念を持った人間であるかのように、自己満足、自己アピールして、いい気分になっているだけである。

本当の戦いとは、自分に都合の悪い相手、戦うと自分が不利益になる相手。自分より強い相手に対して戦うことである。格闘の世界でも、一見、強い者同士の戦いのように見えても、いかに弱い者いじめしか無いことか。本当に強いヤツがいかに少ないことか。

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最初の指導医

2010-06-19 10:51:56 | 医学・病気
私の研修病院での、最初の先生は、おおらかで面白い先生だった。入って、挨拶の時、ちょうどいい症例の患者が運ばれてきたので、「いい患者が入ったから病棟に行こう」と言われて、病棟に行った。私は、その時、うつ状態で、何をするにも要領が悪かったが、先生が何か質問すると、頭にある知識を総動員して、考えて答えた。それで私を気に入ってくれた。歓迎の会食の時、先生は、こんな事を言った。
「久しぶりに教えがいのある研修医が入ってきて嬉しい。浅野君。頑張ってくれよ」
皆が笑った。私も、まさか、私のことが言われるとは思ってもいなかった。師は看護学生にも人気があり、付属の看護学校の入学式に行った時、在校生が、先生を見るや、一斉に「××せんせーい」という大歓声が起こった。私は、「ああ。この先生は、患者にも学生にも好かれているんだな。先生の性格なら無理もないな」と、つくづく思った。先生は、勿論、結婚してて、二人の娘がいる。病棟のナースにも、雑談から医療の事まで、何でも話した。親切である。話題がオウム真理教の林被告のことになった。先生は、「あんなヤツ死刑で当然だよねー」とあっさりと言った。ちょっと、可笑しかった。精神科医なら、「彼の責任能力というものはだねー・・・」とか、「あの時の彼の精神状態というものはだねー・・・」とか、精神科医らしく難しい発言をするかと思ったら、そんなものはせず、普通の人の井戸端会議と変わりない単純な割り切り方である。精神科医って、こういうものなのかと少し、驚いた。先生は、人生で浮気を一度もしたことがないらしい。ある時、「オレも浮気というものを人生で一度もしなくてもいいものだろうか」などと言っていた。ちょっと、これは真面目すぎる。普通の人は、浮気なんて、しても当たり前という感覚の人が圧倒的だろう。ある時、暴れている患者が入院することになった。外来で患者は先生の右手に思いきり咬みついた。利き手の甲の皮が切れ、血まみれになった。だが、先生は、何事もないかのように、患者を病棟に連れて行き、病棟に入れた。そして血まみれの手で、カルテにアナムネを書き出した。先生は、全く自然な口調で、「B型肝炎、大丈夫かなー」と笑いながら言った。私は感動した。先生が神様に見えた。キリストを仰ぎ見るバプテスマのヨハネのように、私は先生を仰ぎ見た。「ああ。私は、この先生の靴の紐を解く価値さえもない人間だ」と私は思った。

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臨床医学は学問か

2010-06-17 21:59:34 | 医学・病気
私は医学を、(全てではないか、ある一部で)純粋に学問と呼べるのかどうか、疑問に思っている。これは、臨床の教授(口腔外科)が言った事だが、
「臨床医になるのは医学者の恥」
と教授は言った。勿論、私は、その事は、聞かされる前から感じていた。確かに、基礎医学は、紛れもない厳密な学問である。しかし、臨床になると、かなり、あやふやな面が出てくる。たとえば骨折にしても、添え木を当てて、(添え木を当てなくても)骨はくっついてくれる。臨床の治療とは、より元のかたちに近づける努力である。だから、場合によっては、切開して、ある期間、金属で固定したりする。しかし、人間には自然治癒力があるから、治療しなくても、不自然な形であっても、骨はくっついて、骨折は治ってくれるのである。そういう事は、他にもある。これが故障した自動車だとそうはいかない。故障した自動車をほっといたら、いつまでたっても故障したままである。
第二に。学問とは、必ずコントロールをとる。コントロールとは、動物実験をする場合、たとえば薬を投与して、その効果を見る時、環境条件を同じにした、無投与群を同時に調べる事である。これは、生物学関係の実験をした人なら知っているだろう。当たり前の事である。しかし。臨床治療を考えてみる時。コントロールというものをとる事は、出来ない。一卵性双生児がいる場合だけは、コントロールとする事が出来るが。つまり、ある病気の患者に、薬を投与して、病気が改善した時、薬が効いた、と言うが、はたして、病気が改善したのは、薬のおかげであるかどうかは証明できないのである。たとえば、風邪をひいて、熱を出した場合、解熱剤や風邪薬を出して、患者はそれを飲むが、もしかすると、薬を飲まなくても熱は下がったのかもしれないし、患者だって、熱を下げようと、水分を多くとったり、食事を、お粥にしたり、極力、安静にしたり、色々と、熱が下がるような手を打っている。つまり薬の服用だけではなく、色々な治療が行なわれている。また、起きだすタイミングもある。熱が引いたら、あまり、いつまでも長く寝ているより、起きて無理のない程度に、日常説活をした方が、夜、ぐっすり眠れて、寝ている間に汗をかいて熱がより下がったり、動くことで腸管が動き、食欲が出てくる場合もある。だから、熱が下がったのは、薬のおかげではなく、患者が起きだすタイミングが良かったせいかもしれない。それは、わからない。コントールがないから、わからないのである。そういう事は、いくらでもある。だから、臨床医療は、厳密な学問と言えるのかどうかは、わからないのである。

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テニスの本を買う

2010-06-16 07:02:03 | 武道・スポーツ
太郎は所用あって横浜に行った。ある健康の本を探していたのだか、横浜の地下街の有燐堂にはなかった。伊勢崎町の有燐堂には、あるという。ので、二駅なので行くことにした。確かにあった。図書館で本を読んで、気に入って、その本を買う、というパターンが多いのである。となりには、スポーツ書のコーナーがあった。テニスの本でなにか、いい本はないかとパラパラッとめくってみた。いい本があった。彼にとってのいい本とは、ゴチャゴチャわかりきったことを述べている本ではない。分解写真のモデルにきれいな女の人がのっていたのである。白い短いスカートのテニスウェアである。彼女が気に入ったので買った。著者である、おっさんの分解写真もあったが、太郎はそれには興味がなかった。太郎は家に帰って、女の人のきれいなスイングの分解写真を時間が経つのも忘れて眺めつづけた。
「きれいだなー」
と思いながら。彼がきれいだと思っているのは、勿論、フォームに対してであるが、それ以上に何か別の物に対してでもあった。その証拠に、彼は女の人の太腿と顔しか見ない。すると写真の女の人が太郎に話しかけてきた。
彼女「あん。あんまり見つめないで。恥ずかしいわ」
太郎「ご、ごめんなさい。あんまり、きれなもので・・・」
彼女「き、きれいって、一体、何がきれいなの?」
太郎「それは、もちろん、お姉さんのフォームが、です」
彼女「それにしては、あなたは私の太腿ばっかり見ているわ。変よ」
太郎「それは、脚の動きが運動の要だからです」
彼女「で、でもあんまり、そんなに食い入るように見つめないで。は、恥ずかしいわ」
太郎「どうしてですか。健康的で丈夫な太腿じゃないですか」
彼女「テニスをしていると太腿が太くなっちゃって、気にしているの。コーチから、本を出すけどモデルになってくれないかって言われた時も、かなり迷ったほどなの」
太郎「でも、あなたほどの、きれいなフォームの分解写真は、まさに理想的ですし、その美しさは、まさに芸術だと思うんです」
彼女「た、太郎さん。私もコーチにモデルになってくれって言われた時、服はスボンでお願いしますって、コーチに強く頼んだの」
太郎「それで、コーチはどう言ったんですか?」
彼女「あなたと同じよ。脚の筋肉の動きは運動の要だから、それがよく見えるように、スカートにしなさいって。私もそれを信じたわ。でも今はそうじゃないって、わかったの」
太郎「どうしてですか」
彼女「そ、それは・・・」
太郎「この本は売れてるでしょう」
彼女「え、ええ。月並みな事しか書いてないテニス指導書なのに、もう10刷だわ」
太郎「それは良かったじゃないですか」
彼女「良くないわよ。儲けて笑ってるのは、出版社と著者のコーチだけだわ。私には印税なんて入らないし、全国に恥を晒しただけだわ。私は金儲けのために利用されただけだわ」
太郎「そうですか。それは、お気の毒ですね」
彼女「なに言ってるのよ。あなただって、それが目的で買ったんじゃない」
太郎「ごめんなさい。でも、あなたほどの美しい人の美しいフォームは芸術だと思うんです。芸術は、しっかりと撮影され、保存されるべきだと思うんです。芸術は、あなただけの物ではなく、人類の財産だと思うんです」
彼女「もうだまされないわよ。芸術家きどりの人って、みんな、芸術、ってコトバを持ち出して女をだますんだわ」
太郎「そうかもしれませんが、だましてるだけでもないと思うんです。やはり美は、しっかりと撮影され、保存されるべきだと思うんです。この本が出版されたことによって、あなたの美は、人類最期の日まで、美しく輝きつづけます。素晴らしいじゃないですか」
彼女「・・・もう、何を信じていいのか、わからなくなっちゃったわ。男の人って本当にコトバ巧みね」

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何度も死ぬおばあさん

2010-06-15 13:31:45 | 医学・病気
何度も死ぬおばあさん。臨床で、夏休みが終わった二学期の、中間試験の後、点数の悪い生徒達が、ある科の教授に呼び出された。勿論、私もその一人だった。20人くらいだった。一人、来ていない生徒がいた。「どうして来ないんだ」と先生が、聞いたら、一人の生徒が、深刻な顔つきで、「今日、彼のおばあさんが、亡くなりまして、どうしても葬式に出なくてはならないので、欠席したらしいです」と言った。先生は、それ以上、問い詰めなかった。確かに、おばあさんの葬式なら仕方がない。しかし私は首を傾げた。彼の、おばあさんの葬式は10回目である。「よく死ぬ、おばあさんやなー。これで10回目やないか。まるでゾンビみたいやな。死んで墓場に葬られても、墓場の中から蘇生して墓石を押しのけて、家に戻ってきたんだな。よほどこの世に未練があるんだろうな」と思った。私は、「今度こそ、ちゃんと成仏して欲しいものだ、と思う一方で、はたして一度死んだ人間が生き返るということが医学的に有り得るものだろうか」と、つくづく疑問に思った。不思議なおばあさんである。

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神風特攻隊

2010-06-14 06:43:57 | Weblog
You-Tubeで、「アメリカからみた神風特攻隊」というのがある。戦争がいいか悪いかは別にして。九州の基地から、ある特攻隊員が出撃した。だが燃料が漏れて、徳之島に不時着して、戻ってきた。その人は、これが特攻隊員かと思うほど、穏やかな性格である。敵艦を沈めることが、特攻隊員の任務だから、燃料が漏れてしまったのでは、任務を果たすことが出来ない。そのため、彼は基地に戻ってきた。彼は再出撃するため、飛行機を自用して下さい、と上官に頼んだ。すると上官は怒鳴りつけた。
「貴様。命が惜しくて帰ってきたんだろう。馬鹿野郎ー」
と言った。彼は、怒りが胸から込み上げてきた。それは、彼が、あまりにも穏やかな性格だから、勇気がない腰抜けだと思ったのだろう。そして、私も、その上官に対して彼同様、激しい怒りが込み上げてきた。特攻隊員は純粋な若者達ばかりであるが、特攻隊の指揮官はクズが多い。人に特攻精神を要求しながら、手前は死ぬ度胸がない腰抜けが多い。私の父親もそうである。人に特攻精神を要求しながら、手前は泣き言しかいわない。そんなヤツは親だろうとクズだと私は思っている。だからクズが死んでも私は喜びこそすれ、悲しむことなど絶対ないのである。

私がこの動画に共感するのは、私とて特攻精神を持っていると自負しているからである。大学四年の時、(医学部は六年間である)私は、持病である、過敏性腸症候群が悪化して、ボロボロにまいって休学した。本当の専門家による治療を受け、アドバイスを聞き、気持ちが纏まる期間、休息したいと思っていた。戦いにおいて、猪突猛進というのは、バカである。武田信玄の、風林火山の如く、戦いとは、退却すべき時には退却し、大局を見極め、攻撃すべき時には、一気に攻撃する。そんなのは戦術の基本である。私の休学も作戦の練り直しが目的だった。しかし、父親はヒットラーのような暴君で、ある東大出の権威のある医者が、「今、何かさせてはかわいそうですよ」とアドバイスしても全く聞く耳を持たない。自分の考えが、絶対正しく、私が腰抜け、だとしか思っていないバカである。「敵前逃亡するな」と怒鳴りつけ、私を腰抜けとしか見ていない。全く特攻隊の頭の悪いクズ指揮官と同じである。結果、私は、まさに適切な専門医を探し当て、非常に良い治療を受け、再度、戦う自信を十分、充電できた休息をとり、そして復学し、卒業し、医者になった。この作戦のため私は、医学部を卒業できたと確信している。

「苦戦になった時は、退却すべき時には退却し、大局を見極め、作戦を練り直し、攻撃すべき時には火の如く、一気に攻撃する。それこそが本当の特攻精神である。猪突猛進は特攻精神ではなく単なるバカである」

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詐欺メール

2010-06-13 05:54:06 | Weblog
変な詐欺メールがきた。私が昔、携帯サイトに入会して、長期に渡って料金の未払いをしているから、電話で連絡しろ、と言って電話番号が書いてある。というような内容である。しない場合、民事訴訟するという。私は携帯サイトに入会した事などない。

他の人は、こういう場合、どうするのだろうか。すぐに削除してしまうのだろうか。私は削除しなかった。警察に電話して、メールの全文を知らせてやった。私の予想では、おそらく電話したら、金を振り込めと、振込口座を言ってくるだろう。しかし、口座番号がわかれば、相手の名義と住所がわかる。アホだと思った。しかし、そこは詐欺師も考えてて、口座を他人から借りていて、本人の口座ではないらしい。しかし、口座がわかれば、貸しているヤツも共犯である。ともかく巧妙にやってて、詐欺メールからだけでは犯人はつきとめられず、警察もあまり乗り気ではなさそうだった。だが、電話番号が書いてあるのだから、犯人の声を聞くことは出来る。話をすることも出来る。警察が動かないのなら、私がだまされた振りをして、犯人と話をしようと思う。携帯やパソコンに疎い人を狙った稚拙犯であるかもしれない。警察が動かないならオレが動く。

よく医者は、善人悪人を問わず、相手が病気ならば治す、というパターンの人道的、感動的な考え方がある。しかし私は残念ながら、人間が出来ていないせいか、そうは考えない。ウジ虫は、ぶっ殺した方がいいと思っている。私はウジ虫に対しては、どんなにでも残酷になれる。とっ捕まえたら、カリギュラ以上の悪魔の拷問で、内臓を引きずり出す。法にまかせるべきだが、残念ながら私は、人間が出来ていないせいか、日本の法は、いかなる時でも遵守すべきという高邁な考えの人間ではない。また私は、世の不正を全て糾すべきだという立派な考えの持ち主ではない。私に、詐欺メールを送ってきたから、むかつくのである。他の人に詐欺メールを送るぶんには、別に何とも思わない。かってにやってな、である。ただ私にちょっかいを出すヤツは許さんだけである。

「男は一発、殴られたら10発、殴り返せ」

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梶原一騎論

2010-06-13 02:38:37 | Weblog
梶原一騎の作品の最期は、ほとんど全て、主人公の死で終わる。これはどうしてか。梶原は、戦前生まれであり、戦争を知っている。梶原は、漫画で特攻精神を描いているが、これは戦争を見た影響からではない。梶原一騎、自信が、戦争を見る、見ないに関わらず、生まれつき特攻精神を持った、そして特攻精神に価値を認めている人間であるからである。そして、ラストが主人公の死で終わるのも。必然がある。それは。三島由紀夫も論じているが、ある事にひたむきに命がけで行動に突き進んだ行動家が、目的を為した後どうすべきか、ということである。那須与一は、扇の的を射た後も生き延びた。行動家が、命がけの行動を成し遂げた後、平凡な人生を生き延びる事の、さびしさを論じている。それは、ちょうどオリンピックで、金メダルを取り、人生の目的を達成した後、解説者や、コーチや、芸能人や、平凡な家庭人になってしまうことの、さびしを、梶原一騎も三島由紀夫も感じているからである。それは私も、そして、一般の人の中にも、それを感じる人はいるだろう。子供向きの童話にしてもそうである。苦難の中で、ある青年と女が結ばれる物語で、苦難の末、二人が結ばれた後の平凡な、つつがない幸せな結婚生活を延々と書いた名作童話があるだろうか。行動家が最も美しく見えるのは、行動を成し遂げた瞬間である。その後など見たくないのである。もし行動の直後、死ねば理想的な美しい人生になる。そして、もし、その死が行動のエネルギーの激しさによる必然性の結果である死であれば、矛盾無く美しい。しかし現実には、それは出来ないし、現実には、行動を成し遂げた後にも、平凡人として生きることは、仕方がない。
しかし、そういう人の一生を正直に描いても美しいだろうか。漫画はフィクションであるから、最も美しいラストにしても、かまわない。し、梶原は、そういう意図で、主人公の最期を死で終わらせているのである。だから、梶原一騎は、特攻精神を描いてはいるが、特攻精神によって死ぬ事を奨励しているのでは、決してないのである。

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奔馬

2010-06-12 20:57:54 | Weblog
盾の会の服装のグロテスクさ。三島の、盾の会は、思想的には、何はともあれ立派だと尊敬する。(私は右翼ではない)しかし、私が違和感を感じるのは、盾の会の服装である。三島自身、言っているが、金をかけて、非常に美しく仕立てている。(三島自身それを自慢している)しかし、盾の会は、有事の時に国を守ることが、その目的ではないか。守るためには、日本を脅かす敵と戦わなくてはならない。想定されるのは肉弾戦である。となれば、出来るだけ動きやすい服装、や、ピストルにそなえ、急所の心臓を守る防弾具、など、実戦的に戦いやすい服装にすべきではないか。盾の会のような、お洒落で、服の汚れにも気をつけなければ、ならないような、上品な軍人の晩餐会のためのような服装は、おかしい、というか、グロテスクに見える。
確かに、「葉隠れ」では外見の美、も説いている。しかし、「葉隠れ」の説く、外見の美はそんなのとは意味が全然、違う。ここで思うのは、三島由紀夫という、精神の美、に、外見の美、を両立させなければ気がすまない作家の、根本的な間違い、滑稽さ、を感じるのである。だから、それを小説で、やっている「豊饒の海」の第二巻の「奔馬」に私は文学的価値を疑問に思うのである。

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私の好きな人

2010-06-11 12:11:01 | Weblog
タフなヤツ。

負けるとわかっていても戦うヤツ。

自分の命以上の価値を持っているヤツ。

命の惜しくないヤツ。

損得感情で行動しないヤツ。

死んでも 「ギブアップ」 を言わないヤツ。

暴力団事務所に一人で殴り込みをかけられるヤツ。

誘導尋問してくる検察官をぶん殴れるヤツ。

たとえ一億人が「YES」と言っても「NO」と言える人。

人に自分の意見をおしつけることを嫌う人。

見て見ぬ振りをしない人。

権力を笠に着て威張らない人。

権力者にへつらわない人。

他人をだまさない人。

自分を正当化したがらない人。

自分の意見を批判する人の意見に耳をかたむけたがる人。

子供を子供あつかいしない人。

人間を好悪の感情で好き嫌いしない人。

心の優しい人。

自分の幸福より、他人の幸福を優先できる人。

他人を蹴落として自分が幸福になることに苦しんでしまう人。

自分に厳しく他人に優しい人。

自分を欺かない人。

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中国

2010-06-09 03:30:55 | Weblog
これだけインターネットで情報が簡単に手に入る時代に、中国で革命が起こらないのが不思議で仕方がない。どんなに政府がネットで情報を統制しようと思っていても無理だろう。政府も、現体制を維持させるために、憎しみの感情を日本に向けさせている。人は二人の相手を同時に憎む事は出来ない。しかし全ての中国人が洗脳されているわけではなかろう。分かっている人間も、いるはずである。最も共産主義の危険性を知っているのは政府高官であるだろう。ただ革命というものは、一人では成功しない。多数の人員で組織的に計画的に、用意周到にやらなければ成功しない。そういう秘密組織はあるのだろうか。しかも政府を転覆させるほどにするためには、よほどの人員が集まって組織的に革命の計画を練らなければ勝ち目はない。まさに中国にはそういう眠れる獅子がいるのではないだろうか。中国の歴史の革命を知らせないようにしても、世界の歴史は知っているはずた。フランス革命、ナチズム。等等。政府としても教育には力を入れて優秀な人材を育てたいと思っているから歴史教育はしているはずだ。ただカリスマ毛沢東の偉大さと、民主主義の持つデメリットを強調して教育しているだろう。また現状の生活、経済が上手くいっているのなら、つまり国民に不満がないのなら、無理して革命を起こす情熱も起こらないだろう。また中国は、虐げられた歴史があるから、それを擁護している政府に感情的に好感を持っているのだろう。

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