小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

大晦日

2016-12-31 00:48:38 | Weblog
今年、書いた小説は。

焼きリンゴ(医師国家試験小説)・・平成28年1月21日(木) 80枚

おでん・・平成28年1月28日(水) 40枚

中古車物語・・平成28年2月22日(月) 165枚

嘆きの天使・・平成28年3月1日(火) 36枚

金色夜叉・・平成28年3月5日(土) 70枚

無名作家の一生・・平成28年8月5日(金) 345枚

小人の靴屋・・平成28年8月16日(火) 36枚

七夕の日の恋・・平成28年8月18日(木) 90枚

注文の多い料理店・・平成28年8月25日(木) 10枚

コンビニ人間・古倉恵子・・平成28年10月9日(日) 208枚

80+40+165+36+70+345+36+90+10+208=1044枚

である。

3月4月5月6月7月、と、体調が悪く、書きたくても書けなかった。

10月からも、体調が、悪くなり、(胃腸が動かなくなり) いくらでも、書ける小説はあるのだが、書けなくなった。

小説で、書きたいこと、書けることは、無限にあるのだが、体調が悪く、書けないのは、地獄の苦しみ、である。

しかし、まあ、しゃあないわ。

真樹日佐夫による梶原一騎論

2016-12-30 06:59:51 | Weblog
真樹日佐夫による梶原一騎論。

真樹日佐夫は梶原一騎の弟である。

二人とも、作家であり、空手家である。

最近、You-Tube で、真樹日佐夫が、梶原一騎の精神を語ったのが、出てきた。

真樹日佐夫によると。

「物書きなんて、みんな、無い物ねだり。であり、梶原一騎は、大人にならなかった。梶原一騎の漫画の主人公は、3割は、梶原一騎、自身だが、7割は、彼ではない」

と言っている。

これは、その通りだと思う。

たとえば。

僕は、恋愛小説を、(作品の巧拙は別にして)、書ける。

書きたい、という欲求が、強い。

それは、僕が、女とつきあえない、からである。

でも、つきあいたいからである。

ハンサムで、何人もの、女と、つきあっている、ような男には、恋愛小説など、絶対、書けないと思う。

恋愛に対して不感症になってしまっているからだ。

女と、つきあいたいが、つきあえない男は、恋愛に対する、欲求のボルテージが、すさまじいから、恋愛小説が、書けるのだ。



梶原一騎は、「根性」、があって、スポーツが好きで、柔道や空手が、出来た。

しかし、梶原一騎は、太っていて、また、酒好き、女好き、で、生活は、乱れていた。

なので、空手にしても、柔道にしても、そう強くはなかった。

しかし、彼は、「強さ」、に、憧れつづけた。

だから、優れた、スポーツ漫画を書けたのだ。

梶原一騎の漫画の主人公は、みな、体が小さい。

「巨人の星」の「星飛雄馬」にしても、体の小ささが、致命傷だったし、「柔道一直線」の「一条直也」にしても、「柔よく剛を制す」が、テーマだった。

小さい者が、「根性」、と、「執念」、で、大きい者に勝っていく、ところに、梶原一騎の、漫画の、面白さ、迫力、がある。

その、憧れ、が、梶原一騎の、漫画の、面白さ、迫力である。



一方、真樹日佐夫は、ハンサムで、畳を手刀で、ブチ抜けるほど、空手の達人だった。

しかし、真樹日佐夫の、漫画は、(失礼だが)、理屈っぽくて、面白くない。

自分が、強い人間には、強い人間に対する、エネルギッシュな、憧れ、が、ないから、迫力のある、漫画を書こうという、欲求も、起こりにくいのだ。

かく言う僕も、空手小説を書く気にはなれない。

なぜなら、僕は、空手が出来るからだ。

だから、空手に対する、憧れ、や、夢、が無いからだ。

しかし、僕は、野球小説を書きたいと思っている。

それは、僕は、野球が出来ないからだ。



しかし、僕は、こうも考える。

自分に、たとえ無くても、その理想を求め続けた人間は、その理想を持っている。とも。言えるとも思う。

モハメド・アリの宗教は、モハメド・アリにとって正しい

2016-12-29 23:35:17 | Weblog
モハメド・アリの宗教は、モハメド・アリにとって正しい。

この、(モハメド・アリにとって)、という「条件」、は、とってしまっても、本当はいいのだが。

なので。

「モハメド・アリの宗教は、正しい。」

と言いきっても、いい。

モハメド・アリの信奉した宗教、イライジャ・モハメド、や、マルコムX、などは、過激な、黒人至上主義のイスラム教、の一派だと言われた。

確かに、良識的に考えても、その教えには、ちょっと過激な思想が多い。

それを、アメリカの、良識的な、評論家や学者たちは、間違っている、と指摘しつづけた。

彼らの言い分は、(良識的には)もっともである。

しかし。

だから、どうだといのうのだ。

モハメド・アリは、信者になる前も、人格的に良い人間だったが、信者になってからは、さらに、彼は、優れた人格者になった。

モハメド・アリは、「私は、信仰をもってから、自分を知り、自分の誇りを知り、愛を知り、勇気を知った」、と言っている。

し、それは、事実、その通りである。

アメリカの、良識的な、評論家や学者たちは、「君の教祖は、君の心を虫食んでいる」、と言ったが、現実を全く見ていない。

モハメド・アリは、信仰をもつようになってから、過激派とか、過激な人間になったというのか?

なってなんかいない。

イライジャ・モハメドの教えに、いくつかの、過激な発言がある→だから、イライジャ・モハメドの宗教は間違いである。というのが、評論家たちの、考えだ。

しかし。

結論から言えば。

宗教の、教え、だの、教義、なんてものは、どうでもいいことだ。

大切なのは。

「信仰によって、その人の人格が高まるのなら、それは、いい宗教だ」

ということだ。

逆に。

キリスト教、特に、プロテスタントは、いい宗教だと言われている。

しかし、私は、キリスト教の洗礼を受け、毎週、日曜は、かかさず教会に行っている、自称、クリスチャンでも、わがまま勝手な、自己中心的な、人間を、いくらでも見てきている。

アメリカという国家にしても、その思想の、バックボーンは、キリスト教ということになっている。

では、アメリカという国家は、キリストの教えを守っているのか?

アメリカは、良い国なのか?

全然、そうは思えない。

つまり。

宗教の、教え、とか、教義、なんて、どうでもいいのだ。

「信仰によって、その人の人格が高まるのなら、それは、いい宗教だ」

ということだ。

これを、みんな、間違えて、とらえている。

だから、「悪魔を崇拝する、悪魔教」、という宗教でも、「信仰によって、その人の人格が高まるのなら、それは、いい宗教だ」

ということになる。

一般人は、オウム真理教は、間違った宗教で、それを、ひきついでいる、アレフとか、ひかりの輪、とかの、宗教は、無くせ、と言っている。

しかし。

アレフとか、ひかりの輪の、信者は、悪い人間なのか?

僕には、全くそう見えない。

むしろ、彼ら(アレフや、ひかりの輪の信者)は、おとなしく、信仰によって、心の平安を得ているようにしか、僕には見えない。

むしろ、アレフとか、ひかりの輪、とかの、宗教とかを、無くせ、と言っている人間の方に、業の深い、心の汚い、人間が無数にいる。

ように、僕には、思えて仕方がない。し、事実、そうである。

彼らは、日本国憲法に保障されている、信仰の自由を否定し、信者が当然、持っていいはずの、居住権まで否定しようとしている。

人間の99.9%は、一生、「哲学」を理解できないまま死んでいく

2016-12-27 05:29:58 | Weblog
人間の99.9%は、「哲学」を一生理解できないまま死んでいく。

と僕は、思っている。し、実際、そうである。

僕は、個人的に、「哲学を理解できるか、どうかは」、

人間の、「自由意志の存在に疑問をもてるか?」どうかだと思っている。

人間は、自分の意志で、考え、決断し、行動している、と誰も信じて、疑わない。

皆、「自分の、意志、や、考え、や、決断」、だけは、「自分でしていること」だと思っている。

では、「それを証明してみなさい」と、言われれば、全ての人は、

「だって、そんなの、当たり前じゃない」

と、感覚的な、答えしか、できない。

論理的に、答えられる人は、いない。

人間は、(経験的、感覚的)にしか、物を考えられない。

これは、歴史的に、全てのことで、言えることで。

アイザック・ニュートンが、「万有引力」を、「証明」するまでは、

「リンゴはなぜ、落ちるのか?」

という、問い、の答えは、

「だって、そんなの、当たり前じゃない」

だった。

つまり。

人間は、(経験的、感覚的)にしか、物を考えられない。のである。

しかし。ちょっと、(否。ちょっとではない)、考えると、

自分の物だと信じて、疑わない、「自由意志」も、「本当に、オレの考えは、オレの意志で、している、ものなのだろうか?」

と、いう、見方、考え方、も、出来るようになる。

しかし、そう、考えられるようになる、ハードルは、ものすごく高い。

だから、人間は、ハードルの高すぎることは、考えようとしないのである。

なので。僕は。

人間の99.9%は、「哲学」を一生理解できないまま死んでいく。

と僕は、思っている。し、事実、そうである。

しかし。ヘーゲルや、それに続く、マルクスの、「人類の歴史は階級闘争の歴史である」などの、考えを、よくよく考えてみれば、「自由意志の存在に疑問をもてるようになる」

「人間の思考や、行動は、自分の意志で、しているのではなく、もしかすると、必然の結果、起こっているものでは、ないのだろうか?」

と、考えられるようになる。

人形の手足に、糸をつければ、あやつり人形に出来る。

しかし、人間は、「自分で考える脳」をもっている。

なので、人間は、「自分の意志」で行動していると思っている。

しかし、よくよく考えてみれば、人間の、「脳の働き」も、「ある必然の、結果にすぎない」という、見方、考え方、も、出来るようになる。

カントの「因果律」も、「人間の思考や、それによって起こる行動は、もしかすると、必然の結果、起こっているものではないだろうか?」

と、考えられる感覚を、起こしてくれる。

田原総一郎は老人性ロリコン症候群である

2016-12-24 14:12:23 | Weblog
田原総一郎は老人性ロリコン症候群である。

田原総一郎は、AKB48、が好きらしい。

田原も、老人になってしまって、一人で、さびしいのである。

別に、AKB48だけが、特に、好きなわけでは、ない。

麻原の三女とも、話している。

(あの会話の田原の、偏見の全くない見方は立派だ)

要するに、若い、かわいい子なら、誰でもいいのである。

しかし、今年は、色々と、社会問題が起こって、そうすると、田原は、また、元気が出てきた。

社会問題を論ずることが、田原総一郎にとって、一番の、「生きがい」なのである。

miwaさん。新山詩織さん。ついでに、藤原さくらさん可愛い

2016-12-24 13:53:11 | Weblog
miwaさん。新山詩織さん。可愛い。ついでに、藤原さくらさん、かわいい。

首相官邸は厚木飛行場の近くに移せ

2016-12-24 06:05:27 | Weblog
首相官邸は厚木飛行場の近くに移せ。

ついでに、防衛大臣や、日米安保を、大事という自民党のヤツラは全部、厚木飛行場の近くに住まわせろ。

僕は、藤沢に住んでいるが、テニススクールで、厚木飛行場の近くにあるテニススクールが、あって、昔は、よく行っていた。

そこは、屋外テニスコートで、上空を、自衛隊の飛行機が、ひっきりなしに飛んでいる。

その頻度。そして、その爆音のすさまじさ。

テニスコーチが、何か話しても、全く、聞き取れないのである。

こんな所に住むことになったら、たまったものではない。と、僕は思っていた。

墜落の危険、以上に、神経がイライラして、とても生活など出来ない、のである。

日本を守るために、日米同盟が大事、と、ぬかす自民党のヤツラは、全員、厚木飛行場の近くに住まわせるべきだ。

当然、首相官邸も、厚木飛行場の近くに移すよう、そういう法律を作るべきだ。

人間として当たり前だろ。

時間は存在するのか?

2016-12-24 01:10:17 | Weblog
テレビで。

「時間は存在するのか?」

というのをやっていた。

僕は、「時間は存在するのか?」、ということを、ずっと前から疑問に思っていた。

もちろん、いくら考えてもわからない。

しかし、僕は、「時間は存在しない」、と、かなり前から思うようになっていた。

ほとんどの人は時間の、存在を、当たり前のこととして、疑わない。

僕は、「時間というものは、存在せず、物が変化する、だけだ」、と思っている。

たとえば。

映画館で、映画を上映していて、それを観客が見ている。

映画の中で、時間は存在している。

ストーリーが進行している。

しかし。ある時、ある場面で、映写機が故障して、あるシーンで、止まってしまったとしよう。

その後は、いくら経っても、シーンは、その場面のままでいる。

しかし、それを見ている観客は、あたかも、映画の中で、時間が止まってしまったような、感覚になる。

しかし、実際には、(時間というものが存在するのなら)、シーンは、止まっていても、時間は進行していることになる。

それ以外でも、全く動かない物を、見ていると、はたして、時間は、存在するのか、という感覚になる。

時間が存在する、というのなら、「時間」、というものを定義して欲しいものである。

定義など出来ない。

時計の針の動きなど、時間の感覚を便宜的に、知る道具に過ぎない。

動いている人間、社会、世界、があるから、あたかも、「時間というものは、存在するものだ」、と誰も疑わないだけだ。

全く動かない空間、を見ていると、時間とは、何なのか、わからなくなる。

時間とは、映写機の中に収められたフィルムのようなものだ。

映画が止まってしまって、困惑している観客たちは、「時間が止まってしまっているみたいだ。早く動いて欲しい」、と思っている。

しかし。その観客たちを、撮影している、映写機があるのだ。

それを、見ているのを、あえて、便宜的に、「神」、としよう。

あるいは、その映画を操作している物を、便宜的に、「神」、としよう。

すると。その、人間世界の、映画を見ている、「神」、は、映写機を止めてしまうことが出来る。

つまり、全く、動かない、物を見ていると、はたして、「時間」というものは、一体、何なのか、という疑問が起こる。

経験的に、その存在を信じて、疑わない、「時間」、というものを説明できなくなる。



「時間」というものは、微分的に、考えてみると、わかりやすい。

人間は、「今、の一瞬」、つまり、「現在」、だけを生きている。

と言える。

もし、「時間の流れ」というものが、存在するのなら、「現在」の先は、「未来」であり、「現在」の後ろは「過去」となる。

ではその、一瞬の「現在」、とは、何なのだ?

一秒なのか?

(そんな長いはずはない)

0.1秒なのか?

(いや。それより、もっと短いはずだ)

0.00000000000000000001秒なのか?

(いや、それより。もっと、短いはずだ)

0.000000000000000000000000000000000000000000000000000000001秒なのか?

(いや、それより。もっと、もっと、短いはずだ)

もし、「現在」、に、ほんのわずか、でも、「存在」が、あったなら、「時間の流れ」というものは、「存在」する、ことになる。

(時間が「存在」する、と考えている(普通の、多くの)人は、「現在」という、一瞬に、限りなく、短い「存在」がある、と考えているのだ。限りなく短い、一瞬の「存在」があり、その「存在」が、続いているから、「時間」の流れ、が、「存在」する、と思っているのだ)

しかし、「現在」、は、限りなく、0 に近い、「存在」、ではないのだ。

0 そのものなのだ。

つまりは、「時間」、というものは、「存在」しないのだ。

人間は、「物の変化」を、「時間の経過」、と、感じでいるだけなのである。



「時間」というものは、金太郎アメ、と考えると、わかりやすい。

金太郎アメは、どこを切っても、金太郎の同じ顔が出てくる。

しかし、細工によって、アニメーションのように、「金太郎の顔が、変化する、金太郎アメ」(A)、という物を作ることが出来る。

この、「細工によって、金太郎の顔が、変化する、金太郎アメ(A)」=「時間」、なのだ。

この、(A)は、無限に長く作れる。

その一点を切ってみると、「その瞬間」、が出てくる。

しかし、そこに現れる、「金太郎の表情」に、「厚さ」というものは、必要としないのだ。

つまり、「瞬間」に、「厚さ」というものは、「存在」しないのである。

しかし、、「瞬間」に、「厚さ」、が無くても、「金太郎の顔が、変化する、金太郎アメ」(A)、は、無限に、長く、作ることが出来る。

このように、「時間」を、考えてみれば、わかりやすい、と思う。

人をあまったれ、というヤツほど自分があまったれ、である場合が多い

2016-12-22 08:34:33 | Weblog
人をあまったれ、というヤツほど自分があまったれ、である場合が多い。

要するに、世の中には、ワガママかってなヤツが多いのだ。

音楽とは

2016-12-22 00:14:30 | Weblog
僕が、あらゆる芸術のジャンルにおいて、一番、優れていると思うのは、「音楽」だ。

他の芸術、つまり、小説、漫画、絵画、ドラマ、映画、芝居、などでは、芸術の観賞者は、ただ、受け身で芸術を観賞するだけだ。

しかし。

「音楽」では、観賞者を、単に受け身で、芸術家(作曲家)の作った、芸術作品を観賞するだけでなく、観賞者を、芸術の体現者にさせてしまえる、という、すごい面があるからだ。

当然、音楽は、メロディーがあって、音楽である。

歌詞だけでは、音楽ではない。

一体、メロディーという、この、「意味」、というものを全く持たない、音の連続性が、どうして、人間の、喜怒哀楽の感情を刺激するのか?

少し、調べよう。




ネットで、いくつも、調べてみたが、「その理由はわからない」、だった。

作曲家なら、わかるのかも、しれない。

人間の知性は、言語によるところが大きい。

動物は、「言語」、を使わないで、ものを考える。

それと、同様、動物は、はたして、「音楽」、によって、喜怒哀楽の感情を刺激される、ということが、あるのか?

おそらく、ないだろう。

人間は、生まれた時から、音楽を感じる能力がある。

これは、人間の先天的な能力である。

人間と動物の違いは、「言葉」、をもっていることと、「音楽」、によって、感情が反応することの、二つ、といってもいいだろう。

動物には、「悲しみ」、の感情がない。

悲しむ動物はいない。

自殺する動物はいない。

また、動物は、「未来」、「将来」、を考えない。

将来の計画を立てない。

確かに、動物も、未来の行動を、本能的に、感覚で感じている。

「将来」、を考えない特性が、動物が、「悲しみ」、の感情をもたない理由だろう。

人間は、音楽を表現したい欲求を持っている。

もちろん、音楽を作れるのは、作曲家という天才だけである。

しかし、作曲家が作ってくれた、メロディーで、人間は、音楽を、口ずさんだり、演奏したり、して、楽しむことが出来る。

ここで、思いついたこと。

人間と動物との、もう一つの違い。

それは、人間は、「芸術」、を、作ったり、「芸術」、を観賞したりして、楽しむ、動物である。

しかし、動物には、「芸術」、という、ものを、作ったり、それを、楽しんだりする能力がない、という違いである。

それ以上は、今の所、わからない。

音楽にも、楽しい音楽もあれば、悲しい音楽もある。

もちろん、楽しい音楽を聴くこともあるが、つらい時、せっぱつまった時、人間は、救いを求めるために、「悲しい」、音楽を聞く。

人間は、悲しくて、つらい時、心を癒してくれる音楽を切実に求める。

それは、人間には、「悲しみ」の感情があり、つらい時、何とか、生きようとしようとする、努力が、「音楽」、という芸術を、作り出したのだろう。

動物は、音楽というものを、もっていない。

しかし、人間は、生まれつき、音楽というものを、物心ついた時から、もって生まれている。

人間は、悲しみの時、何とか、自分を救おうとして、人間の、高い知能で、編み出した産物が、音楽なのだろう。

また、楽しい音楽にしても。

人間は、動物のように、受け身で、感情が起こっているのではなく、積極的に、喜怒哀楽の感情を、作り出して、より快適に生きようと工夫する動物なのだ。

音楽というものは、一体、何なのか、ということを、いくら、考えても、今の僕には答えは出せない。

しかし、なら、逆にこう考えることも出来る。

物心ついた、動物で、音楽というもので、喜怒哀楽の感情が、影響を受ける、というのが、人間のみの、特性であり、人間の定義でも、ある、と。

逆に言うなら。

物心ついた、動物で、音楽というものによって、喜怒哀楽の感情が、影響を受けない、生物は、人間ではない、と。

「言葉を使える」、という能力があることだけが、人間の特性や定義と、考えられやすい傾向があると思うが。

それが、間違っているのだと思う。



確かに、動物でも、楽しむため、じゃれあう事はある。

しかし、「じゃれあい」、は、芸術ではなく、遊び、である。

それと。もう一つ疑問がある。

人間は、物心つくようになって、人間となる。人間の感情を獲得する。

物心つかない乳児には、音楽は、わかるのか?わからないだろう。

人間の物心と、音楽は関係があるだろう。

また。もし、生まれつき、耳が全く聞こえない人が、大人になった場合、その人は、人間としての感情は、獲得するが、大人になった、その人が、耳が聞こえるようになって、音楽というものを聞いた時、はたして、音楽に感情を動かされるのか、どうかは、疑問である。

人間の発育と、音楽にも、明らかな関係性がある。

物心ついた、子供は、アニメソングや、歌謡曲、流行歌、などは、幼くして、すでに感じとることが出来る。

しかし、小学生の子供では、クラシックの良さは、理解できない。

かく言う僕は、中学生の時はクラシックは、理解できなかったが、今は、理解できる。また、ハードロックや、演歌の良さは、いまだに理解できない。

井口資仁選手

2016-12-20 12:02:09 | Weblog
「井口選手、義援金1000万円寄付 被災の熊本県宇土市を訪問」
「千葉ロッテマリーンズの井口資仁選手が19日、今年4月に震災被害に遭った熊本県宇土市を訪問し義援金を寄付した。井口選手がクラウドファンディングサイト「CAMP FIRE」で8月から義援金を募ったところ、636万6001円が集まっていた。これに井口選手自身の義援金を合わせて総額1000万円を寄付した。」

(ちばとぴ!チャンネル 12/20(火) 8:47配信)



井口資仁選手は立派な人だ。

僕は、「論破」という、いい加減な言葉が大嫌いだ

2016-12-19 01:23:39 | Weblog
僕は、「論破」という、いい加減な言葉が大嫌いだ。

You-Tube とかを見ていると、「誰が誰を、完全論破」などという、表現が、やたらめったら、使われている。

こんな、「論破」という言葉も、流行語の一つに過ぎないし、そのうち、バカバカしくなって、使われなくなる可能性も、もしかすると、あるかもしれない、と思っている。

巧みな言葉で、相手に問答勝ちすれば、「論破」、であり、一見、論理的に見える発言は、全て、「完全論破」、である。

そもそも、政治とか、社会問題の議論とかの、文科系の問題は、いい加減であり、そんなものに首を突っ込むと、ドロ沼であり、バカバカしい。

ギリシャのソフィストの論理、で言えば、ウサギとカメの競争では、ウサギはカメを抜けないのであり、それは、その通り、真実である。

しかし、実際には、ウサギとカメを競争させれば、ウサギはカメを追い抜くのである。

この時には、まだ、微分という数学の概念が、なかったら、ソフィストは、「完全論破」、しているのである。

言葉の論理は、常に、詭弁になる可能性を持っている。というか、詭弁を内包している。のである。

その点、数学とか、物理学とか、科学では、言葉の論理ではないから、言葉による、「論破」ということは、あり得ない。

僕は「人間性」という言葉にヘドが出る

2016-12-18 01:20:39 | Weblog
僕は「人間性」にヘドが出る。

人間性とは、そんな、優れたものなのか?

人間性を解放したら、どういう社会になるか。

戦争は、罪に問われない殺人である。

だから、戦争では人を殺してもいいのである。

というより、人(敵)を殺すのが、戦争である。

この時、兵士は、(これは、やむを得ない殺人だ)、と思っていて、良心の呵責にさいなまれながら、人を殺している兵士が、全くいない、とは、言わない。

しかし。

ほとんどの兵士は、「戦争が合法的な殺人であることに、かこつけて」、人を殺すことを楽しんでいる。

それが、ほとんどの兵士だ。

僕は、こういう点で、トマス・ホッブズの考えに共感する。

忘年会での「PPAP」強要「ピコハラ」に警戒の声…パワハラではないのか?

2016-12-16 17:09:01 | Weblog
「忘年会での「PPAP」強要「ピコハラ」に警戒の声…パワハラではないのか?」

「今年、世界的に大ヒットしたシンガーソングライター・ピコ太郎さんの楽曲「ペンパイナッポーアッポーペン(PPAP)」。インターネット上では、忘年会などでPPAPのモノマネを強要されそうだと怯える人から「ピコハラだ」という声が上がっている。」

(弁護士ドットコム 12/16(金) 10:15配信)




パワハラに決まってんだろ。

山本太郎の牛歩

2016-12-16 01:18:52 | Weblog
山本太郎の牛歩。

あれより。

歩いていて、転んで、「痛ててて。捻挫しちゃったよ」、と言って、座り込んだり、最初から、捻挫したことにして、松葉杖を使いながら、歩いた方がいいと思うのだが。