ビーチボーイズの歌に「All summer long」というのがある。映画、アメリカングラフィティーの最後の歌で、高校の時、初めて聞いた時は感動した。哀調があって、素晴らしいメロディーだと感じた。しかし、その後いつの間にか、何とも感じなくなってしまっていた。だが、ともかくAll summer long である。今年の夏、さようなら。
秋にそなえ、体力をつけておこうと泳ぎに泳いだら、筋肉のオーバーユース(使い過ぎ疲労症候群)を起こしてしまった。おかげで、今年の夏は満足いくほど泳げなかった。
民主党が圧勝した。単独過半数であるから連立を組む必要もない。しかし私は民主党に政治的に全く何も期待していない。何も変わらないと確信している。鳩山由紀夫が総理大臣になって組閣することになる。そもそも、やる気が全く感じられない。そもそも民主党議員は、元自民が多い。よく言えば政治手法を多少、知っている、とも言えるが、行動などしっこない。権力を握った、あんな大所帯をうまくまとめられるとは思えない。派閥が出来、分裂するだろう。もし、うまく纏まったら日本人は自ら進んで独裁権力を国家に与えてしまった愚かな国民ということになる。首相は菅直人か前原誠二が、いいだろう。
それにしても何で社民党と連立を組んだのか?政策が食い違っている党と。福島瑞穂のような人こそ確かな野党として与党に厳しく目を光らせてほしかった。権力欲に目がくらんだのか、彼女のような行動力のある人間は引き込んだ方がいいと、考えたのか。
公務員の天下りなど、なくせっこない。口だけの批判なら大阪城でもパリのエッエェル塔でも建つ。政官財の癒着の断ち切り。政治の透明性。地方分権。無駄な公共事業の廃止。
無責任な立場なら何でも言える。彼らは何もしない、無難なことを形だけするだけの昼ね内閣、になるだろう。
それにしても何で社民党と連立を組んだのか?政策が食い違っている党と。福島瑞穂のような人こそ確かな野党として与党に厳しく目を光らせてほしかった。権力欲に目がくらんだのか、彼女のような行動力のある人間は引き込んだ方がいいと、考えたのか。
公務員の天下りなど、なくせっこない。口だけの批判なら大阪城でもパリのエッエェル塔でも建つ。政官財の癒着の断ち切り。政治の透明性。地方分権。無駄な公共事業の廃止。
無責任な立場なら何でも言える。彼らは何もしない、無難なことを形だけするだけの昼ね内閣、になるだろう。
プールに行ったら、小学生のシンクロナイズドスイミンクの練習をしていた。見事である。しかし私は、英才教育として子供の頃から一芸を身につけさせる事のメリットとデメリットを考える。
メリットとしては、子供の頃に運動しておくと、大人になってから体力が落ちにくい事。丈夫な体をつくれる事。自分に自信がもてる事。一つの事に打ち込み、やり抜く強い精神力を身につけられる事。だと思う。
しかしデメリットもあると思う。子供の頃から一つの優れた能力を持ってしまうと、優越感をもった天狗になってしまいかねない。優越感が満足感につながると、人生を大きく取り組もうという情熱がなくなってしまう危険があるとも思う。これは、その子の性格が大きく左右する。
実際、私の中学ではテニス部で上手い生徒の中には、小成されて、小さな完成で、優越感とちっぽけなマイホーム主義で人生の設計図をたてて、人生に対する情熱がなくなってしまっている生徒も、かなりいた。そんなことなら、特技など身につけない方がいいと思う。
これは特にスポーツおいて言える事だ。各スポーツには、それぞれ一番ふさわしい年齢がある。プロ野球選手などでは40才を越しても、現役で活躍している人はいるし、プロレスに至っては、50才を越しても現役でやってる人もいる。しかし、女子体操にせよ、スポーツ全盛期年齢は低くなる一方である。全盛期の年齢を越すと勝てないからである。
別に自分の人生をどう生きるか、というのは、自分の判断だし、こういう生き方をすべきだ、という結論などない。
しかし若くしてオリンピックで金メダルをとって、人生をなしとげ、後は、過去の栄光の思い出にひたって、天下り的に、スポーツ指導者となったり、名前で芸能人になって、ゲタゲタ笑うだけの人生とはどんなものか。
人間は平均寿命まで生きられるという保証はない。しかし私は人生とは、生きてる限り目的を持って、情熱を持って生きるのが素晴らしいと思っている。
空手家の南郷継正氏は、この事もかなり論じている。
ただ芸事といっても、スポーツは肉体的条件の制約があるから、ちょっと例外的だろう。創作、作曲、芸術、学問などは、肉体的制約がないから、一生打ち込む事が出来る。
「葉隠」では、芸事を徹底的に批判している。
「芸能に上手といわるる人は馬鹿風の者なり。これは、ただ一遍に貪着する故なり。愚痴ゆえ、余念なくて上手になるなり。何の役にも立たぬものなり」
また漫画では、梶原一騎の「夕やけ番長」の赤城忠治や「愛と誠」の太賀誠、「ドーベルマン刑事」の加納錠二、などは、運動神経は良くても特技というものを持っていない。これが、かえって格好いいのである。これは、特技を持った敵と戦うストーリーを作るため、主人公は特技を持てないという、ストーリー作りのためでもあるのだが。特技とは、物理的なもので何ら精神的なものではない。しかし主人公は物理的なすごいものは持っていなくても、ものすごい精神的なエネルギーと目的のためには命も惜しまぬ、並外れた執念を持っている。それがすごく格好いいのである。
メリットとしては、子供の頃に運動しておくと、大人になってから体力が落ちにくい事。丈夫な体をつくれる事。自分に自信がもてる事。一つの事に打ち込み、やり抜く強い精神力を身につけられる事。だと思う。
しかしデメリットもあると思う。子供の頃から一つの優れた能力を持ってしまうと、優越感をもった天狗になってしまいかねない。優越感が満足感につながると、人生を大きく取り組もうという情熱がなくなってしまう危険があるとも思う。これは、その子の性格が大きく左右する。
実際、私の中学ではテニス部で上手い生徒の中には、小成されて、小さな完成で、優越感とちっぽけなマイホーム主義で人生の設計図をたてて、人生に対する情熱がなくなってしまっている生徒も、かなりいた。そんなことなら、特技など身につけない方がいいと思う。
これは特にスポーツおいて言える事だ。各スポーツには、それぞれ一番ふさわしい年齢がある。プロ野球選手などでは40才を越しても、現役で活躍している人はいるし、プロレスに至っては、50才を越しても現役でやってる人もいる。しかし、女子体操にせよ、スポーツ全盛期年齢は低くなる一方である。全盛期の年齢を越すと勝てないからである。
別に自分の人生をどう生きるか、というのは、自分の判断だし、こういう生き方をすべきだ、という結論などない。
しかし若くしてオリンピックで金メダルをとって、人生をなしとげ、後は、過去の栄光の思い出にひたって、天下り的に、スポーツ指導者となったり、名前で芸能人になって、ゲタゲタ笑うだけの人生とはどんなものか。
人間は平均寿命まで生きられるという保証はない。しかし私は人生とは、生きてる限り目的を持って、情熱を持って生きるのが素晴らしいと思っている。
空手家の南郷継正氏は、この事もかなり論じている。
ただ芸事といっても、スポーツは肉体的条件の制約があるから、ちょっと例外的だろう。創作、作曲、芸術、学問などは、肉体的制約がないから、一生打ち込む事が出来る。
「葉隠」では、芸事を徹底的に批判している。
「芸能に上手といわるる人は馬鹿風の者なり。これは、ただ一遍に貪着する故なり。愚痴ゆえ、余念なくて上手になるなり。何の役にも立たぬものなり」
また漫画では、梶原一騎の「夕やけ番長」の赤城忠治や「愛と誠」の太賀誠、「ドーベルマン刑事」の加納錠二、などは、運動神経は良くても特技というものを持っていない。これが、かえって格好いいのである。これは、特技を持った敵と戦うストーリーを作るため、主人公は特技を持てないという、ストーリー作りのためでもあるのだが。特技とは、物理的なもので何ら精神的なものではない。しかし主人公は物理的なすごいものは持っていなくても、ものすごい精神的なエネルギーと目的のためには命も惜しまぬ、並外れた執念を持っている。それがすごく格好いいのである。
ある所の壁でテニスの壁打ちをしていたら、小学生くらいの子供の集団がランニングしていた。子供が前を通る時、一時、壁打ちを中止しなくてはならない。ある時、一人の子供が走ってきたので、壁打ちを中止した。何気なく見ると、メガネをかけた、ものすごく可愛い女の子だった。私は思わず目をみはってしまった。そのため、少女は私が壁打ちを邪魔されてじれったいと思っていると、思ったのだろう。笑顔でペコリと頭を下げた。「うっ。可愛いっ」彼女が去って、私はまた壁打ちを始めた。建物の周りを走っているので、また彼女がやってきた。ううっ。可愛いっ。汗がすがすがしい。素直そう。「素直そう」と言っといて、そう言う手前は素直なのか、と言われれば、今は素直なのかどうなのか、わからない。少なくとも子供の頃は素直だったような気もするが、子供の頃からひねたガキだったような気もする。しかし長上を敬し、大人にたてついた事はない。ひ弱だったから。先生のような監視役の人もいる。何なのだろう。単なる運動の授業か、バスケットかバレーボールの体力づくりのロードワークか。スカートが短い。うっ。かわいい。激しい苦悩が私に襲いかかった。私は急いで近くのコンビニに行って、チョコレートとメモ帳を買った。
私は早鐘を打つ心臓を押さえて彼女が来るのを待った。彼女がやってきた。私は急いで彼女に駆け寄った。「あ、あの・・・」「はい。何でしょうか?」「サインして下さい」「はい。いいですよ」少女はニコッと笑ってサインした。斉藤久美と書いてある。「久美さんですね。素敵な人とめぐり合って幸せになって下さい」私はそう言うと一目散に駆け出した。こうして僕の初恋はおわった。
というのはウソで、私が苦悩して、うがー、と唸りながら地面を転げまわっていたら、少女がやってきて私に声をかけたのである。「おにいさん。どうしたんですか。救急車よびましょうか」「い、いや。いいんだ。僕は持病で、時々、痙攣発作が起こるんだ」「どういう病気ですか」「突発性ロリコン発作症候群という奇病なんだ」「何か私に出来ることがありますか」「濡れたタオルで頭を冷やしてくれると助かる」「じゃあ、すぐ持ってきます」そう言って少女はすぐに駆け出した。少女はすぐに濡れたタオルを持ってきた。「はい。おにいさん」そう言って少女は私にタオルをわたしてくれた。私は額にタオルをのせた。「どうですか」「ありがとう。楽になったよ」「そうですか。それはよかったですね」少女はニコッと笑った。「あ、あの・・・」「何ですか」「お嬢ちゃんがいなくなると、また発作が起こりそうな気がするんだ」「じゃあ、しばらく私がついてます」「ありがとう。助かるよ」その時、地球が爆発した。
というのもウソで、少女が三回目に回ってきた時、少女はハアハア息を切らしていたのである。少女は足がガクガクでついに座り込んでしまった。のである。
私は早鐘を打つ心臓を押さえて彼女が来るのを待った。彼女がやってきた。私は急いで彼女に駆け寄った。「あ、あの・・・」「はい。何でしょうか?」「サインして下さい」「はい。いいですよ」少女はニコッと笑ってサインした。斉藤久美と書いてある。「久美さんですね。素敵な人とめぐり合って幸せになって下さい」私はそう言うと一目散に駆け出した。こうして僕の初恋はおわった。
というのはウソで、私が苦悩して、うがー、と唸りながら地面を転げまわっていたら、少女がやってきて私に声をかけたのである。「おにいさん。どうしたんですか。救急車よびましょうか」「い、いや。いいんだ。僕は持病で、時々、痙攣発作が起こるんだ」「どういう病気ですか」「突発性ロリコン発作症候群という奇病なんだ」「何か私に出来ることがありますか」「濡れたタオルで頭を冷やしてくれると助かる」「じゃあ、すぐ持ってきます」そう言って少女はすぐに駆け出した。少女はすぐに濡れたタオルを持ってきた。「はい。おにいさん」そう言って少女は私にタオルをわたしてくれた。私は額にタオルをのせた。「どうですか」「ありがとう。楽になったよ」「そうですか。それはよかったですね」少女はニコッと笑った。「あ、あの・・・」「何ですか」「お嬢ちゃんがいなくなると、また発作が起こりそうな気がするんだ」「じゃあ、しばらく私がついてます」「ありがとう。助かるよ」その時、地球が爆発した。
というのもウソで、少女が三回目に回ってきた時、少女はハアハア息を切らしていたのである。少女は足がガクガクでついに座り込んでしまった。のである。
私の創作意欲の原動力は、小説をホームページに発表した後にすぐ起こる虚しさと、同時に起こる創作意欲である。発表した後の一日は満足感にひたれる。しかし二日目からは、またものすごい虚無感と創作意欲が起こる。私の人生は、おそらくその繰り返しだろう。そして、そういう人は多いと思う。小成に安んじることは出来ない。しかし、ある程度書いてきたら満足感が起きてきた面もある。しかし、書かないでいれば、やがて死にたいほど書きたくなるだろう。そこで私は私を鞭打ってくれるものが欲しいのである。それは、締め切りなり、商業誌への発表なり、である。しかし私はとても、締め切りタイプの書き方は出来ないだろう。梶原一騎は全盛期に睡眠時間3時間で8本もの連載をしていたということだ。小説家でも、そういう人はいる。そんな事を聞いただけで私はショック死しそうである。ストーリーが思いつかなかったら、どうすんだよ。しかし、締め切りがあるから書けるという作家も多い。緊張感が高まるんだろう。筆一本で生きている人は、そういう限界で生きているのだろう。しかし。私は書き下ろししか出来ない。しかし書き直しとか、言われると。書き直しほど、つまらないものはない。し、内容まで書きたくないものに変えろ、とか言われたら。そんな事を考えると、怖くなってしまう。
ところで私は、爽やかな青春小説を書きたいと思っていたのに、どうしてもエロティックな小説になってしまう。やはり書きたいから、そっちの方向に行ってしまうのだが、歳をとって性欲がなくなったら爽やかな青春小説を書こう。と思っているが、はたして書けるか。やはり、死ぬまで、書いて、読んで、働いて、運動して、少し遊んで、という人生になるのではないだろうか。しかし、やはり締め切り的なものは欲しい。金はさほど欲しくない。私の拙作を、貴重な人生の時間をさいて読んで下さる事を考えると申し訳ない気がする。しかし私の書く小説は肩が凝らないでサラサラッと読めるだろうとも思う。
私の拙作は何でも、どこにでも自由に掲載して下さってかまいません。むしろ、していただけると嬉しいです。ただ著作権だけは、私が生きている間は私のものとさせて下さい。死んだら全部、著作権フリーとします。著作権の事はよく知らないのですが、要するに、それによって利益を得るという行為であり、ネット上の掲載なら、それに該当しません。
ところで私は、爽やかな青春小説を書きたいと思っていたのに、どうしてもエロティックな小説になってしまう。やはり書きたいから、そっちの方向に行ってしまうのだが、歳をとって性欲がなくなったら爽やかな青春小説を書こう。と思っているが、はたして書けるか。やはり、死ぬまで、書いて、読んで、働いて、運動して、少し遊んで、という人生になるのではないだろうか。しかし、やはり締め切り的なものは欲しい。金はさほど欲しくない。私の拙作を、貴重な人生の時間をさいて読んで下さる事を考えると申し訳ない気がする。しかし私の書く小説は肩が凝らないでサラサラッと読めるだろうとも思う。
私の拙作は何でも、どこにでも自由に掲載して下さってかまいません。むしろ、していただけると嬉しいです。ただ著作権だけは、私が生きている間は私のものとさせて下さい。死んだら全部、著作権フリーとします。著作権の事はよく知らないのですが、要するに、それによって利益を得るという行為であり、ネット上の掲載なら、それに該当しません。
黒沢明監督によって、芥川龍之介の「羅生門」がつくられた。だか、タイトルが「羅生門」だけであって、作品の内容は、「藪の中」である。
なぜ羅生門というタイトルにしたかは、おそらく芥川の処女傑作だからであろう。しかしなぜ、内容が、「藪の中」にしたかというと。おそらく。「羅生門」を映画にしたら、あまりにも汚いものになるからだろう。しかし芥川は汚い光景を美しい名文で書いてしまっているため、文章を読んでも汚いとは感じられない。はたしていい事なのか、悪い事なのか。汚い風景は汚さを読者に感じさせるのが、いい文章とも言えるのではないか。
また、作品も、羅生門より、藪の中の方が、ずっと優れている。藪の中は、要するに、各個人の認識の違いによって事実はわからない、ということだが、実に面白くまた現実的な問題でもある。また、「羅生門」の論理的矛盾(私が少し無理があると思っているだけで、矛盾と思わない人もいるだろう)も、藪の中では無い。また黒沢明監督の人を一列に並べるやり方も、藪の中の方がやりやすかったのだろう。
なぜ羅生門というタイトルにしたかは、おそらく芥川の処女傑作だからであろう。しかしなぜ、内容が、「藪の中」にしたかというと。おそらく。「羅生門」を映画にしたら、あまりにも汚いものになるからだろう。しかし芥川は汚い光景を美しい名文で書いてしまっているため、文章を読んでも汚いとは感じられない。はたしていい事なのか、悪い事なのか。汚い風景は汚さを読者に感じさせるのが、いい文章とも言えるのではないか。
また、作品も、羅生門より、藪の中の方が、ずっと優れている。藪の中は、要するに、各個人の認識の違いによって事実はわからない、ということだが、実に面白くまた現実的な問題でもある。また、「羅生門」の論理的矛盾(私が少し無理があると思っているだけで、矛盾と思わない人もいるだろう)も、藪の中では無い。また黒沢明監督の人を一列に並べるやり方も、藪の中の方がやりやすかったのだろう。
医原病、とは医療行為によって起こる病気である。要するに医者がつくった病気である。
今では、あまりないが、過敏性腸症候群の患者で、何とか治りたいと思ってドクターショッピングして、開腹手術したケースが少なからずあるのである。開腹手術すると腸管が癒着して、ますます腸の運動が悪くなり、過敏性腸が悪化する。手術の傷跡も残る。
開腹手術したのは、当然、消化器科の外科医である。だからその外科医は、患者が過敏性腸症候群であると見抜けなかったのである。診断できていても、患者のたっての望みだから手術する、なんて事はあり得ないのである。
私も大学の時は、相当、精神科めぐりをしたが、とんでもない医者は、いくらでもいる。ある精神科医は、私が、「内向的な性格で・・・」と言ったら、「ちょっとまって。内向的ってなあに?」と聞き返した。健康な人間には、内向的という事がチンプンカンプンな人がいる。
ある心療内科と標榜しているクリニックでは、私が、「自律神経失調症です」と言ったら、「自律神経失調症って本当にあるの?」と聞き返してきた。思わずふきだしてしまった。教科書に書いてあるじゃないか。胃潰瘍は、消化器自律神経失調症ではないか。喘息は呼吸器自律神経失調症ではないか。それ以外の何だというのだ。さらに言えば、病気は体全身が有機的に関連しあっているから、自律神経が関与していない病気は無い、といってもいい。
こういう医者が結構、いるのである。ヤブ医者は確実に存在する。ヤブ医者だと思ったら、すぐに見切りをつけなくてはならない。
今では、あまりないが、過敏性腸症候群の患者で、何とか治りたいと思ってドクターショッピングして、開腹手術したケースが少なからずあるのである。開腹手術すると腸管が癒着して、ますます腸の運動が悪くなり、過敏性腸が悪化する。手術の傷跡も残る。
開腹手術したのは、当然、消化器科の外科医である。だからその外科医は、患者が過敏性腸症候群であると見抜けなかったのである。診断できていても、患者のたっての望みだから手術する、なんて事はあり得ないのである。
私も大学の時は、相当、精神科めぐりをしたが、とんでもない医者は、いくらでもいる。ある精神科医は、私が、「内向的な性格で・・・」と言ったら、「ちょっとまって。内向的ってなあに?」と聞き返した。健康な人間には、内向的という事がチンプンカンプンな人がいる。
ある心療内科と標榜しているクリニックでは、私が、「自律神経失調症です」と言ったら、「自律神経失調症って本当にあるの?」と聞き返してきた。思わずふきだしてしまった。教科書に書いてあるじゃないか。胃潰瘍は、消化器自律神経失調症ではないか。喘息は呼吸器自律神経失調症ではないか。それ以外の何だというのだ。さらに言えば、病気は体全身が有機的に関連しあっているから、自律神経が関与していない病気は無い、といってもいい。
こういう医者が結構、いるのである。ヤブ医者は確実に存在する。ヤブ医者だと思ったら、すぐに見切りをつけなくてはならない。
「転校生」という昔の映画がある。昭和57年の映画である。監督は大林宣彦である。一人の男(尾美としのり)と一人の女(小林総美)の心が入れ替わる、というストーリーで観た人も多いのではないだろうか。良い作品だと言われているようだが、私は矛盾を感じた。それは、ちゃんと性格が入れ替わっていない点である。心が入れ替わる前、男の尾美としのり、は、おとなしい性格であり、女の小林総美、は、活発な性格を演じている。それが心が入れ替わった後でも、男はおとなしく、女は活発である。女の心を持った男、と男の心を持った女の表現はうまい。が、性格は入れ替わっていない。尾美としのり、は、「このやろー」だの、「てめー」だのと言ったりしない、胡坐をかいて食事をしない、学校でやたら活発でもない。
私は別にあげつらおうという気持ちで観たわけではないが、やはり矛盾を感じる。男は、はじめにもっと、あばれ、女は、つつましく性格を演技していれば、矛盾はなく作れたはずである。
私は別にあげつらおうという気持ちで観たわけではないが、やはり矛盾を感じる。男は、はじめにもっと、あばれ、女は、つつましく性格を演技していれば、矛盾はなく作れたはずである。