小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

今年の冬

2014-01-29 22:18:56 | Weblog
今年の冬も、もう乗り切った。もう加湿器も使わなくなった。し、朝、エアコンで暖房に設定することもなくなった。

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ドラゴンへの道

2014-01-28 06:57:07 | 武道・スポーツ
ブルース・リーの主演映画の第三作は、「ドラゴンへの道」である。これは、制作、監督、脚本、主演、音楽、全てをブルース・リーがしている。ブルース・リーの独断場の映画である。

アメリカでは、「燃えよドラゴン」が一番人気があるが、香港では、「ドラゴンへの道」の方が一番人気があるのである。

誰も問題意識すら起こっていないだろうが。「どうしてブルース・リーは映画の舞台をローマに選んだのか?」この理由を、わかる人がいるだろうか?

カンフー映画なのだから、戦いの舞台は、香港や中国で、いいはずなのに。なぜ、ローマを舞台に選んだのか?

私の考え。それは、ローマにコロシアムがあるからである。ローマのアテネでは紀元前509年から、紀元前27年まで、クレイステネスやペリクレトスなどによって共和制国家になった。共和制といっても、奴隷がいて、コロシアムで奴隷の剣闘士に、どちらか死ぬまで戦わせることを強制していた。その見世物は、ローマ市民の一番の娯楽だった。もちろん、剣闘士の奴隷は、これに怒って、スパルタクスの反乱(前73年)などが起こっている。

どちらか死ぬまで戦うルール無しの格闘。世界において、その一番の原点は、ローマのコロシアムでの剣闘士の戦いである。つまり武術の原点である。相手が東洋人だったり、強くなかったりしたら、ブルース・リーは、ローマのコロシアムにこだわらなかっただろう。しかし、相手は6年連続、世界プロ空手選手権チャンピオンの強豪、チャック・ノリスである。しかも白人でブルース・リーより体がひとまわり大きい。

ブルース・リーは格闘の原点として、ローマのコロシアムの剣闘士の戦い、に相当、関心を持っていたことだろう。相手が白人で、超強豪で、どちらか死ぬまでの戦い、となれば、もはや、戦いの場はローマのコロシアムしかない、と考えたのだろう。

その前の作品である、レイモンド・チョウ制作、ロー・ウェイ脚本の「ドラゴン怒りの鉄拳」は、清朝における、ヨーロッパ列強、および日本の中国に対する植民地化に対する中国人の怒りを強く打ち出しているが、それも多少、ヒントにはなっているかもしれないが。

私は、「ドラゴンへの道」は、そういう政治的主張はなく、単に、格闘の原点として、チャック・ノリスと戦うには、ローマのコロシアムしかない、とブルース・リーは考えたのだと思っている。

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乙武洋匡

2014-01-28 02:02:52 | Weblog
私は乙武洋匡氏を全く評価していない。氏が、1998年に、「五体不満足」を出版した時、買う気は全く起こらなかった。内容は買わなくても、大体、想像できるからだ。

しかし、その二年後くらいに、どんなことが書かれてあるのか、一応、買って読んでみた。内容で評価出来る所は全くなく、読んでて、全くつまらなかった。欠伸が出てきた。あれがベストセラーになった理由は、ただ一つ。それは電動車椅子に乗っている氏の表紙の写真ゆえだけである。

内容で、感銘を受けたのは、「障害は不便だが不幸ではない」というへケン・ケラーの引用文だけである。

あの時は(今でも、そうだが)出版不況で、何とか売れる本を出そうと出版社は必死だった。

その出版不況を何とか打開しようと、障害者の手記は売れる、と出版社が目をつけたのである。実際、障害者の手記は、内容とは関係なく売れるものなのである。

そのあと、障害者の手記は売れると、柳の下の泥鰌を狙って、目の見えない少女の手記を親が書いたりして、ちょっとした障害者手記ブームが起こった。

乙武氏は、その後も、笑顔で、肘までしかない腕を広げた写真の表紙の本を出版したりしていたが、いささか、悪ノリであると思う。

それを後押ししたのが、政府であり、政府の政治的意図である。あの本ほど、政府のバリアフリーの政策の宣伝に効果のある本はない。

他人のことだから、氏の性格について、とやかく言う気はしない。

しかし障害や病気を金儲けに利用したり、名声を得る手段にするのは、私の感性では嫌いである。もののあわれ、が無い。私にとっては障害や病気とは人生の悲哀をかみしめるものである。

しかし氏は、2013年5月に、車椅子では事前連絡が必要なレストランに入店拒否さてれて、ブチ切れて怒り狂った。

私も三歳から喘息で(医者になろうと思ったのもそのためである)、病気は悪化の一途をたどり、自殺を真剣に何度も考えたほど、今日に至るまで病気との闘いの人生である。だが、私は、「オレの病気を理解しろ」とか「喘息や過敏性腸症候群、うつ病などの心身症患者を差別するな」などと世間に訴えたいとは、全く思わない。

むしろ、病気に生まれついたことに、私は感謝している。面もある。なぜなら、病気を持っている人間は、絶えず、「死」を意識しているから、健康な人間より、人生を真剣に生きようという気持ちが、嫌でも起こるからである。

健康な人間に対する劣等感を、絶対、彼らより充実した人生を送ってやる、という意地にブチ込むのである。少なくとも私はそうして生きてきた。し、これからも、そうして生きていくだろう。

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天皇も当然、失言する

2014-01-27 18:33:14 | 考察文
天皇も人間だから、当然、失言する。

これは、明治天皇、昭和天皇、今生天皇、全てでいえる。

もちろん天皇の発言は、天皇が考えているのではなく、宮内庁の役人が作った作文である。それを陛下が棒読みしているだけである。

しかし、小さなアドリブ的なことまで、全ての発言を宮内庁の役人が作っているわけではなく、また、作ることも出来ない。

安岡力也は、肝癌、肝硬変で、つらい闘病生活を送っていたが、その中で、「友人、知人から頑張れ、と言われるのが一番、つらい」と言っていた。

これは何も、安岡力也に限ったことではなく、うつ病患者に、「頑張れ」という励ましの言葉は禁句なのである。むしろ、うつ病患者を苦しませるだけなのである。そんな基本的なことは全ての初歩的な精神科の教科書に書いてある。

もちろん私は精神科医であり、また、何度も、うつ病を経験しているから、実感として痛いほどわかるのである。

今生天皇も、震災の被災者たちを見舞った時、「どうか頑張って下さい」と言って、励ます、というか、慰めていたが、あれは間違った発言なのである。

家も家族も仕事もなくした人達には、頑張りようなどないのである。

これは、自分が、うつ病や、つらい経験をしてみれば、わかることである、し、また、一般の人では、うつ病にかからなければ、一生、わからないのである。

しかし、自分が、うつ病を経験していなくても、非常に心の優しい人や、相手の気持ちを察する能力の優れた人なら、別に精神科の本など読まなくても、わかる人もいるのである。

では、何と言ったらいいか。

「大変ですね」、「つらいですね」、「どうか力を落とさないで下さい」、「ご心中、お察し致します」

などの共感的な発言が正しい発言なのである。

あるいは、別に何か、言葉をかけなくてはならないわけではなく、黙って相手の手を握る、などの行為だけでも、いいのである。

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ケバブ

2014-01-26 22:44:00 | Weblog
所用あって新宿へ行く。紀伊国屋は夜、9時までやっている。

路上でケバブを売ってたので、腹は減ってないが、試しに食べてみた。

そんなに特別、美味いとは思わない。ソースがいいのとパンの歯ごたえがいい。と食べた直後は思ったが、やはり、もう一回、食べてみたくはなる。

これから、新宿へ行ったら、ケバブを食べることになるだろう。マクドナルドのハンバーガーよりは、ケバブの方が旨いだろう。

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東京都知事選

2014-01-26 02:17:20 | Weblog
誰がなったって同じ。全く期待していない。行動力のありそうな覇気のある顔は見当たらない。

暴言を吐いても、行動力のあった、そして実際、行動した石原慎太郎の方がずっといい。

政治家の徳はイデオロギーの優劣ではない。イデオロギーの優越は哲学者の徳である。政治家の徳は行動力があるか、どうか、のみにかかっている。

ただ田母神俊雄氏は、おとなしそうな性格に見えるが、もしかしたら、行動力があるかもしれない。

政治家の経験がないから、力量が未知数なので期待してしまう面もあるが。

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大谷純 金閣寺

2014-01-26 00:27:13 | Weblog
大学四年で休学して、私か、かかった医者は武蔵野中央病院の大谷純先生である。この先生には本当に救われた。詳しいことは、私のホームページの「過敏性腸症候群」で書いている。ので、繰り返し書かない。

聖路加国際病院の篠田教授にかかったら、心療内科のいい病院がある、と紹介されて、行ったのである。

しかし私は、当然、ダメで元々の感覚で行った。それまで、かかった数多くの精神科医や心療内科医はバカばっかりだったからである。

それに、心臓手術とか脳手術とかの外科系の医者は、技術や経験がものを言うから、名医というのは、あるだろうし、実際そのランクはある。

しかし精神科や心療内科は、技術や手先の器用さ、とかは関係がないから、心療内科医に名医がいる、とは思えなかった。患者の話を聞いて、薬を出して、アドバイスをして、おわり、で大同小異だと思っていた。

しかし、その先生は、激しい吃りだったのである。その吃りの程度のひどさ、といったら、何と形容していいか、わからない。一生、治らない不治の病なのである。昭和60年に、アメリカで、三島由紀夫のドキュメンタリーのような映画(MISHIMA)が作られて、緒形拳が三島の役をやっているが、その中で、「金閣寺」の主人公を坂東三津五郎が演じているが、主人公は、ひどい吃り、であり、坂東坂東三津五郎は、かなり、上手く吃り、を演じているが、あの程度、といったら、いいだろう。いや、あれよりも、もっと、ひどいというべきだろう。はっきり言って、会話不能の程度である。You-Tubeに、その映画がある。(著作権のため、なくなることもある)

先生は、自分の生まれつきの病気を役立てたいと思って医者になり、そして心療内科を選んだのに間違いない。(先生が、少し前に自分史のような本を出版しているので、それに書いてあるかもしれない。私は読んでないが)しかし、読まなくても明らかである。医者でも、外科とか麻酔科とかは、手を使って黙々と手術をするのが主な仕事だから、言語の障害は、ほとんど、仕事の差し障りにならない。しかし、精神科や心療内科は、患者と話すのが主な仕事である。そういう自分に不利な、条件の悪い、心療内科を、あえて自分の意志で選んだのだから、自分の苦しみを役立てたいと思って心療内科を選んだのは、疑う余地が無い。

しかし先生も、自分の苦しみが、はたして、患者の治療に役立つのか、どうか、という問題には、非常に悩んだだろう。そして、心療内科医になってからも、はたして、自分の障害が患者の役に立っているのか、どうかは、わからないだろう。

しかし、私には、これほどの特効薬は世界中に他に無い、と言って全く過言ではない。病気に耐えながら、はたして医者という仕事をやっていけるのか、どうか、というのが私の、生きるか、死ぬか、とまで悩んだ問題であったのだから。

ただ、全ての患者が、そういうことで悩んでいるわけではないだろうから、先生の病気が全ての患者に役に立っているわけでもないし、先生が日本一の心療内科の名医であるわけでもない。ただ、私にとっては、これ以上の先生は、いないというほど、救われた出会い、であり、存在たった。

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涙療法

2014-01-25 22:03:40 | 医学・病気
過敏性腸症候群で腹痛に苦しんでいる時、悲しい映画、「クリスマス・ツリー」とか「二十四の瞳」とかを見て悲しい感情を起こすと、腹痛が一時的にせよ、なくなるのである。映画より、実際の体験での涙の方が、もっと効果的であることは、言うまでもない。

私は、大学四年で休学して、武蔵野中央病院の心療内科の大谷純先生にかかった時、涙がポロポロ流れて、止められなかった。絶対、治らないと思っていた腹の激痛が、ピタリと止まったのである。それ以外でも、大阪の豊中の心療内科の黒川医院の黒川先生(池見酉次郎先生の弟子)に会った時も、腹の激痛がピタリと止まった。

過敏性腸症候群は精神的ストレスによって引き起こされる。典型的なのは、ストレスによって下痢が起こる、である。(私の場合は、池見酉次郎と先生と同じ、便秘、腹痛型であるが)

なぜ悲しくなって涙が出ると、腸の痙攣がおさまるのか、それは、わからない。

しかし、過敏性腸症候群はつらい精神的ストレスによって引き起こされるのであるから、その逆もしかりで、良い精神的刺激が起こると大腸の痙攣がおさまる、という理屈であることは明らかである。

ただ、ミクロで見た場合、どういうメカニズムで、悲しい感情が腸の痙攣をおさえるのかは、わからない。

ここらへんのことは、医学に情熱のある、医学者が研究したら、面白いのではないか、と思う。

解明して、ちゃんとした論文にしたら博士号である。

(しかし現実には、研究熱心な医学者というのは、私を除いて、ほとんどいないのである)

それは、大学病院のポリクリでも、研修病院のベテラン医師も若手医師も、私は、数多くの医者を、見てきているが。勉強熱心な医者というのは、ゼロと言っても過言ではない。のである。彼らは、休み時間には、必ずテレビでサッカーの試合を見るのであって、休み時間に医学の勉強をしようと机に向かう医者は私一人だけしかいなかった。

物事の原理がわかると面白いと思うのだが・・・。

私は、感傷的、センチメンタリズムを嫌っているが、過敏性腸の腹痛の応急処置として、悲しい映画を見るのは、有効な治療法である。

もちろん私も、激痛がひどくなると、それをしている。

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生類憐みの令

2014-01-25 13:51:07 | 考察文
徳川5代将軍、綱吉の、生類憐みの令、であるが。これは、天下の悪法と人から言われているし、小学生でも、バカなことと笑うだろう。私も当然、バカげた令だと思う。

犬や動物(蚊まで)を殺した場合、人間を罰するなどとは、極めてバカげている。

しかしである。これも見方を変えてみると、一概にバカげているとは、言いにくい面もある。なぜなら、これは、綱吉が仏教の、生きとし生けるものの生命を重んずる、という思想を重視して、出した法令である。

法令というのは、推奨とは違う。

法令として出した以上、それを守らなかった者に、「守りましょうね」とか「守りなさい」とか、口で注意するだけでは、それは、道徳的な推奨であって、法令ではなくなってしまう。

法令として出した以上、その法を守らなかった者には、罪があると認定し、その罪に対して罰をしなくては、法令ではなくなってしまう。

それは、昔も今も変わらぬ普遍的な原理である。

現代でも、「老人をいたわりましょう」というのは、奨励であるから問題はないのであって、それを法令にして、「老人をいたわらなかった者は罰金一万円」としてしまったら、それは、世にも滑稽な天下の悪法になってしまう。

綱吉の、生類憐みの令は、それを推奨として出していたなら問題はなかったが、法令として出してしまった所に、行き過ぎの失敗があった。

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宗教の原理2

2014-01-24 04:59:04 | 考察文
アレフ(オウム)について。

「宗教の原理1」で書いたが、さらに考えを進めた。結論から言うと、アレフは無くす必要はない。ということ。というよりも、国家がなくそうとしても、アレフを無くすことは絶対、出来ない。絶対、出来ないことなら、無くそうとする行為が徒労だから全く無意味である。無駄な努力は、するだけ、無駄である。アレフの修行は、マラソンのランナーズ・ハイのように、心身を健康にして、精神に幸福感を起こす。座禅はα波であるが、アレフの修行は、α波以上のθ波などであう。アレフの修行が、どんな物だかは知らないが、結跏趺坐を組み、瞑想し、仏教の経典を唱える、などであろう。これは集中力を高め、雑念を消し、幸福感を起こす。心身の健康に非常に良い。アレフに入信する人も、修行によって、心身が健康になるから、入信しているのである。さらに言えば、覚醒剤などを使わずに、心身を健康にしているのだから、むしろ、アレフの修行は、もっと日本に広めた方がいい。とさえ、いえる。アレフでは、ほとんどが在家信者であろう。覚醒剤を使わずに、心身が健康になる。これは非常に良いことである。しかし、これは、アレフの修行だけに限ったことではなく、ランニングやエアロビックダンス、太極拳、ヨガ、健康のためのスポーツなど、あらゆる健康法で、起こることである。

アレフの修行と、麻原の関係は、どうなっているのかは知らないが、全く分離されているのか、あるいは、修行の中に、麻原を讃える行為もあるのかもしれない。

オウム(アレフ)の信者の麻原に対する気持ちは、こうではないか、と推測する。
つまりオウムの修行は気持ちがいい。幸福感が起こる。だから、こんなことを、教えてくれた人(麻原)が悪い人間のはずはない。と思っているのではないだろうか。

しかしである。そうなると宗教の定義が曖昧になってしまう。

宗教は、教祖がいて、信者がいて、信者は教祖の教えによって、心の悩み、から救われて、幸せになること、といってもいいと思う。

しかし、それなら、あらゆるスポーツクラブが宗教団体になってしまう。健康を目的として、スポーツをしている団体は、スポーツでかく汗によって、体が丈夫になり、精神も快活になる。スポーツを熱烈な趣味としている人にとっては、技術の向上は幸福をもたらすだろう。教祖もいて、たとえば、野球なら、川上哲治、落合博満、野村克也、などは、自分の信念を持っていて、野球をやっている人は、彼らを神様のように信仰している人もいるだろう。

柔道なら嘉納治五郎、合気道なら植芝盛平、塩田剛三、空手なら船越義珍、剣道なら宮本武蔵、などが教祖といえる。彼らは、技が上手いだけでなく、教義や精神の心得まで書いている。

そのうち、スポーツクラブが自分たちの団体は宗教団体である、と言い出しても、おかしくはない。

あるいは、音楽教室や、あらゆる習い事、が宗教団体に成り得る。

さらには、ある芸能人のファンクラブも宗教団体になってしまう。

実際、私は岡田有希子を神様のように慕っているので、また彼女を神様のように慕う人は多くいるので、岡田有希子教、という宗教団体が出来てもおかしくない。

さらにはSMクラブも宗教団体、とは言わないが。SMプレイにも宗教的な要素がある。M男にとっては、憧れの女王様は、絶対服従する神のような存在だからである。し、M男は、自分の慕う女王様を本当に女神様のように思っていて、女王様の言うことには、何でも喜んで従っているのである。

そもそも、宗教にはSM的な要素があるのである。

「わたしの信ずるところによれば、或は柱頭の苦行を喜び、或は火裏の殉教を愛したキリスト教の聖人たちは大抵マソヒズムに罹かかっていたらしい」
(芥川龍之介、侏儒の言葉より)

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極東軍事裁判

2014-01-24 03:41:33 | 政治
極東軍事裁判とやらの(わけのわからい裁判の)被告には、昭和天皇を入れて裁くべきだった。これは、当然のことである。昭和天皇に戦争責任があるのは疑う余地のない明白なことである。

日本の全ての兵士、民間人が、「天皇陛下万歳」と言って死んでいったのである。戦争は天皇陛下の決断によって行われたのである。天皇は戦争で軍部に利用された、のは確かである。しかし、軍部といえども、開戦、終戦、の最終決断は天皇に求めたのである。

開戦の決定には、陛下は、反対した。しかし軍部が押し切った。

しかし終戦の決定は、天皇陛下の発言によるところが大きい。

名目も実質も、天皇が戦争を始め、戦争を終結させた、といって、過言ではない。

だから極東軍事裁判の被告には、天皇を入れるのは当然のことである。

これをしなかったのは、GHQ、マッカーサーの戦後の日本支配において、昭和天皇を極東軍事裁判の被告に入れるのは、日本を支配する上で、良くないという計算からである。

もし、天皇を極東軍事裁判の被告に入れていたら、天皇は、間違いなく、自分の死刑を求めただろう。連合国軍の裁判長も、天皇に戦争責任がありながら、政治的計算(および現実的な天皇の戦争責任の有無という、ややこしい問題)という、極めてややこしい問題をあつかわねばならず、もちろん、アメリカは天皇に戦争責任があると知りながら、天皇を死刑にはしたくはない、という、ややこしい問題を扱いたくなかったのである。

つまり、天皇には戦争責任があるが無罪としてしまったら、A級戦犯を死刑に出来なくなるし、天皇には戦争責任がない、としてしまったら、これもA級戦犯を死刑に出来なくなるからである。

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今日は大寒

2014-01-20 00:20:22 | Weblog
今日は大寒である。今年の冬も乗り切れた。風邪も一度もひかなかた。まだ、冬が終わったわけではないが、もう大丈夫だろう。今年の冬も、自律神経失調に悩まされ続けた。あと、不眠症、過敏性腸症候群、冷え症、便秘、腹痛、偽性イレウス、肌の乾燥、かゆみ、肩凝り、腰痛、吐き気による食欲不振、代謝が悪いための低体温、低血圧、血行不良、耳鳴り、眠りが浅いため、悪夢しか見なく、起きるヘトヘトに疲れる・・・などである。

普通の人なら、この生き地獄に、はたして耐えられるだろうか。疑問である。

しかし、今年の冬は充実して過ごせた方である。

肩凝り、腰痛治療のため、毎日、整形外科、通いである。その電子針治療が効くのである。

冬でも、週に一回は、プールに行って二時間、泳いでいた。二時間、泳ぐと、上腕と大胸筋が太くなり、エアロビクスにより脂肪が燃焼され、体重が2kg落ち、心肺機能が強くなり、冷え症が改善される。

あと、筋トレは、家で、毎日、100回、腕立て伏せ、100回スクワット、100回、腹筋、をワンセットで、それを、1日、2~3回、やっていた。

あと、空手の太極の型と独脚訓練法である。

あと、瞬発力と、全力を出し切るため、バッティングセンターで、1日、40球、打っていた。これは、便秘にも効果がある。体を思い切り動かすと、便意が起こってくれるのである。

体幹の筋肉をつけるためには、家では、出来にくく、市のトレーニングジムに行って、マシントレーニングをたまに、やっていた。

自律神経失調による肩凝り、や、過敏性腸の腹痛には、シャワーをよく浴びることで対応した。皮脂をおとさないため、石鹸で洗うのは、出来るだけ、ひかえた。シャワーを浴びた後は、股割りのストレッチをした。

おかげで、今年の冬には、うつ病にはならず、食欲も出てきて、腹がすいて、1日、2000kCalくらい焼き肉を食べることも、しょっちゅうだったが、代謝がいいので、体重は増えない。

あと、読書と勉強にあけくれた。脳のエネルギー源はグルコースだけなので、疲れに対し、即効に、甘い物を食べても太らないのである。

ちなみに、私は身長172cm、体重62kgである。(ブルース・リーと同じ)

筋トレの効果的なやり方もわかってきた。おかげて筋繊維が太くなった。

喘息の吸入薬も、全く使わずにすんでいる。

腕立て伏せの出来る回数が増えると、楽しくなり、もっとやりたい、という欲求まで起こってくる。良循環である。

体が軽くなり、免疫力が上がると、意味もなく、嬉しくなって笑ってしまうこともあった。

暖かくなって、体調がもっと、良くなれば、創作開始である。

あと、二年は、まず、苦しくても生きられるだろう。

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今日はセンター試験

2014-01-18 23:21:38 | Weblog
今日はセンター試験

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宗教の原理1

2014-01-17 18:04:37 | 考察文
田原総一郎は、大川隆法との対談で、神の定義を自分で勝手にしている。はじめから、新興宗教は、インチキだと見ている。だから、まるでチンピラが、いいがかりをつけるような態度、質問ばかりで、レベルが低い。田原は、政治、経済、日本の政界、世界の動向、など現実的なことには、めっぽう詳しいが、精神的なことには極めて弱い。
大川隆法が、いい加減なことを言っているからといって、宗教がインチキだとは、言えないのである。キリスト教にしても、キリストは、マリアとヨセフのセックスによらず、生まれた、とか、死んだ後、蘇った、とか、無から、魚とパンを大量に出した、など、現実的には、そんなことはあり得ない。ならば、田原はキリスト教も否定するべきだ。しかし、氏は、しない。氏は、キリスト教、イスラム教、仏教、などの古代に生まれた宗教、および、存続している期間の長い、創価学会や立正佼成会などの、宗派は、(何となく正しそう、という蓋然性で)無条件に肯定しているが、大川隆法のような、ちょっとふざけた発言もする、というか、ユーモラスな性格の教祖の幸福の科学は、はじめから、インチキと決めつけている。

結論から言うと、キリスト教も、ウソをついているし、幸福の科学の大川隆法も、いい加減なことを言っているが、ともに、(立派な)宗教なのである。

(この、立派という表現は、教義が立派という意味ではなく、それらが宗教である妥当性に間違いない、という意味である)

多数の分派の対立による、争い、戦争、殺し合い、で何千万人もの死者が出ているキリスト教より、死者を出していない、幸福の科学の方が、ずっと、まし、な宗教であることは、言うまでもないことなのだが。田原の頭では理解できないだろう。

「彼は最左翼の更に左翼に位していた。従って最左翼をも軽蔑していた」
(芥川龍之介、侏儒の言葉より)

そして創価学会についても。創価学会は日蓮宗であり、日蓮は奇跡を起こしたり、預言したり、仏教他派を折伏したりと、気性の激しい、いわば、日本のイエス・キリスト的な人間だが、そのため、統合失調症の患者には創価学会の会員が、かなり多くいて、自分は日蓮だとか、あるいは日蓮上人の生まれ変わりだ、とかいう妄想を持つ患者が多いのである。

さらに言うなら、オウム真理教も、アレフと名前を変えて続いているが、オウム真理教も間違いなく、(今でも)宗教の一つなのである。

では。オウム真理教(アレフ)を無くすには、どうしたらいいか。
それは、オウムは原始仏教だから、麻原は、釈迦と同じように、神(絶対者)ではなく、悟りを開いた無上覚者(人間)という位置づけ、だろう。だから、麻原が、「自分は、無上覚者ではない」、あるいは、「一度は悟りを開いたが、その後、堕落して、無上覚者ではなくなった」、と言うか、あるいは誰かの働きかけ(検察か信者か知らないが)で麻原に言わせる、しか、オウムを潰す方法はないのである。麻原が、自分の口で、そう言えば、オウム真理教は宗教ではなくなり、信者も離れていく。しかし、麻原は、それを言わない。(それが、彼が宗教の原理を知っている怖さである)アレフの信者にしてみれば、麻原を、人間の魂を救済する無上覚者と見なしているわけだから、麻原が自分を否定しないままで、彼を死刑にしてしまったら、アレフの信者は、麻原を、イエス・キリストのように、受難の聖者と見てしまうから、アレフの信者の信仰心をより熱狂的に強めてしまう。そしてアレフは永遠に続いてしまう。だから、麻原を簡単に死刑執行するべきではない。彼の死刑執行は、慎重にやらなくては、アレフという宗教を、より強めてしまうのである。

しかし、麻原が自分の非を認め、サリンは国家に復讐するために撒いた、と発言したとしても、残念ながらアレフは、なくならない。それは、オウム(アレフ)の修行が、マラソンのランナーズ・ハイのように、精神の快感を引き起こしてしまうからだ。つまり、オウムの修行は、気持ちが良く(もちろん私は、やったことがないが)、幸福感を味わえるからだ。しかし、これは、ずるい。それはヨガのような、健康法であって、健康法は宗教とは、言い難い。オウム(アレフ)のやっかいな所は、宗教と健康法をドッキングさせている所にある。のである。

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大川隆法2

2014-01-16 00:25:22 | 考察文
田原総一郎との対談で、原子爆弾について、「科学者は、政治的な価値判断が出来ない」と大川隆法は言っている。軽く聞き流すと、一見、妥当性のある意見のように感じてしまう。発言の内容の聞こえがいい。しかし、少し考えれば、これは、あまりにも幼稚な考えである。ことがわかる。原爆を落としたら、どうなるか。そんなことは、中学一年生なら、十分、わかることである。つまり、膨大な人間が死に、国土が放射能で汚染される、ということである。いくら戦争であり、敵国への攻撃が認められるとはいえ、ここまでしてはならない、という政治的判断くらい、中学一年生なら、十分できるはずである。

文系人間の理系人間に対する偏見のお手本のような発言である。

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