小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

オウム真理教

2012-05-27 00:57:07 | Weblog
NHKで、昨日と今日、オウム真理教の17年というのを、やっていた。単に、麻原彰晃は悪人だ、というだけでは、問題の解決にならない。私が思ったこと。麻原は盲学校を出たほど目が不自由だったらしい。それにしては、代々木ゼミナールや、東大を受験したのは、完全な盲人では無理だろう。点字で試験を受けたわけではあるまい。まず、東大に落ちたから、麻原の頭脳を低く言うのは間違いである。東大を受けたのは、冷やかし受験ではあるまい。模擬試験で、東大の合格可能性があるとの、判定は出でいたはずだ。だから東大を受けたのだろう。こう書いてて気づいたが、代々木ゼミナールの判定は、あてにならない。受ける人のレベルが低いからである。駿台の判定は間違いなく正確である。

私が知りたいと思ったのは、麻原の蔵書である。彼は、どのくらいの、どんな本を読んでいたか、ということである。人の蔵書を見ると、大体その人の性格が分るものだと思う。もっとも、蔵書は少ないが、図書館で読んで学ぶケースもあるから、一概には言えないが。よくもまあ、サリンをつくる施設を弟子に、つくらせることが出来たものだ。洗脳の研究とか、人心把握の方法を書物から、いつから読むようになったのか。さすがに、これは、本を読まないと、出来にくいのではないか。(もっとも頭のいい人なら本を読まなくても出来る人もいるが)さて、麻原は、沈黙し続けているが、私は、背理法で、麻原の心理を、こう考えている。

「彼は沈黙することで、後世に名を残す謎の宗教的人物」に、なろうと計算している。と。イエス・キリストも、全ては言わない人間だった。(言えない、と言った方が正確だが)だから謎の人物となっている。これに対して、釈迦は、隠すことをしなかった。(これは釈迦は人間であって、神ではないからである)

末法思想はいつの時代でもある。それは現代では核兵器がある、ということとは、関係がない。

苦しんでいて、藁にもすがりたい、と思っている人にとっては、宗教に簡単にひっかかってしまう。宗教の教祖なんて、多少、頭が良ければ出来るものである。「神は死んだ」と断言した哲学をきづいたニーチェほど、ほとんどの人間は強くない。

しかし。世のほとんどの人間は、キリスト教は、博愛の精神の正しい宗教だが、新興宗教は、いかがわしい宗教だと考えている頭の悪い人も非常に多い。

キリスト教が正しい宗教?こんな、オウム真理教と大差ない宗教が。キリスト教は、十分、破防法の適応となる過激な宗教である。新約聖書を読んでごらんなさい。

東電。原発

2012-05-25 05:20:12 | Weblog
連日のように、新聞は、東電の非難の記事である。私はこれに違和感を感じる。どんな企業でも叩けば埃は出る。他の健康に生まれた人は、生きるのが当然、という感覚で生きているのだろう。無事に学校を卒業し、無事に働き、無事に結婚し、無事に子を産み、無事に死ぬ。それが当然の権利だという感覚なのだろう。

しかし私はそういう感覚ではない。電車は、脱線転覆する可能性があるものだと思って乗っているし、飛行機は墜落する可能性があるものだと思って乗っているし、タクシーやバスは事故を起こす可能性があるものだと思って乗っている。いつ死ぬかわからない、という感覚で生きているし、私にとっては、無事に生きていけることの方が奇跡という感覚である。だから、私は一日、とはいわないが、人生を一年単位で生きている。来年は考えない。一年、生きられたら、その時、来年、一年、生きることを考える。

それに、この世に、一体、絶対確実安心というものがあるだろうか。生きることは賭けである。

政治家は口が達者でないと出来ない

2012-05-25 04:31:51 | Weblog
小泉進二郎も所詮はダメ。

氏は、以前、元首相の菅直人に、民主党はマニフェストを守っていない、と批判したが、くっだらない発言である。菅直人は、「二大政党制の国では、政権交代した政党は、ある期間、やってみて結論を出した方がいい」と言っていたが、正論である。氏は、「答えになっていない」と批判した。口が達者で、上手く切り抜けることが出来るのが、政治家の条件である。

昔の天皇に代わって、今は、錦の御旗は、朝三暮四を求める国民なのである。政治家は、国民を敵に回すことは出来ない。国民のご機嫌をとり、国民に、へつらうしかないのである。

「オレにやらせろ」

権力を持ったくだらない人間は、そういう思考しか出来ないのである。


石破茂

2012-05-25 04:14:51 | Weblog
自民党が与党であった時の、石破茂議員は、誠実な政治家として評価していた。それは、彼が、政治家のモラルとして、

「国家の利益と、自分の利益のどちらかをとらねばならない時に、国家の利益を優先させるのが政治家のモラルである」

と言っていて、実際、それを実行していたからである。しかし、自民党が野党になったら、彼は、目の色を変えて、自民党の権力奪回しか考えていないからである。国家の利益よりも。

「自民党の権力奪回を、国家の利益より優先する」

というのは、とりもなおさず、えげつなく、

「自分の利益を国家の利益より優先させている」

こと以外の何でもない。民主党に対するイデオロギーの批判という名目に隠れて。






アッシュベイビー

2012-05-25 02:53:52 | Weblog
金原ひとみ、さんの「アッシュベイビー」を読む。リサイクル図書にあったからである。会話文が外面の建前の発言で、地の文で、本音を語っている、というような、感じを受ける。こういう形式の小説は今まで読んだことがない。どんなに、地の文で「マンコ」を連発しても、彼女特有の文体がしっかりしている。女は感覚が、男より非常に敏感な人が多い。感覚を表現した梶井基次郎の文学のカテゴリーに入るのでは。

ただ私が文学選考委員だったら、その価値を見抜けなかった可能性の方が強いように思う。ただ私は、自分に理解できないものを否定するような石頭人間になったら、おしまいだと思っているから、否定することは、しなかった可能性もあるとも思っている。

私は、読書においては、渋沢龍彦の言うように、

「私の中の文学者は私の中の市民と敵対している」

からである。というより、

「私の中の文学者は私の中の市民と敵対させなけけばならない」

と思っているからである。

強さと弱さ

2012-05-25 02:52:21 | Weblog
弱音を吐かないように、と心がけている私ではあるが。ややもすると太宰治的になってしまいそうな自分がいる。のも確かである。

SM用語の氾濫

2012-05-25 02:46:23 | Weblog
今では、全ての人間が、自分がS(サド)だとかM(マゾ)だとか、平気で言うようになった。皆で言えば怖くない。である。しかし、これは、一昔前は、絶対、口に出来ないタブーだった。

「一体、自分が変態であることを自慢するバカがいるだろうか」

アフォリズム

2012-05-25 02:41:46 | Weblog
思考の極限のその先にあるものは「死」である。
思考の極限のその先にあるものは、極限の意志であり、それは、何かに命をかける行為である。
人間にとって最も勇気を必要とするものは、死の決断である。
実は、死刑執行前の人間こそが、最も生きている精神状態である。
一部の宗教の信者は死を恐れる。自分の罪咎の程度で、天国に入れるかどうかを恐れて。
人間は他人の悪から滋養を得ている。
社会が良くなって欲しいと思っている人間は、社会の問題点がなくなると、自分の生きがい(非難する対象)が無くなってしまうため、自分の存在意義がなくなって、さびしくなってしまう。その自己矛盾に世間のほとんどの阿呆どもは何も感じない。この世の極めて少数の人間だけが、その自己矛盾に罪悪感を感じる感性(能力)を持っている。

理想

2012-05-25 02:27:19 | Weblog
私が理想が高いことは、自他ともに認めている所である。し、実際、理想が高い。今、思い返すと、昔の自分に吃驚することがあるが、私は、模擬試験の時、医学部の第一志望は、東大理科三類と、書き続けた。周りの人は、「おおー」と驚いていた。だが、決して、冷やかしではない。私は、医学部に入るなら、本気で最高の難関の東大医学部に入ろうと思っていた。

腰痛

2012-05-24 20:33:41 | Weblog
昨夜、腰痛。木曜日はいつも行ってる整形外科が休みなので、別の整形外科に行く。はじめの整形外科。で、レントゲンを撮って。診断=脊椎分離症のあとがある。(かもしれない)

脊椎分離症なら自殺しようかと思った。別の整形外科に行く。レントゲンを撮る。診断=筋膜炎。
私 「脊椎分離症はありますか?」
先生「いや。ない」

ということなので、やっぱり生きることにした。

完全な自由の危険性

2012-05-17 18:38:45 | Weblog
完全な自由の危険性。図書館のリサイクル図書は、どうしてもたくさん、持って帰ってしまうのだが。たまたま図書館のリサイクル図書で、西尾幹二氏の「国民の歴史」という歴史の本があったので持って帰った。正確な歴史の本というより、一個人による歴史解釈の本である。「正確な歴史の本」と言ったが、この言葉は実は、矛盾を内包している。いわゆる学校教育で文部省が認定して、中学生、高校生に教えている歴史教科書が、「正確な歴史の本」とは、言えないのである。それは、多数の歴史学者が多くの文献を元にして、念には念を入れて作った歴史の本である。だからほとんどは妥当であるけれど、誤りだってある。完全に正確とは、言えない。こんなことは、当たり前である。歴史研究家、考古学者の研究によって、真実だと信じられていた歴史の事実が、引っくり返されることは、何度も起こっている。だから、文部省が認めている歴史教科書といえども、それを書いた歴史学者達の解釈による歴史の本、と言わざるを得ない。のである。だから、文部省認定の歴史教科書も、それを書いた人達と、書くにあたって参考にした文献を記述して、教科書の最初の冒頭に、「この教科書は、この人達の解釈による日本の歴史の本です」と記しておくべきである。現在、書かれている歴史教科書の中にも、誤りがあって、将来、引っくり返される時が来ることはあるだろう。しかし98%位は、間違っていない。そして、些細な間違いがあるかもしれなくても、それを使って歴史を教えていいのである。それは、それ以外の方法で、歴史を教えたり、学んだりすることは、出来ないからである。便宜的に一応、真実と仮定して、学んでいいのである。大学を卒業して、社会人になると、「間違いだらけの歴史」だとか「歴史の真実」だとかいう本は、無限にあるから、それを読むことになるからである。さて、西尾幹二氏の「国民の歴史」の最後は、「人は自由に耐えられるか」という最終章によって、しめくくられており、「完全な自由というものの危険性」を訴えている。これはその通りである。もちろん、こういう事は無数の人が言っていることであり、というよりは、物事の本質である。ほとんどの人は拘束されることを不自由だと感じるだろう。義務教育の小学校、中学校では、国語、英語、数学、理科、社会、の学科の勉強をして単位を取らなくてはならない。もし、それを無視して試験に通らなかったら、落第して進級できない。高校や大学受験にしても、義務ではなく、自分で選んだ意志ではあるが、やはり拘束である。本当は、もっと、スポーツとか、趣味とか、旅行とか、遊びたい、とか思っているが、それを犠牲にして、必死で勉強しなければならない。多くの人にとっては苦痛だろう。しかし、いざ大学に入ってしまうと、そして社会人になって、数年して仕事にも慣れてしまうと、もう拘束というものがなくなって自由になれる。しかし念願が叶って自由になってしまうと、何か虚しくなってしまうのである。決められたことを、事務的にやるだけの毎日。パチンコ。麻雀。ごろ寝してのテレビ観賞。こういう生活に本当に満足している人がいるのだろうか。心のどこかでは何か虚しいと感じているのではないだろうか。そこで学生時代を思い出してみる。あの時は、嫌ではあったが、充実していたな。と。拘束されて、必死で受験勉強していた時は辛かったけど充実していたなと思う。
さて、私が今、小説創作で痛感していることも、「完全な自由というものの危険性」である。小説ほど自由なものはない。何をどう書いてもいいのである。私は今まで、自分の感性のおもむくままに、自分の書きたい小説を書いてきた。いわば、無から、自分の感性というものだけを頼りに小説を書いてきた。「無から」とは言っても、もちろんヒントになるものは、積極的に求めてきたつもりである。谷崎潤一郎のエロチックな小説が、やはり私の一番、気質に合うものだった。それ以外でも、小説創作のヒントになるものはないかと、そういう視点で小説を読んできた。日常生活でも、絶えず小説創作のヒントになるものは、ないかと、そういう視点で生活してきた。しかし、「無。つまりは完全な自由」から何かを創り出そうとすると、かなり厳しいのである。一言でいってしまうと、何か、拘束があった方が、小説は作りやすい、と思っている。たとえば、「太平洋戦争の話を小説の中に入れなさい」だとか、「昆虫の好きな少年を、登場人物の中に入れなさい」だとか、「主人公の職業は八百屋にしなさい」だとか、そういう拘束があった方がいいのである。まあ、拘束に逃げる、という見方も出来る。もしかすると失敗する可能性だって充分ある。しかし、さらにやっかいな事がある。それは、拘束というものが全くない中で、小説を書いている私に、はたして、そういう拘束を自分に課すことが、出来るか、という問題である。これは厳しい。やっかいな条件など煩わしいだけである。しかし、それは、やはり、しなくてはならない。何の拘束もない公共のトレーニングジムに行っても、やはり、どうしても怠けてしまう。その点、金を払って、アスレチックジムに通っている人なら、金を払っているんだから、やらなきゃ、もったいない、という心理が起こるだろうから、マッスルマンになれる可能性がある。では、小説で言うなら、どうすべきか。それは小説教室みたいな所に通うべきではなかろうか。何も、クダクダと分りきった、くっだらない事を説明する小説教室ではない。「主人公の職業は八百屋という設定の小説を、いついつまでに書いてこい」という、それだけを要求するような小説教室である。「授業料は、月、基本一万円だ。しかし書けなかったり、書いてこなかなかったら授業料は2万円だ。書いてきたら内容を見て、採点する。評価は100点満点で、点数の分だけ授業料を安くする。たとえば80点なら、8千円、差し引いて授業料は二千円にしてやる」とおどすような小説教室である。まあ、本当に、そういうような小説教室に通おうかとも思う。しかし、今のところ、それは最終手段である。やはり、デタラメではない、いい拘束を自分で考えて、それを自分に課す、というのが妥当なところだろう。

新刊

2012-05-16 03:32:36 | Weblog
過去の作品の方が、明らかに面白くて質が高いのに、人々は常に新しい作品を求める。それは、世間の人々が刺激を求めているからである。ちょうど、週刊漫画の表紙のビキニのグラビアアイドルや写真集を気に入って、それだけが欲しくて、その週刊漫画を買いたくなる心理と同じである。それで、買ってしまうこともあるが、一ヶ月もすると、あきてくる。そして、次なる刺激のあるグラビアアイドルを欲しくなる。その心理と同じである。

推理小説

2012-05-16 03:06:32 | Weblog
推理小説は、はたして文学なのだろうか。私は、文学の定義を、「何度も繰り返して読めること」であり、進行していくストーリーの中で、とどまれる、くすぐったい所、つまりは、言葉の重み、内容の重み、があるものが、文学だと思っている。私は再読できる推理小説というものを、すぐには思いつけない。

東野圭吾

2012-05-16 02:52:34 | Weblog
東野圭吾の「黒笑小説」を読む。すごい力量だ。ホームランは無いが、全ての作品が確実にヒットしている。察するに、どこにでもある、誰でも知ってる日常の一つの現象をヒントにして小説を作っている。確実にヒットに出来るという技術は、天才といって何ら過言ではない。

星新一はショート、ショートの天才などと、言われているけど、量が1000作とか、多いだけで、ヒット作はお目にかかったことがない。

沖縄バスガイド物語

2012-05-06 23:13:14 | Weblog
「沖縄バスガイド物語」

という小説を書きました。

ホームページにアップしましたので、よろしかったらご覧ください。

(原稿用紙換算241枚)