小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

太宰治

2009-07-30 03:55:16 | Weblog
太宰治。奥野健男氏の太宰治文学評論は、何か気どっている所があって、嫌いである。氏によると、太宰治の文学は読む人によって「太宰治の文学は全肯定か全否定のどちらか」だそうだ。その発言からしておかしい。その人の全てが好きな人間というのも滅多にいなければ、その人の全てが嫌いな人間というのも滅多にいない。

私小説でも、「東京八景」などは、見事だと感じるし、「駆け込み訴え」もウーン、すごい、と唸らされた。

だが太宰で嫌いな所もある。彼は、第一回の芥川賞で候補に上がったが、選考委員の川端康成に、陰で、「親兄弟を喜ばすためにも受賞させて下さい」という切々とした手紙を送っている。これは、本当に嫌で卑怯な行為だ。誰だって、命がけで作品を書き、祈るように受賞を願っている。こんなのは文学賞に作品を投稿する人の当然のマナーである。そういうデリカシーのない行為は嫌いである。私は他人の不幸の上につかみとった自分の幸福など、何の価値もないと思っている。し、また、少なくとも私は、他人の幸福と自分の幸福との、限界の最終選択を迫られたら、私は、自分の幸福を捨て他人の幸福の選択をとる。

また太宰に限らず嫌いなのは、男はどんなに辛くても、自殺する時は、殉死者を出してはならない、と思っている。たとえ相手の合意があっても。男は、自殺がどんなに怖くても、死ぬ時は一人で死ぬ勇気と覚悟を持たねばならないと思っている。


創作のデタラメ性

2009-07-30 02:37:54 | Weblog
これは小説より漫画で感じる事が多いのだが、小説でもドラマでも同じだが、創作の現実性について。

私も多少なりとも小説を書いていて、一生書くつもりだが、小説の現実性の矛盾を読者に感じさせないように、という事をすごく考えながら書いている。

小説や漫画というものは、そもそも現実性にはデタラメでいいのである。さらに言えばデタラメにすべきなのである。たとえば梶原一騎の、「巨人の星」など、現実的な矛盾点を、あげつらえば、100以上ある。だから、読めないかというと、そんな事は全くない。ストーリーのスムースな展開や、表現されている精神的な感動に、現実的な矛盾性など忘れさせてしまうからである。

手塚治のブラックジャックも、医学的にはデタラメなのが相当ある。しかし、それが不快になって読めないという事はない。むしろ、ストーリーに無理があるものの方が読めない。

小説や漫画は、現実性の矛盾をあげつらって読むものではない。しかし、書く方としては、読者の中には、「あっ。これ。矛盾してる」と思いながら読む人もいるので、結構、気を使う。

ある小説教室の先生もしてるベテランの作家が、「青酸カリは直撃死だから、断末魔の苦しむ様子や、死ぬ前に何か発言するのは、間違っている」と書いているが、私はそうは思わない。現実に忠実にして、飲んだ途端に死んだのでは、推理ドラマのストーリーがつくれなくなる。死ぬ直前に発言した一言から、難事件を解決する糸口を作る事ができるのである。

時代劇にしても、肩を一切りしただけでは、人間は死なない。

「家畜人ヤプー」を書いた身許不明の人は、学者だ、と書いてあったのを読んだことがあるが、それは絶対、違う。学者には小説は書けない。すごい教養がある人であることは間違いないが。あの驚くべき適切な上手い造語も学者では、とても思いつかないだろう。

谷崎潤一郎の「刺青」はもちろんのこと、芥川龍之介の「羅生門」にも矛盾はあるのである。「羅生門」の矛盾点に気づいている人がいるだろうか。



エロティシズム

2009-07-30 01:42:34 | Weblog
もう七月も終わりである。海水浴場にせよ、プールにせよ、ビキニ姿の女にはエロティシズムがない。(少し恥ずかしがってる人は別だが)それに別に失望しているわけではない。やはりセクシーである。女が体を露出することに何の、ためらいも感じていないからである。海水浴場の開放感には、およそ精神的なエロティシズムは無い。あるとすれば、普段は見せてはならない女の肉体をビキニというきわどい物でかろうじて隠しているというセクシーな姿にある。さて海水浴場で、丸裸の女が一人いたとしよう。この場合、男は彼女にエロティシズムを感じるであろうか。まず感じまい。開放感ほどエロティシズムと無縁なものはない。さらに、生身の裸の女の肉体は、決して美しくはない。女の体を美しくセクシーに見せるために、ビキニは作られたのである。

ただビキニ姿の女がコンビニに入るとエロティックである。これも、そうあるべきではない、小さな禁を破っているからである。バタイユが言うように、禁を破る所にエロティシズムがあるのである。

海水浴場には、アメリカ人の女や男もいる。私は子供の頃から外人の女には全く何も感じない。まず背が高すぎる。青い目も美しいとは思わない。それに、アメリカ人は羞恥心がなく、むしろセクシーさを、ことさらアピールしているからだ。私は日本の女にしか惹かれない。日本の女は恥じらいというものを持っている。体格もちょうどいい。やはり、生物では同種の異性にしか惹かれないのと同じ理由だろう。少なくとも私にはそうである。アメリカ人の彼氏と一緒にいる女を見ると、非常に私にはやりきれなく辛い。日本人の純血は守るべきた。と私には感じる。私は日本人の黒い髪と黄色い肌と茶色の瞳に誇りを持っている。



山田辰夫

2009-07-27 19:20:20 | Weblog
俳優の山田辰夫が死んだ。ちょうど最近、You-Tubeで、彼のデビュー作「狂い咲きサンダーロード」を見つけたところだった。あれを昔、観た時には、生理的に二度と観たくない映画だと思った。非常にリアルで残酷だからである。はじめて彼を知ったのは、渡辺裕之主演の「オン・ザ・ロード」である。バイクの好きな青年の役だった。当然、役だけじゃなくバイク好きだろう。

「狂い咲きサンダーロード」はリアルで残酷である。彼は暴走族で敵のグループに電動ノコギリで、片手と片足を切断されてしまう。残酷である。その後の彼の演技も、とても観ていられないほどリアルで、残酷で、あれを観た後、数日は気分が悪くなった。ああいう映画は作らない方がいいと思った。少なくとも私は見た後、観ない方が、よかったと、つくづく思った。残酷すぎるので、少なくとも子供には見せない方がいいのではないだろうか。

だがラストは、敵に復讐し、義手義足の片手、片足でバイクで行く先も知れず走りだす、というオチで多少、救われた。

当時は、残酷で見たくないと思っていただけだが、今では違う。人間の残酷さをこそ、直視しなくてはならない、と思うようになったからである。作り物の映画だけではなく、人間は残酷である。

エロティシズムのニーチェと言われるバタイユの、神なきエロティシズムの哲学を決定づけたのは、中国の一枚の写真である。それは、罪を犯した青年が、裸にされ、木に縛られ、衆目の中、阿片を嗅がされて、痛みをなくされ、意識があるまま、死刑執行人が、まず片手を切断し、次に片足を切断していくのである。彼は意識があるから、切断された自分の手足を見せつけられる。非常に残酷である。バタイユは、あの状態にこそ、絶対者のないエロティシズムを見出した。あれも非常に残酷であるが、バタイユにとっては単なる残酷の享楽ではない。そもそも、エロティシズムというものには、絶対者がなくてはならず、絶対者に対する崇拝、あるいは、その逆の反抗がエロティシズムなのである。

三島由紀夫は、哲学者バタイユに非常に関心を持ったが、氏も絶対者とエロティシズムの関係に、強い興味を持っていた。氏がバタイユに関心を持つのは当然である。You-Tubeで三島由紀夫の発言などを見ると、非常にバタイユを連想させる。だが三島はバタイユを敬しつつも、氏の思想はバタイユと同じではない。氏のエロティシズムには、絶対者がどうしても必要だった。絶対者がなければ、無理にでも創り出さねばならなかった。さて、残酷に処刑された写真の青年であるが、彼が救われる方法は、笑う事である。彼を苦しめることが、衆人の期待する反応なのであるから、カントの言う因果律を破ってしまえばいいのである。

医者の人生

2009-07-24 22:29:39 | Weblog
理系の出来る人は医学部に行った方がいいか。理系の得意な人は医学部に行きたがる人が多い。東大の理学部に行くか、国立の医学部にいくか、で迷う。そのメリットとデメリットを書いてみようと思う。医学部に行った場合、六年間、学ぶ事になる。一、二年は、遊べるが、三年から四年間は、ひたすらな、医学のみの詰め込み勉強である。それも、(後になって言っている事ではあるが)問題はない。無事、卒業して、医師国家試験も、まず通る。ので医者になれる。今は、二年の研修が必修になったから、何か目的が決まっている人にとっては、研修は、うざったいと思う人もいるかもしれない。父親が眼科医で、自分も眼科医になって、跡を継ごうと思っている人とかには。しかし、研修医というのは、医師免許を持った医師であり、給料も、僅かながら出る。悪い気分ではない。そして、二年の研修は、うざったいように思われるかもしれないが、長い目で見れば、内科、外科、産婦人科、救急、などは、絶対やっておいた方がいいのである。研修医の給料は少なく、医者になるには8年、我慢しなければならない。さて、8年過ぎて、医者になったら、どうなるか。研修のおかげて、どの科の医者にもなれる。医局のしがらみを、吹っ切るか、奴属するか。吹っ切ると、自由な医者になれる。その後は本人の性格が関係してくる。僻地では医師不足だから、求人も待遇もいい。もっとも僻地といっても、千葉とか埼玉とか関東でも交通の便の悪い所は、場所によっては十分、僻地である。まあ、それでも都会の病院でも十分、就職は出来る。医者は、「先生」と呼ばれ、給料もよく、悪い気持ちではない。しかし、週一回、当直があり、また責任感は重い。結構、ストレスになる。そもそも医療は、治して当たり前である。むなしい。しかも毎日、同じ事の繰り返しである。たとえば眼科医なら、一生、目だけ診て過ごす人生とは、何とむなしい事だろうか。医者とは、そもそも、自分の幸福を捨てて、ひたすら患者につくす職業なのである。勤務医なら無難に働いていれば、食うには困らない。転科する事も出来るし、非常勤なら、自分の時間も持てる。今は医師の斡旋強者が、すごく沢山ある。医師免許というものは、不況に強い非常に有利な免許である。しかし、やりがい、という事を考えると、医者ほど虚しいものはない。と私には感じる。自分のした事が何も残らない。独創性や創造性のある、理系の人は、どこかの企業なり、研究所なり、大学院で、自分のアイデアをフルに発揮して、新しい商品を作り出したりした方が、どれだけ面白いことか。本田宗一郎ではないが、自分のつくったオートバイが日本中を走り回っているのを見る痛快さ。自分が日本を動かしていると思う快感。ただ、景気の影響を浴びるだろうから、絶対、安泰の身ではないだろう。転職も簡単に出来るものではないだろう。(よく知らないので、けっこう結構、安泰の身分かもしれない)だが、たとえばパソコンは、どのメーカーも一年に4回もモデルチェンジしているが、たいした違いは無い。技術者が食うために、無意味にやっているのに過ぎない。
さて、医師の方は。医師免許は、非常に有利で不況に強い。創意工夫しなくても、やれる、なかば安泰の公務員のような面がある。だから、医者は世間知らず、などと教養課程の先生に言われるのである。しかし。政府は日本の医療費を何とか削減しようとして、診療報酬の点数を引き下げようとする。全てのつけは医者にかける。医師の過重労働も厚生省は知ってて、知らぬ振りなのである。そのため、医師免許を持っていても、必ずしも、安泰とは言えない。しかし、医師免許を持っていれば、何科をやってもいいのである。医療は、習うより、慣れろ、であり、一年もやれば、どの科でも出来るようになる。また、厚生省の意地悪に対し、医療者側は、必死で何とか抜け道をつくろうともする。厚生省が、意地悪をしたら、他の科に転科すればいいのである。
さて、一生、勤務医で過ごすか、どうか。親が病院の院長なら、ほとんど息子は親の跡を継ぐことになる。勤務医もクリニックを開業する人もいる。しかし月々のテナント料。人件費。それを上回って儲けるためには、かなりの患者を診なければならず結構、忙しくなる。厚生省は、医療費を引き下げようと、診療報酬の点数を減らし、支払基金での厳しいチェック、カットをしている。(支払基金とは、金券である診療報酬をチェックして、減点しようと目を光らしている所である)これは医者の収入の問題だけではない。厚生省が、この病気には、この薬はだめだ、とか言ってくると、医者の裁量権が減らされてしまう。厚生省は、医者性悪説の視点で医者を見るからだが、それは一部の医者や病院の不祥事の発覚からのスキャンダルであり、私の知っている限り、ほとんどの医者は、治療に効果の無い無意味な薬など出していない。
また、武見太郎のような、力のある医師会長はいなくなったとはいえ、医師会が団結して何とか医師を守ろうとする。
はっきり言って医学部の教養課程の二年は無意味である。
確かに医師免許は不況に強い有利な免許である。しかし、そのためには8年、我慢しなくてはならい。研修の二年は、やりがい、は、感じられるかもしれないが、給料は少ない。医師免許は不況に有利な資格だからといって、それを取るためだけに8年、我慢する人という人は、いるだろうか?私も去年、ある大学の医局に数回、参加したが、とてもじゃないが、医局の拘束性と給料の低さ、には、ついていく気が出来なかった。夜9時まで働いて、月30万には、とても、ついていけない。研修医は足手まといであり、知識や技術を教えてやるから、本来ならお前が授業料を払うべきなんだそ、というのが、大学側の見方である。医者の世界は徒弟制度なのである。
医学部に入ったら、その時点で、一生、医者として生きなくてはならないのである。カムイじゃないけれど、忍者の世界のようであり、抜けることは出来ないのである。医学部に入って、国家試験に通らなかったら、みじめだからである。別の世界に方向転換できる人はいいが。しかし、そういうバイタリティーと能力があって、作家とか代議士とかになれる人は、きわめて少ないだろう。医者になったら、土地と家を建て、結婚し、子供を生んで、ゆとりのある生活は出来る。しかし、一つの病院で、一つの専門科を持ち、一生、同じ事の繰り返しの人生となる。むなしい。医者は、むなしいように書いたが、しかし、むなしいと感じるのは私の感性からであって、現実家で、大らかで、行動家で、ネアカの世間の大部分の人には、非常にやりがいのある仕事と感じている人も多いのでは、ないだろうか。
また高校生では、医者の実態というものがどういうものか、わからない人が多いだろう。現実に、医学部は偏差値が高く、入れる学力があるなら、入ろうという非常に強い誘惑が起こるだろうし、毎年、週刊誌でも、国公立の医学部の注目度は高い。それが進学校の偏差値になるのだから。医学部に入れば、「先生」と呼ばれ、社会的地位は高く、収入も多い。しかしガリ勉というのは、他人を蹴落としてまで自分が幸福になりたいと思っているエゴイストであり、そういう人が、はたして、ひたすら縁の下の力持ちとして自分を捨て患者の幸福を求める人格者に変わりうるであろうか?
実際、医学部には、醜い所があり、単位を取るためには目の色を変え、ドロップする生徒を笑いものにしている人の何と多いことか。



花火

2009-07-20 23:35:02 | Weblog
海に行く。大磯ロングビーチに行こうか、と思ったが、朝、曇ってたので、片瀬西浜に行った。もちろんビキニ姿の女の人を見に。駐車場はバカ高い。ので、デニーズで、アイスティーを注文して、デニーズの駐車場に止めた。食事すると90分駐車無料なのである。それを二度くりかえした。ビキニギャルでいっぱいだった。別に彼女がいなくても、さびしくはない。ビキニの女性を見れば、それで十分なのである。と言いつつも、やはりさびしくなってきた。
「仙台のなお。海に行ってくれると何度もメールで言っといて、一度も会ってくれない。ゆるさんー」
と怒りが込み上げてきた。
五時からサーファーが入ってきた。だが7時になっても、まだ客がいる。むしろ、夜になって人が増えてきた。ははん。花火だな、と思った。花火はさほど見たいとも思わないので、帰ろうとしたら、ドドンと始まりだした。ので、引き返して見た。ビキニ姿の女ほど、きれいだとは思わない。
しかし、その後、信じられない事が起こった。
さて、それは実現するか。



宮崎勤

2009-07-18 02:59:37 | Weblog
宮崎がつかまって、オタクという言葉というか概念が広まった時、内向的な私も当然、何回かオタクだの、幼女を何人殺した、だのと言われた。私は別に何とも思っていない、どころか、かえって嬉しくさえあった。なぜなら、彼らは、内向性=オタク、という短絡的な幼稚な人間認識しか出来ず(本当である。彼らは、あきれるほど単細胞である)私の思考力や人間認識の能力の方がはるかに彼らより上であるという優越感にひたれたからである。まず根本から間違っている。宮崎勤は内向的な性格でも、むしろ例外的である。彼は他人をオタクと呼んだ。オタクという呼び方は何であろう。オタクという呼び方は、自分と他人をしっかり区別している言い方である。自分と他人との関係に境界線をつくって人間関係のけじめを作っているのである。よくいえば、それは独立不羈である。そして、それが大人の人間関係の基本であり、またそうでなくてはならないのである。そこで、一般に内向的な人間を考えてみると。これは内向的な性格の池見酉次郎先生も告白して書いているし、また私も痛いほど痛感している事なのだが。内向的人間は、上下関係の人間関係になり安いのである。つまり目上の人にべったり甘えたり、年下の人を我が子のように可愛がる、垂直的な人間関係になり安いのである。狭く深い人間関係になり安いのである。内向的人間は一対一の人間関係になりやすいのである。それに較べ、成人した大人の人間関係は水平的である。広く浅く、である。悪女の深情けはあまりない。そして自分と他人との区別はちゃんとつける。だから他人をオタクと呼ぶ事も多いのである。それに較べ内向性は、べったりした人間関係になってしまうので、また自分と他人との区別もきっぱりとつける独立不羈の精神に欠けるので、他人をオタクとは呼びにくいのである。つまりオタクこそが成人した大人の人間関係であり、内向性はそういう成熟した大人の人間関係がつくれないのである。だから世間の人間こそがオタクであり、そして、それこそが大人としての良い、あるべき人間関係であるのである。私もそういう立派なオタク人間になりたいとつくづく思う。これは、何らイヤミでも何でもない。私が真の内向的だと思う人は、池見裕酉次郎先生、本田信一さん、自殺した漫画家の山田花子さん、などであるが、みな、そういう人間関係である。集団が苦手で、気の合う人との一対一の深い人間関係を好むのである。もちろん全ての内向性がそうではなく、内向的にも色々あって一概には言えないが、傾向として内向性は集団が苦手で、気の合う人との一対一の深い人間関係になってしまいやすいのである。

ちなみに、Whikipediaを見たら、宮崎勤は、他人をオタクという呼び方はしていなかったらしい。ではオタクとは何なのか。彼のものすごいビデオ収集から、一つのことに、はまってしまう人間をオタクと呼ぶらしい。しかし、それなら、学者や、一つのことに一意専心、励んでいる人間はどんな分野でもオタクということになる。彼らが、変な人間なのか。むしろ人間として最も立派な人間ではないか。目的ももたず、プラプラしてる、根が明るいだけの根無し草人間の方が立派だというのか。まあ、宮崎の場合は、中途半端だった。目的を持って、とことん何かに打ち込む根気がなかった。そういうのをオタクというのだろう。しかし、言葉というものは、使われているうちに、そのはじめの意味が変わってしまって、今では、一意専心、一人で黙々と自分の目的に励んでいる素晴らしい人間も、オタクと言うようになってしまっているようだ。

プールで泳ぐ

2009-07-15 18:53:25 | Weblog
プールで30分つづけて泳ぐ。暑く水も温かい。だが客は少ない。

人間は鳥になりたい願望があるが、魚になりたい願望もある人もいるはずだ。

私は魚にはなれた。

処女懐妊2

2009-07-13 17:18:48 | Weblog
キリストの行なった奇跡や復活などは、ひとまず置くとする。奇跡は起なわれた可能性の方が強いからだ。

では処女懐妊について。これは簡単にわかる事である。キリスト教では、処女懐妊に関してはタブーなのである。ではなぜタブーなのか。そもそもタブーとは何であろう。世の全ての事において問題のない事ならタブーとはならない。語って問題がないからである。タブーとなるのは、問題のある事、忌むべき事、おぞましい事などである。だからタブーとなるのである。だから、処女懐妊がタブーになっているのは、その実体がおぞましい事だからである。哲学者バタイユの言う、至高性=呪われた部分、なのである。

実質の問題について。
しかし証明できない事は、あくまで推測にとどまるしかないのである。
ある真理を書いた書物が頑丈な金庫の中にあるとする。その場合、真理は存在する。しかし、金庫の鍵が無く、封印されている場合、金庫を開ける事は出来ない。つまり証明できないのである。キリスト教の側から言えば、証明させないのである。そして証明できない以上、否定することは出来ない。聖書の説く所がウソだとは言えない。これは精神的にも科学的にも事実である。だから宗教は成り立つのである。

処女懐妊

2009-07-12 02:15:43 | Weblog
さてキリスト教のマリアとヨセフの処女懐妊について。

結論から言うと、性行為をしたからイエスが産まれたのである。

こう言ってしまうと身も蓋もない。だがキリスト教および聖書では、「聖霊のうちに生まれた」と言って、こういう発言は神を冒涜するタブーなのである。しかし、それは信者にとってのタブーであり、私はキリスト教の信者ではないので、私が言う分にはかまわない。

では聖書ではウソを言っているのか。それも実は違う。キリスト教では、その事は語ってはならない事なのである。「語ってはならない」とキリスト教では言っている。だから一部の信者は苦しく疑問に思いつつも、信者であるために語らないし、語れないのである。語れない事だから、信者には、その実質はわからない。

ウソを言っているから宗教そのものを否定してしまう、というのもよろしい事ではない。人を救うために、つかねばならないウソというものもある。

皇室で子供が生まれたら、当然それは行為が行なわれたからからである。しかし日本国民の多くは、その事から目を避けようとするだろう。「その光景を想像してはならない」と思うだろう。それは国民の側の感情から起こるものだが、宗教では、それが宗教として成り立つために、宗教の側から、はっきりと(物理的な)ウソを言っているのである。しかしそれも宗教的にはウソとは言えない。「語ってはならない」と教えているわけだから、そして、それを物理的に証明する事は出来ないわけだから、ウソ語っているとは、言えないのである。


エロティシズム

2009-07-11 18:31:57 | Weblog
去年、大磯ロングビーチで、スター達の水着大会があった。

が、何も感じなかった。一般の人のビキニ姿にはエロティシズムを感じる。これは何故か。それは、芸能人、スターというのはセクシーなビキニ姿になることが当たり前の事だからだ。何の恥じらいも感じていない。しかし、一般の女の人がビキニ姿になるのは、非日常的な事であり、恥じらい、や、ためらい、があって、それを乗り越しているからだ。彼女らは、露出という秩序破壊のエロティシズムを海水浴場やプールという名目で行なっているからだ。

プールで泳ぐ

2009-07-11 17:28:33 | Weblog
今年の夏、はじめて屋外プールで泳いだ。このところ胃腸の具合が悪く、鼻アレルギーで、プールで泳ぐと、鼻アレルギーが、益々悪化してたので、プールにはあまり行かなかった。くしゃみがするし、今日は曇りで水温も低く、風邪を引くんじゃないかと思った。だが、実際、プールで泳いだら、逆に鼻アレルギーもおさまり、体調がよくなった。
はじめは、すぐに息切れしたが、つづけていると持久力がついてくる。

歯科医

2009-07-08 19:19:52 | Weblog
三日前に、銀の詰め物がとれてしまったので歯科クリニックに行った。
数人でやってる所だった。
女の先生だといいなー、と思った。
ら、女の先生だった。
口唇を触るさりげない手つきに、何か意図を感じた。
すぐに唾液が粘着質になった。
あと二回、いく事になった。

従軍慰安婦問題

2009-07-06 22:01:49 | Weblog
書店に入ったら漫画家の、小林よしのりさんの「天皇論」が平積みであった。小林よしのりさんの本はよく売れているようだが、内容云々より、解りやすく、物議をかもしているから売れているのだろう。売れるためにわざと物議をかもしているのではない。

氏の書いている事はほとんど知っているので、私はわざわざ買って読む気にはならない。

You-Tubeでも、氏と氏の考えに反対する人達が「従軍慰安婦問題」を論じているのがある。

従軍慰安婦問題について私が思うのは、慰安婦の心理である。

一つには。たとえた例をあげれば。

アツアツの男女がケンカ別れしたり、離婚したりすると、それまでの楽しい幸福な出来事の全てが、思い出すのも不快な出来事に、感情が正反対に逆転してしまう。という事は、多くの人が経験のあることだろう。当時の事実やそれに対する感情は変わらないのに、終戦、戦後の民主化という価値観の逆転が、出来事に対する感情の認識を変えてしまっている面があるだろう。だからややこしくなるのだ。

もう一つは女性の性欲の心理の問題がある。

男の性欲は単純だが、女の性欲は非常に複雑である。当然、私も正確にはわからない。また当時の日本の国情、政治的状況もからんでいるだろう。そこらへんも問題をややこしくしている。

佐高信が、戦時中は、戦時中は統制経済であり、戦時共産主義であり、純粋な民間というものはない、と言っていた。確かにほとんどの国民はそうだが、戦時中にも、暴力組織、ならず者の集団はあったのではないだろうか。ヤクザには法も思想統制も通用しない。簡単に、非国民、拷問というわけにはいかない。ヤクザは、かなりの点で、いつの時代でも国家権力に便利な存在という面がある。アカのたれこみ屋。法で対処出来ない所も、彼らに法はないからである。だから現代でも警察は暴力団と一部でつながりがあったりする。

もしそうなら戦時中には純粋な民間はない、とは言えなくなる。

もちろん私は小林氏の反対者の見解の方が正論だと思うが、あまり小林さんをムキになって批判したいとは思わない。そもそも反対者は小林さんが漫画でアンチテーゼを出しているから、やりがい、を持って発言、行動している人も多いはずだ。なら反対者は、やりがい、を作っている小林氏には、それなりの礼節を持って対応すべきた。




内向性

2009-07-05 22:42:43 | Weblog
オウム真理教の事件が起こった時、お前はオウム真理教かと本気で聞かれた。内向性は無口で何を考えているかわからず、また内向性は宗教や観念的な事に興味を持っている人が多いからだろう。もちろん私はオウム真理教の信者ではない。が、私はオウム真理教の信者になるような性格の人が羨ましい。というのは真の内向性は精神的なもの、宗教や思想に関心を持ってる人がほとんどだからである。だが、真の内向性は、いかなる宗教の信者になることも出来ないのである。それは、内向性があまりにも強い自我をもっているため、それが邪魔をするのである。動物や人間社会というものは、自我が無い者の集まりの気の流通体であり、そうでなくては社会がスムースに動かないのである。外向性は外界に反射で対応しているのに対し、内向性は一人で考え事をしているため、外界に反射で対応する事が下手だからである。いわば、野球をしている時、一人、考え事している変わり者が内向性なのである。これでは内向性は野球には加われない。自我というものは、多少、いい面もあるが、基本的には社会生活をする上で悪い物なのである。オウム真理教にせよ、いかなる宗教にせよ、それに洗脳されてしまうのは自我の無い外向性なのである。真の内向性の思索の深海は宗教の教祖の考えを理解してしまうほど深いため、その教えの意味が解ってしまうため、宗教に関心を持って、それを解剖し理解しようとはするが、それに従うということは自我が邪魔して出来ないのである。なぜなら、信じるという行為は自分に理解できないからするのであり、理解できるものは信じる対象とは成り得ないからである。