小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

保守、右翼とは

2017-07-31 14:34:57 | 政治
保守、右翼とは。

中国、韓国、を憎しみをもって嫌う。

軍事費を上げ、軍備増強する。

日本だけ良ければいい、と考える。(他の国は、どうなってもいいと考える)

世界平和は、どうでもいい、と思う。

アメリカの奴隷となる。ことを喜ぶ。マゾか?

中国の南京大虐殺、韓国の従軍慰安婦、問題は、デタラメだと言う。

右翼の街宣車を立派だと言う。

沖縄県民をコケにし、沖縄県は、日本国ではないと思い、本土防衛のために、米軍基地を強引につくる。

天皇を神のように崇め、天皇マゾになる。彼らは、喜んで、天皇の足をなめ、天皇の、排泄物を食う。

国内問題は、どうでもいい。と考える。

保守に反対するヤツを、「売国奴」、と呼ぶ。

オリンピックなど、スポーツの世界大会で、日本選手を応援しない者は、「売国奴」、と、ののしる。

自民党だけを応援し、他の政党は、売国政党と呼ぶ。

自民党が、どんなに、汚いことをしても、「保守」、だから許される、と考える。



これらの条件の内、一つが満たされれば、あなたは、立派な保守。

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安部晋三は売国奴であり、総理大臣の仕事は、趣味、お遊びに過ぎない

2017-07-28 03:32:15 | 政治
安部晋三は売国奴であり、総理大臣の仕事は、趣味、お遊びに過ぎない。

安部晋三は、首相になった時、「前回(第一次安部政権の時)は、息抜きが下手だった。だから、今回は、適度に、息抜き、を、入れる」、と言った。

そういう理由で、適度に、息抜き、を、入れることは、悪くない。
しかし、その発言は、全くのウソである。
安部晋三の本心は、そうではない。
総理大臣とは、日本の国内問題、の全て、と、他国との外交、防衛問題、に対して、全ての、責任を持たなければならない、日本で一番、責任の重い仕事である。
だから、総理大臣ほど、超ハードで、ストレスのかかる仕事はない。
しかし、安部晋三は、学生気分で、国会など、学校への出席の感覚なのである。
もちろん、総理大臣一人で、行政を行うことなど、不可能だから、内閣の各大臣、や、各省庁の官僚、個別の具体的な問題は、それぞれの審議会、専門委員会、など公務員が、国政の仕事をするわけで、総理大臣は、その責任者という立ち場、である。
しかし、安部晋三は、国会を、支持率の低い、野党、を、からかう、面白さ、を楽しむために、出席し、自分に、都合が悪ければ、サボる。
安保法案の時も、安倍は、ろくに国会に出席しなかった。
大臣席で、膝組し、腕組みし、ふんそり返った横柄な格好で、内閣の方から、野党に向かって、「はやく始めろー」、などと笑って言って、野党をからかい、まさに国会は、遊び感覚だった。
国政は、内閣の、各大臣や各省庁の官僚や、それぞれの審議会、専門委員会、などが、やってくれるのだから、総理大臣は、プロ野球でいえば、監督の立ち場である。
プロ野球で、いえば、選手こそが、一生懸命、プレーしているのであって、監督などいなくても、試合は、出来るのである。
(審判への侮辱行為で、監督が退場になっても、その後、プロ野球の試合は、何の問題なく、出来るのである)
このことに、安部晋三は、甘えて、かまけて、総理大臣としての責任の自覚、を捨ててしまっていたのである。
政治は、選手にやらせとけば、やってくれるのだから、自分は、ゴルフや、友人との会食、に明け暮れ、特定秘密保護法、電波停止、マイナンバー制度、カジノ法案、武器輸出、共謀罪(テロ等準備罪)、森友学園の籠池氏とのつきあい、加計孝太郎とのゴルフ、会食、憲法改正、など、いい加減な性格だから、政治をほったらかして、自分やりたい事、だけに心血を注いできたのである。
だから、南スーダンのPKOの活動記録、「日報」、のことも、知らないし、加計学園問題でも、「知らない、知らない」、と、他にも、何にも知らないのである。



私は、大学受験、と、医師国家試験の時は、寝る時間、以外は、一日中、朝起きてから、夜寝るまで、一日の全て、13時間、以上、を勉強に時間を費やした。
そうしなければ、試験に通らないからだ。
勉強いがいのことを、ちょっとでもすると、罪悪感が起こるからだ。
試験は、生死を分ける命がけのものだし。(落ちたら死である)
激しい精神的ストレスが、かかりっぱなしで、医師国家試験の前には、胃潰瘍になって、腹が痛くなり、もし、腸穿孔したら、入院だから、その時は、焦りに焦った。
まさに、そういう時、人、こそ、「適度な息抜き」、が必要なのである。



総理大臣なんて、仕事は、国民の命がかかった、受験生とは、比べものにならないほどの、最重責の仕事であるはずだ。
しかし、安部晋三にとっては、政治は、他人事だから、(安部晋三にとって国民は他人、であり、さらに国民でも安倍の反対派は敵)そして、行政は、無数の、優秀な選手(公務員)がやってくれるから、てめえは、遊びほうけていたのである。
その結果が、今週の月火の、みっともない、閉会中審査の結果であり、東京都議選での惨敗である。
あんなヤツこそ、まさに、売国奴である。

あんなヤツが日本の元首であるということは、日本人として、極めて、恥ずかしい。

安倍晋三は、日本の恥である。



もう、総理大臣の資格として、東大卒、司法試験合格、という条件をつけるしかない。

(私としては、法律より、経済の方が、重要だと思うのだが。なぜなら、経済は、世の全ての出来事で動くから、経済学者は、世の全てのことに、関心を持っているからだ。し、経済こそ、文字通り、経国済民、だからだ)

戦後の、総理大臣は、みな、東大卒、司法試験合格者ばかり、だった。

少なくとも、東大入学や、司法試験合格者は、一生懸命、必死で、努力する人間という、保証は言える。

遊んでばかりいる、チャランポランな人間には、東大入学や、司法試験に通ることは出来ない。

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安倍内閣がクズばかりな理由

2017-07-25 20:23:18 | 政治
加計学園の閉会中審査など、すべきでなかったな。(自民党にとっては)

なぜ、安倍内閣の大臣がクズばかりなのか。

それは、安倍晋三の、選ぶ、大臣が、安倍晋三の、お友達ばかり、だからである。

類は友を呼ぶ。であり、悪いヤツは、自分と気の合う、悪いヤツと、友達になる、からである。

つまり、悪いヤツの、友達は、同類の、悪いヤツ、が、多くなるからだ。

本当に、心のきれいな人間は、悪い人間とは、友達になれないのだ。し、友達となることを拒否するのだ。

「人をいじめる君とは、つきあわない」、と、堂々とね。



独裁になるのも、自分と、気の合う、お友達ばかり、だからである。

自分と同じ考えの人間、自分に賛同する人間ばかり、集まっていれば、「悪」、の強力な団結が生まれる。

友達だから、悪い事をしても、辞任を要求しにくいのである。

友情は大切だからね。友情に、ヒビを入れてはいけないからね



偉大な、本田宗一郎は、その真逆で、自分と考えの違う人間と、組む主義だった。

本田宗一郎は、出版した、自分の本の中で、そう書いている。

そうした方が、自分と違う意見が、ぶつかり合うから、議論が起こって、成長するからだ、と、語っている。

なんと、優れた人間であることか。

「意見の違いがあることこそが重要」、「違うからこそ組む価値がある」

「本田宗一郎語録」(小学館)



加計学園問題は、起こるべくして起こった。(ちゃんと、必然があるのである)

私は、医者であると同時に、喘息、胃腸病、不眠症、などの、患者でもあり、子供の時から、非常に多くの医者にかかってきた。し、今も、かかっている。

なので、非常に多くの医者を見てきている。

相手が、威張らない医者だと、こっちも、気が楽なので、医者に、色々と、質問したり、自分の考えを言うことも出来るのだが。

威張った医者、に対しては、こわいから、こちらは、物を言うことが出来ず、医者の、ご機嫌をとるしかないのである。

これは、医学部教授に対しても言えるし、その他、あらゆる権力を持った人間に対して、言える法則である。

独裁的権力者は、言葉で、そのものズバリ、のことを、言わなくても、怒った顔、笑った顔、満足した顔、不満がっている顔、などの表情や、goodなどの、サイン、態度、仕草で人を動かすことが、出来る。

たとえば、「ある政策」を、北朝鮮の金正恩に、臣下が申し上げて、金正恩が、満足な顔をすれば、臣下は、「ある政策」、を、すぐに、実行する。



安倍晋三は、国民を、バカにしきっている。

閉会中審査などする義務などないが、国会を、開いてやったんだぞ、という傲慢な態度。

やっと、膝組み、腕組み、を、やめ、内閣、政府の方から、野次を飛ばす、ことは、やめた。

国家ではなく、自分の危機意識のため。

その理由は、支持率低下をとめるため、だが、支持率3割りを切り、支持率26.2%まで、下がったが、説明しなければ、疑惑は、死ぬまで、(いや、死んだ後も)、続くのだ。



半年程度、前の、自分がした重要なこと、を、「忘れました」、というのなら、大臣は、みな、認知症患者である。

認知症患者に、政治家や行政をやらせてもいいのか?

そんな国は、危険極まりない。



検察、警察が、安倍晋三を、国策捜査の対象としても、いいはずなのに、検察、警察、は、それは、出来にくいのである。

なぜなら、安倍晋三は、共謀罪(テロ等準備罪)などという、検察、警察、にとって、非常に、美味しい法律を作ってあげた恩人だからね。



共謀罪(テロ等準備罪)などという、国民を丸裸にする法律は、国民の反対を完全に無視して、強引に作るが、自分に不利な事は、絶対、見せない卑劣さ。



仙台市長選でも、民進、共産など野党4党が支援する新人の元復興政務官、郡(こおり)和子氏(60)が、自民、公明両党の県組織などが支持する葬祭業社長、菅原裕典氏(57)ら新人3人を破り、初当選した。

横浜市長選でも、ガジノ利権の、自民が、はたして勝てるのか、注目したい。

「悪」、は、滅びるべき。

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武術雑感2

2017-07-23 04:38:27 | 武道・スポーツ
武術雑感2

型の意味、再考察。
You―Tube で、金沢和弘先生の空手の型の演武を見つけた。見ているうちに、型の意味、が、より、わかってきた。私は厳密に完全に、型の意味を理解しているわけではない。最も、空手や、武道の本をもっと読めば、容易に理解できる自信はある。ただ、空手の本より読みたい本が、たくさんあるので、手が回らないのである。それと、本で知るより、自分の直感力で見抜いてみたい、という欲求もある。ルパン三世ではないが、コンピューターが勝つか、私の直観力が勝つか、の勝負が面白いのである。私は中島敦の小説、「名人伝」ではないが、それと、似てて、型は、ほとんど覚えたが、ほとんど忘れてしまっている。何と、確実に覚えているのは、平安初段だけである。平安二段~平安五段まで、忘れてしまっている。ただ、型の演武を見ると、ああ、あの型、覚えたな、と、はっきり思い出して懐かしい。
さて、型の意味であるが、型の達人なら、自分の内的感覚で、型の意味は、理解できる。
さて、型の意味であるが、型の名人、金沢和弘先生の型の演武を見ていて、「あっ。わかった」と、感じたのである。一言でいうなら、型とは、自分の制空圏をつくる、という意味があり、自分の制空圏をつくる訓練なのである。というか、結果として制空圏が出来るのである。(もっとも、型の意味は、それだけではなく、他にも色々ある)では、制空圏とは何か。これは、制空圏という、言葉からイメージされる、格闘マンガでよく、見られているものであって、全然、難しい概念のものではない。梶原一騎の空手漫画、「カラテ地獄変」4巻で、大東徹源と戦ったカンフー最強の頭領、白月王が、戦いの時、目をつぶって、合掌しているが、その時、白月王を中心として球状のオーラのようなものが、描かれており、そのオーラの内部が制空圏といって、敵がその中に入る事が出来ない空間なのだが、それと同じなのである。すなわち、型を演じている時、漫画のように、自分の回りに、球状の制空圏が出来ているのである。その時、つまり型を演じている時、たとえ、正拳突きをしている時でも、左右や背後から、襲いかかられても、精神は無我の状態になっており、気で、すぐに、応戦できる状態に体がなっているのである。まさに自分の周囲に制空圏が出来ているのである。もっとも、ここまでの境地になるには、よほど、型の訓練をした達人でないと、無理である。つまり、型の達人が、型を演じている時は、スキがないのである。逆に言うなら、スキをつくらないで、突き、蹴り、受け、を一連の動作の中で、出来るようになるために、型というものは、つくられたのである。
フルコンタクト系の相当、実力のある黒帯の人でも、古式の型を訓練する意味がわからない人が多くいる。最も、当然、そういう人は、空手の技術は、しっかり身についている。だから、型をちゃんと、演じる事は出来る。しかし、あるフルコンタクト系の本で、「型の練習は、やってもつまらない。実戦で役立たない」と、黒帯の人が言っているのを、読んだ事がある。
これに対する私的見解。
それは、その通りである。フルコンタクト系の人の頭にあるのは、試合で勝つ事あり、それが目的である。試合で強くなるために、古式の型の訓練は、役に立つか、と言えは、役には立たないのである。試合では、一対一で、相手と対面し、戦う。だから、目前の相手にだけ、全意識を集中しており、また、そうするべきであり、また、そうしなくては、ならないのである。また、スキということ、についても、相手一人に対してだけのスキをつくらない、ことが大切なのである。試合で、後ろから、殴りかかってくる人間など、いないから、後ろに対する警戒など、する必要などない。そのため、日頃の練習においても、目前の相手一人に対してのスキをつくらない、研究、訓練をしなくてはならないのである。
古式の型の練習は、やって、害になることは、ないが、やっても、試合では、役にたたない。最も、当たり前のことだが、型は、突き、蹴りを含んでいる、というか、その組み合わせ、だから、突き、蹴り、の訓練には、当然なる。また、初心者から達人まで、腰を据える効果、体の移動を安定させる効果は、ある。こう、考えると、フルコンタクト系の人でも、内的欲求から、実感として、型の訓練は、ほとんどの人が、しているだろう。
ただ、突き、や、蹴り、の訓練は、型の中でよりも、から突き、から蹴り、で、やった方が、ずっと効果がある。限られた練習時間の中で、一番、効果のある練習をしようと、思うと、型よりも効果のある、から突き、から蹴り、の練習をしようと思うだろう。そして、組み手、の訓練である。そして、組み手、の訓練こそが、試合で、一番、効果のある訓練である。(これは、当たり前の事である)そして、ウェートトレーニングである。そして、持久力をつけるためのランニングである。つまり、基礎体力の訓練である。試合でも、寸止め、ポイント制、フルコンタクト、など、試合の種類によって、何が、一番、効果のある練習、かは、違ってくる。寸止め、ポイント制、なら、敏捷性であり、フルコンタクトなら、持久力、ウェートトレーニングとなる傾向があるだろう。また、フルコンタクトでも、タイ式ボクシングのような、ラウンド性で、途中の休憩があるのと、極真のように無いのとでは、異なるし、掴み、倒し、が、あるかどうか、でも違ってくる。

では、古式の型とは。
同じスポーツでも、形式の異なるものは、多い。というより、あるスポーツで、一つの形式しかない、スポーツというものの方が少ない。
オートバイで言えば、ロードレース、モトクロス、トライアル。
これらは、オートバイの運転が出来る、技術がなくてはならない、という基本は、三つにおいて、当然のことながら言える。しかし、ロードレースの選手は、トライアルは、出来ない。また、トライアルの選手は、ロードレースは、出来ない。一人で、ゆっくり、コースを回ることは、出来るだろう。しかし、ロードレースのテクニックは無い。
つまり、専門分化である。

ユー・チューブには、金沢和弘先生の型の演武があった。実に見事である。また、金沢先生以外の、アメリカ人の型の演武もあった。そして、アメリカ人の型の演武のスピード、技のキレは、金沢先生以上だった。それを見た後で、金沢先生の型の演武を、もう一度、見直してみると、金沢先生の型の演武は、アメリカ人より、遅く見える。では、アメリカ人の演武の方が、金沢先生より、上なのか。それは違う。型の完成度は、単に、スピードの速さ、や、技のキレではないのである。一つの型には、ゆっくり行うべき所と、素早く行うべき所が混じっているのである。つまり技の緩急である。これを見抜けているかどうか、が、型の上手さなのである。アメリカ人はフルスピードで、一気に型を演じてしまっている。つまり技の緩急が見抜けていなく、ゆっくり行うべき所も、フルスピードで行ってしまっている。こういう人の型の演武は、動作が素早くてもスキがあるのである。周囲に対する制空圏は、出来ていない。前方しか、見ていないから、背後に対してはスキがあるのである。
空手を試合を目的としている人が型の意味がわからないのも、これと同じ理由なのである。試合を目的としている人には、前方の対戦者にだけ注意を払う事だけ考えているから、型においても、前方しか、見ていないのである。試合を目的としている人も、空手の基本動作は、身についているから、型を演じる事は出来る。しかし、練習では、組み手、や、から突き、から蹴り、ウェートトレーニングが、ほとんどで、型の練習は、おまけ程度だから、型の意味まで理解することは、出来ないのである。

つまり、スポーツの専門分化である。オートバイで言えば、ロードレースの選手は、ロードレースの練習しか、しないから、当然ながら、モトクロスの技術は身につかない。モトクロスの練習は、しないからである。

もちろん、試合を目的としている人でも、型の意味がわかって、正しくスキのない型を演じる事の出来る人は、いるだろう。
ここらへんは、意識が関係してくるのである。
型の達人の演じる型の演武は、前後左右に対して、スキが無いのである。型は、突き、蹴り、受け、の組み合わせの一連の動作である。型は、型の、始めから、おわりまでの、一連の動作である。動きである。しかし、これは、動かないでいる構え、と同じなのである。ここでいう、「構え」とは、いわゆる、戦いの時の「構え」ではない。ただ、棒立ちでも、あるいは、ねっころがっていてもいいのである。
武術家は、いつも、24時間、戦う精神状態でいるわけではない。テレビを観ている時は、単なるテレビ観賞者である。試合になった時にだけ、戦いに対する準備が出来た武術家の精神状態に、なるのである。

型も、それと同じなのである。型と、座禅は、ほとんど同じである。空手家は、よく座禅や、黙想をするが、その時には、精神が武術家になっていて、スキがなく、もし、後ろから、殴りかかってくる者がいたら、すぐに、それを感じとり、その敵に対応できるだろう。
つまり、型とは、武術家の精神状態の訓練なのである。それを、動かない座禅の状態ではなく、型という動きの中で、しているのである。
松涛二十訓の中でも、「空手に構えなく、心に構えあり」というのが、あるが、それに似た点がある。
そして、型の達人の感覚では、型を始める時、型のおわりまで、型の全てが意識されているのである。見えざる敵に対する、心の構え、が、型の始めから、おわりまで、一時の休みもなく、つづいているから、型を演じている時は非常に緊張した、精神状態なのである。能と同じである。そして、型のおわりは、必ず、型の始めの元の位置にもどる。これも、型の必然性なのである。
型とは、見えざる敵に対する戦いである。型の達人が、型を演じている時は、本当に見えざる敵と戦っているのである。
これが、型の意味だと私は解釈している。


蹴りに関する考察
空手の蹴り、でも、流派や、目的によって違っている。
ブルース・リーの蹴りと、日本のフルコンタクト系の蹴りの違いについて、考えてみたい。
ブルース・リーの蹴りは、形が美しい。そして、連続して蹴っていく事が出来る。
一方、フルコンタクト系の蹴りは、ムエタイのように、腰ごと、ぶん回すことはなく、腰は、残すが、脱力で蹴っている。試合では、スピードが第一だから、腰を残したまま、脱力で蹴っている。空手の蹴りの基本は、まず、踵が尻につくまで膝を完全に曲げ、それから膝を伸ばすのが空手の蹴りの基本である。フルコンタクトの蹴りでも、この原理は、同じである。だが、完全に膝を曲げてから蹴っていたのでは、スピードが落ちてしまう。
そのため、膝は曲げるが、しなるように、完全には曲げず、しなるように、曲げの度合いが、少なくなるのだと思う。ともかく、ムエタイの蹴りとの違いは、腰を残すことだ。
伝統空手の蹴りは、一旦、膝を完全に曲げ、それから蹴るから、二動作になる。そして、脱力ではなく、インパクトの時、足に力を入れて蹴っている。しかし、この蹴り方の方が、形としては美しい。ブルース・リーの蹴りは、フルコンタクトの蹴りではなく、伝統空手の方の蹴り方だ。そのため、蹴りが美しいのである。
ブルース・リーは、よく、スピンキック(あおり蹴り)を使うが、これも、インパクトの時、膝はやや曲がっており、そして、踵ではなく、踵から足の裏で蹴っている。実戦カンフーファイターの具一寿氏の見解によれば、これは、正しい蹴り方ではなく。正しい後ろ回し蹴り、や、スピンキックでは、あくまで、インパクトは、踵で蹴り、インパントの時、膝は、完全に伸びていないといけない、と言っている。そして、大きく蹴るのではなく、小さくシャープに蹴る、と言っている。確かに、その方が、相手に与えるダメージが大きいだろう。フルコンタクト系では、後ろ回し蹴り、も、やはり脱力で、きれいに当たれば、ビシーンと重いダメージを相手に与える。
一方、ブルース・リーの、あおり蹴りは、形がきれいだが、敵の顔に足でビンタする、という感じで、威力は、フルコンタクト系の蹴りより、落ちるだろう。
では、ブルース・リーの蹴りのメリットは美しさだけか。
それは違うと思う。メリットは、美しさだけではない、と思う。インパントの時、足先に力が入っているから、はずれる、ということが、脱力で蹴るより少ない。足で敵の顔をビンタしているようなものである。こういう蹴り方は、一撃で相手をノックアウトすることは、出来ないだろうが。足のコントロールがよくなり、足を手のように器用に使えるようになる。そして、一撃必殺ではなくても、ボクシングのジャブのように、牽制、としての攻撃として有効だ。そして、そういう意識で使えば、実戦でも、使える蹴りである。
およそ、空手の蹴りの訓練では、から蹴りの時、蹴ってインパクトした状態の時、止めた方がいい。具一寿氏の言う独脚訓練法である。そして、これが肝心なのだが意識を足先に集中するのである。そういう訓練をしていると、足が非常に器用に使えるようになる。ほとんど、足を手と同じ感覚で使えるほどにまでなる。手と足の区別が無くなってしまう程にまでなれる。こうなると蹴りが、はずれる、という事がなくなる。こういうファイターは、敵もやりにくいものだ。気味が悪くなってしまうだろう。
要は、どちらの戦い方を選ぶか、という事だ。フルコンタクト系のように脱力で、一撃必殺をねらうか。
ブルース・リーの蹴りのように、蹴り、をボクシングのジャブのように牽制の技として、使うか、である。
もっとも、伝統空手の蹴り方を覚えても、フルコンタクトの脱力の蹴り方や、さらにはムエタイの腰ごと、ぶん回す蹴り方を、ともに身につける事は、十分可能だから、両方の蹴り方を身につけておけば、よりベターだろう。しかし、そういうファイターは、実戦になったら、どういう戦い方になるのか。使い分けが出来るのか、ミックスされた独自のオリジナルなキックになってしまうのか、それは、わからない。実戦では、考えている暇などない。


空手の達人、南郷継正氏の、解釈の誤り。
南郷氏は、武術に関して非常に深い洞察能力を持っている。氏の名前は、ウィキペディアにまで載っている。実際、氏ほど、深い思考力を持った人は、少ない。
しかし、南郷氏の見解にも、誤りはある。
氏は、自分を科学的な態度と言っているが、物事の分析に、自分の好き嫌いの感情を、入れてしまっている所がある。学者でも、そういう人はいる。嫌いな人の思想を批判する場合、感情的に嫌ってしまっているから、その人を深く知ろうとしないで、一部の局面だけ見て批判するから、正鵠を得ない批判になってしまうのだ。ちなみに、私はブルース・リーの知的能力を、優れていると思うし、また、ブルース・リーが、好きだが、感情によって、目が曇ってしまってはいない。ブルース・リーにも、間違っている所は多くある。まず彼は武術教師として、必ずしも、優れているとは、いえない。ブルース・リーは、自分が才能が、優れているために、途中段階の人の指導に、おいて、正しくない面があり、一言でいえば、いきなり、最終の完成したものを、教えようとしていて、その点は誤りである。これは、どんなスポーツにおいても、才能のある人が、指導者になった時、よくおちいる誤りである。指導能力という点においては、南郷氏の方が、ずっと、優れている。ブルース・リーには他にも誤っている面があるが、ここでは、ブルース・リー批判ではなく、南郷氏批判をしようと思うので、書かない。

また、物事の分析に感情を入れてしまっている以外に、氏は、空手で、他の武術を見てしまっている。だから、ブルース・リーや、中国拳法に対して、解釈が誤ってしまうのである。

まず、「靴が技のまずさをカバーする」について。
これは、誤りである。確かに、ある程度の重さがある、革靴や運動靴なら、初心者の蹴りにおいて、靴を履いた方が、素足より蹴りを誤魔化せる面も、多少ある。しかしブルース・リーの履いているカンフーシューズは、非常に軽く、靴を履いても、ほとんど素足と変わりがないからだ。

また、氏は、空手の目でカンフーを見てしまっている。
ブルース・リーのテレビの採用面接で、リーは、目突き、フィンガージャブ、裏拳、をまず、演じている。
あの目突き、は、空手の抜き手ではない。空手家が、ああいう動作が出来るか、といったら、出来ない。また、裏拳も、空手の裏拳とは違う。空手家が、ああいう動作が出来るか、といったら、出来ない。あの演武の時は、映画のアクション以上に、完全に自由だから、リーは、最高のテクニックを使っている。私はカンフーは、わからないが、おそらく、あれが、カンフーの力の出し方なのだろう。また、リーは廻し蹴りも、しているが、あれは、形は、空手の廻し蹴りと同じだが、あれは空手の廻し蹴りではない。空手家で、ああいう廻し蹴りが出来る人がいるであろうか。

また、リーは、空手とカンフーの違いを説明している。空手のパンチは、鉄の棒のようであり、バーンと当たる、と言っている。一方、カンフーのパンチは、鉄の球に鎖をつけて、振り回して当てるようなもの、と、説明している。そして内臓に衝撃を与える、と言っている。確かに、鉄の棒で叩いたら、体の外部に、ダメージを与える。そして、鉄の鎖を振り回して、相手に当てたら、内臓にまでダメージを与える事は、十分、想像できる。
運動において、同系統の運動では、難度の高い運動選手は、同系統の難度の低い運動を説明できる。硬式野球の選手は、ソフトボールを説明できる。硬式テニスの選手は、軟式テニスを説明できる。
しかし、逆は、言えない。難度の低い運動の選手は、難度の高い運動を説明できない。
カンフーを身につけている人は、空手を説明できる。
しかし、逆に、空手家で、カンフーの原理を説明できる人がいるであろうか。

また、リーは、パンチとキックの攻撃の後、「鶴の型」と、「虎の型」を演じた。空手家で、あのような動作が出来る人がいるであろうか。私もリーの真似をして、リーの「鶴の型」と「虎の型」を、やってみた。私は空手は、出来るので、空手の出来ない人よりは、ある程度、それらしく出来る。武術に関心の無い人には、これがカンフーだと誤魔化すくらいには出来る。私でなくても、空手家なら、かなり似た運動が出来る。しかし、リーのように、なめらかには出来ない。そして、マネをする事によって、カンフーの運動を多少、感覚として理解する事が出来た。空手は体を岩にして、屈筋の力を無くして、伸筋の力だけ、使う事によって、パンチを打っている。他の動作も、それと同じ原理である。だから、空手の場合には、体と手が別で分かれているのである。一方、カンフーの場合は、体と手が、つながっているのである。これは、呼吸も関係している。リーのような、滑らかな動作をしようとすると、特殊な呼吸の必要を感じるのである。
ゆえに、カンフーは、空手を低く見ているが、事実、奥の深い難度の高いものであるのは、間違いない。(ちなみにカンフーとは、中国武術という意味と、中国武術を身につけた人という両方の意味があり、「功夫」と書き、カンフー、つまり、くふう、する、という意味である)


また、思うに、中国拳法では、動物を模した拳法が、多いが、単に、外面だけ、似せている以上のものがあると思う。つまり、感情も、その動物に、かなり、なっていると思う。動物の、運動や感情は、その動物固有のものである。猿と虎では、運動も感情も違う。猿の拳法では、外面の形が猿の動きに似ているだけではなく、感情も、かなり猿になっていると思われる。
武道では空手でさえ、そうとう、深いものがある。
なら、もっと技術の高い中国拳法は、空手より、もっと奥が深いものだと思う。
そして、どんなスポーツや、運動において、驚くほど、必然性というものがある。長い歴史の中でつくられたものには、感心するほど必然性がある。

截拳道とは
なぜブルース・リーが、あれほどまで、自分の戦い方を完成させようとしたか。
現代においては、武道は、ルールを決めたスポーツとして発展させる方が有意義である。
そして、事実、武術家で、ストリートファイトでの戦い方をムキになって研究している人は、ほとんどいないか、極めてわずかだろう。そういう研究をしている人はマニアックな人である。では、なぜ、リーは、そういう研究にムキになったか。
ちなみに、リーの截拳道とは、リーの思想、あらゆる束縛から開放されて自由になる思想であって、リーが考え出した形式の武術ではない。
リーの思想とは、「自分が本当の自分自身になること」つまり、自己実現の教え、である。
現代において、自分の戦い方を研究し、完成させている人は、被害妄想的な人である。
ちなみに、映画、「シェーン」のシェーンのような人間こそが、本当の武術家なのである。ちなみにシェーンのアラン・ラッドは、映画の中だけではなく、本当に抜き打ちの達人である。
ではなぜ、リーが、被害妄想的になったか。
それは、リーが、彼に本当に襲いかかってくる敵がいる状況をつくってしまったからである。リーは、武術における流派というものの、弊害を書いてしまっている。そして、リーの書いた流派の弊害というものは、事実なのである。つまり、リーは、事実を書いたに過ぎない。しかし、武術家が流派というものを批判した場合、傲慢だと思われ、嫌われる。実るほど頭を垂れる稲穂かな、で、謙虚な事を言っている人が、世間では、立派な人だと思われる。しかし、それは、むしろ八百長だ。そういう人は、物事の本質を見抜く能力が無いか、あるいは、世間の非難をかわすため、謙虚を装っている人だ。しかし、リーは、流派の弊害という事実を書いてしまったため、傲慢な人間だと思われてしまった。そのため、リーは、なまいきなヤツだ、というレッテルを貼られてしまった。アメリカの全武術家を敵に回してしまった、といえる。実際、リーに、戦いを挑む者、挑戦してくる者が何人もいた。そのため、リーは、暴漢から身を守るため、自分の戦い方を研究して、完成させなくてはならなくなってしまったのだ。
それ以外にも、理由はある。リーは、性格的に、マニアックというか、物事をあいまいにせず、とことんつきつめて研究してしまう性格である。

また、リーの遺志をつごうと思うなら。
それは、詠春拳を学ぶ事でもなければ、リーか教えた詠春拳的な、手をからめる練習をする事でもない。リーが、教えたかったのは、「あらゆる束縛から解放されて、自分が本当の自分自身になること」である。リーは、詠春拳をマスターしているから、それを使って、「自由になる術」を教えたのに過ぎない。リーの、手を絡めるような練習は、手段であって、目的ではないのである。その事が理解できている人なら、リーの詠春拳的な手を絡める練習をしても、全く問題はない。しかし、もし、その事が、わかっていない人ならば、かえって自分を束縛してしまうだろう。


ジャッキーチャンのデビュー作、「酔拳」の8人の仙人の型は、実際の、酔八仙拳の型通りである。もっとも、実際の型では、バク宙や、前宙まであって、ジャッキーチェンは、その場前宙は出来ないから映画では省略してある。ユン・ピョウなら、バク宙や、その場前宙さえ、容易に出来るから、ユン・ピョウなら、もっと見事な酔八仙拳の型を演じられただろう。ちなみに、はじめの型の仙人、呂洞賓(ろとんひん)は、芥川龍之介の、「杜子春」で、仙人が歌を歌っているが、その歌の作者である。つまり、呂洞賓(ろとんひん)は、実際に存在した仙人である可能性がある。
ちなみに、確かにユン・ピョウの方がジャッキーより、技が上である。だからといって、私はジャッキーより、ユン・ピョウの方が特に好きなわけではない。ジャッキーの方がコミカルさでは、ユン・ピョウより上で、そのため、ジャッキーは一般の人にうけているのだ。私とて、技至上主義ではない。技の上手さだけで考えるなら、オリンピックの体操選手やテコンドー選手は、スーパースターになれる事になる。また、コミカルさにおいても、ユン・ピョウは、ジャッキーに負けないくらい面白い。最初に、ジャッキーが、「酔拳」で、バーンとデビューしてしまったため、ユン・ピョウはデビューが遅れたが、不運である。しかし、最終的にはユン・ピョウも、スーパースターになれたのだから、そう不運でもない。しかし、カンフー映画にコミカルを取り入れたのは、ジャッキーのアイデアだから、やはり、ジャッキーの才能は、すごい。

ちなみに、私が、「格闘技の科学」の吉福康郎先生の突き、や、蹴り、を測定するために、協力してくれ、と頼まれたら、私は、ことわる。なぜといって、あの力の測定法は、正しい測定法ではないから。いたずらに手を傷めるだけである。

およそ、武術というものは、その原点は、虐げられた人々によって、考え出されたものである。

ちなみに、「ドラゴンへの道」で、ローマのコロシアムで、戦った時の、猫が、にゃーと鳴いて、戦いの火蓋が切られ、リーが、チャック・ノリスに先制攻撃のキックをした時の蹴りおわった時の、リーの防御の動作は、リーの、「鶴の型」と同じである。

ちなみに、「ドラゴンへの道」で、黄仁植が、あげ受けと下段払いをしている構えは、「壮鎮」の型である。

ちなみに、「グリーン・ホーネット」を観ると、リーのアクションは、必ずしもかっこよくない。「グリーン・ホーネット」は、リーの最初のアクション映画(ではなくテレビ)だろう。あれで、リーは、武術の技を見せたい、という強い思いにとらわれてしまっている。ので、アクションが自然に見えない。映画ではアクションは自然に見えなくてはならない。

ちなみに、リーは、飛び足刀蹴りで、両手を大きく開いているが。普通、飛び足刀蹴り、では、蹴る足と反対の腕は、曲げて、脇にしっかりつけておくものである。しかし、リーは、大きく手を開いている。これは、見栄えを良くするためではない。リーにとって、飛び足刀蹴り、では、手を開いた方が威力が出るからであって、その点、リーの飛び足刀蹴り、は、自分に合うように工夫したリーのオリジナルな飛び足刀蹴り、である。


カポエラ
カポエラをユー・チューブで見た。梶原一騎が、カポエラとは、逆立ちしたまま、足をぶん回す格闘技と、書いていた。もちろん、本当かなと、疑っていた。逆立ち、なんて、ただでさえ、体力を消耗する。それで、足をぶんまわして、戦うなんて、極めて体力を消耗してしまう不利な戦い方である。
そして、ユー・チューブで、カポエラを見た。やはり、思った通り、逆立ちしたまま足をぶんまわす格闘技ではなかった。そもそも、カポエラは、格闘技ではない。格闘技の形をした舞踊である。もっとも、舞踊といいきるには、あまりにも、蹴りが本格的すぎる。だから、カポエラは、舞踊であり、格闘技である両面を持ったものである。そして、非常に明るく楽しい。回りの人が歌を歌いながら、二人のカポエラマンが、戦う形で踊っている。もっとも、社交ダンスは、べったりくっついた、チークダンスと違って、緊張した戦い、という感覚も含んでいるように、見受けられるから、共通点があると、思う。カポエラを見て、すぐに物凄く気に入ってしまった。確かに、逆立ちしっぱなしではない。そしてパンチは無く、蹴りだけである。空手の後ろ回し蹴り、や、あおり蹴り、中国拳法の旋風脚、などが多い。もっとも、形は似ているが、蹴りの原理は、同じではなくカポエラ独自のものである。空手のようにスナップを利かせて蹴るというより、足は伸ばしたまま、足に力を入れず、足を大きく振り回している。足に力が入っていないから、足の脱力によって足先が重くなり、体が足によって振り回されている。直線的な蹴りは、少なく、回転する蹴りが多い。そして手を地面につけて、一瞬、逆立ち状態になるというような事も非常に多くしている。だから、梶原一騎の書いた事は、少し当たっている点もある。梶原一騎は、カポエラを本当に正しく知らなかったのかもしれないが、知ってて、わざとカポエラを逆立ち格闘技と描いた可能性もあると思う。作品を面白くするために、カポエラを逆立ち格闘技に、脚色した可能性が考えられる。梶原は作品を面白くするために、事実を脚色することが非常に多い。
カポエラには、側宙や、バク宙などのアクロバットもある。それが、とても面白い。私も側宙は出来る。カポエラの動画を観て、一瞬でカポエラをやってみたくなってしまった。日本にカポエラを教えている組織は、あるから、一度、習ってみようかとも思っている。さて、カポエラの歴史だが、カポエラは黒人の奴隷が、手枷をされた状態で、密かに反抗を計画して考え出された武術である。そのため、パンチはなく、全て足技なのだ。そして、武術の練習をしている、と、気づかれないように、踊りに見せかけたのだ。
空手も、禁武政策のもとに、考え出されたものだから、武術と、ばれないよう型を踊りのように、カムフラージュしたのだ。中国の太極拳など、まさに、踊りとしか見えない。
どの国の武術も、そういう共通点が多い。
カポエラは、その始まりにおいては、やはり武術としての目的からだっただろう。しかし、奴隷制度がなくなり、平和な時代になったため、戦う必要がなくなり、そのため、カムフラージュだった踊りの要素が、強まって現代のカポエラの形になったのだろう。
しかし、カポエラは、完全な踊りになってしまったのではなく、蹴りの格闘技という面も確実に持っている。
では、カポエラを身につけたカポエラファイターが、実際のケンカになったら、どう戦うであろうか。
現代のカポエラの形通りに、戦うとは、まず絶対、考えられない。ケンカで、パンチという、もっとも有効な攻撃を使わないはずがない。
では、カポエラの蹴り、や、逆立ちしての攻撃は全く使わないだろうか。私はそうも思わない。

まず、梶原一騎が漫画で描いているように、倒立しての蹴りというものを考えてみる。
まず、梶原は、足の力は手の三倍と言って、パンチより、キックの方が威力がある、と、よく書いている。誰でも、蹴りの方が、突きより、威力がある、と思ってるのではないだろうか。しかし、私はそれは、違うと思う。倒れている敵に対する踏み込みとか、を除いて、普通に軸足を床につけて蹴る蹴りを考えてみる。この蹴りとパンチの威力を比較してみたら、パンチの方がキックより、威力があるかもしれない。なぜかというと、パンチの場合には、上半身のウェートが、かかるからだ。キックの場合、支点は軸足であり、上半身のウェートは、かからないからだ。ただ、空手は腕や足の力で蹴る。足の方が手よりも筋肉が太いのは、明らかであるから、それを考えると、総合では、パンチより、キックの方が、大きな威力を出せるのかもしれない。

さて、逆立ちして蹴った場合、どうなるか。この場合、支点は、手だから、上半身のウェートが、かけられると思う。しかも、空手の場合、どんな蹴りでも片足でしか、蹴れないが、逆立ちした場合、両足で蹴ることが出来る。もっとも、上半身のウェートがかかった蹴りが出来るようになるには、そういう、蹴り方の訓練をしなくてはならないが。だから、逆立ちしての蹴り、というのは、最も威力を出せる攻撃法だと思う。もっとも、空手の試割り、での、踏み込み、なら、上半身のウェートも、かかる。だから、倒れた敵に対しての、踏み込み、は、威力がある。しかし、そういう例外的なケースを、別にすれば、通常の、お互い、立ったままでの戦いでは、蹴りには、上半身のウェートは、かからない。

さて、カポエラは、逆立ちしっぱなしで、蹴りのみで、戦うという事はない。しかし、非常に頻繁に、手を地面につけて、回転する、という事をしている。これは、敵を撹乱させる。そして、逆立ちしている時には、敵はカポエラマンを攻撃することは出来ない。言うまでも無く、戦いになった時、一番、効果のある攻撃は顔面へのパンチ、キック攻撃である。倒立している時には、顔は下にあり、敵は顔への攻撃をすることが出来ない。足で、蹴とばせるものでもない。両足が手の代わりの防御になるからだ。

では、カポエラを身につけたカポエラファイターが、実際のケンカになったら、どう戦うであろうか。
私が思うに、現代のカポエラの形通りに、戦うとは、まず絶対、考えられない。ケンカで、パンチという、もっとも使いやすい武器を使わないはずがない。
では、カポエラの蹴り、や、逆立ちしての攻撃は全く使わないだろうか。私はそうも思わない。まず、側転のような事は、敵を撹乱させる。逆立ちした相手に対して、どうやって戦えばいいというのだ。戦いで最も有効な顔面への攻撃がパンチにせよ、キックにせよ出来ないではないか。また、逆立ちしているから、金的攻撃が出来るか、といえば、出来ない。なぜなら、両足が協力なガードになるからだ。それにカポエラの倒立状態は、一瞬でしかない。そして、蹴りの威力がすごくなる。空手道の蹴りは、片足であり、また、パンチと違って、キックは上半身のウェートがかからないから、片足の力でしかない。しかし、カポエラでは、両足で蹴れる。しかも、空手のように、足だけの力ではない。手が支点だから上半身のウェートさえかかる。空手の場合、支点が軸足だから、上半身のウェートはかからない。だから、梶原一騎が、描いたように、逆立ちした体勢での蹴りは、空手の蹴りより、足を自在に使いこなせれば、威力は上である。以上は、梶原一騎の描いたカポエラを想像してみたものである。

しかし、実際のカポエラは、逆立ちになる状態は、一瞬であって、やはり実戦で使える蹴りではない。もっとも、これは、逆立ち状態になった時の蹴りのことであり、カポエラの旋風脚や、後ろ回し蹴り、は、実戦で使える。
そして、一瞬でも逆立ちした状態になる時は、敵を撹乱させるし、また、敵も攻撃できない。ちょうど、中国拳法で、地功拳(寝た状態で戦う)というのが、あるが、それと同じで、逆立ち状態では、敵は戦いようがないのだ。
実際にカポエラファイターが、ケンカになったら、どうなるかは、わからない。
ただ、カポエラは、日頃から舞踊という形をとっているが、その舞踊には相手の動きを観察している格闘の要素があり、また、蹴りの訓練、アクロバットによる体力の訓練をしているようなものだから、カポエラをしている人は、実際のケンカになっても、強いことは間違いない。

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天皇制は宗教と同じ

2017-07-21 06:18:30 | 考察文
「天皇制は宗教と同じ」

である。

天皇の血統が、間違いなく、継承されているという保証などない。

特に、平安時代、など、昔にさかのほれば、さかのぼるほど、天皇の、血統の正当性など、あやしくなる。

おそらく、天皇の血統の、正確な伝承など、行われていないだろう。

一人、天皇の、血統の伝承が、違えば、その後は、もう、天皇制は、何の意味もなさなさなくなる。

しかし、それでいいのである。

天皇制は、宗教と同じく、遺伝的、事実的、な、正確性に、意味があるのではなく、「制度」、に、意味があり、「制度」、を、日本国民は、ありがたがっているのだから。



それは、たとえば、キリスト教に、おいて。

イエス・キリストが、性交によらず、処女解任によって、生まれた、「神の子」、など、どう考えたって、生物学的に、ウソであるとしか、思えない。

カトリックや、江戸時代のキリシタンのように、信仰心の非常に強い、クリスチャンなら、聖書に書かれてあることを、全て信じているだろうが。

「キリスト教は、博愛の、いい宗教だ」、程度に思っている、非常に多くの人は、イエス・キリストが、セックスによらず、処女解任によって、生まれた、などとは、まず信じていない。

それでも、宗教は、成り立っているのである。

日本の天皇制も、それと同じで、血統の正当性の真偽なんかに、意味はなく、天皇制という、「制度」、に意味があり、そして、日本人は、天皇の、血統の、生物学的な、正確な伝承を、(むきになって、ではなく)、なんとなく、ほんわかと、信じることに酔い痴れたいだけなのである。

つまり、「天皇制」、というものが、古事記に始まる日本の歴史の始めから、途切れることなく、続いてきた、ということが、日本の誇りであり、重要なのであり、今上天皇や、近く即位する、現、皇太子殿下、は、どこの、馬の骨の末裔であっても、一向に構わないのである。

そもそも、親子一代に限ったって、私は、自分の両親が、自分の本当の両親であるなどという、医学的な証明などしていないし、ほとんどの、家庭でも、そうだろう。

DNA鑑定なんて、やってないし、昔は、DNA鑑定なんてなかった。



何事でも、「タブーにする」、という行為が、「神聖性」、を作り出すのである。

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僕は、動物園の動物のショーが大嫌いだ

2017-07-18 05:57:52 | 考察文
昨日、NHKで、動物園での、動物のショーの番組をやっていた。

僕は、見ていて、ヘドが出た。

あれを、日本国民の、全ては、動物に対する愛、だと、思っている。

「人間は暴力によって、他の動物、全てを支配しているのである」

↑これは、間違いない事実である。

人間が、一番、知能が発達した動物だからだ。

だから、人間は、動物を殺して、食べ、、動物を実験材料にして、医学、生物学、を発達させている。

しかし、その方が、僕は、抵抗を感じない。

なぜなら、人間が、生きていくためには、それは、仕方がない行為だからだ。

しかし。

動物を、せまい檻の中に入れて、徹底的に、芸を仕込んで、人間の、見世物にする、という行為は、別に、しなくても、人間は、生きていけるのだ。

動物園や、動物のショーなどは、無くても、人間は、生きていけるのだ。

「人間の、娯楽のために、動物を調教して、オモチャにしているのだ」

これを、動物に対する、「愛」、などと、バカな人間どもは、勘違いしている。



確かに、動物は、感情があり、飼育員との間には、「愛」、の感情の関係が生まれる。

しかし、それは結果論だ。

また。希少動物だったら、その保護、という行為は、悪くない。し、むしろ、良い。

しかし。

所詮。

動物園での、動物のショーなどは、無くても、人間は、生きていけるのであり、動物のショーとは、人間の、娯楽のために、動物を調教して、オモチャにしている行為であり、そんなもの、無くても、人間は、生きていけるのである。

動物は、自然の中で、自由に生きさせる方が、いいのだ。

それが、自然の摂理であるはずだ。

一方。

動物を、食用のために、食べたり、医学、生物学の向上のために、実験材料として、使うのは、人間が生きていくうえで、やむを得ない、仕方がない行為なのである。

だから、僕は、動物ショーの方が、見ていて、胸糞悪くなる。

なぜなら、動物園や動物ショーは、それが、無くても、人間は、生きていけるからだ。

(入場料をとることによるによる、人間の、経済活動である、という理屈もつけられるが)

これを、僕以外の、全ての人間は、動物愛護だと勘違いしている。



もし、人間より、知能の発達した、動物(A)が出現して、人間を支配し、動物A、が、あなたを、群れ(人間社会)から、隔離して、せまい檻の中に閉じ込め、あなたに、芸を仕込ませ、動物A、の見世物にする、ということになったら、あなたは、幸せを感じるのだろうか?

特に、いくらでも、無限の空間を飛び回れる、鳥を、ほんの、ちっぽけな鳥籠の中に閉じ込められたら、鳥は、幸せだろうか?

動物をかわいがる、という、言葉に名を借りた、人間の、エゴ、以外の何物でもない。

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人間は一人きりの方が成長する

2017-07-17 03:09:37 | 考察文
「人間は一人きりの方が成長する」

と、僕は、思っている。

友達や、家族など、仲のいい人と、一緒に生活していると、何事においても、色々と便利であり、有利である。

人間一人の持っている知識量、は、莫大である。

(そして、また、「まず一人の友達を作る」、ということは大切なことでもある)

しかし。

そういう便利な存在が、身近にいると、何か問題が起こった時、まず、最初に、真っ先に、その友達に聞いてしまう。

そして、その友達の意見によって、問題を解決しようとする。

しかし、人間の、知識とか、考え、なんて、いい加減なことが多い。

間違った知識、いい加減な知識、いい加減な考え、が、非常に多い。

なので、友達の多い人間は、自分で調べようとせず、友達の意見によって、問題を解決しようとする。

自分で、調べようとしない、悪い習慣が身についてしまう。



しかし。

友達も家族もいない、一人きりの人間は、自分で、調べ、自分で、問題を解決するしか、方法がないのだ。

だから、一人きりの人間は、他人に頼ることが出来ないから、自分で調べ、自分で問題を解決するしか、方法がないから、自分で行動して問題を解決する、という、能力が、向上するのだ。



大体、友達が多いヤツは、困ったことが起こると、まず、自分で調べたり、考えたりせず、すぐに、友達に、どうしたらいいか、聞いてしまうから、自分で考える思考能力が低下してしまい、すぐに人に頼る甘ったれ、た、ヤツになってしまう。

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稲田朋美はアホ

2017-07-16 23:50:12 | 政治
稲田朋美は、黒縁のメガネをかけていると、きれいだが。

稲田朋美によると。

「日本国民は全員、血を流す覚悟で、日本を守らねばらならない」

のだそうだ。



アホである。

自分が何を言っているのか、わかっていないんだろう。

極右的愛国主義、全体主義、価値観の、押しつけ、である。

日本には、国民の全てが、自分の、思想、信条を持つ権利がある。

どこかの国が、日本を攻めてきた時。

私は、「日本を守りたい。とか、日本を守るために、戦いたい」、などとは、全く思っていない。

私は、敵国が日本を攻めてきた時は、手を上げて、投降する。

そうすると、敵国に捕まえられて、捕虜になる。

ジュネーブ条約など、国際人道法から、捕虜は、殺してはいけないことになっている。

(しかし、ジュネーブ条約が守られるという保証はない)

しかし。

もし、捕虜を、虐待したり、殺したりしたら、日本の軍事同盟国である、アメリカが、敵国にミサイルを撃ち込む、恰好の口実になる。

し、そうなるだろう。

だから、敵国は、捕虜の、虐待、や、殺害は、出来にくいのである。

(歴史を振り返ってみても、戦争の開始なんて、全て、敵国の非を求める、口実が欲しくて欲しくて、仕方がないのである)

自国が正義である、という、大義名分が、欲しくて欲しくて、仕方がないのである。

満州事変しかり。

豊臣を、潰すための、家康の、方広寺の、「国家安康」、の文字の、難癖つけ。しかり。

日本では、天皇を、取り込み、天皇を見方につけることが、正義の戦争にする、大義名分だった。

すべて、そうである。

私は、愛国心が、ないわけではないが。

暴力に暴力で対抗することが嫌いなのである。

稲田朋美氏の、「日本国民は全員、血を流す覚悟で、日本を守らねばらならない」、という発言では。

女子供まで、「血を流す覚悟で、日本を守らねばらならない」、ということになる。

あまりにも、酷なのではないだろうか?

それに、憲法で保障されている、国民の、思想、信条の自由にも、反する。

司法試験を、通っていても、法律というものを全くわかっていない。

高校生でも、わかりそうな、法律の、ごく簡単な、基本さえ全くわかっていない。

愛国心の強制が、神風特攻隊を生んだのである。

私は、命はおしくないが、腐りきった政府のためになんかは、絶対、死なない。

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劉暁波(りゅう ぎょうは)

2017-07-15 17:24:32 | 政治
中国の偉大なる非暴力主義者。

マハトマ・ガンジー。ネルソン・マンデラ。マーチン・ルーサー・キング牧師。アウンサンスーチー。劉暁波(りゅう ぎょうは)。その他、非暴力主義者は、偉大だ。

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<自民>首相出席の予算委懸念「世論、批判強めかねず」

2017-07-12 05:19:18 | 政治
「学校法人「加計学園」の問題を巡り、自民党が衆参の予算委員会開催に慎重なのは、安倍晋三首相が出席して質疑を受けても、野党の追及や世論の反発が収まる見通しが立たないためだ。党執行部は、10日の閉会中審査に続いて質疑は平行線をたどるとみており、「首相が集中砲火を浴びる姿がテレビ放映され、世論の批判を強めかねない」(党関係者)と懸念する。」

(毎日新聞7/11(火) 22:02配信)



政府は腐りきっている。

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安倍晋三の辞書に「反省」の文字は無い

2017-07-04 12:20:40 | 政治
安倍晋三の辞書に「反省」の文字は無い。

白痴の、二階幹事長が、「まずは敗因の分析をする」、などと言っている。

白痴の、菅宣伝大臣は、安倍晋三の、(国民を)、「こんな人たち」、発言を、「全く問題ない」、と言っている。

安倍内閣、全員は、白痴である。



「こんな人たち」に、内閣の資格など、「全くない」



そもそも、公務員とは、すべての日本国民の税金で、生活している、パブリック・サーバント(公僕)であり、総理大臣は、その最たるものであるのだから、(国民を)、「こんな人たち」、などと発言することは、狂っている、としか言いようがない。

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東京都議選・自民惨敗・都民ファースト大勝利

2017-07-02 23:32:32 | 政治
自民党が絶対、負けることは、予測していた。

都民ファーストが、ここまで、勝つとは、予想していなかった。

おそろしいのは、安倍晋三は、負けても、反省せず、ふてくされるだけ、な、ことだ。

安倍晋三は、単なる、ワガママな、ダダッ子だ。

野党が臨時国会を求めても、自民党は、応じす、証人喚問などせず、シカト、することだ。

これは、確信している。

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首相演説に「辞めろ」「帰れ」の声 都議選で初の街頭に

2017-07-01 21:46:14 | 政治
「首相演説に「辞めろ」「帰れ」の声 都議選で初の街頭に」

「安倍晋三首相(自民党総裁)は1日夕、東京都千代田区のJR秋葉原駅前で、都議選(2日投開票)の応援演説を、初めて街頭で行った。学校法人「加計学園」の獣医学部新設などをめぐり政権への批判が高まっており、聴衆の一部から「安倍辞めろ」「安倍帰れ」コールが巻き起こった。同駅前には、自民党の支援者が集まり、日の丸の小旗を振る姿などが見られた。一方で、「安倍政治を許さない」「国民をなめるな」「臨時国会をいますぐ開け」などの横断幕やプラカードを掲げる一団も。党関係者が「自民党青年局」と書かれた旗を林立させて、プラカードなどを見えなくしようとした。首相の演説が始まっても「辞めろ」「帰れ」コールはやまない。これに対し、首相が「人の演説を邪魔するような行為を自民党は絶対にしない」「憎悪からは何も生まれない。こういう人たちに負けるわけにはいかない」と反論する一幕もあった。首相はこれまで、ヤジが飛ぶ可能性が高い街頭で演説は行わず、党支援者が多い小学校の体育館に限っていた。都議選での街頭演説は、この日が最初で最後となった。」
.
(朝日新聞社。7/1(土) 18:14配信)



あいつに逆らうと、共謀罪(テロ等準備罪)で、捕まえられるぞ。

デモの人たちを、平気で、「こんな人たち」と、蔑視する。

(こんなこと言った総理大臣は安倍晋三が初めてだ)

日本国の総理大臣は、思想、主義主張が、異なっていても、日本国民全員の奉仕者であるべきはずだ。

森友、加計、同様、自分に、自分の主張に賛成する人、や、仲のいい、お友達は、ひいきするが、反対する国民は、国民と思ってもいない。

そもそも、森友学園にしても、「安倍晋三記念小学校」、と、名前をつけた学校を祝福したり、(籠池氏は右派の、純粋な思いで名づけた)、園児に、「安部総理がんばれ」、というのを見ても、喜ぶ、厚顔無恥さ。

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