小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

公明党

2014-06-27 22:12:36 | Weblog
公明党が集団的自衛権の解釈で自民党に妥協した。

公明党は、最初から、ある程度の期間、徹底反対して、公明党の支持者の理解を得て、自民党が、たった、「も」を「が」に変更したことで、納得した、と見せかけることによって、これまた公明党の支持者の離反を上手くそらした。

つまり、公明党は、最初から、八百長を演じていた、と見るべきだろう。

八百長というか、それが政治というものと見るべきだろう。

トマス・ホッブズ(心理的利己主義)

2014-06-23 19:21:35 | Weblog
人間の行動は、基本的に、全て、自分の利益、自分の幸福追求のため、という動機からである。
自分を犠牲にして他人のため、という行動は、(極めて少ないが)あることもある。しかし、「自分を犠牲にして他人のため」、と見える行為も、その精神まで含めて、詳しく突き詰めて見ると、結局は、「自分のため」である場合がほとんど、である。極論を言えば、「人間は自分のためにしか行動しない」と言っても過言ではない。
かく言う私自身を振り返ってみても、私が今まで、「自分を犠牲にした他人のため」の行動をしたことがあるか、というと、全く思いつかない。確かに、一見、「自分を犠牲にした他人のため」のように見える行動は、いくらでも思いつける。しかし、それらは、「私の良心や信念、誇り、のため」の行動であったりする。たとえ、やりたくない嫌なことをする時でも、それをしないと、自分が不利になるから、嫌なことをするのであって、突き詰めれば、結局は、自分の利益のための行動である。

たとえば。「愛と誠」で。太賀誠が自分の命の危険をかえりみず、早乙女愛を救ったのも、太賀誠にしてみれば、男の誇りを守るためであり。

特攻隊においては。色々な理由があるだろうが。一番、大きなものは。特攻に出撃せず、皆に陰で、非国民とか腰抜けと言われたり、思われたりされながら生きる精神的苦痛の方が、非国民と皆に言われずに死ぬ精神的苦痛より、はるかに大きかったからで、より苦痛の少ない方を選んだ、と言える。

安部ファシスト内閣

2014-06-23 08:22:25 | Weblog
「自衛隊を暴力装置」、というのは、とんでもなく悪いことだか、国民に問うことなく、強引なこじつけ解釈で、集団的自衛権を法制化し、交戦権を有効にして、日本の平和主義の憲法を破り、武器商人となり他国に武器を売りつけ(これは漁夫の利で、非常に儲かる悪魔商法である)、ソドム、ゴモラのようなカジノを作って腐敗した国にしようというのは、正しいことなのか?

集団的自衛権を合法化、することによって、一番、喜ぶのは、日米軍事同盟を結んでいるアメリカである。アメリカの国益になる戦争に、日本が協力してくれるわい、と大喜びである。アメリカは、イスラム教国との戦いが多いから、日本はイスラム教国に恨まれることになる。イスラム過激派は、ビン・ラディンのように、東京タワーや東京スカイツリーに突っ込んでくる可能性が高くなる。

集団的自衛権の容認は、アメリカ側からの催促ではない。阿部晋三というタカ派の個人的な願望である。戦後、アメリカが暴力で作って、押しつけた日本国憲法の、戦争放棄は、アメリカに対する復讐として有効に使うべきだ。戦争放棄の憲法のため日本は、軍事力に金をかけることなく、日米同盟のもと、戦後、経済復興に専念できた。これは、胸がすくようなアメリカに対する復讐である。この外交カードを有効に使わない手はない。集団的自衛権を容認する代わり、アメリカは普天間、辺野古の基地を撤廃し、グアムにでも、米軍基地をつくれ、とアメリカに突きつけることだって出来る。実にもったいない。どの国でもそうだが、アメリカはアメリカの国益しか考えておらず、日本の国益など全く考えていない。もし集団的自衛権が日本の国益にもなりますよ、というアメリカ政府高官がいたら、それは、心にも無いウソである。

日本は、アメリカやEUのように、国家的経済戦略を持たなかった。人が良過ぎた。のほほんとしていた。だから、経済においては、多少、狡猾になるのは、いいだろう。しかし、集団的自衛権に関しては、デメリットはあっても、メリットはない。

自民党の暴言は、撤回、謝罪、すれば、それで、すむが、民主党の暴言は、撤回、謝罪しても、(ほとんど暴力によって)すまさなくするのだから、自民党こそ、暴力装置という名前がふさわしい。

丸川珠代

2014-06-23 07:31:21 | Weblog
仙石由人の「自衛隊は暴力装置」発言に対し、丸川珠代は、「命をかけて国を守ろうとしている自衛隊員」と、自衛隊員のことを崇高に言った。が、はたして、そうだろうか。私はそうは思わない。防衛大学や自衛隊に入ろうと思った人間の動機は。知る由がない。人の心は知る由がない。動機は、各個人で違っているはずだ。もちろん、そういう崇高な人もいるかもしれない。しかし、国のために命までかけようと思っている人は、私は少ないと思う。それよりも。公務員は、全て、親方日の丸で、潰れる心配がなく、全ての公務員の守るべき三大原則は、「遅れず、休まず、働かず」であり、安定して楽な仕事、という理由から、自衛隊という職業を選んだ人の方が圧倒的に多いと私は思う。自衛隊員に、自衛隊になろうと思った志望動機を聞けば、そりゃー、丸川珠代の言うように、「命をかけて国を守りたい、と思ったからです」、という、理想的な崇高な返答を、自衛隊員の全員が言うであろう。しかし人間とはウソをつく動物であり、本音と建前が違う動物なのである。ましてや、日本は、憲法九条により、交戦権を放棄していて、戦争をしない国なのであり、自衛隊員が死ぬ危険性は、0.1%もないくらい、自衛隊員は安全なのである。自衛隊員の仕事は、戦闘の訓練、と、災害が起こった時の救助活動である、というのが、現状である。だから、自衛隊を志望した人の動機は、親方日の丸で、収入が安定していて、死ぬ危険が、まずなく、仕事は、戦闘の訓練、と、災害が起こった時の救助活動、という理由で、選んだ人がほとんどだと私は思うのだが。

警察官にしても同じである。丸川珠代の理論によると、警察官は、命をかけて国の治安を守ろうと志した崇高な人間ということになる。しかし、警察の、ずさんな恫喝的取り調べ、事件の検証義務の放棄、バカげたネズミ取り、裏金での遊行、常に仕事をサボろうとする態度を見ると、とても、警察官が崇高な人間には、さらさら見えない。そりゃー、警察官に、警察官になろうと思った動機を聞けば、全員、「命をかけて国の治安を守りたいからです」という模範解答を言うだろう。

医者に、医者になろうと思った動機を聞いても、これまた、全員、「人の命を救いたいからです」と崇高な返答をするだろう。まあ、そういう人もいるだろうが、そういう人は少数派だと思う。個人的に言うならば。私が、医者になろうと思った理由は。理数科系が出来て、国公立の医学部に入れる学力があっから。医者は社会的地位の高い職業だから。困難なことへの挑戦のため。自分が子供の時から病人で、医者を見返してやる復讐のため。などが理由である。(私の場合は、多くの人と違って、金が儲かるから、という理由は、あまりない)私には、人の命を救いたい、などという高邁な理由など毛頭ない。私は私が幸せになるために、医学部に行こうと思ったのである。

人の心の中は絶対、わからない。

丸川珠代の矛盾は、わからないもの(人の心)を、こうだ、と勝手に断定したところにある。

ちなみに、私は、丸川珠代の憤りの発言は、本心(多少はあるが)からではなく、怒る時には怒るという、自分の自民党の中での人気を上げ、自民党の中で、政治家としての地位を確固とし、次期選挙でも、再選するためのパフォーマンスを国民にアピールする、という自分の利益の追求という要素の方が大きいと思っている。(思っている、と言っているのだから、これは断定、決め付け、ではなく、推測である)

今日は夏至

2014-06-21 02:03:01 | Weblog
今日は夏至である。

法律

2014-06-20 23:34:18 | Weblog
法治国家における法律というものは、それを絶対、守って生活しなくてはならない、というものではない。なぜなら、世の中には、おかしな法律がいっぱいあるからだ。

法律とは、いざ、もめごとが起こって、裁判にまでなった時、(民事でも刑事でも)正否、量刑の程度を決める時の根拠として存在しているのである。

愛と誠

2014-06-20 06:57:46 | Weblog
武井咲と妻夫木聡で、「愛と誠」のミュージカルのような映画が出来た。「愛と誠」は、原作の漫画が優れ過ぎているので、安直に、下手なドラマや映画にして欲しくない、と私は思っている。が、この、武井咲と妻夫木聡のミュージカル的映画は、結構いい。二人は、「愛と誠」の話がよく分からない、と記者会見で語っている。無理もない。なので私が解説しよう。私は、梶原一騎の漫画は、ほとんど全部、持っている。そして私は、梶原一騎の漫画の意味を完全に理解している、という自負がある。梶原は、「愛と誠」の前に、「夕やけ番長」を書いている。これは、「愛と誠」とストーリーの作り方で共通する点が多い。また、かざま鋭二の絵で、「朝日の恋人」という初の恋愛路線物を書いている。「夕やけ番長」は大成功だか、「朝日の恋人」は、あまり成功とは、言えない。「愛と誠」は、矛盾がいくらでも、あるから、よくわからない話と、とらえられてしまう。のだが、大切なのは、梶原一騎が表現したかったこと、を味わえばいいのである。わからなくても、太賀誠のド迫力の根性に圧倒されれば、それで、いいのである。
早乙女愛は、太賀誠の人生を傷つけ、狂わしてしまい、グレさせてしまい、その償いのために一生、命をかける、というストーリーを梶原一騎は書きたかったのである。しかし早乙女愛のような、誠実な女性が一人の人間の人生を狂わしてしまう、というストーリーは、極めて作りにくいのである。なのでストーリーに無理がある。太賀誠は、スキー場で命をかけて早乙女愛の命を救う。その代り、眉間に傷をつけてしまう。しかし、それだけなら、たいした問題は起こらなかった。早乙女愛は、全く悪くはない。悪いのは、傷に破傷風の感染があるのを見落とした医者の責任である。そして、一年間、太賀誠は、留年したが、留年したことを、ばかにして囃し立てた同級生の生徒達が悪いのである。そして、グレン隊とケンカして、山小屋の家を燃やされてしまったのは、グレン隊とケンカした太賀誠が悪いのである。太賀誠の父親と母親は、不和になって、離婚してしまうが、それは、離婚した太賀誠の父親と母親が悪いのである。早乙女愛は、何ら悪くはない。しかし、そうしてしまうと、お話しが作れなくなってしまう。なので、それらは早乙女愛の責任ということに、しているのである。そして、太賀誠は、「他人から理由のない借りを作らない。いかなる権力にも頭を下げない」ことをモットーとしている誇り高い人間なのである。では、なぜ、早乙女家から、学費と生活費の援助を受け、青葉台学園に入ったか。それは、太賀誠は、早乙女愛に、大きな貸し、があるからである。そして、早乙女愛が喫茶店でアルバイトしていたことを、早乙女愛の母親につきつけて、作戦的に、早乙女家と、取り引きしている。のである。だから、太賀誠は、誇りを無くして、早乙女家に依存しているのではない、のである。ここら辺のことは、一般の人では、わからないと思う。梶原一騎、自身、10年に一人出るか、出ないか、というくらいの、太賀誠に近いくらいの、誇り高い人間なのである。なんせ、当時の国民的英雄で、年上の力道山を「リキさん」と対等に呼び、さらには力道山物語を書くにあたって、力道山を脅迫したほどの、凄い男なのである。梶原一騎は完全に太賀誠と一致しているわけではないが、梶原一騎にとって太賀誠は男の理想像なのである。私は天才なので、他にも、梶原一騎や、梶原一騎の漫画のことは、全て説明できるが、またの機会に書く。

テニスコーチのバカさ加減

2014-06-20 06:33:11 | Weblog
テニスコーチのバカさ加減。テニスコーチは、生徒とラリーした後、二言、三言、技術のアドバイス、というか、注意をする。これは、バカの極北である。この世の中、すべて「生兵法は怪我のもと」であり、徹底的に、運動の理論を研究した人か、直観力が優れていて、物事の本質的なことが、わかる人なら、アドバイスしても、よかろう。しかし、やる気がなく、ろくに運動の上達理論を学びもしない人のアドバイスというか注意は、百害あって一利なし、なのである。バカなコーチの注意は無視することが大切なのである。そもそも、出来上がってしまった技の、モデルチェンジというのは、南郷継正氏によれば、「不可能」なのである。(私は、南郷氏の、モデルチェンジ不可能論には異議を持っているが)健康やアンチエイジングのため、運動している人にとっては、毎回、毎回、同じことを注意されたら、嫌になってしまうだろう。(運動は健康にいいのである。し、私は、個人的には、運動とは、生活、人生を充実させるための肉体の手入れという手段だと思っているのだが)健康や美容、アンチエイジングのためにテニスをしている人も多いだろうが、毎回、毎回、同じ技術的なことを注意され、それで、やめていく人も多い。これは、バカなコーチが、何か、生徒に、アドバイスしなけば、自分がコーチではないような気分になるから、しているのである。
それと、生徒が他の生徒に、ボールを当ててしまった時や怪我をさせてしまった時、コーチは、「謝って下さい」とデカい面で平気で言う。これも、全くおかしい。練習や試合中に、不可抗力のアクシデントが起こるのは、スポーツでは、当たり前のことである。そういうアクシデントは、誰の責任かというと、そこは、スクールが、入会の時、文章にせす、あやふやにしているが、入会金と月謝をとっているのだから、「レッスン中の怪我はスクールの責任」と、解釈するのが、妥当である。だから、レッスン中に、怪我が起ったら、生徒ではなく、スクールが、「申し訳ありません」と謝罪すべき、なのである。生徒は入会金を払っていて怪我やアクシデントの責任は、入会金によって担保されているのである。入会金は、怪我やアクシデントの保険料なのである。こんなことも、バカなコーチどもは、わからないのである。コーチには、テニスを指導する責任と、怪我やアクシデントが起こらないように、監督する責任の両方があるのである。しかしバカなコーチどもは、前者だけしか頭になく、後者は、頭にないのである。しかし本当に大切なのは、後者の責任の方なのである。小学校や中学校のスポーツ部の部長は、練習の時、生徒を監督、指導しているが、怪我が起らないように、ということを一番に考えている。それは、万一、怪我が起った時、監督義務を怠ったとして、生徒の親に訴えられるからである。技術の指導は二の次である。コーチの役割は、それで良く、また、それで、あるべきなのである。テニススクールでは、ここら辺がいい加減で、テニススクールの生徒は、学校の部活と違って、自分の意志で金を払って入って来たのだから、生徒に怪我やアクシデントの責任がある、というような感覚に陥ってしまっているのである。
球出しの練習も全く無意味であり、コーチの権威志向のもったいづけ、でしかない。球出しのボールは死んだボールであるから、それを打っても全く技術は向上しない。
ある二人が、二時間、レンタルコートを借りたら、何をするであろうか。それを考えてみれば、すぐわかる。二人でロングラリーをするか、試合をするか、である。二時間、金を払って、コートを借りて、球出しの練習をする人など、いやしない。そういう人がいたら教えて欲しい。ものである。
コーチは教える人間、先生であり、生徒は、先生に教わらなくては、技術が上達しない、とバカなコーチどもは思っているのであるが。コーチに教わらなくてトップアスリートになったスポーツ選手は無限にいる。かく言う私も、空手も水泳も誰にも教わっていない独学だが、技術のレベルはともに達人である。
コーチは技術至上主義で、人間として視野が狭くなっており、自分がテニスを出来るだけの、バカばかりである。


極真カラテでは、「練習中の怪我は全て自己責任であり、道場に対して一切の、不服申し立てをしません」、というような内容の文書にサインさせている。極めて、つめたいようだが、責任の所在を明確にしている、という点で、良いことである。しかし感情的には、冷たさを感じるのは当然である。テニススクールや他のスポーツクラブでは、無意識の感情論に落ちてしまっていて、そこら辺をいい加減にしているのである。人間として直視すべきものを直視していないのである。空手は、格闘スポーツであり、怪我が起りやすく、テニスは、格闘スポーツではないから、怪我は、起こりにくい、などというのは、全く理屈になっていない。どんなスポーツでも、怪我は起こりうるものである。こういう風に、物事をいい加減にする連中は何事も、いい加減なのである。テニスコーチは全て、いい加減人間なのである。


ある事を教える場合、たとえ、それが正しい事であっても、生徒の上達発展段階のある時点で、それを強要することによって、生徒が消化不良を起こすことは、よくあることであり、それを強要することは間違った教えなのである。
わかりやすく言えば・・・たとえば数学に於いて。相対性理論は真理である。しかし、小学生に相対性理論を教えることは間違った行為なのである。小学生には、足し算、引き算、掛け算、割り算、という概念から、教えなくてはならないのである。

ワールドカップ

2014-06-19 14:46:09 | Weblog
サッカーのワールドカップがブラジルで開催されて、日本国民全員が日本の勝利を祈っているというのに、
「ワールドカップなんて、どうでもいいじゃん。どこの国が勝っても」
と言っている一人の男がいました。彼の名は、浅野浩二と言って素性は謎の男です。
それを聞いた一人の男Nが、
「日本を応援しないなんて、とんでもない非国民だ。許せん」
と怒り狂いました。うわさは日本中に広がりました。
日本国民は、怒り狂って、浅野浩二の家に押し寄せました。Nは、
「おい。こいつをどうする?」
と皆に聞きました。皆は、
「ゴルゴダの丘に連れていけ。十字架にかけろー」
と叫びました。彼らは、浅野浩二を鞭打ち、頭に茨の冠をかぶせ、十字架を担がせました。
「さあ。ゴルゴダの丘へ行け」
暴徒たち(いや日本国民)は、そう言って浅野浩二を鞭打ちました。浅野浩二は、十字架を担いで、ゴルゴダの丘へと向かいました。十字架の重さのため、ハアハアと息も絶え絶えに、浅野浩二は、ゴルゴダの丘につきました。暴徒たち(いや日本国民)は、浅野浩二の両方の掌と足首を、大きな釘で十字架に打ちつけました。浅野浩二は、激痛に、
「ああー」
と叫びました。彼は天を仰ぎ見て、
「主よ。彼らを許してやって下さい。彼らは自分たちが何をしているのか、わからないのです」
と言いました。
「何をゴチャゴチャわけの分からないことを言ってやがるんだ」
暴徒たち(いや日本国民)は、十字架を、よっこらしょ、と立てました。両手、両足に釘をさされているだけなので、なかなか死ねません。それでも、五時間近く経ち夕暮れになると、ようやく、浅野浩二も、意識が薄れてきました。彼は天を仰ぎ見て、微かな声で、
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、どうして私を見捨てるのですか)」
と言い、息をひきとりました。その時、ピカッと稲妻が走り、ゴゴゴーと大地震が起きました。暴徒たち(いや日本国民)は、この異変に驚き、キャーと叫びながら、ゴルゴタの丘を去って行きました。

田中儀一

2014-06-18 01:32:39 | Weblog
「二十四の瞳」なんかを見ると、天皇陛下は死刑で当然、という左翼的感情が激しく起こる。あれは、非常な洗脳映画である。何十万人の人間が、「天皇陛下万歳」と言って死んでいったことか。

しかし長州閥の、おらが大臣、田中儀一首相が、張作霖爆殺について、きたない軍部の方について、張作霖爆殺事件を、「確かな証拠を得ず」とあやふやな報告を天皇にした。それを天皇が激怒して、田中儀一を叱り、そのため、田中儀一内閣は総辞職した。

あやふやなことに毅然とした態度をとる陛下の性格を考えると、どうしても天皇陛下が立派な人間で、陛下を否定する気にはなれない。

トレーニング

2014-06-15 22:58:34 | Weblog
トレーニングは、面倒くさいが、しないと、健康がどんどん悪化してしまうので、やらねばならない。筋肉をつけ、脂肪を減らし、自律神経を安定させ、不眠症、過敏になった腸を改善するために。

面倒くさい時は、二時間、クロールで休まず泳ぐ。昔は、非常に効果があったが、最近では、全然、疲れないので、あまり効果を感じられない。一時間、クロールで泳ぐと、1000kCal近く、消費し、エアロビクスとして一番、効果がある運動と言われているが、泳ぐ効率が良く、水の抵抗も少ないので、一時間、続けて泳いでも、全く、息切れもしない。速く泳ぐといいのだが、使い過ぎ症候群で、肘を痛めたくないので、速くは泳がない。

トレーニングジムでは、二時間を目途に、腹筋、背筋、その他の筋肉を、100回をワンセットとして、それを五回くらいしている。背筋、腹筋は、家では鍛えにくい。

家では、腕立て伏せ、スクワット、腹筋を100回、をワンセットに。

あと、体のストレッチである。私の体の柔軟性だけは、生まれつきのものである。

トレッドミルで時速7km/hで、40分の方が、水泳より、エアロビクスの効果が(私の場合)高く感じられるが、その後、脹脛に、じわーと筋肉痛が出できやすいので、出来にくい。

ブラジルのデモ

2014-06-13 22:57:27 | Weblog
国家の金を、スポーツという、単なる遊びに、使うより、貧しい国民の生活に使うべきなのは。あったりまえだ。

アメリカは悪魔の国であり、アメリカ人は鬼畜米英である

2014-06-10 10:02:45 | Weblog
おかしな事。日本は原爆を落とされた世界で唯一の国である。原爆の悲惨さを知っている唯一の国である。だから、平和主義に徹すべき。という理論。これは、全くおかしい。なぜ被爆国が反省しなければならないのか?日本はナチスのホロコーストのように、残虐なことをしたのか?日本はアメリカ、鬼畜米英の酷すぎるイジメに耐えきれず、やむを得ず抵抗するために、窮鼠猫を噛むの反撃に出たのである。
アメリカは原爆を投下した世界で唯一の国。とんでもないことをした悪魔の国。だから、原爆および戦争は、決してしてはならないと反省すべき国であるはずだ。
世の中、全て、加害者が反省し、被害者は加害者を憎む権利がある。
被害者が反省し、加害者は反省せず、でかい面して、平気で戦争してる。のは、おかしい。
ましてや、狂人マッカーサーは、朝鮮戦争で本気で原爆を投下しようと考えていた。まさにアメリカは鬼畜米英である。

日本のスポーツ選手は一つのスポーツだけしか出来ない

2014-06-09 23:06:05 | Weblog
「日本のスポーツ選手は一つのスポーツだけしか出来ない」

これは日本に限らず、世界中、全てでそうである。野球選手は野球だけ。サッカー選手はサッカーだけ。しか出来ない。陸上の、桐生祥秀選手にしても、100m走しか出来ない。スポーツの専門分化である。そして勝利至上主義から怪我をしてもやりつづける。バカな国民とバカなスポーツ選手の双方が、こういう事態を作り上げてしまったのである。それは、国民が、日本一、だの、世界一だの、だけにこだわるからである。それしか、そして、それだけしか価値がないように思っているからである。だから100m走で、記録を出そうとしたら、筋肉、肉体、スキル、トレーニング、全てに於いて、100m走だけに適した筋肉だけを鍛えようとしか、しないから、そして、各スポーツでは、そのスポーツにとって必要な筋肉というものがあり、それだけを鍛えることしかしないから、それ以外のスポーツは出来ないのである。プロ野球選手で趣味でゴルフをしている人は多い。しかし、遊び感覚であって、真剣に取り組もうとしないから、たいして上手くはなれない。プロ野球選手で、プロゴルファーになっても通用するという人などいない。

そして、多くのスポーツ選手は、子供の頃から一つのスポーツを経験論的(頭を使わず)に、練習して、気づいてみたら、上手くなっていた、というプロセスをたどるから、頭の悪い人間が多い。スポーツがどうして上達するか、スランプにはどうやって克服すけばいいか、などは全くわからないだろう。物を考えないからである。私には、極めてバカバカしいとしか思えない。

スポーツ選手は、引退したら、あとは、金メダルだの、過去の栄光にひたるだけの、おまけ人生である。人類に、何物の文化遺産を残すこともない。し、頭が悪いから、残せない。

ただ古田敦也氏のような、スポーツを分析しようとするクセのある人は、スポーツの原理の解明という文化遺産を後世に残すことが出来る。しかし氏のような才能のある人は極めて少ない。

「また葉隠が口をきわめて、芸能に秀でた人間をののしる裏には、時代が芸能に秀でた人間を最大のスターとする、新しい風潮に染まりつつあることを語っていた。現代では、野球選手やテレビのスターが英雄視されている。そして人を魅する専門的技術の持ち主が総合的な人格を脱して一つの傀儡(あやつり人形、ロボット)となるところに、時代の理想像が描かれている。現代は芸能人の時代である。一芸に秀でた者は、その一芸によって社会の喝采をあびる。同時に人間の全体像を忘れて、一つの歯車、一つのファンクションに自らをおとしいれることに人々が自分の生活の目標を捧げている。それと照らし合わせると葉隠の芸能人に対する侮蔑は胸がすくようである」

(三島由紀夫)

ケバフサンド

2014-06-09 21:08:42 | Weblog
アメ横の、ケバブサンドは美味い。焼いたパンの歯ごたえと、肉と、辛いソースを同時に食べるところに美味しさがある。あのパンの歯ごたえがなくなって、肉とソースだけでは、美味しくない。