小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

警察のバカさ、怠慢さ

2011-01-29 18:46:51 | Weblog
警察のバカさ。去年の12月27日に書いた警察のバカさを具体的に書いておこう。私は携帯電話を盗まれたのである。それで、即、ドコモショップに行って、盗まれた携帯を使えないように設定してもらった。盗まれて、気づいて、通話できないようにしたまでの時間は約二時間である。その後、藤沢北警察署に行った。そしたら、警察官が、「本当に盗まれたのか」と聞き返してきた。「あんたの言うこと信じきっていないぞ」とか、「ウソついても調べりゃわかるんだぞ」などとも高圧的に言ってきた。言ったのは地域課の安藤克臣(かつしげ)である。そして、私の携帯の電話番号に電話した。そしたら、留守番電話につながった。「留守番電話に接続します」という発信音がした。警察官は、「なんだ。つながるじゃないか。本当に止めたのか?」と私を疑い出した。まず、ここに二つのバカさがある。一つは。いくら盗まれた携帯の送受信を遮断しても、留守番電話というのは、携帯電話本体に入っている録音機能ではない。留守番電話サービスセンターに転送して、それを聞いているのである。だから、携帯の送受信を止めても留守番電話にはつながるのである。確かに、携帯本体にも録音機能はある。しかし、それは、伝言メモ、という機能であって、最大で、一分しか入れられないのである。しかし、留守番電話サービスなら、最大で20件まで入れることが出来て、しかも、一人3分まで話すことが出来るのである。だから、携帯を使っているほとんど、全員は、留守番電話サービスを利用しているはずである。警察官は、留守番電話がつながった事を携帯本体にある録音機能(つまり、伝言メモ)と勘違いしているのである。そして、もう一つのバカさ、とは。留守番電話の場合には、「留守番電話に接続します」という音声が出る。「接続します」という日本語を少し考えれば、他の所に転送すると、わかるはずである。一方、伝言メモの場合は、携帯本体に録音するのだから、「メッセージを入れて下さい」という音声が出るのである。日本語を少し考えれば、これも分かったはずである。
そして、何と、盗まれて、止める二時間の間に犯人は、私のメル友に、私になりすまして、メールを送り、携帯のエロサイトに登録して、さらには、町金融のレイクにまで登録しようとしたのである。エロサイトには、しっかり登録成功して、登録完了の返信のメールが返ってきた。レイクには、登録内容が不十分という返信メールが返ってきた。これら三つが完全な証拠となった。さらに警察なんて動かないから、私が処理した。エロサイトに電話して、盗まれて悪用されたことを報告して、取り消してもらった。レイクは登録内容が不十分なので、問題はない。メル友には、何時何分に、どんな内容のメールが来たか、相手に聞いた。それをメールで送ってもらった。この三つの時間帯がちょうど、携帯を盗まれた時間帯と一致しているので、バカで怠慢な警察官に、三つの受信メールを見せつけた。
実をいうと、この警察官は、もっと、救いようなくバカである。というのは、私が、このことが分かって、警察官に話したいと電話したら、警察官は、「電話で済まないことなのか?」と不快そうに聞き返してきたのである。「電話ではすまないことです」と私が言うと、しびれをきらして、「紛失ではなく、盗難となると、現場に行って、状況を聞かなくちゃならないんだよ」と不快そうに言った。アホである。つまりは、わざわざ現場に行って状況を調べて仕事をつくるのが面倒だから、嫌がっているのが、イライラした口調から明らかに分かった。警察は、ここまで怠慢なのか、とあきれた。警察が、盗難ではなく、紛失で処理したいのは、仕事を増やしたくないからである。盗難は事件になる。捜査するかどうかは警察の裁量である。しかし、携帯電話の盗難ていどの事件では警察は100%動きっこない。それに、もう一つ、事件が起こって、検挙できなかったとなると、統計的に検挙率が低下する。だから、警察は、事件にしたくないのである。
しかし私には、犯人が、どんな条件の人間かは、これである程度わかった。私は、同じ場所で、一ヶ月前に、財布と、さらに、かなり数年前にパソコンを盗まれている。おそらく財布を盗んだ人間と同一犯である。そして、メル友に、私になりすまして、メールするなどという事をすることからも犯人の意図が、かなりわかる。これら、5個(もっとあるのだが)の決定的な証拠をつきつけて、怠慢な警察官を怒鳴りつけて、叱った。こっちが正しいのだから、いくら相手が国家権力を傘にきているとはいえ、言い返せない。高圧的な態度を急に変更して、ゴマすりに態度を変えた。ヘラヘラ笑いと偽善とご機嫌とりに方針変更した。ズサンで怠慢な警察の横暴に泣き寝入りしないように市民は自覚しなくてはならない。

国会中継

2011-01-29 01:38:49 | Weblog
平成11年度の予算の国会が開かれた。まだるっこしい。日本はアメリカのように二大政党制にして、大統領制にすべきだ。それこそが、日本を立て直しえる唯一の方法だ。それしか他に方法はないと思う。なぜ、その事を言う人がいないのか不思議でしゃーない。野党なんて、みんな十把一絡げの同じである。政党が本当に理念なんてものをもってると思ってる人がいるのだろうか。本当に譲れぬ確固とした理念なら、なぜこうも与党になるため連合の離合集散が、頻繁に行われるのか。野党の理念なるものは政権とるための、国民受けするきれいごと、か、支持母体へ有利なようにとのはからいと、政権つぶしだけである。理念なるものは、ほんの体裁のお義理に過ぎない。まさか、共産党が、自衛隊を合憲だとは言えまい。
与党や首相への、くっだらない揚げ足取りの質問をいつまで続けてりゃ気が済むんだ。私はいかなる政党の主張など、いいかげんなもので、はなからバカげていると思っている。与党は右と言っても、左といっても非難される。憲法改正するといったら、日本は軍事国家になる気かと非難され、憲法改正しないと言ったら、自国は自国で守るべきだと非難される。じゃ、どう言や、野党どもは満足するんだ。手前がやってみろ。三日と持つまい。こんなくっだらないことでもめてる時じゃないだろ。私は、野党どもが非難しても菅直人を支持する。「総理にふさわしくない器」などと非難するのは、いいが、その理由は論理的に言ってねえじゃねえか。子供の悪口の言い合いいの域を出ていない。ともかく二大政党制にしろよ。本当の敵は外国なのに、野党どもは手前らが政権とる権力欲、名誉欲しか考えてない。そしてまた外国に鳶に油揚げをさらわれる。アホらしい。まあ見てて下手な漫才よりは面白いが。
なぜ日本人は団結する気質がないのか。これは考えるに値する問題だ。島国根性。シャイ。革命が起こせない。本道よりも自分が大切。安定した公務員の職。肝っ玉が小さい。度胸がない。大所帯にするとまとめにくい。
太平洋戦争だって、本当の敵は鬼畜米英なのに、最後まで、海軍と陸軍はケンカしてた。それどろこじゃないだろ。さらには、本当の敵のアメリカよりも、陸軍にとっては海軍の方が、アメリカと同じくらい憎たらしいと思っていただろう。くだらん無意味なイデオロギー論争。感情論。いまだに日本はそれを続けている。私は菅直人総理を支持する。
日本人は、教育レベルが高く、勤勉で真面目な人が多い。日本経済を良くする能力は持っていると思う。日本を潰しているのは、ほかならぬ政治家である。

アダルトビデオは真面目に見るべし

2011-01-26 17:29:57 | Weblog
あるホテルに泊まったら、アダルトビデオが無料だった。そのため、久しぶりにアダルトビデオを見た。ホテルに泊まっても、アダルトビデオは、ほとんど有料だから、金はらってまで見る気はしない。しかし無料だったので見た。それは私が嫌うものでもあり、しかし、同時に私という人間を存在させているものでもあった。アダルトビデオを、ひやかしたくなる気持ちを、ブツブツと言葉にして、多少、引きつった笑いで他人をあざ笑うように見ている人は、自分を欺いている人である。そういう人間は大物になれない。ここら辺が人間の勝敗を決める。アダルトビデオを作っている側の人間の方が、ちゃんと自分を直視している。見てる人間は、見たいから見ているんじゃないか。もっとも私はアブノーマルな人間なので、ノーマルな人間の心理はよくわからないが。
聖書にも、「あなたは他人の目の中にある塵は見えるのに、なぜ自分の目の中にある丸太に気づかないのか」(マタイ伝七章)と書いてあるではないか。
大切な事は感覚的レベルで誤魔化している曖昧な自分を直視することである。高校生に学校の授業でアダルトビデオを見せて、感じた事を、原稿用紙三枚くらいで書かせてみたら非常にいい教育になると思うのだが。まあ現実的には、そんな事をする学校はあり得ない。

では私の感想文。

「いくつかの作品がありましたが、一つの作品が印象に残りました。それはセレブな人妻、限定でナンパし、セックスまで持ち込むというものでした。まず私は、これは本当のナンパなのか、それともヤラセなのか、見抜こうとしました。ゲットされた人妻は、みな美人だったからです。しかし、最初の女の対応は、とても演技とは思えませんでした。少し躊躇いがあって、話し方も素人っぽいです。アダルトビデオの女優では、あれほどリアルな演技は出来ないと判断しました。とすると、かなりきれいな人妻でセックスに餓えている人もいるのだなと、思いました。人妻はセックスしたい。そしてナンパしてる男もセックスしたい。なら、これは両方の欲求が一致していて、悪い行為ではないのでは、と思いました。しかし、人妻には当然、夫がいます。夫は自分の妻が他の男とセックスすることなど嫌だと思っているはずです。しかし人妻は、夫とは月に一度くらいしかセックスしていない、と言いました。しかし私は、それを信じてはいません。毎週セックスしていても、恥ずかしくて本当の回数は言えないと思います。人妻は、退屈なのか、結婚生活に飽きが出始めたか、セックスが物足りないのか、アバンチュールをしてみたいと思っているのかの、どれかだと思います。欲求不満の人妻の悩みを解消させることは、悪い事ではなく、むしろ良いこかもしれないとも思えました。しかし夫に対しては、明らかに悪い事です。最終的な結論として私が思ったのは、性的類似行為をしてもいいけれど、その程度を軽いものにとどめるべきだ、ということです。挿入、中出しは、してはいけないと思います。万一、妊娠してしまったら、犬神家の一族のような悲劇が起こりかねないと思います。まあ、人工中絶すればいいわけですけれど。人妻に、できるだけタッチしないよう、人妻に脱がせ、裸を見るのにとどめるか、人妻にオナニーさせて、それを見るだけにとどめるべきだと思います。女は見知らぬ他の男に裸を見られるだけで十分に興奮するはずです。それなら、人妻も満足するでしょうし、夫もその程度なら、それほど不快に思わないと思います。本当の挿入でないと満足できない人妻もいるのかもしれません。しかし、それは仕方のない事です。この一歩は越してはいけない一線だと思います。あるいは、バイブレーターを人妻に渡して、あくまで自分で、オナニーさせて、いかせるか、だと思います。女の興奮や満足感は単なる肉体的、物理的な刺激でなくても、工夫することによって、高められると思います。たとえばセクシーなランジェリーを用意しておいて着させたりとか。男優は、自分も満足したいという欲求を無考えに優先させ過ぎています。では、私はどうかといったら、私にはこういう事は出来ません。なぜなら、まず入り口であるナンパという行為がとても出来ませんから。断られた時、傷つくのがトラウマになりますから。もし私が男優の立場でしたら、セレブな人妻には手を触れず、人妻に好きなことをさせ、私はそれを見ることによって人妻を興奮させたいと思います」

開業医はヤブ医者ばかり

2011-01-25 15:36:09 | Weblog
開業医はヤブ医者ばかり。私も勿論、病人であるから、内科医にかかっている。ここの内科医は、胃腸科、内科、外科、小児科、を標榜している。胃腸科を大きな字で書いてあるのだから、消化器が専門だと察する。私の診察は、決まっていて、聴診器で胸の音を聞くだけである。そして先生は、「音は悪くないですね」と言うだけである。これを10年、続けている。まず、おかしいと思うのは、喘息は、気管支が狭窄して呼吸が苦しくなるのだから、そうすると、患者は寝ていれば、起座呼吸、起きていれば、肩呼吸になって、顔つきも、呼吸の仕方も苦しくなるのだから、これは聴診などする必要などなく、視診、問診でわかることなのである。喘息では、聴診など、ほとんど無意味だと思っている。私にすべき事は、腹部聴診である。私はいつも、腸の動きが悪いから、きれいな、疑性腸閉塞の音が聞こえる。私は時々、大腸の動きの悪さの度合いを知るために、自分で腹部聴診をしている。これは胃腸の動きの悪さに、きれいに比例するので、腸の具合が聴診によって、しっかりわかるのである。しかし、腸の動きは悪くても、我慢できるから表情には表れないから、問診だけでは、腸の具合はわからないのである。「おっかしいなあ」と内心、思いつつも、黙っている。こちらからどうこうして下さい、などと差し出がましいことは言わない。ただ開業医は、精神的にマンネリ化して、惰性でやっているから、精神が鈍化してしまって全然、進歩もヘチマも無いのである。ただ、ここの先生は、性格はいい先生である。なので、性格のいい人は私は非難しない。そもそも開業医で診察が終わってから、医学書を読む人など、いないだろう。診察が終わったら、「あー。今日も一日おわった」とほっとして、ビールを飲みながらプロ野球を見ているのだろう。患者というのは研究の宝庫なのに。

なぜ女の子にピアノを習わせるか

2011-01-24 20:14:55 | Weblog
最近はどうか知らないが、子供の頃から、(特に)女の子にピアノを習わせる家庭が結構あった。それは何のためか。習わせている親の目的はわからない。親によって違うだろう。ある親は、女子のたしなみのため、女の子が大人になった時のエレガントな特技のため、結婚に有利になるようにするため、礼儀正しさを身につけさせるため、一芸を身につけさせるため、いずれ学校では音楽の授業があるから、その準備のため、あるいは、あわよくば素質があればピアニストにするため、等々が考えられる。のではないだろうか。しかし、それらは女の子にピアノを習わせる本当の目的ではないのである。ピアノを習わせる本当の目的。それは、「頭をよくする」ためである。人間は手と頭が連動しているから、手先でピアノを器用に弾けるようになると、頭を良くする効果があるのである。その他の目的は副産物に過ぎない。
これは何もピアノに限った事ではない。中学から英語を学ぶ本当の目的は、「頭を良くする」ためなのである。英語は国際語だから、どんどんグローバルになっていく国際社会のために、英語を話せることは実用上、必要不可欠だから英語を学ばせているのではないのである。それは英語を学ぶ結果、身につく副産物なのである。
「小さな恋のメロディー」で、オーンショーが、ラテン語の予習をしなかった理由を先生に聞かれて、先生に、「ラテン語は時代遅れの言語ですから」「死んだローマ人とは会話が出来ませんから」という理由を言って先生に叱られた。これと同じなのである。実用的に役に立つから、という理由で学ばせているのではないのである。日本では中学から、母国語である日本語いがいの、外国語を学ぶことになっているが、それはラテン語でも中国語でも構わないのである。しかし文部科学省は、どうせ学ばせるなら、実用的にも一番、役に立つ、英語を選んでいるのに過ぎない。のである。しかし実際の所、文部科学省がどう考えているのかは、わからない。結構、オーンショーと同じように、実用に役に立つから、というのが第一目的と考えている人も多いと思う。
さて「頭を良くする」というのは、かなり荒削りな言い方である。正しくは。人間には、脳に無限の可能性がある。英語にせよ、何にせよ、学ぶということは、人間の脳の無限のキャパシティーの内の小箱の一つを開いて鍛えているだけに過ぎない。別に英語を学んだからといって、それが他に応用できるわけではない。数学を学んだからといって、論理的に物事を考えられる人間になるわけでもない。社会科系の学問、たとえば歴史を学べば、これからどう生きるべきか、という有力な武器になる。将来どうすべきかを考える時、過去の教訓は非常に有効な武器となる。だから社会科系の学問は、福沢諭吉の言う実学である。また歴史には必然性があるから、歴史を学ぶということは形而上学をも学んでいることになる。これは歴史に限らない。しかし、基本的には、学校教育で定めている学科を学んでも、他のことに応用が効くわけではない。
では、なぜ、人間は頭を良くする必要があるのか。それは私にもわからない。ただ、頭を鍛えないより、頭を鍛えた方がいいとは、(感覚的レベルで)正しいことだと確信している。

シューベルト

2011-01-23 22:17:07 | Weblog
「アマデウス」というシューベルトの半フィクションの映画を見た。主人公のシューベルト役の役者が、ケラケラ下品に笑いすぎる。天才は、変わり者、変人、という可笑しさを出すためだろうが、また、そうしなければ映画が面白く作れないから、それはいいが、やたら明るくて、ちょっとバカ笑いばかりし過ぎて、しっくりしない。もうちょっと、しっくりした変人をやって欲しいものである。それと指揮もしっくりしない。元気に豪放に指揮するのではなく、作曲家にとって、自分の作った曲は、かけがえのない大切な自分の子供のようなものであるはずだ。作曲家が自分の作った曲を指揮する時は、もっと自分の世界に入り込んでしまっているはずた。そのように演じることも出来るはずだ。見てて、どうもしっくりしない。実際のシューベルトは、どうだったのかは知らないが、見てて、絶対、天才というは、あんなんじゃない、という違和感を最後まで感じていた。アメリカ人は、映画を観て、面白ければ、そして笑えれば、それでいいと思っているのかもしれないが。そこらへんはどうなのかは知らないが。作曲家に限らず天才というのは、私には、変人で、気むずかしく、いつもインスピレーションの降臨ばかり考えているため、歩きながら電信柱にぶつかってしまい、いざ作曲にとりかかると、とりつかれたように、それだけが頭を占めてしまい、他のことは忘れてしまい、常識が無く、曲が完成した後は、最高の快感と疲労で、おおいに遊ぶが、すぐに次の曲作りに真剣そのものになる、という人物像が思い浮かばれる。映画では、違和感を感じたのは、シューベルト役の役者だけで、他はあまり違和感を感じなかった。だが、幼少の頃から音楽的英才教育を受けた天才というは、ちょっと天才の典型な形とは違うのかもしれない。だから実際のシューベルトがどんな人物だったのかは想像もつかない。実際の人物を再現する映画の場合は、製作者側の想像力の高さが一番のポイントのように思う。しかし、それも一概には言えない。観客は何を求めているのか。納得できるリアルさか。それともストーリーの面白さか。そもそも映画も芸術だが、映画製作者は、何を目的にしているのか。映画の出来の良さなのか。それとも観客動員数なのか。映画の製作には、膨大な金と時間がかかる。元をとれる物でなくてはならない。また、観客にしても、違和感を感じても、違和感は不快感とはならない。違和感が面白さになることもある。かえって違和感なく納得できるシューベルトを映画で再現してしまうと、シューベルトとは、ああいう人物だったのか、という偏見、先入観が出来てしまう。実際のシューベルトは、本当はどういう人物だったのかは、正確にはわかることは出来ないのに。

ちなみに嘉門達夫がシューベルトの、トルコ行進曲、で中学生の修学旅行を一連のお話のようにした作詞をしたのがあるが、実に見事である。

合気道

2011-01-23 22:16:14 | Weblog
前日の仕事では、気分がハイだったので、患者相手にふざけにふざけた。ここまでふざける医者も少ないのではなかろうか。しかし、夕方になってくると腸が動かなくなってきた。冬は腸が動かなくなると熱が出て、食べられなくなり、点滴の毎日になる。それは、絶対さけたい。有り難いことに、また腸が動き出してくれた。ちょっとこれは、運動が足りないのではないか、もっと体を鍛えねば、と思った。その数日前も、たまたまキックボクシングのジムが新しく出来ているの見つけたので、体験させてもらった。パンチは、えぐりこむように打て、と言った。「明日のジョー」の丹下団平のジャブの打ち方の指導は、結構、正しいのかもしれない。ワン・ツーをやった後、ストレートからミドルキックをした。キックボクシングでは、脛で蹴る。足背で蹴ると、ミットにバシーンといい音がするのだが、脛で蹴ると、いい音は出ない。体験は一回しか出来ないので、もうここも出来ない。その後、練習生にスパーリングを申し込んだ。彼はKOキングらしい。トレーナーは危険だから、やめろといったが、しつこく要求して、スパーリングをした。一発でダウンさせられた。トレーナーがカウントし出した。1・2・3・4で立った。
トレーナー「もうやめ。大丈夫ですか」
トレーナーがあわてて駆け寄ってきた。だが私はファイティングポーズで構えた。
トレーナー「まだ、やる気なの?」
私    「わかりきったこと聞くんじゃねえ」
KOキング「ううー。カンにさわる野朗だ」
ということで、ジムを怒らしてしまったので、もうジムには行けない。
こりゃー、ちょっと運動が足りないと実感した。週一テニスでは運動量が少ない。体育館のジムにも、全く行っていない。それで、日曜日に体育館のジムに行こうかと思ったが、夕方、体育館のプールで泳ぐことにした。二時間半、泳いだ。その後、日曜の夜、体育館で、やってる空手組織に久々に行った。三人、入門者がいた。入門者の内、二人、護身術をやっている、と言った。ので、護身術は、合気道と同じだろうと思って、技をかけてもらった。相手の手首をつかんだ。「うわー」と私が声を出して、大きく投げられているので、居合わせた人達は、ケラケラ笑った。何回も投げてもらった。これは貴重ないい体験だった。私が大きく投げられているのは、相手が投げているのではなく、護身術に対する護身のためである。合気道は、関節を強く無理な方向にひねる。だから、ひねられた方向に、逆らわずに、投げられないと関節や靭帯を痛めてしまうからだ。合気道は、見た目には小さな動作で相手を大きく投げ飛ばしているように見える。だから本当かなと思ってしまう。だが、そうではないのだ。技をかけられたら、逆らわずに投げられないと、関節を痛め、捻挫してしまうからだ。なるほど、合気道とは、こういうものかと分かった。腕ひしぎ逆十時も決められたが、これはスポーツだけで通用する技である。男の急所の金的が目の前にあって、こちらは両手を自由に使えるのだから、ケンカで、これをやることは、男の最大の急所をどうぞ責めて下さい、と言ってるようなものだ。
合気道は実戦では通用しない、とか思ってる人もいるかもしれないが、それは違う。なぜなら、ケンカというのは、構えあって、いきなりフルファイトで戦うケースもあるが、口論からだんだん、エスカレートしていく場合も多いからだ。ケンカは両者が精神が完全な戦闘状態から始まるのではない。中途半端な精神状態から始まるケンカの方が多いだろう。チンピラが、「おい。にいちゃん。ちょっとこっち来いや」と言って、腕や胸倉をつかんでくることも多いだろう。スポーツでは、こういう事はないが、ストリートファイトのケンカでは、こういうケースも多い。相手が自分から、中途半端な力でつかんでくるというのは、合気道にとっては、一番の好条件である。だから合気道は実戦で十分、使える技だ。
しかし、相手の動きが速いので、どうやってるのか、わからないので、「ちょっと、ゆっくりやってみて下さい」と頼んだが、ゆっくりやってはくれなかった。空手の師範代が、「教わりたければ、ちゃんと入門して金払わなきゃダメだよ」とか言ってたが、相手だって、私を何度も投げて、「面白い。面白い」と笑っていた。相手はまだ達人ではないから、相手にとっても練習になって、ギブ アンド テークになるとも思うのだが。一般の人で、「合気道の技、かけさせて下さい」と頼んだって、「はい。いいですよ」と言って、投げられる人など、まずいないだろう。

西岡剛

2011-01-20 22:25:27 | Weblog
私はプロ野球は全然、見ない。高校野球なら少しは見る時もある。私は見てるより自分がやってみたい。高校野球はトーナメントだから、連投するエースが、疲れて大変だろうと思いつつも、トーナメントはわかりやすく面白い。ヒットを打ってバントで送るという手堅い攻撃方法も清々しい。去年は、久しぶりに、高校野球をよく見たが、ピッチャーはストレートとスライダー(とかいうもの)の二種類になってきているようだ。それとセーフティーバントも結構やっていた。高校野球も変わったものだ。もちろん沖縄のコウナンは大嫌いだった。ピッチャーが強そうで、どうせ、優勝するだろうと思っていた。私が沖縄が嫌いなのは、別に沖縄に怨みがあるわけではない。親が、のんべんだらりとした生活を送るために、湘南の家を売り飛ばして沖縄にマンションを買って、住んでいるからだ。このド寒い本土の冬を喘息と胃腸病と不眠症の病身をかかえて頑張っているというのに、親はのほほんとした安楽しか求めない性格であるからである。だから沖縄も嫌いになってしまったのである。坊主憎けりゃ袈裟も憎くなるのである。別に地元だからといって神奈川を応援する気にもならなかった。遠い知らない学校だからである。家の近くの知ってる高校だったら応援するのだが。それより、どっかの学校の不適な面構えのピッチャーに好感を持った。サイドスローでコントロールのいいピッチャーに勝った学校のピッチャーである。

プロ野球はリーグ戦だから、実力が正しく評価される。年末に、たまたま見た、とんねるず、とリアル野球盤の試合をした、日本シリーズで勝ったロッテの選手が面白かった。何かきっかけがあると興味が出てくることがある。キャプテンは西岡剛選手。(それまで名前も知らなかった)今年からメジャーに移籍するらしい。他の選手も面白いが、西岡剛選手が特に面白かった。面白いというより、性格が強気そうで、気に入ってしまった。自分にも他人にも厳しそうな感じである。いかにもキャプテンに向いた性格に見える。Whikipediaを読んだら、PL学園に入りたかったが、入れず、大阪桐蔭に入って、自分を落としたPL学園を打倒することを目的としたとあるのだから、これは気性の強い人間だ。寡聞の知識しかないが、You-Tubeの動画などで見ても、凄い努力家、研究家のようで、納得いくまで、人の何倍も努力するタイプの人間のように見受けられる。ということで西岡剛選手、頑張って下さい。これを機会にもしかするとロッテのファンになるかもしれない。

コーチの失敗

2011-01-20 17:34:03 | Weblog
スポーツコーチが指導で失敗するのは、物事の最初と最後しか見れないからである。上達の途中段階というものの指導に失敗するのである。つまりコーチの頭には、最終的な完成した技、フォームしか頭にないのである。だから、それが出来ていないと注意するのである。しかし当然のことながら上達には、技が完全になるまでの、まだ不十分な状態の技術レベルというものが存在する。ここの過程が、物事を追求、研究する人間にとっては、やりがいがあり、面白さでもあるのである。ここの所にこそ、創意工夫、研究心、実験、独創性、などをフルに働かす余地があり、それが面白いのである。大切なのは、技は最終的に完全になればいいのであり、途中では、どんなこと、どんなおかしな事をやってもいいのである。しかし、それが分からないと、生徒が研究しているのを、つぶしてしまい、最終的な完成されたフォームだけを強要してしまうのである。独創性のある人にとってはコーチの、何か言わないとコーチらしくないというコーチの体裁のためのアドバイスなど、迷惑な手枷、足枷でしかない。登山家と同じで、追求する人間にとっては、山に登っている歩いている途中だけが面白いのであって、登りきった後では何も面白くないのである。技が完全の域に達したら、あとはもう、進歩もクソも何もない。単なる気持ちよさだけであって、十年一日の進歩しない状態にしか過ぎなくなり、そんなの面白くないから、やめてしまうだけである。(これは、ほんの一部の人間にしか当てはまらないことである)

よく、You-Tubeなどの動画では、難しい運動を、「これは簡単です」と言っている人を見かける。その発言自身は、あんな難しそうな技が自分に出来るかどうかと心配している初心者の緊張を解く効果があって、その点は悪くはない。確かに、やってる本人にとっては簡単である。出来ることをやってるだけに過ぎないのだから。しかし、もし、本心から完成された技、身についている技を簡単だと考えているのであれば、その人は他人を指導する時、技が上達するプロセスの指導に必ず失敗する。

バッティングセンターのボール

2011-01-20 07:39:09 | Weblog
さて、バッティングセンターのボールは死んだボールか生きたボールか。私は野球は門外漢なので、正確にはわからないが、死んだボールの要素も強いだろう。確かに、近くの中学の野球の練習で、ピッチングマシンを使って練習しているから、全く無意味な練習ではないだろう。推測するに、速い球より、遅い球の方が、フォームを作る練習になると思う。なぜピッチングマシンが死んだボールかというと、ボールが出る位置が前後左右上下で変わらず固定していること。生きたピッチャーの投げる球はそうではない。どの位置から投げるかわからない。それと。これが一番の違いだろうが、ピッチャーはセットポジションから、呼吸を整えて、投げる動作がピッチャーの精神と、切り離せないものとなっている。誰一人、同じリズムのピッチャーはいない。だからバッターはピッチャーの心を伴った投球動作のリズムに自分のスイングのタイミングを合わそうとしているはずだ。だからピッチングマシンのボールは、かなり死んだボールだと推測する。

大学の過去問題

2011-01-20 07:10:43 | Weblog
大学の過去問題(入試試験の問題ではなく、入学後の授業の過去問題)は、非常にいい問題なのである。これは何も大学に限らず、高校、中学でも言えると思う。というのは、試験でどんな問題が出るか予想するというのは、教師の立場になって考えてみることが大切なのである。これを考えてみたことがあるだろうか。心理の読み合いは何も野球のスクイズだけではない。教師にしてみれば、ここは絶対、生徒におさえておいて欲しい重要な問題だから、ぜひ出したい。しかし、いつも同じ問題ばかり出していると、全員、テストに通ってしまうから、テストではなくなってしまう。だから問題は変えなくてはならない。しかし、枝葉末節の問題は出したくない。ぜひ生徒に理解しておいて欲しい基本の問題、教師の側から、ぜひ出したい問題というものがあるはずである。そのギャップに、先生は、そうとう悩んでいるはずである。

頭を良くする方法

2011-01-20 06:28:03 | Weblog
これは簡単。何でもいいから勉強して、特に覚えてしまって記憶してしまうことである。頭を使うことは健康にもいい。患者さんの中には、宅建(宅地建物取引主任者)の資格を取った人もいた。宅建は、(よく知らないが)暇なおばさんが趣味でとることもある、とか聞いたこともあるが、それで一向に構わないじゃないか。仮にも国家試験なら、楽に取れる資格じゃないだろう。さらには、戦前の教育では、神武→綏靖→安寧→懿徳→孝昭→孝安→孝霊→孝元→開化→崇神→垂仁→景行→成務→仲哀→応神→仁徳→履中→反正→允恭→安康→

と歴代天皇の名前を覚えさせらたが、これには全く理論はない。しかし、理論が無いことでも記憶するということは、頭を良くすることなのである。理数科系の学問でも、何かの法則の名前は第一発見者の名前がつけられるが、これは何の理屈もない。しかし、覚えることが頭を良くするのである。

空海も膨大な量の経を覚えたが、そもそも経というものは、意味が分かっても、分からなくても、覚えることで頭がよくなるのである。

スポーツ上達理論

2011-01-20 05:57:30 | Weblog
スポーツを無考えに練習して、なぜ達人にならないか。このことの考察。どんなスポーツでも、そうだが、無考えに練習しても、あるレベルまでは上達する。(自己流の面が含まれる場合が多いが)しかし、完全の域まで到達する人は少ない。あるレベルで上達が止まってしまう。この理由を考察したい。考えてみれば、これはおかしなことでもある。なぜならスポーツの体の動きというものは、そのスポーツに最も合理的な体の動かし方、力の出し方なのである。だから、無考えに練習していても、熱心に練習を続けさえしていれば、いつか体の動きがスポーツ独特の合理的な体の動きになっていくはずだ、順応していくはずた、という考え(仮説1)が起こってもおかしくはないと思う。実際、そう思っている人も多くいるだろう。しかし、その考えが誤りであることは、現実に証明されている。それは、どんなスポーツでもそうだが、いくら熱心に長い時間をかけて練習しても上達しない人が世の中にはいくらでもいる。ではないか。この事実をどうやって説明するのだ。この事実がはっきりと、仮説1を否定している。結論から言うと。人間は、その時の時代の人間の日常生活に必要な動作が、発育の過程で体に浸み込んでいるからである。原始時代には、マンモスを倒すために、やり投げの動作は、日常の動作だった。生活の糧を得るため、海辺の人は泳ぐことも、日常の動作だった。出来て当たり前の動作、日常の動作だった。しかし、現代では、その必要がなくなったから、正しいやり投げを出来る人もいなくなり、自由に泳げる人もいなくなった。現代では、それらは特殊な運動として、練習しなくては、出来るようにはならなくなった。逆に現代では、箸を使う動作、文字を書く動作、ワープロ、車の運転、自転車の運転、などは現代において日常生活に必要な運動だから、子供の頃から練習するから、誰でも出来る。しかし原始人には、それらの運動は出来ない。つまり人間は日常使う体の動きが、体に、何でもない当たり前の事のように浸み込んでしまっているのである。だから日常、やっていない運動、スポーツをしようとすると、日常の生活で身についている動作で、そのスポーツをやろうとするから、初心者では、全く出来ないのである。もちろん無考えの練習によっても、あるレベルまでは、そのスポーツの方で、そのスポーツ独自の体の動かし方を無理強いに要求させられるから、そのスポーツ特有の運動が、あるレベルまでは身につく。(しかし、なかには強引に日常の動作で、そのスポーツに対応しようとする人もいるだろうし、それが、ある程度、通用するスポーツも存在する)しかしスポーツの運動が上手くなるということは、日常の動作で全く使わない、そのスポーツ独自の動作をちゃんと正確に理解し、徹底的にその動作を習得しようという意識を持って、反復練習しなければ、そのスポーツが必要とする動作を身につけることは出来ないのである。つまりは上達しないのである。あるレベルまでは、運動の方が人間を引っ張ってくれて上達するのだが。だからといって、無考えでも、熱心に時間をかけて練習していれば、上手くなるというものではない。無考えに練習すると、絶えず運動が、日常の身に浸み込んだ運動で対処しようと体が誘導されてしまう危険に絶えずさらされているからだ。だから、無考えに練習している人では、熱心に長い時間をかけて練習しているのに、いつまでたっても上達しない人というのが存在するのである。だから、最初に述べた、「無考えに練習していても、熱心に練習を続けさえしていれば、いつか体の動きがスポーツ独特の合理的な体の動きになっていくはずだ、体が順応していくはずだ」という考え(仮説1)は、言葉としては非常に聞こえがいいが、きれいごとの間違った考えなのである。

寒い

2011-01-16 22:02:42 | Weblog
寒い。寒くて、不眠症、過敏性腸が悪化して、ほとんどはかどらない。幸い、うつ状態にはならないが。ちょうど一ヶ月前の12月16日は、体調が非常にいいと書いているから、来年は一月に注意しよう。ちょうど今は小寒(1月6日)と大寒(1月20日)の間である。さて二月はどうなるか。

スポーツコーチのバカさは学校の教師のバカさと同じである

2011-01-15 07:24:31 | Weblog
スポーツコーチのバカさは学校の教師のバカさと同じである。つまりは相手、生徒の心理が分からない。考えようともしない。物理的な外見しか見ていない。のである。つまり、こういうことである。コーチは生徒のフォームを見る。そして、欠点を注意する。生徒が、コーチの言ったようにフォームを変えようとすると、コーチは生徒が、聞く耳を持っていると思うから、「そうそう」と誉める。コーチは喜び、嬉しがる。もし、フォームを変えようとしなかったら、相手をアドバイスを聞く耳を持たない生徒と思うから、やる気がない生徒だと不快に思う。しかしである。フォームの欠点が本質的に変わって、その人の技術が上達するには、そのアドバイスを意識して、そうとうの時間をかけて、そうとうの練習をしなくては、変化しないのである。フォームを変えるということは、長い時間をかけて身につけてきた、自分のフォームを崩すということなのである。
欠点をその場で注意して、即、正しいフォームが身につくことは、基本的に、あり得ないか、生徒が超人的に運動神経の優れた人か、あるいは、アドバイスそのものが、本質的なものでない、(その場ですぐ変えられる程度の)簡単な注意であるか、の三つのどれか、である。ここで生徒が困るのは、フォームをコーチが言ったように、見せかけを変えつつ、コントロールして運動も上手く、やらなくてはならない、という二つの苦しいことを生徒は両立させなくてはならない、ということである。基本的にコーチは外面しか見れないから、運動が下手になっても、コーチのアドバイスを聞いた方がコーチは喜ぶ。しかし中には、コーチのアドバイスも聞きつつ、運動もしっかり出来なくては、満足せず、注意するコーチもいるのである。スポーツが嫌になってやめる人というのは、こういうアホなコーチの存在が大きいだろう。個々人で違う生徒の性格的な特性というものを、コーチは考える必要がある。いきなりフォームを変えれば下手になるだけである。ブルース・リーは、10人以上では、指導しなかった、と書いてあった。そうしないと個々人の内面、特性を把握できないからである。やる気のある生徒なら、レッスンの後、コーチの言ったアドバイスに到達しようと本気で考えるから、イメージしながらの素振りをしたり、壁打ちをしたり、次のレッスンで、球だしのボールで、ホームランを打っても、コーチのアドバイスを実践しようとするだろう。フォームが本当に変化するには時間と練習がかかるということをコーチは理解していなくてはならない。スポーツコーチにしても学校の教師にしても、注意をして即、守らない生徒は、やる気がないと見切りをつけて、何も注意しなくなる。生徒の独創性や探究心は無視し、先生に忠実なだけのロボット人間を真面目なやる気のある生徒と見なす。しかし、コーチや教師は、かえって、やる気のある生徒の指導に失敗するのである。やる気があるなら、厳しく扱けばいいとのお粗末な思考からである。スポーツなら、フォームの注意であり、学校の教師なら、学問の、生徒の思考の誤りの注意である。学科の理解にしても、教えて、即わかるものというものもあるが、(その点、勉強の方が、スポーツの指導より容易な面がある)理解が難しいものでは、理解ができるまでに時間がかかる、ということ理解していないと、教えて、即、理解できない生徒の扱いを誤り、いずれは理解できるようになる生徒を潰してしまうことになる。ともかく、生徒は、アホな教師やコーチに潰されないよう、気をつけなくてはならない。こういうことは、物事の本質を理解できる人間なら問題はないのだが、素質はあっても、才能のない生徒の場合、失敗する可能性があるのである。