小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

試合の練習のデメリット

2009-01-30 00:47:40 | Weblog
試合の練習のデメリット

スポーツにも色々あるが、テニスほど早い段階での試合の練習がデメリットとなるものも少ないのではないか、と思う。一言でいうと、技術が下手でも試合に勝てる人をつくってしまうという事である。他のスポーツでは、まず、こういうまぐれ勝ちは起こらない。では、なぜテニスが。というと、テニス、特にダブルスでは。まず、自分の技術で得点する場合より、自分のミスで負けてしまう、という事が非常に多い。それは、プロでも言えて、選手の試合を見ていると、そういう事が非常に多い。例をあげると。一番目のサービスできわどいショットを狙い、フォルトしてしまい、二番目のサービスでは、ダブルフォルトを、おそれるから、球を弱くするため、レシーブエースをとられてしまう。または、ダブルフォルトしてしまう。ラリーになった時、きわどいのを狙おうとするすから、ネットしてしまったり、オーバーしてしまったりする。などと自分のミスによって相手に得点させてしまうケースが非常に多い。ましてや趣味のテニスではなおさらである。試合に勝つ事が目的になってしまうと、技術の上達の弊害が出かねない。サービスで、基本のフォームを身につけようとするより、小手先のスピンをかける事に意識がいき、スピンサーブは出来て、サービスエースはとれる事も、出来てしまう。フォームが正しくなくてもボールを返せれば、相手のミスによって、自分が得点できてしまう、ことも出来てくる。上級者ほどきわどいショットを狙おうとする。また、当たり所が悪い事によって、結果としてドロップショットになったり相手の打ち返しにくい所にボールが行ってしまう、という事も起こる。目的が試合で勝つ事だけになってしまうと、そういう技術ばかり考えてしまう人もつくってしまう。これが、空手家の南郷継正氏の言うところのウソ勝ちである。空手や柔道など武道は相手と密着して戦うのでウソ勝ちは起こりにくい。しかしその武道でもウソ勝ちはあるのであるから、コートを隔てて相手と接触しないテニスではなおさらである。ここをコーチはどう指導するか、という問題がある。テニスの基本はあくまでグランドストロークのラリーがつづき、正しいストロークのフォームを身につけるということにある。しかし、そればかりでは、面白くない、と思う生徒もいるから、試合も織り交ぜた練習メニューをつくってしまう。まあ、試合は、それなに面白いだろうから、そうしても悪くはないが、あまり試合偏重の練習メニューをつくるのは、よろしいことではない。
また生徒も試合が面白く、基本の練習より試合が好きになってしまう人も出来てしまう。しかし試合に勝てても、基本のフォームが身についていないと、レベルの高い相手には勝てないし、基本の技術も身についていないからテニスが面白くなくなってしまい、テニスをやめてしまう、という事も起こりかねない。コーチはそういう事も考えて練習メニューをつくらなくてはならない。
私としては、試合で勝った、負けたなんてどうでもよく、グランドストロークのラリーが気持ちいいし、それがテニスの目的だし、また試合の弊害という事は、感覚的にはじめからわかっていた。
またテニススクールの経営、という面も考えられないではない。生徒に面白さを感じさせれば生徒をつなぎとめておく事ができる。しかし、私の見る所、そういう計算は無い。単に無考えにレパートリーに富んだ練習メニューにしているだけに過ぎない。
では生徒は上達しないか、というと一言ではいえない。まず、楽しみや健康のためにテニスをやっている人は、技術が悪くてもつづける。楽しく汗をかけるからである。また、テニスが上手くなりたいと思っている人も、上達する。(つづく)

林芙美子論

2009-01-29 00:15:11 | Weblog
林芙美子論

最近、林芙美子をよく読んだ。「論」などと言うとちょっと大げさである。
一言でいうと、男好きで、転んでもタダでは起きない逞しい詩人とでも言おうか。
さすが元、詩人だけあって、小説の中でも、詩的な風景描写の文が多く文章が美しい。この詩的な文章は谷崎潤一郎とも佐藤春夫とも違う。谷崎は、もちろん名文家であるが、いささか粘り気がありすぎて、もちろん嫌いではなく、凄いなと思うが、詩的な美しさに人工美と感じる事もある。第一、谷崎は詩を書いていない。それに対し、佐藤春夫は本当の詩人であるが、詩的な美しさに過度に引っ張られてしまう。その点、林芙美子の文章は、さっぱりした美しさ、とでも言おうか、肩が凝らないのである。作品では私としては、「水仙」という母親と子供が喧嘩している短編が好きである。最も林芙美子としては、本当に子供を嫌って書いているが、また嫌な子のように表現しようとして、読者に嫌って欲しいと思って書いているが、私にはどうしても不良の子供がかわいく感じてしまうのである。著者が表現したいと思っている事が、読者には逆に感じとられてしまうということは、結構あるのだ。

西尾幹二

2009-01-28 00:27:02 | Weblog
西尾幹二氏を知ったのは、かなり前からである。「朝まで生テレビ」で知った。「うっ。右翼だ」と氏の発言の一言で瞬時に感じた。ああまで徹底した右の人というのもめずらしい。日本で一番の右の人ではなかろうか。まあイデオロギーはともかく、私は一人で世間と戦っている人が好きだから氏の勇気は尊敬する。また、徹底的に中国や北朝鮮、韓国などの人の知らない欠点を調べている、という点で価値のある発言もあると思う。今の日本では中国に無条件降伏しなければ非国民という雰囲気もあるように思われる。そういう点、氏のようなアンチテーゼを出す人は貴重な存在だと思う。単純に嫌って潰すべきではない。氏の右の思想は、先天的な感性という感じがする。氏は先天的に右の感性を持って生まれたという感じがする。そもそも右や左の思想は、学問的に論理的に考え抜いた末、右の思想になった、という人は、いないのではないのだろうか。

スポーツにおけるコーチのアドバイス

2009-01-27 00:41:37 | Weblog
スポーツにおけるコーチのアドバイス

スポーツにおいてコーチは生徒に色々なアドバイスをする。テニスなら、膝をまげろ、だのボールをよく見ろ、だの外見のフォームのアドバイスが多い。それはそれで間違ってはいない。だが生徒はコーチに言われたように外見だけ直そうとするのは、良くなく、かえって悪いことでさえある場合が多い。膝をまげろ、と言われて何も考えずに膝を曲げればすぐに上手くなるというものではない。かえって外見に意識をとられ、本質を見失う可能性すらある。認識の受け渡しがいかに困難であることか。コーチは生徒の外見は認識できている。しかし大切な事は生徒が認識を実感としてつかみとる、という事なのだ。これは容易ではない。生徒はコーチに言われたアドバイスを咀嚼して、自分が、どういう事を意識してフォームを変えたら、結果としてコーチに言われた外見のフォームの変化が現れるか、という事を自分で考えなくてはならない。スポーツにおいて大切な事は、あくまで運動の本質的な要素の意識なのである。
さらに大切な事は。
コーチは、生徒に欠点があると、どうしても生徒にアドバイスしてしまいたくなる。
しかし、そもそも人がスポーツをする目的は違う。ある人は血糖値やコレステロール値を下げるための運動のためであり、ある人はスポーツが上手くなりたいためである。自分のクセというものは容易には直らないものである。運動のために汗をかきたい、と思っている人に毎回、同じ注意をすると、嫌気がさしてしまうものである。コーチは、その人の性格や運動の目的まで本当は考えるべきなのだが。そこまで出来るコーチは、まずいない。生徒は自分が運動する目的はわかっている。しかし、それを理解できるほどのコーチはいない。
生徒は、自分が運動する目的はわかっているから、時にはコーチのアドバイスは無視した方がいい場合もあるのである。コーチのアドバイスとは完全なものではないのである。
自己流と個性の違い。
運動においてこうでなければならない、という万人に共通する形はないのである。
誰でも体格、筋力、持久力、性格、好み、は違う。また運動の目的や生活の中で運動をする意味、運動にさける時間、は人によって異なる。
大切な事は、人と異なる自分の特性をよく考えた上で、自分に合った形を、コーチのアドバイスも考慮しながら最終的には自分で考えてつくりあげる事なのである。
たかが趣味のスポーツと侮ってはならない。
スポーツの中で考え、最終的に到達した自己実現は自分の人生の自己実現の達成にも応用が利くはずである。

高野孟と西尾幹二

2009-01-26 00:37:50 | Weblog
評論家の高野孟氏が西尾幹二氏に怒って、バカヤローというYou-Tubeの動画がある。見た人も多いのではなかろうか。高野孟氏は二度は、バカヤローとは言っていない。というか、言えないのである。あの動画の意味がわかる人がいるだろうか。多くの人は極右の西尾幹二氏が悪いと思うのではないだろうか。まあ、私が解説しておこう。高野孟氏が怒ったのは、西尾幹二氏が、高野孟氏の中国での大切な思い出に対し、「なんか作り話みたいだなー」と言ったからである。それに対し、高野孟氏は、「なにが作り話だ。バカヤロー」と怒った。しかし西尾幹二氏は、毅然とした態度で、もう一度、「私には作り話に聞こえる」と堂々と言った。そのため高野孟氏は、二度は、バカヤローとは言えなかった。イデオロギーはともかく、この討論では西尾幹二氏の勝ちである。高野孟氏は自分の真実の経験を軽い気持ちで誹謗されたと思ったから、怒ったのである。西尾幹二氏が軽い気持ちでバカにした、ととらえてしまったのだ。しかし、西尾幹二氏は軽い気持ちではなかったのである。彼は堂々と、「私には作り話に聞こえる」ともう一度言った。つまり、発言が相手を誹謗する発言から自分の信念の思いの主張に変わったのである。というより西尾幹二氏は何も変えていない。高野孟氏が西尾幹二氏の発言をはじめに軽い気持ちの誹謗発言だと思ってしまったのである。そして、あの動画を観る限り、西尾幹二氏は、本当に作り話と感じているよう見られる。本音と建て前が違う小細工は感じられない。だから、高野孟氏は、バカヤローを二回は言えなかったのである。

神風特攻隊

2009-01-25 01:35:40 | Weblog
神風特攻隊
国家、軍部が計画し、強制した神風特攻は、国家の横暴、強制、という点に於いては悪いこと極まりないが、それを信じ、夢も希望もありながら国を守ろうと身を捨てて敵艦に肉弾突入した特攻隊員は勇気のある崇高な人達である。私が日本を誇れる理由の一つも特攻隊員の存在があるからである。しかし特攻精神を持った人間は日本人だけではない。勇気とか、愛とか憎しみとか、そういう人間の根源的な感情には民族差は無い。外国のアメリカンフットボールの選手なんかは、特攻精神を持った人間であるし、チキンゲームやロシアンルーレットは外国のものである。だから私は精神の優位性という点で日本を誇っているのではない。まあ、歴史の事実に対して、と言おうか、日本の宿命に対して、と言ってもいい。
ただ特攻に於いて嫌な事が一つある。それは、特攻隊員の格好よさ、である。特攻といえば、多くの人は敵艦への航空特攻が頭に浮かぶだろう。あの姿は実に格好いい。航空服に日の丸の鉢巻をし、別れの水杯をし、ゼロ戦に乗って出撃する。全てが格好いい。男らしい。しかし私はその外見の格好良さに目を向けてはならないと思うのである。特攻を知ってる人なら知ってるが、特攻は、いわゆる航空特攻だけではない。人間魚雷、回天、人間ロケット桜花、無謀な敵陣殴りこみ、その他、追いつめられた日本はありとあらゆる事をやった。中には格好の悪い特攻だってある。そういう人達も精神の勇ましさでは、凛々しい航空特攻と全く同じなのである。区別してはならない。私が日本を誇れるのは、あくまで特攻隊員の精神の勇ましさに於いてのみであり、また、そうでなくてはならないと思うのである。
しかし、やはり心情としては、航空特攻の外見の格好良さにも惹かれてしまうのも事実である。あの航空服も日の丸の鉢巻もゼロ戦も実に美しい。ここで私は三島由紀夫の思想より梶原一騎の思想の方が上だと思うのである。三島は、「美しい」という事に死ぬまでこだわった。文学においても、文章が美しい、ということが絶対の条件だった。そして、また「葉隠れ」の思想にも、「美しさ」というものがある。しかし「葉隠れ」で説いている「美しさ」は、外見の美しさではない。あくまで精神の美しさ、である。梶原一騎も、「葉隠れ」の思想だったが、梶原は精神の美しさを表現し、外見の美しさは、むしろ嫌っている。梶原漫画では主人公は徹底的に格好わるく生きる。そういう点、梶原の葉隠れ観の方が、三島由紀夫の葉隠れ観より、上だと思うのである。三島の最期の作品である「豊穣の海」では、私は第二巻の「奔馬」が生理的に嫌いである。あれは、世間では、四部作の中で、一番いい作品として評価されているようだが、私は嫌いである。どうして思想的な死に、美しい夜明けの日輪と断崖と輝く海が必要なのよ。と言いたくなる。まあ、それが、軽い気持ちだったらいいが、三島にとっては外見の美しさも氏の思想の中で根をはってしまっているのである。思想の美と外見の美との両立という思想は私にはグロテスクにさえ思える。 そういう点、三島の短編の「憂国」は、そういうグロテスクさがなく、思想の美と外見の美とが無理につくらずに出来ているので、「奔馬」よりずっと気持ちよく読める。
ちなみに私は文芸評論家の奥野武男氏より、はるかに正確に三島由紀夫を理解していると自負しているから、時間があったら、「三島由紀夫論」も書きたいと思っている。奥野武男氏は「鏡子の家」を評価しているが、いささか的が外れた評価だと思う。三島文学を理解するにはエロティックな、性倒錯な性格の人でなければ出来ないのではないかと思うのである。

みのもんた

2009-01-24 21:42:47 | Weblog
みのもんた
みのもんたの長寿番組「おもいっきりテレビ」(か?)について。
私はああいう番組は生理的に気持ちが悪くなるので、全く見た事がない。しかし、学生時代、昼飯を近くの飯屋に食べに行った時に何回か見た事がある。そういうわけで数回しか見た事がないので、正鵠を得た批判になるかどうかは、わからない。電話相談者に対し、「あんたが悪いね」と自己責任にして、得々と自分の考えを言い聞かせる単純さ、を風刺した物真似も非常に多い。私はおそらく、こうだと思う。
初めのうちは、確かに、みのもんたの単純さ、だけだっただろう。実際、彼は単細胞人間だし、私はああいう軽率な単細胞人間が好きではない。だから見たくないのである。
しかし、長く続けているうちに、だんだん変化が起こったのだろう。ともかく世の元気な多くの人は、ああいう番組を観たがる。民放のテレビ局としては視聴率が全てだから、バカにする物真似が出てきても、そんな事おかまいなく、むしろ嬉しいくらいだろう。しばらくして、「わたしゃ聞きたくないよ」とはじめに相談者に言うようになった。これは、興味本位で人の悩み事を面白半分に聞いて雑な自分本位の視点の忠告をしている事を人にひやかされて、それに対する恥からである。「わたしゃ聞きたくないよ」という彼の発言は、相談者に対して言っているのではなく、彼をからかう人間に対して「わたしゃ、こんな悩み相談なんか本当はしたくはないんだよ」と言っているのである。しかし、それも本心かどうかはわからない。もしそれが本心だったら、はじめからそう言ってるはずである。軽率な人間は他人の真剣な悩み事を面白半分、興味本位で聞きたがるものである。以上、コロンブスの卵。

松田優作

2009-01-22 01:34:29 | Weblog
松田優作

私は松田優作の大ファンである。しかし、私が松田優作で好きなのは、「俺たちの勲章」だけである。あれは全作品が素晴らしい。カッコイイ。革ジャンにサングラスが決まっている。もちろん外見だけではなく、性格の男らしさ、タフさ、やユーモアの方が魅力的である。その後の「探偵物語」は全然、魅力を感じなかった。膀胱癌になりながらも、何としてでも「ブラックレイン」を完成させたい、と彼は強い情熱を持っていたが、私は、「ブラックレイン」には全く魅力を感じない。というか、観てて途中で厭きた。しかし俳優というものは、過去の作品を眺めているより、絶えず今やっている映画つくりにこそ、全てをかけているのである。そういう点は作家と全く同じである。

白い巨頭

2009-01-21 00:37:46 | Weblog
白い巨頭

山崎豊子氏の「白い巨頭」は、小説で読む限り、何だか、自民党の派閥争い、選挙の票集めのような感じがした。医療小説という感じがしない。教授選は、ああまでえげつなくはないだろう。ちょっと話を面白くするためのフィクションという感じもした。しかしポリクリの時、「白い巨頭」は、本当にある、と、二人位の先生が言ってた。教授にも色々あって、本当にいい先生もいれば、威張った先生もいる。そもそも教授になるには臨床もだが、研究者タイプの人間がなるのであって、教授になるには研究論文をたくさん書けなければ駄目なのである。

山本周五郎

2009-01-20 00:49:08 | Weblog
樅ノ木は残った。

山本周五郎の名作、「樅の木は残った」を例にとって、文学を考えてみたい。
「樅の木は残った」は氏の代表作であり、名作である、ということはもう誰も疑わない。文学の殿堂に入っている。あの作品のすごい所は、伊達騒動で悪役と見られていた原田甲斐を、とほうもない自己犠牲の善人で藩を守った人間、というように歴史を覆した所にあるだろう。そして、あの作品は人間の心の美しさを描いた所に文学的価値がある、と見なされている。歴史を覆した所に作者の凄さがある、と考えられている。では私は名作となった「樅の木は残った」が本当に名作か、と覆してみたい。私があの作品を読んで、まず感じた事は、「ちょっと人間をきれいに脚色しすぎている」・・・である。原田甲斐が本当にあんな自己犠牲の素晴らしい感動的な人間だっただろうか、というのが、率直な感想である。そして、文学というものは、大体において、見えすいた、そらぞらしい作り物の人間美の話は、かえって嫌気がさすものである。私だって、エロティックな小説だけではなく、人間美を描く作品くらい書こうと思えば書ける。しかし、私は文学の価値とは、作者の偽らぬ心の真実を書く事に価値があると思っている。見えすいたつくりものの感動話はかえって、読者にそらぞらしさを感じさせてしまう。しかし、文学には本当に優れた作品もあって、人間美を描きながら、真に読者を感動させるものも無数にある。いい例が、オスカー・ワイルドの「幸福な王子」だと思う。あれは、作者に読者を感動させてやろうという意図が感じられず、虚心坦懐に書かれてあると感じるからである。また、作者のオスカー・ワイルドも、実際、うけようと意識して書いたものではないだろう。作者の感性が自然に作品になっているから、感動するのである。
こう書けば読者にうけるだろう、という作者の意図が見えてしまうと、しらけてしまうのである。
さて、そういう点で、「樅の木は残った」を考えてみると、やはり山本周五郎という人間につきあたる。彼は、どの作品においても、人間の心の美しさを書きたいことが、彼の文学のテーマだった。打算はない。読者を意識して、ねらって書いたものではない。氏は、直木賞を辞退するほど、また文学においても信念をもった作家だった。だから「樅の木は残った」は、やはり氏の真心によって書かれた作品なのだ。氏は、膨大な多作家であり、文学的体力があるとはいえ、「樅の木は残った」は大長編であり、資料を集めるのも大変だったろうし、単につくりものの感動話や、歴史の覆し、という次元が、動機だったら、とても、書く決断はもてなかっただろう。なので、やはり「樅の木は残った」は名作としか言いようが無い。作品は作者の訴えたい純粋な真心だけであり、いかなる打算も驚かし、もないのである。
結局、「樅の木は残った」が名作である、という説をくつがえす事は出来なかった。

山本周五郎の作品は、ストーリーも文体もしっかりしているのに、ちょっと読みにくい。設定がわからず、いきなりアクションから小説に入るのはいいが、人物の説明や設定の説明が無い。アクションから小説に入っても、大抵の作家は、少ししてから、設定や人物の説明を書く。しかし氏は、それが無いのである。これは、どうしてか疑問である。あれほどの小説を書けるのに、読者に対する親切心というものが無いのだろうか。しかし、小説は読みやすい。読みやすい、というのは、文体を持っているという事と読者に対する親切心があるからだ。これは疑問である。こういう点で対照的なのは芥川龍之介などだろう。芥川の小説はオーソドックスなのである。

カポエラのアクロバット

2009-01-19 01:47:56 | Weblog
カポエラのアクロバット

カポエラのアクロバットは凄い。信じられないような技を使える。
これはカポエラが、足を脱力しているからだろう。脱力すると足が重たくなるなのである。
物理的に、足の重量が変わるという事は無い。
では、どういう事かというと、足に力が入っていると、足は胴体につながっているから、足の動作が筋肉によってつながれているから胴体の運動の一部になってしまうのである。しかし脱力すると、胴体から足が離れ、足が重さを持った物体になるのである。そうして重くなった足を振り回すことによって回転力をつけているように見受けられる。

ストリート・トレーニング

2009-01-18 04:34:33 | Weblog
ストリート・トレーニング

私はよくストリート・ファイトならぬストリート・トレーニングをする。駅や人通りのある所でもよくやる。こういうのは目立つ。また、空手家では、人前で技をひけらかすのはよくない、と思ってる人もいるだろう。私も、そういう思いもある。しかし、私は、忙しい。わざわざ道場に通う時間も勿体ない。人生は時間との勝負である。そんな時間があったら、小説を書くか、本を読む。夜中、一人でやることもあるのだが、人がいる所でもやる。その方が効果があるからだ。なぜかというと、人が見ていると、気合が嫌が上でも入るからである。ボクシングでも観客の少ないエキジビションでは気合は入りにくく、タイトルマッチでは嫌が上でも最高潮に気合が入る。松涛二十訓でも、「道場だけの空手と思うな」というのがある。だが、ほとんどは誰も話しかけてこない。話しかけられた事もあるが必ず、「何段ですか?」と聞かれる。大学の時には、友達の評価では私は、「空手五段」だそうだ。ある時、駅でトレーニングしてたら見ていた女の人がやってきて、「すごいですねー」と言ってきた。私は驚いてやめた。彼女は何を思っていたのだろうか。

武道と武士道

2009-01-17 21:03:06 | Weblog
武道と武士道

さて武道と武士道の違い。
同じ「武」がつくからと言って、この二つのものは同じではない。むしろ逆である面もある。武道とは、一言でいって護身術であり、自分を守るものである。
一方、武士道とは主君のために死ぬことである。
しかし武士は主君を守るためには力や技が無くてはならない。
そのために武道を訓練するのである。
また武道は兵法でもあり、戦い方の研究でもある。武道とは、護身術だけではなく、肉体を鍛え、技を磨き、戦い方を研究するからである。

かわいい患者

2009-01-16 01:29:35 | Weblog
研修病院の時、ある女性の主治医になった。その子はかわいかった。父親がいるが、父親と仲が悪く、父親は彼女を、「アバズレ」と呼んでいた。それで、家を飛び出して、男の友達と暮らしていた。しかし、ある時、何が原因だったか忘れたが、わーと叫んで包丁振り廻したため、彼氏が110番通報して、病院に連れられてきたのである。包丁振り回す、というと何だか、穏やかでないように聞こえるが、また私もその場面を見ていないので、実際、どんなだったかはわからないが、その子は大人しく、力も無く、わーと包丁振り回して、クルクル目が回って倒れてしまった、という様子がイメージされる。彼氏も一緒に病院に来た。彼は、「警察に電話したら、誉められるし・・・」などと言っていた。私は違和感を感じた。警察には、やむなく電話するというのが普通の感覚で、自分が誉められたいため警察に電話する、というのもおかしいと思った。まあ、心の中で思っているだけならいいが、はっきり口に出して言う感覚はあきれる。さらに、本当に愛する彼女なら、男なら、すぐに警察に電話しないで、離れて説得するなり、力の無い子なのだから、安全に取り押さえるくらいした方がカッコいいと思うのだが。そもそも警察に電話したら、彼女の名誉に傷がつくから、警察ざたは最終手段とすべきではなかろうか。
はっきり言って、精神科の患者と付き合う人にも変な人がわりと多いのだ。
彼女はすごくかわいい子だった。
それで結局、入院する事になった。
私はその子を、見た時から、「うっ。かわいい。その子の主治医になりたい」と思った。だが、私は自分から申し出るのは出来ない性格である。だが、医長の判断で主治医は私と決まった。
その子は、人がいい、というか、おとなしい、のである。
普通、どんな動物でも敵に襲われた時、自分を守る牙をもっているが、その子には、牙がないのである。それで、以前、役所に勤めていた時、上司にさそわれて、どっかに連れて行かれ、マラをさわらされたり、車を友達に貸してハンドル変な風にされて返された、とかいう事もあった。少しの期間、入院してから、退院した。時々、気の向いた時に病院にきた。その子は、診断としては人格障害である。ビルの屋上に登ったり、
「私ってお荷物なのかなー」
などと言っていた。
ある夏の日、その子が病院に来た。
夏なのでTシャツにジーパンである。22才だが、胸のふくらみがつい気になって視線が行ってしまった。その子もそれに気づいて恥ずかしそうにしていた。
あまり私は、そういう事は言わない主義だが、その子があまりにも弱く、人につけこまれても泣き寝入りしてしまう性格なので、色々話した後、憎しみやら、憐憫の情やらがつのってきて私は自分の感情を抑えることが出来なかった。
「あなた絶対、死なせませんから」
私は身を乗り出して、眉を寄せてその子を睨みつけて言っていた。

向精神薬

2009-01-15 01:42:33 | Weblog
向精神薬

研修病院のはじめの頃、私は向精神薬を数回、飲んで見た事がある。患者に出していた薬である。大学の時、「メジャーは、よう飲めないが、マイナーは何種類か飲んでみた」と言った医者の言葉がカンにさわっていた。人に飲ませてる薬を手前は飲まない、というのは、嫌だったからだ。また、メジャーを飲んだら、どんな感じになるのか、体験してみたかった。メジャーを飲んだからといって別に後遺症はのこらない。なのに、試しに飲んでみる精神科医はまずいないのである。それで、ちょうど患者が拒薬して飲まなかった薬を帰りがけに飲んだ。その時、私は自転車で病院に通っていたが、薬が効き出して、激しい脱力状態になってきた。ハンドルをしっかり握る事ができないのである。全身の力が抜けて、とうとう倒れてしまった。メジャーがこんな強い薬だと、その時わかった。のちにもう一度、飲んでみた。仕事の日では、危ないので、翌日が休日の夜に飲んでみた。翌日になって、昼近く目が覚めたが、起き上がれないのである。ウンと踏ん張ってもビクとも体が動かないのである。ボクシングでK.O.された人以上であろう。
こんなものを飲まされたんじゃ、たまったもんじゃない、と思った。
人に飲ませられないものを飲ませているのは、エゴだとか矛盾だとか、思われそうだが、そうではないのである。妄想の激しい患者は脳の中でドーパミンという物質が多量に分泌されているのである。普通の人は、普通の量のドーパミンである。向精神薬は、ドーパミンの分泌を抑える薬である。そのため、患者に薬を出すのは、過剰なドーパミンを抑えるためであり、また、患者も力が抑えられるが、起き上がれないほどにはならないのである。普通の人に、向精神薬を飲ませると、過剰にドーパミンが抑えられてしまうため、起き上がれないほどになってしまうのである。
また、そういう点で精神科の患者は、治療診断も出来るのである。診断が難しい患者がいたとする。その患者に精神薬を飲ませて、起き上がれたら、統合失調症であり、起き上がれなかったら統合失調症ではない、と薬によって診断することも出来るのである。