プラトニック・セックス
私がはじめてプラトニック・セックスを手にしたのは図書館である。KK大活字本である。大活字になるくらいだからよほど優れたものだろうと思った。軽い気持ちで手にした。「飯島愛」という現代的な軽い感じの洒落たペンネーム。また新人が現われて人の心を打つ文学作品を書いたのだろうと思った。著者のプロフィールがのってないので素性を知られる事をおそれて隠したのだろうと思った。
だが「飯島愛」というペンネーム。どこかで聞いた事のある名前の芸能人が記憶に浮かんだ。しかし本と芸能人は等号で結ばれなかった。大活字になったという事は文学のパンテオンに入ったという事である。芸能人の著作は名前で売れてヒットする事はよくあるが文学のパンテオンに入る事は並大抵ではない。やはり優れた感性の新人が現われて優れた文学作品を書いたのだろうと思った。実際パラパラッと本をめくってみても会話文が多く会話文と地の文のバランスが見た目にもよく、いかにも文学作品らしいなと思った。タイトルの「プラトニック・セックス」(精神的性交)・・・いかにも文学的タイトルである。それで軽い気持ちで読みはじめた。読みはじめてビックリした。人を惹きつけて離さない文章である。再読三読に耐えうる文章である。しかし一気に読み通す気にはならなかった。はじめの子供の頃の話があまりにも素晴らしいので何度も何度も繰り返して読んでしまったからである。久しぶりにいい本にめぐり合えて嬉しくなった。図書館で借りて読むのではなく当然文庫本が出ているだろうからそれを買ってじっくり読みたいと思った。こんな素晴らしい本は絶対買ってずっととっとかねばならない。それがこの本に出会った時の印象である。
さっそくいきつけの書店に行った。それほど大きくない書店である。ザッと一通り見たがなかった。いつものように注文だなと思ったが一応店員に聞いてみた。
「あの。プラトニック・セックスって本あるでしょうか」
店員はすぐに一冊持ってきた。
「これで間違いないでしょうか?」
店員が聞いた。
タイトルに「プラトニック・セックス」著者「飯島愛」と書いてある。
間違いない。
「どうも有難うございました」
私は店員に礼を言った。
そしてレジで金を払って本を買った。
そして家に帰った。
「おかえりなさい。あなた」
妻が玄関に出てきた。
「ただいま」
僕は素っ気なく挨拶して居間のソファーに座った。
そしてノートパソコンで「飯島愛」と検索した。
すると飯島愛のWikipediaが出てきた。
画像を見ると「やっぱりな」と僕は思った。
僕は以前、奈良県立医科大学で一人暮らしの時、深夜に寂しくなってテレビをたまたまつけた時に「ギルガメッシュないと」という深夜番組を見つけた。
ちょっとエロチックそうで、しかし何となく雰囲気が面白そうだった。
それで気に入ってしまって、その時以来「ギルガメッシュないと」は欠かさず観ていた。
ギルガメッシュないと、では飯島愛という女性が長机の真ん中に居て、その両側にも女の子が座っていた。
まるでイエス・キリストの最後の晩餐のようにも見えた。
飯島愛がイエス・キリストである。
僕は彼女に不思議さを感じていた。
あるいは不可思議といってもいい。
「この子は一体どういう子なんだろう?」
態度や喋り方から頭が良さそうな感じを受けた。
この子が本気で勉強したら東大にも入れるのじゃないかとも思った。
まだパソコンもなくインターネットもなかったので彼女の素性はわからなかった。
なので色々と想像が膨らんだ。
小さな声で「イエーイ」と言ってパチパチと拍手する。
ともかく垢ぬけていて勉強よりも友達とお喋りすることの方が好きそうで、そのため勉強して東大に入るよりも芸能界に入ったのじゃないかと僕は勝手に想像していた。
何かどっしりとした主張を持っている人のようには全く感じられなく、むしろ主張が無く流行を求める子のように感じられた。
それにしては存在感がある。
彼女の両側に座っている女の子には存在感を感じないが彼女には強い存在感があった。
なのでちょっとつかみどころの無い子だと思っていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・
「ギルガメッシュないと」は、ともかくエロティックな所が面白かった。エロビデオよりも エロティックさがあった。なぜならエロビデオはすでに安全の中にあるからだ。バタイユが言うように エロティシズムとは禁をやぶるところにある。テレビという度を越したエロティシズムが禁止されている公共のメディアの中でかなりエロティックな内容を放送するところがエロティックなのだ。また見れそうで見れない所もエロティックだった。見たいが見れない所がェロティックなのだ。見たい所が見れるものはエロティシズムでも何でもない。
司会者は男で五人くらいの女の子が机を前に一列に座っていていろいろお喋りする。彼女はレギュラーでいつも真ん中に座っていた。ちょうどキリストの最後の晩餐のような図である。Tバックと「イエーイ」 と言って拳を上げるアクションが印象的だった。
そして皆と一緒に小さくパチパチと拍手する。軽いノリの女の子だなと思った。そしていつの間にか番組はおわっていた。最終回は見たかどうか覚えていない。番組の内容もほとんど忘れてしまって思い出せない。ただ彼女のTバックとあの 「イエーイ」 はいやでも強く印象に残った。もちろん彼女に特別な関心はなかった。そもそも芸能界には興味が無いのでそれでおわりになった。ただスレッカラシとは呼べない何か真面目な感じがあって頭の回転が速そうで、というか反射神経が優れているのか、ともかく正体が掴めないもどかしさがあった。
それで今回彼女のプラトニック・セックスを読んでその正体がわかって極めて感動した。だがやはり最初の子供の頃の部分が一番内容も文章も優れている。この部分は文章のお手本として国語教科書に載せると非常に良いだろう。(もしかするともう載っている教科書もあるかもしれない) やはり彼女は頭のいい子だったのだ。しかし学校から離れて家出する部分になってくるとだんだんペースダウンしてきた。読み応えがなくなってきた。
だが後半になるとまた読みごたえが出始めた。まだ少女なのに一人でこの世の中を生きていくそのバイタリティーのすごさに圧倒された。特に面白い所は257ページの弟がエッチな雑誌で姉を見つけて「これお姉ちゃんじゃないの?」 と親に報告するところだ。このところではじめて彼女に弟がいることを知った。この部分をもっと前にもってきて彼女がTVに出ている事を親が知るのはこれがきっかけだったとゆうふうにすればもっと面白くなったように思う。しかし話のはじめでは弟は全く出てこない。てっきり一人っ子かと思った。はじめの方で「兄弟は弟が一人いた」 と一言「書いておいた方がよかったのではとも思う。だが逆に原文どおりそう書かずに後から弟の存在を知らせているのも、かえってその方が面白いかもしれないとも思う。年がはなれていたのだろうか。そこらへんはくわしく知らない。
・・・・・・・・・・・・・・
彼女は人間として一番大切なものを持っている。それは友情だ。
彼女はこれほどの逆境苦難の中から見事に人生で勝利をおさめている。おそるべき才能と感性。
一人の女性がいる。人に頼らず独力で見事に幸せをつかみとっている。もちろん人は誰でも幸せを求める。彼女が求めたのはビッグな幸せではなくささやかな幸せだ。なのに彼女はビッグな存在となってしまった。(もちろん僕は芸能人が特別な人間だとは全く思わないからこの言い方は矛盾がある) 彼女は多くのファンを獲得し、事務所の社長に言われて軽い気持ちで書いた本がミリオンセラーになった。しかしそれらはすべて彼女がそれを求めてした事ではない。結果としてそうなったのである。どんな方面でも必死である事を求めてもさいごまで得られない人はたくさんいる。しかし彼女は求めずして大いなるものを獲得してしまっている。彼女の人生は予定調和いがいの何ものでもない。
しかし彼女が求めているのはそんなものではない。彼女が求めているのはささやかな幸せた。「がんばったね」の親の一言だ。そして友情だ。
ある時テレビで彼女が芸能人の女友達と寿司屋でお喋りしているのを見た。酒を飲んでいたのかほんわかしている。あいかわらず拳を上げて「イエーイ」と言っている。彼女が一番大切にしているものは友情だ。そしてそれは人間として一番大切なものだ。
だがあのほんわかとした表情、そして、あの「イエーイ」 を見ていると何ともいえない複雑な感情が起こってくる。それは彼女の両親が彼女に対して持った感情に極めて近い。
しかし「飯島愛」
あの「イエーイ」を見るとやはり有島武朗の「一房の葡萄」を暗誦させたくなる。
しかし「飯島愛」
あの「イエーイ」を見ると数学で90点取っても100点取った子をひきあいに出していやみを言いたくなる。
しかし「飯島愛」
あの「イエーイ」を見るとやはり偏差値60以上の私立のお嬢様中学に行かせたくなる。
そして「飯島愛」
あの「イエーイ」を見ると、やはりピアノ、そろばん、習字、長刀、さらには日本舞踊まで習わせたくなる。
私がはじめてプラトニック・セックスを手にしたのは図書館である。KK大活字本である。大活字になるくらいだからよほど優れたものだろうと思った。軽い気持ちで手にした。「飯島愛」という現代的な軽い感じの洒落たペンネーム。また新人が現われて人の心を打つ文学作品を書いたのだろうと思った。著者のプロフィールがのってないので素性を知られる事をおそれて隠したのだろうと思った。
だが「飯島愛」というペンネーム。どこかで聞いた事のある名前の芸能人が記憶に浮かんだ。しかし本と芸能人は等号で結ばれなかった。大活字になったという事は文学のパンテオンに入ったという事である。芸能人の著作は名前で売れてヒットする事はよくあるが文学のパンテオンに入る事は並大抵ではない。やはり優れた感性の新人が現われて優れた文学作品を書いたのだろうと思った。実際パラパラッと本をめくってみても会話文が多く会話文と地の文のバランスが見た目にもよく、いかにも文学作品らしいなと思った。タイトルの「プラトニック・セックス」(精神的性交)・・・いかにも文学的タイトルである。それで軽い気持ちで読みはじめた。読みはじめてビックリした。人を惹きつけて離さない文章である。再読三読に耐えうる文章である。しかし一気に読み通す気にはならなかった。はじめの子供の頃の話があまりにも素晴らしいので何度も何度も繰り返して読んでしまったからである。久しぶりにいい本にめぐり合えて嬉しくなった。図書館で借りて読むのではなく当然文庫本が出ているだろうからそれを買ってじっくり読みたいと思った。こんな素晴らしい本は絶対買ってずっととっとかねばならない。それがこの本に出会った時の印象である。
さっそくいきつけの書店に行った。それほど大きくない書店である。ザッと一通り見たがなかった。いつものように注文だなと思ったが一応店員に聞いてみた。
「あの。プラトニック・セックスって本あるでしょうか」
店員はすぐに一冊持ってきた。
「これで間違いないでしょうか?」
店員が聞いた。
タイトルに「プラトニック・セックス」著者「飯島愛」と書いてある。
間違いない。
「どうも有難うございました」
私は店員に礼を言った。
そしてレジで金を払って本を買った。
そして家に帰った。
「おかえりなさい。あなた」
妻が玄関に出てきた。
「ただいま」
僕は素っ気なく挨拶して居間のソファーに座った。
そしてノートパソコンで「飯島愛」と検索した。
すると飯島愛のWikipediaが出てきた。
画像を見ると「やっぱりな」と僕は思った。
僕は以前、奈良県立医科大学で一人暮らしの時、深夜に寂しくなってテレビをたまたまつけた時に「ギルガメッシュないと」という深夜番組を見つけた。
ちょっとエロチックそうで、しかし何となく雰囲気が面白そうだった。
それで気に入ってしまって、その時以来「ギルガメッシュないと」は欠かさず観ていた。
ギルガメッシュないと、では飯島愛という女性が長机の真ん中に居て、その両側にも女の子が座っていた。
まるでイエス・キリストの最後の晩餐のようにも見えた。
飯島愛がイエス・キリストである。
僕は彼女に不思議さを感じていた。
あるいは不可思議といってもいい。
「この子は一体どういう子なんだろう?」
態度や喋り方から頭が良さそうな感じを受けた。
この子が本気で勉強したら東大にも入れるのじゃないかとも思った。
まだパソコンもなくインターネットもなかったので彼女の素性はわからなかった。
なので色々と想像が膨らんだ。
小さな声で「イエーイ」と言ってパチパチと拍手する。
ともかく垢ぬけていて勉強よりも友達とお喋りすることの方が好きそうで、そのため勉強して東大に入るよりも芸能界に入ったのじゃないかと僕は勝手に想像していた。
何かどっしりとした主張を持っている人のようには全く感じられなく、むしろ主張が無く流行を求める子のように感じられた。
それにしては存在感がある。
彼女の両側に座っている女の子には存在感を感じないが彼女には強い存在感があった。
なのでちょっとつかみどころの無い子だと思っていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・
「ギルガメッシュないと」は、ともかくエロティックな所が面白かった。エロビデオよりも エロティックさがあった。なぜならエロビデオはすでに安全の中にあるからだ。バタイユが言うように エロティシズムとは禁をやぶるところにある。テレビという度を越したエロティシズムが禁止されている公共のメディアの中でかなりエロティックな内容を放送するところがエロティックなのだ。また見れそうで見れない所もエロティックだった。見たいが見れない所がェロティックなのだ。見たい所が見れるものはエロティシズムでも何でもない。
司会者は男で五人くらいの女の子が机を前に一列に座っていていろいろお喋りする。彼女はレギュラーでいつも真ん中に座っていた。ちょうどキリストの最後の晩餐のような図である。Tバックと「イエーイ」 と言って拳を上げるアクションが印象的だった。
そして皆と一緒に小さくパチパチと拍手する。軽いノリの女の子だなと思った。そしていつの間にか番組はおわっていた。最終回は見たかどうか覚えていない。番組の内容もほとんど忘れてしまって思い出せない。ただ彼女のTバックとあの 「イエーイ」 はいやでも強く印象に残った。もちろん彼女に特別な関心はなかった。そもそも芸能界には興味が無いのでそれでおわりになった。ただスレッカラシとは呼べない何か真面目な感じがあって頭の回転が速そうで、というか反射神経が優れているのか、ともかく正体が掴めないもどかしさがあった。
それで今回彼女のプラトニック・セックスを読んでその正体がわかって極めて感動した。だがやはり最初の子供の頃の部分が一番内容も文章も優れている。この部分は文章のお手本として国語教科書に載せると非常に良いだろう。(もしかするともう載っている教科書もあるかもしれない) やはり彼女は頭のいい子だったのだ。しかし学校から離れて家出する部分になってくるとだんだんペースダウンしてきた。読み応えがなくなってきた。
だが後半になるとまた読みごたえが出始めた。まだ少女なのに一人でこの世の中を生きていくそのバイタリティーのすごさに圧倒された。特に面白い所は257ページの弟がエッチな雑誌で姉を見つけて「これお姉ちゃんじゃないの?」 と親に報告するところだ。このところではじめて彼女に弟がいることを知った。この部分をもっと前にもってきて彼女がTVに出ている事を親が知るのはこれがきっかけだったとゆうふうにすればもっと面白くなったように思う。しかし話のはじめでは弟は全く出てこない。てっきり一人っ子かと思った。はじめの方で「兄弟は弟が一人いた」 と一言「書いておいた方がよかったのではとも思う。だが逆に原文どおりそう書かずに後から弟の存在を知らせているのも、かえってその方が面白いかもしれないとも思う。年がはなれていたのだろうか。そこらへんはくわしく知らない。
・・・・・・・・・・・・・・
彼女は人間として一番大切なものを持っている。それは友情だ。
彼女はこれほどの逆境苦難の中から見事に人生で勝利をおさめている。おそるべき才能と感性。
一人の女性がいる。人に頼らず独力で見事に幸せをつかみとっている。もちろん人は誰でも幸せを求める。彼女が求めたのはビッグな幸せではなくささやかな幸せだ。なのに彼女はビッグな存在となってしまった。(もちろん僕は芸能人が特別な人間だとは全く思わないからこの言い方は矛盾がある) 彼女は多くのファンを獲得し、事務所の社長に言われて軽い気持ちで書いた本がミリオンセラーになった。しかしそれらはすべて彼女がそれを求めてした事ではない。結果としてそうなったのである。どんな方面でも必死である事を求めてもさいごまで得られない人はたくさんいる。しかし彼女は求めずして大いなるものを獲得してしまっている。彼女の人生は予定調和いがいの何ものでもない。
しかし彼女が求めているのはそんなものではない。彼女が求めているのはささやかな幸せた。「がんばったね」の親の一言だ。そして友情だ。
ある時テレビで彼女が芸能人の女友達と寿司屋でお喋りしているのを見た。酒を飲んでいたのかほんわかしている。あいかわらず拳を上げて「イエーイ」と言っている。彼女が一番大切にしているものは友情だ。そしてそれは人間として一番大切なものだ。
だがあのほんわかとした表情、そして、あの「イエーイ」 を見ていると何ともいえない複雑な感情が起こってくる。それは彼女の両親が彼女に対して持った感情に極めて近い。
しかし「飯島愛」
あの「イエーイ」を見るとやはり有島武朗の「一房の葡萄」を暗誦させたくなる。
しかし「飯島愛」
あの「イエーイ」を見ると数学で90点取っても100点取った子をひきあいに出していやみを言いたくなる。
しかし「飯島愛」
あの「イエーイ」を見るとやはり偏差値60以上の私立のお嬢様中学に行かせたくなる。
そして「飯島愛」
あの「イエーイ」を見ると、やはりピアノ、そろばん、習字、長刀、さらには日本舞踊まで習わせたくなる。