小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

学生時代につくった短歌

2008-04-29 01:51:18 | Weblog
学生時代につくった短歌

生きていた証を残しておきたくて腹の痛みに耐えつつ詩を書く
沈みたる我が心を慰めるありがたきかな音楽というもの
我という寂しき人の心には人の入れぬ垣根あるなり
沈めける心で街を歩きけり我何のために生きるべきなり
街角に流れるかろきメロディーに沈みし心に喜び起こる
沈めける心で街を歩きしが青空見れば心が晴れけり
我という人の心を人問わば忍ぶ心の葉隠れ侍
憂きことのなおこの上につもれかし我が示さん大和魂
烏帽子岩浜よりいつも眺めけりいつかあそこへ泳いでゆきたし
トンネルを抜けるとそこは別の国逗子マリーナの景色は南国
空見上げ生きてることを実感す大阪駅の夏の夕暮れ
木漏れ日に夏の終わりを感じけり夕暮れ時の平塚公園
由比ガ浜九月になれば人も来ぬさびしき浜を一人散歩す
冬の夜一人炬燵で勉強す寂しくなりてテレビつけけり
こんこんと降りつづけてる夜の雪一人炬燵で寒さこらえつ
冬の夜一人異郷の街歩く木枯らし吹きて寂しく寒し
冬空に夏の暑さを思いけり来る夏のため我は生きなん

大学の時に習作でつくった短歌。価値は無いが、わかりやすくはある。

哲学患者

2008-04-28 04:05:27 | Weblog
哲学患者
研修病院で統合失調症の患者で、理解が難しい患者がいたので、その事を書いておこう。
その患者は、妄想もなければ幻聴もない。無気力の陰性症状もない。一見すると治療の必要がないようにも思われる。それでも薬を飲んでいる。ベテラン医も彼の病理がわからなかった。私には、わかったので書いておこう。
彼は、ユーモアがあって、難しい本、哲学書まで読むのが好きである。彼は、色々な事に興味を持っていて、特にトニー谷が好きだった。トニー谷は、赤塚不二郎の、「イヤミ」のモデルである。彼とは仲がよくなり、色々と話した。哲学書まで読めて、また、読みたがっていて、妄想もなけれは、幻聴もない人が、どうして患者なのか。
統合失調症の患者の症状に、話が飛ぶ、という症状がある。その程度がひどくなると、言葉のサラダ、という、症状になる。だが、言葉のサラダにも、程度があって、何を話しているか、意味がわかる程度のものもあるが、程度が重くなると、支離滅裂になり、全く何を言っているのか、わからなくなる。彼がトニー谷の本を進めるので、興味は無かったが、彼の病理を知ろうと、秋葉原へ行った時、トニー谷のCDがあったので、買ってみた。それで、それを聞いて、ああ、なるほど、とわかった。トニー谷作詞の歌も、ちょっと話が飛んで、内容がまとまっておらず、滅裂なところがある。程度は軽いが。というより、トニー谷は、彼の感性から、そういうふうな詞をつくってしまうのだ。それが彼の感性と合っているのだ。彼の場合、薬を飲んでいるから、一見、普通の人と変わりないように見える。だからといって彼に薬を中止しては、いけないのである。彼の病理の基本は、言葉のサラダである。もし、薬を中止したら、言葉のサラダの症状になってしまう危険があるからだ。私は彼が入院した時は、見ていなかったが、カルテに、入院した時は、話が支離滅裂と書いてあった。

妄想が変わる患者の原理

2008-04-28 03:50:00 | Weblog
姫路城つくった、の妄想の原理
研修病院にいた時、難しい症例の患者をよく任された。
私は、人の心理を分析して得意になろう、などという性格の人が大嫌いである。
ドラマにせよ、漫画にせよ、小説にせよ、私は、そういうのは見ない。そもそも精神科は薬理学であって、心理学ではないのである。フロイトの精神分析は一昔前のものである。だが、世の人は、精神科医というものを、非常に素直に誤解されておられており、精神科医は人間の心理を分析する医者と思っておられるので、その神秘性から面白がり、そういうドラマはこれからもいくらでも、つくられつづけるだろう。
そもそも、私は、精神科はラクだから、という理由でなったに過ぎない。
ただ、多少、役に立つだろうと思う事は書いておきたい。
まず、精神科は、統合失調症の患者が、9割りをしめた。だから、精神科医になるという事は、統合失調症に、詳しくなる事である。特に、患者にあった薬の選び方を知る事が大切である。
統合失調症の患者では、ICD10分類で、色々なタイプに分けられている。
だが、大きく分けて、幻聴型と妄想型に分けられる。
もっとも、妄想と幻聴は、ほとんどの場合、つながっている。だが、妄想だけ、の患者もいるし、妄想は軽度で、幻聴が強い患者というのもいる。
また、妄想の内容にしても、一つの事だけの患者もいる。こういう患者は、医者からすれば、わりと対応しやすい。また、こういう患者は、一見したところ、普通の人とかわりない。また、病院を退院して社会復帰可能な場合が、多い。医者も、その人と、話していても、その人が妄想を持っているとは、わからない。妄想の事を聞きだして、やっとわかる場合が多い。
しかし、多くの場合、妄想は一つだけではない場合が多い。いくつもの妄想を持っている患者が多い。妄想の内容はガッチリと患者の頭の中で固定してしまっていて、容易にとれるものではない。薬で、妄想がとれたり、軽減されるケースもあるが、薬が効かない治療抵抗性の患者も多い。
研修病院で、色々なタイプの患者を診たが、その中で、一人、興味深い患者の事を書いておこう。その人は、かわっていて、妄想の内容が、ころころ変わるのである。特定の妄想というのは無く、毎回、違った妄想を訴えるのである。昨日、「姫路城は私がつくった」かと言えば、今日は、「自分は江戸時代の与力だった」などと言うのである。明日は、また違う妄想を言うだろう。妄想の内容がユーモアなものなので、ベテラン精神科医は、患者の妄想に合わせて、「ああ。そうなの」と、ユーモアで対応していた。
私は、なぜ、この患者にこういう妄想が起こるのか考えてみた。
私は書く事で考える事が、多いので、患者のカルテは、ほとんど私の考察文になってしまった。この患者の私の考察を書いておこう。そして、それは、おそらく当たっていると思っている。
統合失調症の患者には、色々な精神の症状が、あるのだが、その中で、identityの喪失という症状がある。自分が自分でないような感覚である。自分が一体、何者なのか、わからなくなる感覚である。これは、患者にとっては、非常につらい症状である。
彼は自分のidentityがわからない、という症状が根本にあるのである。そして、それがわからない精神状態というのは、非常に不安なものである。彼は、その不安から、のがれようと、自分のidentityを、求めているのである。彼は、色々な物事に対して、とらわれてしまう。「姫路城は誰がつくったのか」という、問題意識が、起こると、それにとらわれて、そればかり考えてしまう。わからない、という事は、自分のidentityだけでなく、何事にしても、すっきりしないものである。彼は、その疑問に悩まされる。彼は歴史を、しっかり知っている人ではなかったが、仮に歴史をしっかり知っていても同じだろう。歴史を知っている人でも、「自分は天皇である」とか、自分は歴史上のある人物である、という妄想は、多くの患者に起こる妄想である。そういう妄想は、どう丁寧に説明しても、とれるものではない。精神科医が疲れるのも、こういう妄想を強く訴える患者に対してである。
さて、彼は、「姫路城は誰がつくったのか」という疑問にとりつかれ、悩まされる。そして、必死に考える。だが、答えは見つからない。そこで、「姫路城は誰がつくったのか、わからない」という結論になる。そこで彼の自分のidentityを求める気持ちが、その疑問と結びついて、確固たる一つの結論が出来るのである。「姫路城をつくったのは、自分である」という結論である。わからない疑問が解消されると同時に、自分とは、姫路城をつくった人間なのだ、という自分のidentityが生まれ、二つの疑問が無くなって、精神が落ち着くのである。
ただ、彼の妄想は弱く、一晩たてば、忘れてしまうので、妄想が、ころころ替わるのである。彼は、基本的にいつも、identityが、わからない不安に悩まされていて、絶えず自分のidentityを求めており、また、観念奔放もあって、色々な事に疑問を持って、それにとらわれてしまうので、こういう変わった症状が起こるのである。こういう患者は極めて少ない。

詩篇二十三編

2008-04-25 04:25:56 | Weblog
詩篇二十三編
主は我が牧者なり。我乏しきことあらじ。主は我を緑の野に伏させ、憩いの水際にともないたもう。たとえ我、死の影の谷を歩むとも禍をおそれじ。汝、我と共にいませばなり。
(詩篇二十三篇。ダビデ作)
訳。私は羊で神様はその羊飼いのような関係だ。だから、私は心配する事は何もない。神様は私を美しい緑の野に連れて行き、心の安らぐ水際に連れて行ってくれる。たとえ危険な道を歩いている時でも私に不安はない。なぜなら、神様が一緒にいて下さるから。

解説。これは実に美しい詩だ。ダビデは天才的な詩人である。ダビデは自分が羊飼いだった。そして羊を愛し守った。羊達にとってダビデは、どんな危険からも守ってくれる神様のようなものだった。ダビデは、その事に誇りと自信を持っていた。自分は羊達の神様のようなものだと思った。しかし、ある時、ダビデは気がついた。これは、天の神様と自分との関係と全く同じなのではないのかと。自分は羊で、神様は自分がどんな危険な状況にあっても守ってくれる羊飼いなのではないかと。

プロレタリアート詩

2008-04-24 04:01:58 | Weblog
 ちょうどドーナッツの一ヶ所をナイフで切って、そこに十円玉ほどの薄い別のドーナッツを入れて、つなぎ合わせた感覚。自分は傍観者ではなく、自分が、社会、経済、を動かしている一部分であるという、まぎれも無い実感。この机の重みこそが、その実感なのだ。
あのよろよろの腰つきで誰に言われる事なく、一心に働く男達をみよ。その心がわからねばそれに加わってみるがよい。自分が社会の一員であるという実感。それは自分の命の実感なのだ。あのよろよろの腰つきで一心に荷物を運ぶ男達をみよ。人間の美しさは、あの中にあるのだ。荷物が来ると、わらわらと一斉に駆け寄り、トラックに運び込むあの男達の姿をみよ。器用、不器用、も一心に働くあの男達をみよ。その心がわからねばそれに加わってみるがよい。社会の一員であることの嬉しさは、あの箱の重さにあるのだ。
自分が必要な人間であることを実感したいなら、四人で重たい机を運ぶあの作業に加わってみよ。四人いなくてはあの机は運べないのだ。

いじめ対策

2008-04-14 19:39:08 | Weblog
いじめ対策・・・いじめは永遠になくならない。
いじめに対する対処法・・・それは簡単な事である。もっとも、いじめるヤツには、男の誇りも無ければ、頭もないアッパラパーだから、それを言っても何の事だか、わからない可能性は十分ある。
いじめているヤツには、タイマンの決闘を申し込むのである。グローブをつけてのボクシングの試合でもいい。殴り合いのケンカでもいい。
しかし、そんなのは甘ったるい決闘法である。もっと厳しい、そして、簡単な決闘法がある。
それは、チキンゲームか、ロシアンルーレットである。一番、簡単な決闘法は、サイコロを使って決闘するのである。「偶数が出たら自分が死ぬ。奇数が出たら相手が死ぬ」という、条件でサイコロを振るのである。これは、確実にどちらかが死ぬ。これが一番、簡単な決闘法なのであるが、しかし、これは当然、命の惜しい人間には、出来ない決闘法である。

牧師との対話(小説)

2008-04-14 03:45:55 | Weblog
牧師との対話
ある内向的な少年がいた。彼の両親はプロテスタントのクリスチャンだった。そして、親には、あるアメリカ人のカトリックの牧師との付き合いがあった。彼はキリスト教になど興味が無かった。クリスチャンとは、「キリストのような人」という事であるが、親は全然、キリストのような人、には見えなかった。彼は勿論、洗礼などというものを受ける気は毛頭なかった。牧師は、彼に洗礼を受け、教会に行く事をすすめたが、少年にとってはうざったい、だけだった。そもそも彼は洗礼だの、入信だのという事を嫌っていた。
教会では、聖餐式の時、洗礼を受けた人だけが、ほんの小さいものだが、葡萄酒と一切れのパンを食べれた。洗礼を受けていない人は、食べられなかった。何か、その光景は差別的でイヤだった。洗礼を受けた人達は、立ち上がって一切れのパンと葡萄酒を食べた。彼らは、その一時だけ、自分達は敬虔なクリスチャンのように装っているのが、彼には偽善に見えて嫌悪を感じた。事実、親は教会から帰った晩には、もう他人への口汚い会話しかしない。
その点、カトリックのアメリカ人の牧師は、日常生活でも、聖書の教えを守っていた。言動一致という点で彼はその牧師を尊敬していた。
ただ、あまりにも洗礼を受ける事を進めるので、それがウザかった。

ある晩、牧師が家に来た。少年は、どうしても観たいテレビがあるのに、牧師の説教を聞かされるのは、うんざりした。少年は、堂々と、
「あなたの説教より、観たいテレビがあるんです」
と言った。牧師は少年を不謹慎だと思ったらしく、くどくど説教しだした。
それで、少年は非常にキリスト教で疑問に思っている事を、聞いた。
「キリスト教では、悔い改めれば、救われる、と言いますね。悔い改めない人はゲヘナに落ちると」
牧師は、「そうです」と言った。
「では、こういう場合には、どうなるんでしょう」
と言って、少年は、話し出した。
「あるクリスチャンでない人がいたとしますね。その人が交通事故で死んだとしますね。その人は悔い改めないまま死んだから、救われないことになりますね。しかし、もしその人が交通事故にあわず、もっと長生きすれば、その人はある機会にキリスト教に目覚め、悔い改め、洗礼を受けることになったかもしれない。その場合、彼は救われることになりますよね。交通事故というのは不慮の事で、その人に罪はない。こういう人は、いったい救われるのですか、救われないのですか」
牧師は黙ってしまった。
おかげで少年は観たいテレビを観ることが出来た。

さみしん坊(小説)

2008-04-14 03:30:12 | Weblog
さみしん坊
 冬の街の空を見上げ物思いに耽って歩いてる。
 彼は心の弱い人間だ。
 いつも、過去と未来のことをくよくよ考えている。
 そして後悔と不安の中で生きている。
 彼の心はいつも悲しいことのほうにばかり向いてしまう。 
 人の心をキズつけることが出来なくて、いつも自分の心をキズつける方を彼は選ぶ。
 そんな彼を彼は自分でさみしん坊と名づけた。
◇ ◇
 人間には喜怒哀楽の四つの感情がある。
 そして人間はその四つの感情のうちどれが心の基本になっているかで四つのタイプにわけられる。
 喜ぶ人は実業家。怒る人は政治家。楽しむ人は勤め人。悲しむ人は哲学者。
 彼の心基本、それは「哀」だった。
 もちろん彼にだって他の三つの感情が起こることはある。
 でもそれらの感情が起こる場合でも必ず「哀」の感情はついてきた。
 「哀」以外の感情は彼にとっていつも一時的なものであり、それらが過ぎ去ったあと彼の心はまたいつもの「哀」にもどるのだった。
 彼は「哀」とともに生きる宿命の人間なのだ。
 でも彼はどんなに小さなことでもうれしいことがあると涙が出るほど笑ってしまう。
 彼の心は「よろこび」に飢えているからだ。
◇ ◇
人間は母性愛と父性愛をうけてそれを身につけて大人になる。
父性愛は人を自立させる源。
 母性愛はすべてを受け入れ庇い守る優しさ。
 彼の心は母性だけでつくられた。
 彼は母性愛的人間になった。
 人に母性愛を求め、人を母性愛で愛した。
 彼は思いやるか甘えるか、なのだ。
 なせだか彼には父性が育たなかった。
 そのため彼はちょっと自立心に欠ける。 
 でも心は一生懸命自立したがってる。
◇ ◇
 さみしん坊は弱い心の持ち主だ。
 夕方になるといつもうつ病がでてくる。
 いいようのない寂しさと虚しさ。 
 そんな時、彼はビデオを見る。
 かれの見るビデオは哀しいものばかり。
 自殺した少女のドラマ。切腹する若者。死ぬまで戦いつづける闘士・・・・。
 そんなのを見てると心が落ち着いてくる。
 そうこうしているうちに日が暮れる。
 「もう寝よう、あしたになればまた元気も出るさ。」そう自分を励ましして睡眠薬を飲んで床につく。
 眠りに入るまでの時間が彼のちょっとした、でも一番幸福な時間。小説の続きを読む。
 やがて睡眠薬の作用で吸い込まれるように眠りに入ってゆく。
◇ ◇
 翌日は日曜日だった。彼は日曜日が苦手だ。
 昼近くまでとりとめのないことを考えてボーと過ごす。
 自分は何のために生きているんだろう・・・・・。
 自分は何のために生きるべきなんだろう・・・・・。
 だんだん不安がつのってきて気が狂いそうになる。
 それでそれに耐えきれなくなって街に出掛ける。 
 街を歩きながら空を見上げる。
 青空が見えると心もちょと晴れる。
 ああ、空はこうして同じような表情で昔から人々の営みを見守って来たのだな。
 人はかわってゆく。
 街もかわってゆく。
 でも空はかわらない。
 十年前の空も、二十年前の空も、三十年前も、紀元前の空もこれと同じ表情なのだ。
 そして私が死んだあとも・・・・・。
 時と流れはむなしいものだ。
 すべてのものを消してしまう。
 そんなっことを考えると人生のはかなさが感じられ、むなしい気持ちになる。
 でも、気を取り直して、そんなはかない人生だからこそせいっぱい生きなきゃ、と自分を励ます。
 図書館に入って机にむかう。
 勉強しなきゃと思いながらも彼は集中力がないのですぐにとりとめのないことを考えてしまう。
 そしてやがてそれに耐えきれなくなって図書館の中をブラつく。
 何かの本をパラパラみる。
 それにも飽きて図書館を出る。
 喫茶店に入る。
 ウェイトレスが注文を聞きにくる。
 人間恐怖症の彼にはこのときがつらい。
 グラタンと紅茶を注文する。
 食事を前にしてもすこしも食欲は起こらない。
 でも彼は食べないと痩せ衰えて死んでしまうような気がして、それがこわくてムリして食べるのだ。
 ちっともおいしくない。
 夕方になって寒くなってくると神経衰弱が起こってくる。思考がスムーズに進まない。
 同時に得体の知れない腹痛も起こってくる。
 こんな病気にさいなまれながら生きてゆかなくてはならないかと思うといいようのない不安と焦りがおこる。 
 もう帰ろう・・・・・。
 喫茶店を出て駅へ向かう。
 冬の風はしんから冷える。
 帰りの電車の中では寒さで本も読めない。
 ポケットに手を突っ込んでブルブル震えながら寒さに耐える。
 さみしい我が家(アパート)につく。
 何かしなくちゃと思いながら何も出来ないままこたつにちぢこまって時間を過ごす。
 気が付くともう夜の十二時。
 「ああ、またむなしい一日が過ぎた。」と溜息をついて、睡眠薬を飲んで床に就く。

 さみしん坊はそんな日々を送っている。
◇ ◇
 彼は現実世界で生きていけない人間だ。
 この世に彼の生きれる場所なんてない。
 だからついつい彼は夢の世界に引きこもる。
 さみしん坊は夢見る人間だ。
 彼はいろんな夢を見る。夢の世界だけは彼を慰めてくれる。
 そんな彼に声をかけてくれる人もいる。
 そんなとき心では嬉しいのに彼は人をうけいれることが出来ない。
 さみしん坊はへそまがり。
 でも人一倍寂しがり屋
◇ ◇
 さみしん坊は人が恋しくて医者になろうと思った。
 彼はかなしい人の気持ちが分かるから患者に好かれるかもしれない。
 でも彼は結局は誰にも心を開けないから個独は死ぬまで続くだろう。
 それでもいいや、とかれはかなしく諦めた。 
 でも彼は心の片すみにはかない希望をもっている。
 いつか人と心が通じる日が来ることを・・・。
 いつか幸せになれる日が来ることを・・・。
 それは夢かもしれない。
 でも彼は信じてる。
 ひとりぼっちで生まれ、一人ぼっちで生き、そして一人ぼっちで死んで行く。
 さみしんぼさん。くじけないでね。

兄妹

2008-04-14 03:11:50 | Weblog
兄妹
 私は高校時代を東京のK学園で過ごした。
K学園は男子部と女子部に分かれていて男女別学であった。
だが校舎は同じ敷地内にあり、公の行事は一緒に行われることが多かった。男子部にも女子部にも寮があり、全生徒の2/3は寮に入っていた。私も寮に入っていた。
 男子部にはワルが多かった。その中でも私より二年年上に岩川という札付きのワルがいた。彼は他人や学校のことなどおかまいなしにやりたい放題なことをやっていた。それで学校の名誉に著しくキズをつけていた。 
 だがワルには珍しく折り紙つきの秀才で、夜は徹夜で勉強し成績はクラスで一番だった。あんな頭のいい人間がどうしてあんなワルなのか私には不思議だった。
 だが私は岩川に「ワルの魅力」とでもいうようなものを感じた。
 岩川には二才年下の妹がいた。彼女は女子部に入っていた。彼女はあの兄と血のつながりがあるとは思えないほどおとなしく、そして心優しい子だった。
 女子部には専用の体育館がなかった。そのため体育の授業は男子部の体育館を使っていた。彼女達は体育の授業ではバスケットをやっていた。
 女子部の生徒達は体育館の行き帰りに男子部の校舎の裏を通らなくてはならなかった。そんな時男子部の生徒はよく女子部の生徒を冷やかした。 
 彼女が通るのも何回か見た。友達と陽気に話すというようなところは見たことがなく、いつも一人でだまって歩いていた。無口でおとなしい子にみえた。
 別に楽しいようでも悲しいようでもなく感情に乏しいようにもみえた。

 私には女子部の内情というものが全くわからなかった。わたしには女同士の会話というものが全くわからない。
 見た目には彼女らは心優しい人種のようにみえる。彼女らの社会にも男同士の社会にあるような乱暴さがあるのだろうか。
 だがとにかく岩川の悪事は全校に知れ渡る位の大規模なものであった。
 ケンカして相手を内臓破裂にさせ救急車が駆け付けたり、夜、人の車を無許で運転して校舎にぶっつけたり、などである。
 岩川の噂は当然女子部にも入っているはずだった。だが彼女はそんなことに影響されるでもなく相変わらず物静かでおとなしい子だった。
 だがきっと彼女は兄のことで形見の狭い思いをしていたに違いない。

 どうしようもなくワルな兄と心優しい妹。
ああ、神は一人の人間がもつ良心と悪をこの兄妹においては別々にしていまったのだ。
 彼女は兄の良心なのだ。
私は思う。
どんなに岩川がグレてしまっても、この妹との血のつながりがあるかぎり救われうるような気がする。

天国入試試験(小説)

2008-04-14 02:48:33 | Weblog
天国入試試験
ある男が死んだ。交通事故だった。人間は死んだら、神の裁きを受けねばならない。それで、天国行きか、地獄行きに決まるのである。
男が気づくと、男の前には神がいた。両側には天子が控えていた。神は大理石で出来た肘掛け椅子に座って、しばし、おもむろに男を眺めていた。が、閻魔帳らしきものを取り出して、しばし、黙っていた。が、おもむろに口を開いた。
「宇多よ。お前は生前、親にも牧師にも、さんざん、洗礼を受け、キリスト教に入信するよう言われたが、しなかったな。なぜだ」
男は、神をにらみつけて、言った。
「俺はてめえが嫌いだからだ」
「こいつ。主に向かって、何たる言葉づかいだ。土下座して詫びろ」
両側の天使の一人が怒鳴りつけた。
「よい。宇田よ。お前は、なぜ、私が嫌いなのだ。その理由を言ってみよ」
男はフンとせせら笑った。
「手前のえばった態度が嫌いだからよ。天国だの地獄だのをつくって、手前に従わなかった人間を地獄へ落とす、などとぬかして人間をおどして、支配しようとする手前のような野郎が俺は反吐が出るほど嫌いだからだ」
「ぬぬぬー。小癪な。主よ。こいつは当然、地獄行きですね」
天使の一人が額に青筋を立てながら主に向かって言った。神も怒って、閻魔帳をパラパラめくった。
「宇田よ。お前は、神を冒涜した。今の不敬罪で、減点10じゃ。お前は、悔い改めもせず、教会にも通わなかった。しかし、お前は生前、精神科医として真面目に働き、とりたてて、人を不幸にする行いは、何もしていない。さらに、お前は、誰も声をかけようともしない乞食や孤独な人間に、何度もあたたかい言葉をかけている。お前は、天国入試試験にギリギリのボーダーラインで合格じゃ。さあ、天使について行って天国へ行くがよい」
天使が、宇田の手を掴もうとした。
「待て。天国行きは拒否する」
男は怒鳴るように言って、天使の手を振り払った。
「な、なんと。そんな事を言った者は、はじめてじゃ。理由を言え」
「俺の高校時代のダチの山賀は、どうなった」
「あいつか。あいつは、万引き、暴走族、シンナーの悪で、バイクの暴走で死んで、当然、地獄にいる」
「そうだろうと思ったぜ。あいつが天国に入れる道理がない。しかし、あいつは高校時代、一人ぼっちでいた俺に声を掛けてくれた俺にとって、かけがえのない友達だ。あいつが地獄で苦しんでるのに、俺一人のうのうと天国で、ぐうたら寝てられるか」
男はつづけて言った。
「おい。神とやら。手前は、偉そうに、人を裁いてるが、人間で一番大切なものは友情なんだぞ。わかったか。天国行きは、意地でも拒否する」
そう言って男は、ペッと神に向かって唾を吐いた。
ぬぬぬー。神は額に青筋を立てて、唾を拭った。
男はつづけて言った。
「おい。神とやら。それにな、何も山賀だけじゃない。どんなに悪いヤツでも地獄で、永遠に苦しんでいる人がいるのに、のうのうと天国で安楽に過ごす何て事、とてもじゃないが、俺の神経じゃ耐えられん。これで十分わかったろ。俺を地獄へ落とせ」
そう言って男はペッと神に唾を吐いた。
「主よ。この男の不敬罪は、もう十分過ぎます。それにこの男も望んでる事です。この男は地獄へ落としましょう」
「駄目じゃ。このような心を持った人間は、ますます地獄へおとす事などできぬ。しかし、この男の神を冒涜する心は許せぬ。この男に最もふさわしい罰は、この男を天国へ入れる事じゃ。さあ、早く連れて行け」
「やめろー」
男は叫びながらも、天使二人に連れられて、天国(それは男にとっての地獄)へと連れられて行った。

ある業悪なるもの(小説)

2008-04-14 02:38:42 | Weblog
ある業悪なる者
(これは、たいした事ではないが、こんな事を実行している人間が私の身近にいるのである)
昔々、ある黒井という業悪な男がいました。昔、といっても、これはキリスト教が世界に広まってからのことです。黒井は自分が救われる事にのみ考えをついやしている、ずるがしいこい男です。黒井はキリスト教の神こそ本当の神だと思っていました。したい放題の事をして救われる方法はないものか、黒井は歩きながら考えました。そんな黒井に聖書の、ある比喩が目にとまりました。それは、ぶどう園のたとえ、です。朝からせっせと働いていた人間も、夕方、もう仕事がおわる頃に雇われた人間も神は同額の銀貨を与え、飢えから、救いなされました。これを読んで黒井は、しめた、と思いました。これなら悪人でも死ぬ前に悔い改めれば救われる。しめしめと、黒井は思いました。その後、黒井は、すきかってに生きました。人を傷つける悪口、人を人とも思わない扱い、怠惰な生活を送りました。聖書には、兄弟に向かって、ばか者、という者は愚か者である、他、諸々の教えが書かれてあり、それは黒井も知っています。しかし黒井には腹黒い計算がありました。それは、ぶどう園の喩え、です。
長い年月がたち、好き勝手に生きてきた黒井も老人になりました。黒井が自分の計画を実行に移す時がきました。黒井は洗礼を受け、教会に通い、敬虔なクリスチャンになりました。
さて、黒井に死が訪れ、神の前で、裁きの時がきました。黒井は神に言いました。
「主よ。私はあなたの裁きに従います」
主は言われました。
「黒井よ。お前は生前、好き勝手に私の教えを無視して生きてきた。しかし、老いて心から悔い改めたな」
黒井は、「はい」と答えました。
主はしばし黙っていた後、その重い口を開きました。
「黒井よ。お前を神の国に入れる事は出来ぬ」
主は突き放した口調で言いました。
黒井は食いつくように言いました。
「主よ。何故です。私は悔い改めました」
主は怒鳴りつけるように言いました。
「愚か者。お前が、ぶどう園のたとえを利用した事はわかっている。お前は私をも欺けると思っているのか。ぶどう園の喩えで、日が暮れて雇われた者は、その日、一日中苦しみ悩んでいたのだ」
主は続けて言いました。
「黒井よ。お前は神の国に入ることは出来ぬ。ゲヘナで嘆くがよい。黒井よ。聖書の言葉を自分のために利用する事は最もいやしい事なのだ。お前は私をも欺くつもりなのか」
こう言った後、神は後ろを向き、霞の中に、その姿を消していきました。

病気とは何か

2008-04-14 02:27:31 | Weblog
病気とは何か

(大学二年の時、哲学レポートととして書いたもの)

病気は患者にとって、いかなる意味を持つものであろうか。
また病人でなくても人は誰でも病気になる可能性を持っているものであるから、人間にとっての病気の意味といっても同じである。
まず病気には先天的なものと、後天的に発病したものとに分けられるであろう。しかし後天的な病気も、その病を発病させる素因を先天的に持っていて、起こるべくして起こったというケースが多いものである。また、病気には自らの不摂生によってまねいた病気もあるであろう。しかし一度病気にかかったならば、それに取り組まなくてはならない、という点では同じである。
病気の種類は星の数ほどあるが、いうまでもなく人間の意志でそれを選ぶことも避けることも出来ない。病気は自分以外のものの意志によって選ばされ、おわされるものである。そういう点で人間とはきわめて受動的な存在である。
しかしそれは何も病気に限ったことではなく、生、老、病、死、という人生そのものが受動的なものである。しかしそれをどう捉え、どう取り組むか、という決定は人間に与えられたものである。
このように人間は受動と能動の狭間でしか生きられない存在である。それゆえ人間は完全に自分の意志で人生を決定することは出来ない。受動と能動の狭間で苦悩する姿に真の人間の生はある。
誰にとっても病気は忌み嫌うものである。病気は生に制限をつける障害物である。病気は生に制限をつける障害物である。しかし病気は人間がこの世に生まれたこと、そして死ななくてはならないという事実と同様、人間の不条理なる宿命である。
病気とは生にほかならない。主体的に病気に取組むという事は主体的に生きるという事に他ならない。
一般的に病気とは医者が治すものであるという観念が強いように思われる。しかし病気は患者の人生そのものであり、治療を医者におまかせするというのは信頼ではなく、自分の人生を主体的に生きることの放棄である。
もちろんある場合には、医者を信頼することなしに医療は成り立たない。しかし、その場合でも医者に対する盲目的な依頼心であってはならない。
 ある医者を選び、その医者を信頼する決断を下したのが患者の主体的な意志であれば彼は主体的に病気に取り組んでいるといえるのである。
 治療方針の決定権は患者にある。医療とは患者(8割)、医者(2割)の共同作業である。病気に対する知識においても、たかだか数分の問診や検査と一般的医学知識をもって患者より上だと決めてかかるのは、長年にわたり24時間、無休で病気と格闘し、病気と共に生きてきた患者に対するこの上ない非礼である。医者には患者が病気から受ける感覚までは理解することはできない。しかしある場合には医者は患者が病気から受ける感覚を理解できる場合もある。それは医者が患者と同じ病気を持っている場合である。
病気は個人に特有のものである。病名は同じであっても症状や病気から受ける感覚は十人十色である。それは体質が異なるからである。また患者が自分の病気を自分の人生にどのように位置づけているかも各人で異なる。それは患者の価値観に基づく。医療はそれらを無視して成立しえない。また医療者も価値観を持っている。とすれば医療は異なった価値観のぶつかりあいである。ある場合には共感が起こるであろうし、ある場合には価値観の対立が起こるであろう。医療とは人間的対話であり、そこからよりすぐれた価値観を医者も患者も見出さなくてはならない。
 病気とは精神と不可分のものである。肉体と精神を結び付けているものは自律神経と各種のホルモンである。
 自律神経は内臓諸器官及び内分泌系を支配する不随意神経であり、その中枢は脳幹の一部である視床下部にある。脳幹は人間の意志と独立した生命維持の自動制御を行っているが、ここは人間の情動や欲求をつかさどる大脳辺縁系の影響をも受ける。強い不安感があるときに消化器系は良好に作動しないし、緊張や驚きは心臓の拍動をつよめる。逆に体の不調は感覚神経によって大脳に不安感を引き起こす。さらに辺縁系は新皮質と密接不可分である。動物は未来に不安を持つことはないし、過去を悔いる事もない。人間として生きるということは欲求や情動を押さえて生きるということである。また人間はあらゆることに疑問を抱き、苦悩する。
健常者の体は体内フィードバック機構によってバランスがとれているのであるが、それは病体でも同じである。ただし、病体では狂ったバランス状態である。人間の脳は、語学の習得やスポーツの技の体得のように根気よい反復によって神経細胞に疎通が起こる。それは病気の場合にも起こりうる。長期間の外界あるいは内部からの何らかの刺激の継続は辺縁系から視床下部へのある種の疎通を起こす。かくして生体におかしなバランスが出来上がる。どの器官に症状が現れるかは個人の体質にもよるし、その原因によって様々である。どのようなバランスが出来上がっているかは個人によって異なり、治療は個人の性格と、今までどのような生き方をしてきたかという歴史をみることなしに成立し得ない。
 個性的な人ほど個性的な病気にかかるものである。病気はその人の生き方の現れであるからである。
 病気ではなく人間を診る医療に既存のマニュアルは役立たない。医者自ら研究し、創造しなくてはならない。
 個人の病気を治す方法の発見は小さいながらも一つの真理の発見である。真理の発見がいかに困難なものかは歴史が示すところである。しかし一般的真理の発見と違って、個人の真理の発見は何ら社会的評価を受けることはないであろう。もっとも個人の中の何かの発見の中には普遍的なものが含まれているのであるが。
 また人間を診る医療は病院の勤務医においては点数を上げられない無能者とされ、開業しても赤字であろう。人間をみる医療は職業としては成り立たないものであり、また職業としてはならないものである。
 一般的に人間は文明が進み物事が便利になるほど、その便利さにかまけて怠けるものである。現代は夥しい情報を手に入れる事が出来る。だから自分で考えるより情報入手に熱心になる。
 現代は既存の科学に安易に頼りすぎる傾向がある。それは信仰にも近い。しかもその信仰の対象はなまじ真理であるだけに余計たちが悪い。その信仰とは科学がすべての問題を解決してくれるという信仰である。
 確かに科学のおかげで治った病気は多い。しかし病気はこの世から無くなりはしない。文明のもたらす便利さ、快適さは人間の生の意識を希薄にし、病気は忌み嫌うものという観念をもたらす。これでは人は病気になっても、病気から回復してもともに幸福感は得られない。この堂々巡りの病状を阻止する妙薬がある。それが哲学である。
 一般的に科学者ほど哲学を軽視する傾向があるように思われる。彼らは哲学を非科学的なもの、と捉えているのではなかろうか。あるいはわかりきった事と捉えているのではなかろうか。だが哲学は科学的な思惟であり、科学に矛盾しない。いや、科学そのものである。そして哲学とはおそらく答えが出せないものへの挑戦であり、それは神に対する挑戦である。それはバベルの塔を築こうとするあわれな人間の姿に似ている。
答えが出せないものならば求めるのをやめてしまった方が合理的であろう。しかし哲学をする人とは答えが出せないとわかっていながら求めずにはいられない因果な人間である。
 医療者にとっては医療はその一挙手一投足が哲学と不可分の関係にあるといっても過言ではない。
 また真に科学的であるという事は、この上なく厳しいものである。患者は最新の医療機器を前にした時、最良の科学的治療を受けている気持ちになる。しかし、科学とは物事を一切の先入観なしに観察し、考究することである。科学とは創造に他ならない。
 そもそも人間の体には自然治癒力が備わっている。人間の体には自己を守ろうとする機構しか存在しない。病気の発症も、体が自己を守ろうとした結果生じている場合が多いものである。アレルギーはよい例である。しかし例外も存在する。たとえばガン細胞は体内に発生した異物であり、ガン細胞はガン細胞自身のために増殖を行い、人体を破壊しようと行動する。
 後者のような場合は別として、前者のような場合の治療は如何にあるべきであろうか。
 たとえば喘息を考えてみる。喘息は気管支の副交感神経の過緊張によって起こるが、これは副腎からのアドレナリン、ステロイドホルモン分泌不足による。これに対し、ステロイドホルモンを体外から注射する行為は、緊急の場合は止むを得ないが、一時的には症状をおさえても副腎の機能をますます弱めるだけである。
 それとは逆に体を鍛錬すると副腎の機能が向上し、アドレナリンを分泌しはじめる。さらに脳が活発に活動していると脳内にアドレナリンが分泌する。
 だが、アレルゲンや発症の複雑なメカニズムは各人で異なる。
 体質は性格の影響も受けており治療は性格を変えることまで要する。これは患者が自覚して自己を知ろうとし、主体的に自己改革をする気を持たない限り、お仕着せの治療をしても奏功しない。
 では医者の役割とは何であろうか。
 医者の役割は患者に、病気に対する正しい認識を持たせること、患者の努力が誤った方向に向かわないように指導する事である。医者は患者を一人歩き出来るように導くものである。そういう意からして医者とは教育者である。
「教育の目的は各人が自己の教育を継続できるようにする事にある(デューイ)」
才能のある患者は医者を利用する事はあっても、医者によってすがる事はない。
 医者が患者の病気のみを診て、患者は黙って医者の言う事を忠実に守るという関係は、研究者がモルモットをあつかう図と何ら変わりはない。それは人間対人間の関係ではない。我々の暮らしが豊かになったのは分業のおかげである。しかし、分業してはならないものもある。生の思索は哲学者におまかせしておいてよいものではない。全ての人が多かれ少なかれ自分の人生そのものである病気の主治医とならなくてはならない。患者にとって、その病気を治す治療法はすでに存在している。ただ発見できないだけである。
治療法とは作り出すものではなく、探し求めるものである。価値あるものほどそれを手に入れるための代償は大きい。病気は必ず治す方法が存在する。それは、医者まかせでも、自己満足の健康法でも治らない。それは病気の克服に命をかけて取り組む患者の執念でしか発見できない。

病気の中には治りえない病気もある。その場合、病気は患者に苦しみしか与えない。しかし、絶望的情況の中にあって精神を気高く保ち、生きる意味と希望を求める姿ほど人間として価値ある行為はない。それは目立たぬ人生であるために人に評価されることは無いかもしれない。
 哲学者の柳田謙十郎は次のように述べている。
「人間は得意である時よりも失意に悩む時においてより深く人間的である」
 患者の病気を治すことができるのは何であろうか。医者の才能であろうか。根気強い努力であろうか。おそらくそれはその努力を支えるガソリンが何であるかにかかっているのではないか。
 幸福について作家の佐藤春夫は次のように述べている。
「幸福などというものは世の中にありはしない。それぞれの人間がそれぞれに一つずつ不幸を持っていて、その不幸を癒すためにこそ生きているのだ」
人間の心ほど矛盾したものはない。病気は怨敵であると同時に生きる目的でもある。いわばライバルである。矛盾した欲求が人間の情熱を持続させている。人は誰でも苦しいことから避けようとし、楽しい事の中に幸福を求めようとする。確かにそのようにして幸福を手に入れる事ができる時もある。しかし幸福は絶えず消滅の危機にさらされている。我々は苦難を幸福によって埋め合わせる事によって希望を持とうとする。しかし苦難の中にも幸福はある。幸福感のうち、苦難を長い期間の努力と忍耐によって克服した時の喜びほど大きいものはないだろう。
我々は能力や健康に恵まれたものを羨む。能力のある者が一年で身につけられるものを能力のないものは一生かけなければ身につけられないかもしれない。
しかし、旅をする時、徒歩で目的地まで行った人に対して、急行で目的地まで行った人には旅の素晴らしさはわからない。自分の欠点から目を背け、長所のみを伸ばす事にのみ喜びを求める事にはどうしても無理がある。
欠点を克服する事に喜びを求めようとしたら、全てのものが新鮮に見えるだろう。
病気の意義もそこにある。病気ほど生きた勉強はない。これを真っ向から取り組む時、そこから得られるものは、はかりしれない。そして人生の謎が解けた時ほど嬉しいものはない。