小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

アメリカにへつらうヤツが総理大臣を長くやれる

2019-08-30 17:46:12 | 政治
アメリカにへつらうヤツが総理大臣を長くやれる。

安倍晋三政権が長く続いているのは、アメリカにへつらっているからである。

アメリカは、CIA(秘密諜報機関)を持ってて、陰に陽に、日本に圧力をかけている。

田中角栄は、アメリカに、さからったから、総理大臣の座をアメリカに辞めさせられた。

日本の総理大臣は、多かれ、少なかれ、アメリカに従わなくては、総理をやっていけない。

日本は、アメリカに負けた、という、太平洋戦争の後遺症を、永遠に、地球が滅びるまで、背負っていかなくてはならない。

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人間は、したい事をするのではなく、するべき事をすべき

2019-08-25 10:20:06 | 考察文
他の人は、どうか知らないが、また、他の人に、自分の価値観を押しつける気は、全くないが。

僕は、「自分のしたい事をするのではなく、自分が、するべき事をすべき」

と思っている。

人間は、どうしても、自分の好きなこと、を、してしまう。

そして。

自分の、嫌いなことは、しない。

しかし。

それではいけないと、僕は、自分に、言い聞かせている。

嫌いなこと、好きなこと、に、関係なく、今、自分が、本当に、するべきこと、を、するべき、だと、自分に、言い聞かせている。

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男は地獄で笑うもの

2019-08-25 07:38:50 | 考察文
男は地獄で笑うもの。

他人は、どうだか、知らないし、他人に、あれこれ、言う気は全くしないが。

私は。

男は地獄で笑うもの。

と思っている。

もちろん、強がり、だけれど。

「強がる」、ことが、武士道の精神なのだ。

オレは、どんなに、苦しくても、死ぬまで、強がり続けるぞ。

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牛田茉友アナ

2019-08-22 23:22:31 | 考察文
牛田茉友アナ。

う、う、う、美し過ぎて、こ、こ、こ、こわいんや。

と、と、と、永久の美ってものは、、こ、こ、こ、こわいもんやで。

ど、ど、ど、どんどん、おおきゅうなって、な、な、な、何もかも、お、お、お、圧し潰してしまうんや。

牛田茉友アナ、が、生きている限り、と、と、と、とてもじゃないが、た、た、た、耐えられへんのや。

も、も、も、もうすぐ、米軍が、に、に、に、日本に攻めてくる。

そうしたら、自由になれるんや。

「おーい。戦争は終わったぞー」(ある人)

えっ。戦争が終わった?そしたら、牛田茉友アナは? どうしたら自由になれるんや?

突如として、私に、ある想念が起こった。

今まで、ついぞ、思いもしなかった、この想念は、たちまち、力を増し、大きさを増した。

むしろ、私が、その想念に包まれた。

その想念とは、こうであった。

「牛田茉友アナを殺さなければならない」

〇遊郭で。

「僕の名前、よう覚とき。近く、でかい事をやるんや」

「あっははは。おっかしいわ。ウソばっかり、言って」(遊女)

「ウソと、ちゃう。ほんまに、どでかい事するんや」

私は、ある日の、夜中、牛田茉友アナの、マンションに行った。

「あ、あなたは、誰?」(牛田茉友アナ)

牛田茉友アナ、は、私に気づくと、さっと、振り返って私を見た。

私は、間髪入れず、牛田茉友アナ、に、近づいて、牛田茉友アナ、を絞め殺した。

そして、私は、牛田茉友アナ、の、アパートを出た。

そして、一目散に逃げた。

逃げに逃げた。

もはや、警察も追って来ない所の公園まで、来た。

私は、公園のベンチに腰掛けた。

ポケットを探ると、タバコがあった。

私は、タバコを取り出して、おもむろに、タバコを吸った。

一仕事、おえて、一服している人が、よくそう思うように、生きようと私は思った。

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今日は岡田有希子さんの誕生日

2019-08-22 17:26:23 | Weblog
今日は岡田有希子さんの誕生日。

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武道・スポーツ上達法

2019-08-14 20:01:36 | 武道・スポーツ
武道・スポーツ上達法



まず言っておきたい事がある。文の中で、断定的な言い方をしている所もあるが、もちろん世の中には、当てはまらない人もいる。しかし文章において、いちいち、「そうでない人もいるが・・・」とか、「全員がそうではないが」と言い続けるのは、面倒であり、また、文章にインパクトがなくなってしまう。文章は60%くらい当てはまるものなら、断定的に言い切った方が、インパクトが出るのである。私の性格を誤解されたくないので、野暮な前置きを念のため・・・。



小説以外のものはほとんど書く気がしないが、一応、武道、スポーツについて書いてみようと思う。まず私のスポーツ歴に関して述べよう。私はスポーツは見る方ではなく、やる方である。テレビでもスポーツなどほとんど見ない。私の出来るスポーツは、空手、水泳、テニス、スキー(他、オートバイ、転回運動)である。
空手は若い頃から始めて、もうとっくに十年以上経っている。とっくに基本から、全ての技をマスターし、達人の域である。もちろんコンクリートブロックもレンガも割れる。始めたのは関東だったので松濤館流の伝統空手道場に一週間ほど通った。が、一週間で行くのをやめた。つづかなかったからではなく、家から離れていた事と、一週間も道場へ通ったら、空手はわざわざ道場に通わなくても、独学で身につけられる自信がついたからである。私は独学タイプである。空手に関する本をたくさん買った。たいていの空手独習本は読んだが、その中でも一番優れているものは、空手家の南郷継正氏の本である。他の独習本のほとんどは、同じような事しか書いてなく、また、それらは空手をマスターした上級者のための本である。が、南郷継正氏の著書は、空手を始めようとする初心者に役立つ本であると同時に、空手のあらゆる事を理論的に書いてある。この本から私はどれだけ学んだことか。
キックはダイナミックな連続技を身に付けたかったので、アクション映画を録画して、繰り返し見て研究した。と言うとブルース・リーの映画と思うだろうが、私が空手を始めた頃、熱心に研究したのは、ブルース・リャンの「帰ってきたドラゴン」である。ブルース・リャンは韓国空手テコンドーの達人であり、そのダイナミックな足技、連続技はブルース・リー以上であった。

ともかく空手に関して私なりの雑感を述べてみよう。

「型」について
多くの人(特にフルコンタクト系の人)は、「型」の練習は実戦に役立たないから無意味だ、と言う人もいる。私は、分からないものは切り捨てる主義ではなく、やってみる主義なので「型」の練習は熱心にやった。というより、空手は「型」があるから独習が出来るのである。また、私は空手に、強さ以上に美しさを求めていたので、達人の演じる美しい「型」を身につけたくて、「型」の練習は熱心にやった。

結論から言うと、「型」の意味を私は本当には理解していない。もちろん何万回とくりかえして練習した「型」は、内的欲求によって、やりたい欲求は起こってくる。私は平安五段が好きであり、「型」といえば平安五段しか、やる気がしない。あと平安二段の始めの部分である。「型」の意味は「気」が臍下丹田に移る、という事に意義かあると思われる。空手はパンチにせよ、キックにせよ、すべて臍下丹田が中心となっているのだが、「型」の練習は、意識を脳から丹田に移す効果がとてもよいのである。ブルース・リーの言う「オートマティズム」の訓練と言ってもいいだろう。


私的、「型」の意味論
私は空手の歴史を本格的に研究しているわけではないので、これは私の想像である。
武術の発祥は中国の少林寺から生まれた少林寺拳法である。僧達が武道を訓練した意味はわかりやすい。僧は仏教の修行に肉体的な修行も欠かせなかった。日本でも座禅や荒修行などがある。「肉体の鍛錬なしに精神の鍛錬なし」だからである。だから修行は武術でなくても何でもよかったわけである。だが、「遊び」が動機として生まれたスポーツとは違い、武道は肉体と精神を鍛えるのに最もふさわしかったのだろう。また、権力者や外敵から寺を守る必要もあった。日本の空手は沖縄から発祥したが、「型」は一人で行うものであって、二人で行う「型」というものが無い。これは禁武政策によって、一切の武器を奪われた琉球王国の哀しい歴史と関係があるのである。が、映画でもよく見るように、少林寺拳法では、一人での「型」の練習も多いが二人での約束組手の「型」の練習が非常に多い。これは当然である。一人での「型」の練習より、二人での約束組手の練習のほうが、より鍛錬には効果がある。
その結果、戦い方の研究がどんどん発達した。だから少林寺拳法は閉鎖された格闘技となった。だが、あくまで少林寺拳法の目的は心身の鍛練であり、ストリートファイトに強くなることではない。しかし、拳法を身につけた僧にとっては、「俺は強くなった。強い相手と戦いたい」と思う感情が起こってくるのは当然である。そしてその感情に負けて、掟を破って、他流派と戦う僧が出てきたりもした。しかし、そういう者は少林寺の厳しい規則によって厳重に注意され、罰をあたえられ、それでも言う事を聞かないものは破門された。

次にムエタイについて述べてみよう。
ムエタイは言うまでも無く修行のためではなく、格闘スポーツとして発達した。当然ルールがあり、グローブをはめて戦う。約束組手ではなく、ルールのあるケンカ格闘技である。ので、ムエタイファイターは実戦のケンカでも強い。
スポーツは、まずルールが決められる。そして、ルールの中で相手に勝つための最高のテクニックが研究し尽くされる。少林寺拳法は、勝つことが目的ではなく、肉体を鍛えることが目的であるため、フットワークに難があり、このため実戦には難がある。しかし、ムエタイは、ほとんどケンカと同じようなものなので、フットワークやディフェンスが高度に発達し、それは実戦で役立つフットワークであり、ディフェンスである。

では「少林寺拳法」「ムエタイ」と比較して「空手」について考えてみよう。
「空手」は、修行のためでもなく、格闘スポーツとしてでもなく、護身術として沖縄で生まれた。沖縄独特のものという意見もあるが、やはり、中国の南派拳法が沖縄に伝わったのだろう。琉球王国では、中国の福建省との交易が盛んであったのは、紛れもない事実であり、また、「空手」は中国の南派拳法と非常によく似ている。

では「空手」は何のために生まれたか。
それは琉球の哀しい歴史による。沖縄は江戸時代、薩摩藩(現在の鹿児島県)の属国として支配された。薩摩藩は沖縄が独立しようと反抗するのを恐れて、何度も禁武政策をとった。戦いの道具である刀を奪った。しかし武器がなければ、支配者の苛政は強まる一方である。法律もいいかげんな当時では、自分たちを守るために、どうしても奪われた刀に替わる武器を持たなくてはならなかった。そのため考え出されたのが「空手」である。沖縄人は手や足を武器のような威力が出るような訓練を必死で模索した。そして、運動神経の優れた才能のある男達の長年の研究、訓練の末、ついに大変な威力の出る体の動かし方を見つけたのである。それが「空手」である。


だから「空手」の目的は、自分の体を、奪われた刀の替わりになるような武器にすることにあった。詳しいことは知らないが、手足を武器にしたまでは良かったが、「空手」を身につけた空手家は、もっぱら、全身を武器にする事と、破壊力の追求に専念した。だから「空手」は単なるパンチ、キック以外に、肘、膝、まで武器にし、手足の技の使い方も手刀、抜き手、鉄槌、掌底、など、体をあらゆる方法で武器化した。
あとは破壊力の追求である。破壊力の反動で手足を痛める事がないよう、手足を巻き藁や鉄の砂袋(サンドバッグ)で鍛え、そして身につけた破壊力を確かめるため、レンガや瓦をよく試し割した。だから「空手」の目的とは手足の武器化であり、試し割りが「空手」の目的と言ってもいいだろう。「空手」では実際に戦う方法の研究はほとんどなされなかった。何故かという、詳しい事は知らないが、おそらくこんな理由からだと思われる。
1空手家の戦う有事の時の仮想の相手は、刀など、武器を持った兵士であり、そういう相手に対しての戦い方は研究しにくかった。
2太極拳同様、破壊力を追求した体の動きはフットワークとの両立には難があった。
3「空手」は有事の時のための護身術であり、有事はそんなにしょっちゅう来るわけではなく、実戦での戦い方を研究する必要を感じなかった。「空手」は、有事の時のための備えであり、空手を身につけた、という事だけで安心感をもてた。
4禁武政策のため、公然と格闘術を練習することが出来なかった。そのため組み手の練習は出来なかった。
などと思われる。
それでも「空手」にも戦い方を研究した結果できた「型」があり、三本突きのような約束組手の訓練があった。



では、私なりに「空手」の「型」の意味を述べてみよう。
ちょっと変った「たとえ」だが、こんな「たとえ」で述べてみよう。
空手を訓練して、身につけた空手家は大喜びした。
「俺はこんな破壊力を身につけた。俺は手足を武器化した。もうどんな奴が俺を攻めてきても俺は自分を守れる」
だが有頂天にひたっていたのも数日である。空手家は、ある恐ろしい事実に気がついた。
「空手を身につけているのは俺一人じゃない。他にも空手を身につけている奴はいるだろう。もしそいつが俺に襲いかかってきたら俺はどうすればいいのだ」
こんなことから空手家は破壊力を身につけただけでは安心できなくなってきた。戦い方をも研究しなくてはならないと思うようになった。その敵とは、もちろん自分同様、空手家である。空手家は相手が空手の突き、蹴り、などで攻めてきた時、どうそれを受け、反撃するかを研究しだした。その結果、出来たものが「型」である。空手の「型」も、同じ空手家を相手として考案されたという点で、空手も少林寺拳法、同様、戦う相手が空手家だけという閉鎖的な格闘術となった。(最も少林寺拳法と違って、他流派と戦ったからといって破門されることはない)
空手の受け、(手刀受け、下段払い、等)は、相手が空手で攻撃してきた時のものであり、空手のパンチ、キックに対して考えられたものであり、空手のパンチ、キックは破壊力はあっても、実践的なパンチ、キックではないのであるから、空手の受けはケンカでは全く役に立たない。
つまり空手の型とは、発祥の歴史に関係してつくられた物であり、どんなに型を訓練しても実戦では全く役に立たないと言っていいだろう。もっとも「型」も達人によって相手が攻めてくる事を想定して戦いに対応できるよう、徹底的に研ぎ澄まされてつくられたものである以上、そのまま役に立つことはなくても、「型」の訓練は空手家にとって全く役に立たない、とは決していえないだろう。「型」は達人によって無駄なく、合理的につくられた物であるため、「型」を訓練することは空手家にとって気持ちのいいものであり、それのみを追求した「型名人」というものも出てくる。
ともかく、「型」の妙味を味わうことが出来なければ、本当に空手の妙味を味わえてはいない、とも言える面があるだろう。
以上が、私の「型」に対する考えである。




後ろ回し蹴り不要論に対して

後ろ回し蹴りはダイナミックで破壊力もあるが、動作が大きく、かわされやすいので不要であるという意見がある。
私としては、この論は反対である。私自身、空手に強さ以上にダイナミックな足技の美しさを求めて始めたので、後ろ回し蹴りは、はじめの頃から熱心に練習した。
まず私は戦いにクリーンファイトとダーティーファイトという言葉を用いたい。
その意味を説明しよう。ボクシングの試合でもわかるように、第一ラウンドは両者、肉体も精神も敏捷であり、フットワークは軽やかであり、スキもない。だが実力伯仲し、なかなか勝負がつかず、最終の15ラウンドにもなってくると、心身ともに弾力を失い、敏捷性はなくなり、軽やかなフットワークはベタ足になり、ガードも緩み、両者とも気力だけで戦っているといった状態になる。第一ラウンドの戦いがクリーンファイトであり、最終の15ラウンドがダーティーファイトである。

まず言えることは、後ろ回し蹴りはクリーンファイトではかわされやすいが、ダーティーファイトではヒットしうるということである。気力だけで戦っている以上、わかっていてもよけられない、ということである。

他にも、後ろ回し蹴りのメリットは多くある。後ろ回し蹴りは見栄えがいいので、映画では多用されているが、それは映画だからである。実戦では廻し蹴りがほとんどメインとなる。後ろ回し蹴りは十発に一発、あるいは一試合中、一発も出さない、という使い方をすべきものである。

試合が長引き、ダーティーファイトになってくると廻し蹴りだけでは単調になり、かわされやすくなり、また、同じ技を使いつづけることによって筋肉の疲労も激しくなる。こんな状態になった時、後ろ回し蹴りをたまに使うことにより、別の部位の筋肉を使うことにより、筋肉の疲労が分散される。

私はあまりテレビを見ないが、極真、その他、フルコンタクト空手の達人は皆、後ろ回し蹴りの使い方の要領を心得ている。

また、クリーンファイト、ダーティーファイトともにヒットさせる目的ではなく、間合いが近づきすぎないよう、あしらうため使うことも非常に有効である。ムエタイのティープ(前蹴り)と同じ使い方である。
また、ストリートファイトでは、廻し蹴りでは足背、または足槍(つま先)で蹴るが、下手に蹴って突き指する可能性もあるが、後ろ回し蹴りでは突き指することがないのも利点の一つだろう。

また、ストリートファイトではヒットさせるためではなく、華麗な後ろ回し蹴りを素人である相手に見せつける事によって、相手が空手家であることを知らしめ、敵の戦意を喪失させる利点もある。(このことは酔拳の中でも述べられている)

南郷継正氏も宮本武蔵も「技の多きを誇るなかれ」と言っているし、ブルース・リーも戦いの弊害として、「身につけた全ての技を使いたくなる欲求」をあげている。それはその通りである。大切なことは「使えない」と「使わない」の違いである。それは武術そのものでも同じである。

又、後ろ回し蹴りを使えるようになると足技の連続技が一挙に増え、空手の蹴りの練習が多様的になる。廻し蹴りだけでは足技が単調になり、練習も味気ないものとなる。

実戦で有効か、無効か、という観点からだけで物を見る見方は考えが狭いように思われる。



スピンキックについて
一回転しない後ろ回しけり。あおり蹴りとも言う。ブルース・リーが「ドラゴン危機一髪」の中で怒りを爆発させた時に出した蹴り。これも訓練する価値はある。実戦で使うことはまずないであろう。もちろん、後ろ回し蹴りより破壊力は落ちる。その上難度が高く、身につけるのが難しい。映画では複数の敵に囲まれた時、後ろや、斜め後ろからの敵の攻撃に対して使っているが、実践では、そううまく決まることはまずない。では何のために訓練するのか。それは空手のフットワークを身につけるのに非常に有効だからである。空手のフットワークはテニスのフットワークと同じであり、まず、蹴る(打つ)用意の形をつくる。そしてその形のまま、敵(ボール)のところへ行き、そして蹴る(打つ)
サイドキックも廻し蹴りもそうだが、空手の蹴りのフットワークはみなこうである。そのフットワークを身につけるのにスピンキックは非常に有効なのである。




フルコンタクトと寸止め空手の違い
これはよく言われるところだが、フルコンタクトも寸止めも同じ空手であり、力の出し方は同じである。では何が違うか。これは一言で言うと、キックで言えば、力を発揮するときの時期が、寸止めでは早く、フルコンタクトでは遅いのである。寸止めやプロテクター付のポイント制のフルコンでは、早い時期に力を出す。あとは足は物として動き、バーンと棒のように相手に当たる。一方、フルコンタクトの達人の蹴りは力を出す時期が遅いのである。これは当てる事によってポイントを取ろうとするのを目的として蹴っている寸止めに対し、フルコンタクトでは、相手にダメージを与える事を考えているからそうなるのである。見た目ではフルコンタクトでは、寸止めのように蹴りは俊敏ではなく、スローである。空手道ではパンチにせよ、キックにせよ、体のウェートを乗せることによって破壊力が出るのだが、フルコンタクトでは足が相手に当たってからグッとウェートを乗せるのである。またフルコンタクトでは寸止めと違って、標的にしっかり当たるよう、しっかりねらいをさだめて蹴っている。一方、寸止めではポイント制なので、標的をしっかり狙う必要がないため、蹴りは雑である。フルコンタクトの蹴りがきれいにヒットすると、その破壊力は相当のものであり、まさに一撃必殺のダメージを相手に与える。
カンフーでは、寸打、尺打、というように、スピードをつけて相手にダメージを与えるパンチではなく、当たってから力を出し、内臓にダメージを与えるというが、フルコンタクトのパンチやキックもそれに似ているのだろう。(もっとも私は空手しか出来ず、カンフーの原理は全くわからないのだが・・・)





テニス論

私がテニスを始めたのは中学一年からである。私の入った中学は進学校ではないが、歴史の古い私立校で、中高一貫していた。女子校として出来、男子部は後からつくられた。一般の学校と違って、多彩な部活というものがなかった。そのかわり、生徒は全員、サッカー部、バスケットボール部、テニス部の三つのうち、どれかに入らなくてはならなかった。私は喘息で、体力がなく、どの部にも入りたくなかった。しかし規則である以上しかたがない。持久力のない私にはサッカーなど論外である。それで私は体力がなくても出来そうなテニス部にイヤイヤ入った。しかし、上級者の美しいスイングやラリーを見ているうちに、テニスにあこがれるようになった。私は「美」が至上の価値観なので、私もテニスの美しいフォームやラリーが出来るようになりたいと強く思うようになった。

テニス(硬式)について述べよう。
まず硬式テニスは難しいものである。グランドストロークのラリーがつづく(中級者)ようになるまでにはかなりてこずるものである。テニスではボールに近づきすぎたり、振り遅れたりするということが起こる。ネットを挟んで相対しておこなう球技(ラケットを使うものと使わないものがある)バトミントン、バレーボール、卓球、軟式テニス、羽子板、等である。こういうスポーツではボールに近づきすぎたり、振り遅れたりする、という現象は初心者でもまず起こらない。ではなぜテニスだけが、ボールに近づきすぎたり、振り遅れたりするという失敗が起こるのであろうか。それはこういう理由による。バトミントンを例にとろう。バトミントンでは向かってくる羽根に対して、直線的に近づいて、羽根が打点に来たときに素早い手首のスナップで打つ。バレーボール、卓球、軟式テニス、等みなそうである。しかし硬式テニスでは、ボールに直線的に近づいてはダメなのである。初心者が目測を誤って、ボールに近づきすぎてしまうのは、バトミントンの感覚でボールを打ち返そうとするからである。またテニスではボールが重く、スピードがあるため、打ち返すためには直前の手首のスナップではダメなのである。テニスのスイングを見ればわかるが、テニスのスイングは野球のスイングと同じであり、しっかりと構え、体のウェートをのせて打っている。また、そうしなければテニスボールは打ち返せない。つまり、テニスでは打点までいく、という行為と、ウェートをのせたスイングをするという二つの行為をしなくてはならないのである。テニスのショットは、相手が打ったと同時に打つ構えをつくり、そしてその構えのまま、打点に近づき、そして打つ、のである。バトミントンなどでは相手が打った瞬間に構えるということはしない。相手の打った羽根(ボール)に、直線的に近づき、打つ直前に手首のスナップで打つ。だから目測を誤って近づきすぎるというような事は起こらないのである。テニスが難しいのは、来るボールに対し、反対の動作をしなくてはならないからである。つまり、近づいてくるボールに対し、打つ準備をするためにラットを引く(テークバック)という動作を早い時期からしなくてはならない。これはバトミントンなどと違って、人間が生来的に持っていない動作であり、非日常的な動作であり、違和感がある動作である。初心者でいきなりこのような、人間が生得的に持っていない動作が出来る人間はいない。ボールを打つためにはそういう人間が生得的に持っていない動作をしなくてはならないため、初心者ではまごつき、目測を誤ってボールに近づきすぎたり、振り遅れたりするという事が起こるのである。テニスが上達するには、この非日常的な動作をグラウンドストロークの打ち合いを繰り返し練習して、体がその運動を覚えてくれるのを待つしかないのである。

ではテニスに関して思うところをいくつか述べよう。
まず、テニスのレディース・ポジションにおいて「踵を浮かせろ」と言い、「ボールを良く見ろ」というのがテニスの基本の教えである。もし、これ以上の説明がないのであれば、これほど誤った教えはないのである。むしろ、そんな事は言ってはならない事であり、その教えを忠実に守ったら、いつまで経っても上達しないであろう。「ボールを良く見ろ」ではなく、「ボールを良く見てはならない」のである。



まずレディース・ポジションの「踵を浮かせ」について。

どんなスボーツでも、初心者でも踵は浮いている。ボクシング、卓球、バレーボール、剣道、などは初心者にやらせれば踵は自然に浮くだろう。これは相手の動作を待っている時、相手が行動をとった時、すばやく反応しようという意志があるために自然に踵が浮くのである。しかし初心者に硬式テニスをやらせると自然には踵は浮かないのである。これはなぜか。それは他のスポーツでは相手が動作を起こした時、こちらは直接的(直線的)な動作を素早くすればよいから、踵が浮くのである。しかしテニスでは相手がボールを打った瞬間、それを正確に打ち返すために必要なことは、素早い動作ではないのである。相手が打ったとき、打点を予測して、打点に素早く行く事は出来る。しかし、それから打つ準備(テークバック)をしたのでは振り遅れるだけである。だから初心者は踵を浮かせてもうまく打ち返せないため、踵を浮かす必要を感じなくなり、ベタ足になるのである。一方、軟式テニスはこれでいいのである。軟式テニスでは、相手が打ったと同時に素早く打点へ行き、手首のスナップで打つ。しかし硬式テニスの打ち方は、まず打つ準備(テークバック)をし、その構えのまま打点へ行き、そして打つのであり、そうしなければ打ち返せないのである。テニスで必要なのは素早い動作ではなく、ワンバウンドするボールの動きを感じ取るリズム感なのである。特に初心者に対しては、ゆるいボールが送られるので、待ち時間はたっぷりある。「踵を浮かす」事など全く無意味なのである。
では「踵を浮かせ」の本当の意味を述べよう。
一言で言うと、物理的に踵を浮かせるのではなく、精神的な踵を浮かせる、という意味なのである。相手が打ったボールをいかに素早く打つ準備を整え、正確に打ち返そうかと考える事がテニスでの反応であり、その精神があれば、踵は自然に浮くのである。さらに言えば、精神的に意識する対象はどんどん早いものになっていく。相手がどこへ打つか、であり、相手がボールを打つ前から、相手がどこへ打つかを予測することになっていく。もちろん試合と練習とでは違う。試合では、相手は打ち返しにくい所へ打ってくるのであり、練習では相手が打ちやすいところへ打ちあう。バックハンドの練習をさせてやろうと、バックへ打つこともあるだろう。つまるところ、考えるべきものは、相手のクセ、であり、相手の性格である。そして、クセや性格は、打ち合いを少しすればわかってくるのである。



「ボールをよく見ろ」の誤り。

次にこれについて述べよう。これほどいいかげんで誤った教えはない。まさに逆である。「ボールをよく見てはならない」が正解なのである。「ボールをよく見ろ」と言われると、初心者はボールを一時たりとも目を離さず、ボールを凝視するよう考えてしまう。しかしこれほど、スポーツにおいても、日常生活においても危険な事はないのである。対人恐怖症もこれによって起こる。「視点が固定してしまう事」ほど危険な事はないのである。車の運転が例としてわかりやすので、それで説明しよう。車の運転においてドライバーはどこを見ているであろうか。前方の信号機だろうか。前方の車だろうか。違う。車の運転においてドライバーはどんな事態が起ころうと、それに素早く対応できるよう、全体を注意深く、バクゼンと見ているのである。もし、前方の車に追従して走っている時、ドライバーの視点が前車のブレーキランプに固定されてしまったら、どうなるだろう。これほど危険な事はない。ドライバーは前方の信号や歩行者も見ていなくてはならないし、横道から飛び出してくるかもしれない車や歩行者にも注意を払わなくてはならない。野球やバレーボールなどでも同じである。見るべき(というより、考えるべき)ものはボールではなく、チーム、および敵チームの心、つまりその場全体である。では、テニスにおける「ボールをよく見ろ」の本当の意味は、「ボールの動きを位置感覚でしっかりとらえよ」なのである。人間は物を見る時、その物を直接見なくても、視野に入ってくる物は位置感覚によって、見れているのである。また、一度見れば、その後、目をつぶっても、位置感覚が働く。人間の位置感覚が非常に精度の高いものであることは誰でも知っているだろう。ワープロをブラインドタッチで打てるのは位置感覚のおかげである。ピアノ演奏者は鍵盤なんか見ていない。ピアノ演奏者は目をつぶっても演奏できる。私もオルガンを少し練習したことがあるが、どんな曲でも目をつぶって演奏できるまでになった。テニスでも同じである。絶えず頭で考えているべき事は、相手の心である。テニスでの「ボールをよく見ろ」は、スイングでボールがラケットに当たる瞬間のことである。「ボールをよく見ろ」は、スイングのフォームの注意なのである。テニスのスイングのフォームは野球同様、長い期間をかけて訓練しなければ身につかない。そして、スイングのフォームに欠点があったり、不安定だったりすると、ボールが当たる瞬間、ボールをしっかり見れていないことが起こる。
以上が、「ボールをよく見ろ」の本当の意味である。




オートテニスについて

オートテニスは、上達に有効だ、という意見と、無効だ、という意見がある。私のオートテニスに対する意見を述べておこう。テニスの上級者がオートテニスで練習している所を見た人がいるであろうか。おそらくいないであろう。私自身、一度もその光景を見たことがない。上級者にとってはオートテニスの練習は無意味だからしないのである。ある上級者が、オートテニスをやってみて、調子が狂った、と言ったのを聞いた事もある。これは、人間との打ち合いが「生きたボール」であるのに対し、オートテニスのボールは「死んだボール」だからである。オートテニスのボールを「死んだボール」から「生きたボール」にしようと、スピードや方向をランダムに出るような機能が加えられたが、そんな事をしてもオートテニスのボールは「死んだボール」なのである。初心者が振り遅れに対応しようと、オートテニスのスピードを上げてみたり、ランダムにして、練習している所を見た事があるが、こういう人は初心者といえど才能のない人である。ではオートテニスは全く無意味か。私なりの意見を述べよう。上級者にとっては全く無意味であろう。しかし初心者にとっては無意味ではない、と私は考える。ただし正しい使い方をしなくてはならない。テニスでは振り遅れるからといって、オートテニスでスピードボールにする事は逆効果である。ランダムにすることも無意味である。オートテニスではスピードも方向も一定にし、同じ球を繰り返し打つことが正しい使い方だと考える。オートテニスは打つフォームが出来ていない初心者にフォームをつくるのに多少の効果があるのである。オートテニスは初心者のフォームつくり、の為の物と言っていいだろう。最も、オートテニスで出来たフォームはオートテニス用のフォームであり、人との打ち合いに、そのまま使えるフォームではない。テニスのフォームはあくまで人とのグランドストロークの打ち合いの中で、上手くなっていくものである。しかし、オートテニスを反復練習する事によって、打率100%となり、狙った所へはどこへでも正確に打ち返せるほどになると、オートテニス用のフォームが完成する。ここまでいくと、テニスで大切な、ラケットを握る時の手首の固定が身につくようになるのである。この、手首の固定だけは人との打ち合いでも効果があるのである。そして、人との打ち合いの練習に戻っても、振り遅れそうになっても、手首の固定が出来ていれば、強引にボールを返すことが出来るのである。そうするとラリーが続くようになる。テニスで一番大切な事は、グランドストロークのラリーが続くようになる、という事である。テニスの全ての技術は、ラリーを続けている時に上達する。オートテニスで手首の固定が出来、振り遅れによって返せなかった球も、強引に返せるようになり、続かなかったラリーが続くようになる。ラリーが続くようになれば、後はもうしめたものであり、後はたいした苦労もせず、体が勝手に上達していく。以上がオーテニスを練習する正しい意味であると私は考える。





スキー論

私の高校では二年の時に、スキーの授業があって、全員スキー場へ行って、一週間スキーの授業を受けた。そのためか、学校ではスキーの好きな生徒が多かった。スキーは金も時間もかかるし、私はスキーにはたいして興味がなかった。私は反骨的な性格で、我が道を行く性格であり、人の尻馬に乗ることは大嫌いである。一方、水泳を熱心にやる生徒はほとんどいなかった。スキーは金も時間もやたらゴテゴテかかるが、水泳は海水パンツ一枚で、入場料二百円でプールで丸一日練習できる。私は海のロマンチシズムと美しいクロールを身につけたさから、皆のやらない水泳は熱心に練習したが、スキーは、やる前から反発心を持っていた。スキーはスポーツではあっても、金持ちのやる贅沢な娯楽だと思っていた。しかしスキーに行ったら、上級者の美しい滑りに魅せられるようになった。スキーのうまい生徒は多く、スキー検定で一級を持っているものも多く、さらにその上の準指導員の資格を持っているやつもいた。スキースクールのインストラクターをアルバイトでした事のあるやつもいた。上級者のウェーデルンは実に美しく、見事だった。だが、スキーを体験した後でも、ぜひスキーをやりたいと思うほどには魅せられなかった。そのためやらなかった。スキーは金と時間がかかり、ゴテゴテしてて、わざわざスキー場に行くのが面倒だからである。当然のことだが、一週間の練習では何とか滑れるようにはなったが、パラレルの完成は無理である。しかし後に、空手をはじめて、空手が上達していくにつれ、運動上達の理論がわかるようになって、その理論を実際に試してみたくなって、スキーを再び練習してみたい欲求が起こってきた。もちろんスキーの技術書をたくさんかって読み、スキーのビデオも録画して繰り返し見た。そしてスキー場へ行ってスキーを一人で練習するようになった。
スキーについて思う所を述べよう。私のスキーの実力は、パラレルターンで緩斜面、中斜面を滑れるレベルである。コブや急斜面、ウェーデルンは出来ない。ので、中級者のレベルだろう。初心者、中級者、の練習について考えてみたい。初心者はスキースクールに行く。それはそれでいいだろう。しかし私は中級者のスキースクール通いに対して疑問を感じる。スキーに限らず、日本のスポーツスクールはまるでメダカの学校である。幼稚園の先生と生徒のようである。生徒は自由に考えるという事をせず、先生が説明し、手本に滑ってみせ、同じ事を生徒にやらせる。そして、出来ても、出来なくても「はい。よく出来ました」とニコニコ笑って手をたたいてほめる。まさに幼稚園である。スクールの経営上、そうせざるを得ない点もあるが、実に無駄が多い。まず待ち時間が無駄である。そして生徒にせよ、先生にせよ、総合的な価値観というものが観点にない。スキースクールでは、狭いボーゲンの形で足の屈伸運動、体重の乗せ方、を練習させることで生徒を上達させようとしている。教師の価値観は、生徒の技術を上達させる事だけであり、生徒はあまり何も考えていないことが多い。しかし水泳なら、海水パンツ一枚で、二百円出せば、何時間でも温水プールを泳ぐことが出来る。しかしスキーでは、板、靴、服、などで何万もかかり、スキー場へ行ってホテルに泊まらなくてはならない、から、交通費、宿泊費、あわせれば、一回スキーに行くのに何万とかかる。その上スキースクールを受ければもっと金がかかる。個人レッスンなどすごく高い。スキーは水泳の三百倍以上の金がかかるのである。まず、スキーに行くなら、価値観というものを考えるべきである。高い金を出してスキーへ行って、スクールの無味乾燥な足の屈伸運動の練習をし、たいして上達しない、では、あまりにも金が勿体ない。せっかく高い金を出して、スキーに行くなら、うんと自由に滑って、楽しみ、さらに技術も上達させたいものである。人間の価値観は、自分が東京で取り組んでいる会社での仕事、事業であり、それが全てであり、スキーをやる意味とは、疲れた息抜きに白銀の雪山を見て、ホテルで温泉につかり、山菜を味わい、スキーで滑って楽しむことにある。スキーに行って楽しくなかったではおかしいのである。これはコーチの価値観が技術の上達のみにとらわれてしまっているから、こんな事が起こるのである。スキーなんて出来なくても日常生活に何の支障もないのに、コーチは生徒を完全なレベルまで上達させなくてはならない、と思ってしまうから、こんな事が起こるのである。また、中級車でパラレルターンが出来る、相当うまい人(ああ、ああなれたらいいなあ、と初心者がうらやむほどの人)でも上達が止まってしまうと面白くなくなって、もうスキーはやめてしまおうか、とさえ思ってしまうものなのである。人間がスポーツで楽しいのは、技術が上達したその瞬間である。上級者になって、ウェーデルンが出来、コブも急斜面も新雪も、どんな事でも出来るようになると、そういう心理は起こらなくなる。いくら滑っていても楽しいのである。この、中級者から上級者への壁をどう突破するか、である。
私は文学の喜びを知ってから、スポーツを捨ててしまった人間なので、スキーなど、もはや十年以上やってなく、私の考察はいささか机上の考察である。ので、当たっているかどうかは保証の限りではない。まず、人間の運動の特性として、出来る事を繰り返しやっても上達はしない。技術は出来ない事をやることによって上達する。なら、中級者にとって必要なことはゲレンデ選びであろう。滑れるゲレンデを滑っていても上達しないし、手も足も出ない急斜面では、滑れないし、また、危険でもある。自分の技術のレベルでは、何とか降りてこれるが、自在には滑りこなせないゲレンデを滑れるようになる事がスキー技術の上達になると私は思う。そういう練習はスキースクールの足の屈伸練習と違って、パラレルで自由に滑れるし、やりがいがあって面白いであろう。私はこの方法が、スキーを楽しめるし、技術も上達しうる最も良い方法だと思っている。
スキーではイメージトレーニングが非常に有効である。スキーでは、つい朝一番から、早く滑りたいとあせってしまい、滑っているうちに疲れてきて、自分が滑りやすい決まったコースで滑ってしまいやすい。しかし、出来る事の繰り返しでは上達は起こりにくい。ゲレンデの状態をまず、頭の中にしっかり入れ、右はあの地点でターン、左はあの地点でターンと自分が楽には滑れない、難しいコースを想定し、ホテルでそのゲレンデをイメージし、自分の決めたコースを滑っている自分をイメージすることは有効であると思われる。「短いターン。長いターン。など、一、二、三、と自然にリズムを考えるようになるだろう」イメージトレーニングは、かなり有効であり、また、金もかからない。そうして難しいゲレンデをいくつもの難しいコースで滑れるよう練習し、そのゲレンデを自在に滑れるようになった時には、スキーの技術も上達していると私には思われる。
以上、スキー論。






バクテン論

私の高校では十月に体操会というものがあった。男子部ではデンマーク式体操、組体操、などをやった。また、転回運動の出来る数名の者が、転回運動をやった。私も選ばれた。私は前転跳び(ハンドスプリング。片足踏み切り)が出来たからである。あとヘッドスプリング(頭跳ね起き)、ショルダースプリング(肩跳ね起き)も出来た。
だが、ロンダートからの抱え込みバク宙は出来なかった。と言うよりもしなかった。それはアキレス腱を切るのが怖かったからだ。実際、先輩で、転回運動でアキレス腱を切った人もいた。オリンピックでも体操競技は観るのも好きだったが、体操ではアキレス腱を切る可能性があるのも十分知っていた。若くて十分な勢いのあるロンダートが出来たので、そのまま抱え込めば、ロンダートからの抱え込みバク宙も出来ただろう。勇気を持てなかったのが残念である。バク転もやってみたが、うまく出来るようにはならなかった。なので、危ない後方系は出来ず、安全な前方系しか出来なかった。
それから六年間の医学部の勉強に入り、卒業して研修病院に勤めるようになった。私は、いい歳をして再びバク転に挑戦した。理由は、高校の時、出来なかった事が悔しかったのと、空手、水泳、テニス、スキーなどを練習、研究し、出来るようになって、運動の上達の本質がわかってきて、今なら練習して出来るようになる自信が十分すぎるくらいあったからだ。私はチャレンジスピリットの塊のような人間なので、この欲求は抑えられず、私はマット体操の出来る数少ない体育館を探して、バクテンの練習をした。いい歳をした文学好きの医者がバク転の練習をするなど、実に滑稽である。体操の本は書店では見当たらなかった。ので、ユンピョウのデビュー作「モンキーフィスト」(猿拳)をビデオにダビングして、繰り返し見て研究した。ユンピョウの「猿拳」は、以前、見たことがあり、その人間離れしたカンフー、転回運動の能力に驚いた。ユンピョウの転回運動は、オリンピック選手並みである。映画の中でバク転が十分出てくるので、研究に助かった。ビデオでコマ送りにして、何度もバク転の本質的な運動要素をあれこれ考えた。ビデオを頭に焼き付けるほど見ても、実際に体育館に行くと、ビデオの研究は役に立たない。運動は、あくまで実際に自分の体を動かすことによってしか上達しない。そうわかっていても、ついビデオを見てしまうのでのある。ビテオを見て仮説を立てる→実際に体育館へ行ってやってみる→仮設が否定される。しかし、体を動かして練習する事によって、上達したり、新しい感覚が起こる→それによって、新しい仮説を立てる→家に帰ってビデオを徹底的に見て、新しい仮説が確固としたものになる→また体育館に行く。その繰り返しである。そしてついにバク転が出来るようになった。運動の何が面白いといって、仮説を立てて、すぐにそれを検証できる所にある。私は明らかに研究者タイプだが、どこの大学の医局にも属していない。運動の研究に比べると、医学の研究なんて、時間ばかりかかる上に、ほとんど役に立たない、ろくでもない論文がほとんどである。私は、博士号をほしがる多くの医者を内心、アホだと思っている。「博士号はバカが欲しがるものである」というのが、私の考えである。博士号は、自分が将来、開業するとき、医院の待合室に、額縁の中に入れて、もったいずけるアクセサリー以外の何物でもない。また、大学の医局は封建的、徒弟的であり、博士号をもらうかわりに殿様(教授)に絶対服従する奴隷になる事など私にはとても出来るものではない。また、博士号の論文は、ほとんどが先輩の全面的な指導によって書かれた物であり、自分が研究したものと、はたして言えるであろうか。また、研究好きな人が金をもらって代筆する事もザラである。教授にゴマをすって、教授の車を毎日きれいに磨いても博士号はとれる。そんなものが、果たして「研究」などと言えるであろうか。最も博士号も玉石混合であり、中には本当に研究好きな人間の書いた価値ある研究論文もあることも事実である。
ともかく私には医学の研究なんかより、運動の研究の方がずっと面白いのである。私の運動神経は、特に優れているわけでもなく、特に劣っているわけでもなく、普通の人のレベルである。高校の頃は、ともかくうまくなることだけが目的だった。だが、いろんな運動を練習しているうちに、自分の上達の限界なども見えてくる。もちろん私は、中級者、上級者になっても、オリンピックの選手にはとうていかなわない。しかし多くの運動をやっているうちに、運動の上達の理論というものがわかってきて、その研究の方が面白くなってしまったのである。今では、もう、上手くなれる、なれない、は、全く興味がなく、研究の面白さが目的となってしまった。運動の研究は面白いのである。しかし私はもうこれ以上、未知の運動に挑戦しようとは思わない。し、運動も今ではほとんどやっていない。創作が阿片であるように、運動も阿片であり、その面白さにとりつかれると、中毒患者となる。創作至上主義の私にとっては、創作の中毒患者になることは良い事であっても、運動の中毒患者になってはならないと、厳に自分を戒めている。
さて、バク転であるが、バク転を練習しているうちに、色々な事に気がついた。運動は、色々な事をして遊ぶことが大切だ、という事だ。遊びが独創性や研究心を生むのである。体操においては、バク転が上手くなるためにはバク転の練習だけをしなくてはならない、とは言えない。バク宙を練習する事もバク転の上達に寄与するのである。後方への回転力を鍛える、という点でバク宙の練習もバク転の練習の要素を含んでいるのである。私は一回だけの単発のバク転しか出来ない。しかも、安全には出来るが技術は完全ではない。美しいスピーディーな連続バク転を見ると惚れ惚れする。バク転が上達するためには、連続バク転の練習をするべきであろう。もちろん、初めからスムースにつながらなくても、一回転ごとに間があいても、いいから、連続する必要がある。上達するにしたがって、だんだんスムースにつながっていくようになる。なぜ連続することが必要かというと、連続することによって、バク転の一回転の各時期において体の力を入れる部分と力を抜くべき部分を体が覚えるからである。
以上、バク転論。





水泳論

私は関東の海のない県で育ったが、小学校の時、喘息治療のため、二回ほど、各一年半、計三年、親と離れて海が近くにある臨海学校で過ごした。そのため、潮騒を聴き、海を見て育ったためか、海は私の故郷であり、私は海のない県には住めないのである。大学は海のない盆地だったため、とても寂しかった。別に海が見えなくてもいいのである。近くに海があるという事実に私は安心を感じるのである。最もロマンチックな性格の私から考えて、幼少時に、海辺で育たなくても、海を恋するようになっただろうと確信している。私は小学校の時、浮き身さえ出来なかった。これは体力のせいである。普通の元気な子は夏、親や友達とプールに行き、水と戯れる。水と遊んでいるうちに平泳ぎを覚えるようになる。最も、平泳ぎといっても、完成された平泳ぎではなく、効率の悪い平泳ぎである。みんなが泳げるのに、泳げないのが恥ずかしくて、体操の水泳では見学にまわった。また、海水浴に行った時、海の中に放り込まれて、おぼれ、助けられるという惨めな経験をした事も一度ある。それで中学に入ってからは夏休みは頻繁に海の近くにある五十メートルのプールに通って泳ぎを練習した。泳げない劣等感からではなく、海のロマンチシズムにあこがれていたからである。中学からの私の家は、海に遠くなく、自転車でいそいで行けば三十分で海に出れた。もちろん理屈っぽい私の性格から、水泳の本を何冊か読んだ。しかし中学時代、運動の本質がまだわかっていなかった当時は、ヘタに考えてしまい、これは上達に逆効果だったと今ではわかる。スポーツの上達に書物の教科書など必要ないのである。人間には運動を繰り返すことによって、正しい運動が出来るようになる能力を誰でも内在的に備えているのである。運動神経の優れた者は本など読まなくてもどんどん上級者になっていく。で、ともかく熱心に練習したため、立ち泳ぎが出来るようになり、平泳ぎが出来るようになった。が、普通の人並みのレベルに達しただけであり、平泳ぎでは五十メートルであり、クロールでは二十五メートル程度である。これでは泳げると自信をもって言えるレベルではない。手の動きを色々変えてみたりしたが上達しなかった。
私が水泳が上達したのは大学に入ってからである。一年、二年の教養課程では、時間にゆとりがあった。また、私は胃腸が弱く、冬は冷え性がひどかった。そんな時、温水プールで泳ぐと胃腸の具合が良くなった。また、大学に入った時には、空手はかなり上達しており、運動の上達の本質的な論理もかなり見えていた。私の運動考察の原点は空手である。運動上達の本質的な原理は全てのスポーツにおいて同じであり、応用が利くのである。それで大学に入って、水泳を練習したら、たいした期間もかからず、平泳ぎもクロールもどんどん上達した。私は速く泳ぐより、遠泳が好きであり、最高どのくらいの距離、泳げるか試してみた事がある。クロールで三百メートル(二十五メートルを六往復)が限度だった。これでは本当に泳げると自信をもって言うことは出来ない。水泳の上級者は何キロ泳いでも疲れることがない。イギリスとフランスの間のドーバー海峡(三十キロメートル)を泳げる者もいる。何キロという距離を疲れず泳げるようでなければ、泳げるとは言えない。しかし私はクロールの技術は頭打ちになったな、と感じていたし、また、もうそれ以上練習しても、それ以上に技術が上達することはなかった。手足の力は完全に抜けており、呼吸も問題はなかった。私はなぜフォームも問題なく完成されているのに、三百メートルが限度なのか、の疑問を考えた。水泳の完成とは、何キロ泳いでも疲れを知らないという事である以上、何か技術的な欠点があるのではないかと思った。ともかく技術が頭打ちになり、また、勉強も忙しくなってきたので温水プールへ通うこともなくなった。
だがである。これは最近の事なのだが、夏、プールに行った時、三百メートル以上泳いでやろうとムキになって泳いだら、何と一キロ以上、疲れることなく泳げたのである。最も往復数が多くなるにつれて、往復数を忘れてしまったので泳げた正確な距離はわからない。しかし一キロを越したことは確かである。一キロまでは数えていたからである。しかも一キロ越して泳いでも疲れることがなかった。何キロまで泳げるか測ってみたかったが、それは出来なかった。プールでは一時間ごとに十分の休憩の規則があったからだ。泳ぎ開始から泳ぎ中止まで、休息なく泳ぎ続けたので、時間的には五十分泳ぎ続けたことになる。泳ぎ中止になった時にも、疲れてはおらず、「まだまだ泳げる」というか、「いくらでも泳げる」と感じていた。大学の時から技術は頭打ちになって、変わっていないのにこの進歩はなぜか。それははっきりとわかっている。限界の三百メートルくらい泳いだ時、限界を感じたが、根性で突破したからだ。突破した後では実に楽になった。これはマラソンで言うところのデッドポイントを越したということである。デッドポイントに来た時、これが限界だと思ってしまったことが、大学の時の考えの誤りである。大学の時点でフォームに技術的な問題点はなかったのである。また、これは私の喘息、体力のなさ、とも関係がある。私より明らかに技術の劣っている人が、私より長距離泳いでいるのを見たことがあるが、不思議で仕方がなかった。私は瞬発力では人に劣らないが、持久力は明らかに平均より劣っている。
また、私の泳ぎのレベルは達人のレベルか、というとそうは言えない。水のキャッチはしっかり出来ているし、フォームも力が抜けていて問題はない。では何が問題か、というと、私は遠泳用にゆっくり泳ぐ練習しかしなかった点ではないかと思われる。しかもこの考察も本当に正しいかどうかはわからない。運動の理論の事は、私はたいていわかるが、この事はいまだにわからない。
クロールはある程度速く泳ぐものであるということも関係しているかもしれない。実際、クロールの達人は、ゆっくり泳ぐ人は少なく、たいていある程度の速さで泳いでいる。これはクロールは、速く泳ぐほうが気持ちがいいからであるからであろう。クロールで泳いでいる人はみな、ある程度スピードを出して泳いでいる。
そしてクロールの達人はサーフィンのように波の上に乗っかっているような人もおり、一つのストローク毎にリズミカルに体が上下に動いている人もいる。クロールの上級者がする事は、水のキャッチだけであり、あとは何もする必要がなく、体が勝手に前方にどんどん進む、と書いてあったが、クロールも本当の上級者になると、その快感はエクスタシーそのものであり、もはやその快感をやめる事の出来ない中毒者となる。
温水プールで水泳が上手くなろうと、フォームが十分出来ていないのに、がむしゃらに泳いでいる人がいるが、あれには問題がある。スポーツは根気よく反復することが大切なのだが、疲労は上達の大敵である。この矛盾する事を解決する方法は一つ。ちょっと疲れてきたな、と思ったら数秒か数分、休みのインターバルを入れることである。数秒か、数分の休みで、疲れは十分とれるので、疲れがとれたら再び泳ぐのである。
以上、水泳論。






有閑夫人と熱血男

スポーツ上達に必要な最も大切な事の一つを書いておこう。ある、ちょっと誇張した例を言おう。あるテニススクールに二人の人が入門した。一人は有閑夫人であり、一人は、何としてもテニスが上手くなりたいと思っている熱血中年男である。このうち、どっちの方が技術が上達すると人は思うであろうか。おそらく熱血男が上達し、有閑マダムは上達しない、と思うのではないだろうか。しかし、事実は逆である。上達するのは有閑マダムであり、熱血男は上達しないのである。それは何故か。それは有閑マダムは、テニスは別に上手くならなくてもいいから、スクールに来る友達とおしゃべりを楽しみたい、と思っているのが目的であるのに対し、熱血男は何としても上手くなろうと意を決しているからである。これが、理由だと言うとますます分けがわからなくなるだろう。逆ではないかと思うだろう。ではその理由を説明しよう。スポーツ上達の原理は次の二つのことが必要だからである。
一つは、1「ぜひ上手くなりたいという意志を持っている事」である。
もう一つは、2「なかなか上達しなくてもそれを気にせず、続ける意志を持ち続けること」
である。
この二つのうち、前者1より、後者2の方がずっと大切なのである。
有閑マダムの場合、スクールに来る目的は技術の上達ではなく、友達とのおしゃべりを楽しみたい事である。だから副目的である、テニスの技術は上達しなくても、大して気にならないのである。だからなかなか上手くならなくても、つらくなくスクールに通い続けられるのである。
一方、熱血男は前者1は持っている。しかしスポーツは体が上手くなってくれるのを気長に待つしかなく、技が高度なものであれば、短期間で容易には上手くならず、まさに雨垂れが石を穿つのを待つほどの忍耐力が必要である。これは上手くなりたいと強く望んでいる熱血男には非常につらいものである。なかなか上手くならないので、スクールへ通うことがストレスになってくるのである。また、コーチの「踵を浮かせ」だの「ボールを良く見ろ」などの注意を真剣に受け止めて、意識がコーチの教えをしっかり守ろうとする事に向いてしまう。しかし多くのコーチは表面的に現れている末梢的な体の欠点を述べる事は出来ても、本質を教えられる人は少ないのである。技術が上達していけば末梢的なことは自然と直っていくので、そんな事は注意する必要はないのである。ギコちない運動をしている初心者が、運動中に意識できる事は、一つか二つが関の山である。「ボールを良く見ろ」と言われれば、「ボールを良く見る事」だけに意識が使われてしまう。そして「ボールを良く見ろ」の注意が誤った注意であることはすでに述べた。初心者が運動しながら意識できることは一つか二つが限度である。優れたコーチとは、その人が、今の時点において意識しなければならない本質的な一つの注意とは何か、を見抜ける人である。無意味な末梢的な注意をして、生徒が無意味な注意に意識を取られてしまっては上達しうるものも上達しなくなってしまう。スポーツは続けることがすべてであり、根気よく続けていれば、体が少しずつ正しい動作へと変化していってくれるものなのである。人間は、病気においては、自然治癒力が存在するように、スポーツの上達においては自然上達力なるものが備わっているのである。コーチは何も注意などせずとも、続ける生徒は上達する。また、末梢的な事に意識を向けさせるより、意識を大脳から消すことの方がずっと大切である。
以上が、有閑夫人が上達して、熱血男が上達しなかったり、上達しないつらさで、「俺には所詮運動の才能はないんだ」と思ってスクール通いをやめてしまって上達しない理由である。





体力と運動神経について

これについても私見を述べよう。どこの学校でも未知のスポーツをやらせて、上達の早い生徒がいる。これが運動神経である。一方、長距離マラソンをやっても息切れしない生徒がいるだろう。これが体力である。結論から言うと、体力と運動神経は基本的にまったく関係がないのである。しかし運動神経がすべてである運動の上達というものに体力は多少、関係があるのである。テニスにせよ、水泳にせよ、運動は同じ運動を根気よく繰り返すことによって上達する。どんな運動でも初心者のうちは、運動がぎこちなく、上級者なら、疲れず楽々何時間でも続けられる運動を、初心者では数倍のエネルギーを使わなければならず、上級者とは比べものにならないほど、筋肉を酷使しなければならない。言うまでもなく、体力のある者はこれに耐えやすく、体力のない者はこれに耐えにくい。なので、体力と運動神経は、直接の関係はないが、体力と運動の上達には関係があると言えるだろう。




ブルース・リー論

ブルース・リーに関して私見を述べようと思う。ブルース・リーは、大変思考の深い人間であり、研究心の旺盛な人間であり、生前に思いついた事をすぐ書く習慣があったので、ブルース・リーの、物事の本質を書いた短文は非常にたくさんあり、それがブルース・リーの死後ブルース・リー語録としてまとめられて出版されている。また、彼の創始した截拳道の弟子やリーと交流のあった人達のリーについて思う所を述べたものも出版されており、人間ブルース・リー論はほとんどなされているので、もう書くことはほとんど無いので、まだ私が読んだ事のない、私のブルース・リー論を少し書いておこうと思う。私が本腰を入れてブルース・リー論を書くと、きりがなくなる。
まずブルース・リーは、我の強い他流派のけちをつけるお山の大将だったとか、天才だったとか、意見が分かれている。まず、ブルース・リーはまぎれもなく天才であり、人格も非常に謙虚で、思いやりのある優れた人格者だったのである。ブルース・リーを直接知っている載拳道の弟子はウソの美化ではなく、みな彼の能力と人格の偉大さをうれしそうに語っている。ブルースの悪口を言う人は、彼を直接には知らないジャーナリスト達である。
私は空手を始めたときには、当然ブルース・リーの映画は見ていたし、書店でブルース・リー語録の本も見た。しかし私は当時、ブルース・リーの著書を読んでみたいとも思わなかった。当時はもっぱらブルース・リャンにあこがれていた。テコンドーの達人リャンの方がリーよりずっとダイナミックで美しい足技だったからである。また、空手を学び始めた頃はもっぱら、技の上達だけが価値観だったので、リー語録も読む気がしなかった。空手の練習を続けて、ある程度、技が上達した時、リーの「魂の武器」という、戦い方や武術論をリーが書いた本を勝って読んでみた。しかし文章がさっぱりわからなかった。やたら難しい言い回しをしている。それで私はリーの文才のなさと人格をあなどった。「この男はわざと難しい言い回しをして気取っているのだ」と思った。で、本はツン読になった。しかしである。さらに空手の練習を続けているうちに技が上達していった。スポーツはある時、ぼっと上手くなるものである。運動生理学では、粗協調が起こったという。医学的に言うと、脳の神経細胞にシナプス結合が起こったということである。上手くなった時にはすべてが一気に上手くなる。煉瓦やコンクリートブロックが割れ、腹から気合いを出すことが出来、あらゆる技「突き、受け、蹴り」が上手くなるのである。今まで出来なかったものが一気に出来るようになる(だからスポーツは面白いのである)そんな経験を何度も繰り返すうちに私はついに上級者になった。また、内向的な性格だったので、哲学に関心が向き、どんな哲学書も読みこなせるようになった。そうなった時に、再びブルース・リーの書いた武術論を読んでみた。すると、わかるは、わかる。また、文章もわざと難しい言い回しをしているのでは決してなく、色気など全くなく、きわめて自然に、また読者にわかりやすいよう書かれた文章であることを感じた。ブルース・リーはむしろ名文家である。価値観が百八十度ひっくり返ってしまった。リーの哲学は一言で言って、実存主義哲学なのである。実存主義哲学とは、一言で言って、世界の原理を研究する哲学ではなく、自分がどう生きるかを研究する哲学である。戦闘法やリーの哲学をいちいち述べる気はしない。リーの本を買ってリーの名文を味わう方がいい。ちなみにリーの本は武術のテクニックの解説書ではなく、人間の生き方、人生の目的、といった内容の哲学的な本であり、武術をやってない人でも読んで大いに役に立つ本である。「と宣伝してあげたのだから、どうか拙作「女生徒、カチカチ山と十六の短編」「文芸社」も買って下さったらうれしいなーと思う今日この頃である。太宰治、谷崎潤一郎の作品等、近代作家の名作のパロディー化したものが多いので、読書、活字が嫌いな学生のための文学入門書として少しは役に立ってくれると思います。読み易いので肩が凝らずに読めます。買ってくれる人もいないし、近く品切れになります」
と百パーセント効果のない宣伝はこのくらいにして、リー論に戻ろう。一つだけ説明したい事があるので説明しよう。リーは「型」「流派」にとらわれるな、と力説している。一方、「行動パターンを確立してしまえ」と言っている。これは一見、矛盾しているように聞こえる。リー自身、映画で観られるように、いくつかの攻撃パターンを持っていた。右のリード足の回し蹴りの連続から左の後ろ回し蹴り、右横蹴りからの左の後ろ回し蹴り、右三日月蹴り(擺脚)からの左後ろ回し蹴り、など、他にも多くある。
このようにリーは「行動パターンを確立している」。一方、「型」「流派」」にはまるな、と力説している。これは矛盾しているように聞こえるが矛盾していないのである。一言で言えば、「体で反応せよ」という事なのである。リーは愛国心の強い人間であり、人種差別に対する怒りの強い人間で、作品の中でもそれを表現している。最たるものは「怒りの鉄拳」である。これはアクション映画というより、徹底した反日(=愛国心)映画である。

リーは香港に戻るまで、アメリカで載拳道教師、映画俳優として生計を立てていた。最も代表的なものは、子供用の連続テレビ番組で、「正義の見方もの」の「グリーンホーネット」である。この映画からもわかるが、リーはアメリカで人種差別の屈辱を味あわされた。「グリーンホーネット」のリーは、かっこいいとは言えない。あくまで、ハンサムで背の高いアメリカ俳優のホーネットが、難事件を解決する主人公であり、リーはホーネットの手下、雑用係り、である。アイマスクをし、奇妙な東洋武術を身につけている謎の東洋人というのがリーの役だった。(日本の忍者みたいな役)しかし、この屈辱的な役をやった経験が、後のリーの主演作品が大ヒットしたのに役立っていると思われる。
映画を見る人は武道家ではなく、武術にたいして関心のない一般の人である。「グリーンホーネット」をやる中で、リーは一般の人が、東洋武術家に、何を期待し、どう振る舞えば客が喜ぶか、という事を理解してしまったのだと思う。「ドラゴンへの道」を最初に観た時に、東洋武術の達人は、技だけではなく、精神も達人であり、底の知れない仙人のような感じを受け、その神秘性に感激した。おそらく他の人もそうだろう。リーはその神秘性を逆手に取ったのである。

また、リーは大変な読書家であり、蔵書として非常にたくさんの武術書、哲学書があった。リーは日本の武術も日本の武術家なみに研究しており、カンフーとは何かを説明するのに、宮本武蔵の、飛ぶハエを箸で捕まえる話を例に説明したりしている。また、ヌンチャクはブルース・リーの映画によってカンフーの武器と誤解してしまった人も多いだろうが、ヌンチャクは日本の空手の武器であり、中国武術にヌンチャクはないのである。またリーの武術の原点は詠春拳という流派の中国拳法であるが、若くしてそれをマスターした後、他流派の中国拳法をどんどん研究していった。また、リーのキックは空手(=テコンドー)のキックであり、リーはテコンドーの友人から、後ろ回し蹴りや、空手の蹴りを学んでいる。極真空手のハワイ道場でも、空手を学んだ事がある。巨人の星、等、スポーツ根性ものの劇画原作者で極真空手の黒帯でもある故、梶原一騎氏は、この事実に感激し、ブルース・リーの師は極真空手のハワイ支部長のブルース・オテナであると、漫画の中でも書いている。しかしリーはアメリカに行く前に香港で、若くして詠春拳をマスターした武術の達人であって、他流派への入門は自分の武術を深めるための研究に過ぎない。だから他流派は一時的な入門や見学である。リーは独学タイプの人間であり、他流派入門は、他流派を研究したり、必要な技を取り入れたりするための一時的入門に過ぎない。リーは自分自身の中に自分の教師を持っており、リーの本当の先生とはリー自身である。他流派は自分の技の向上のために利用したに過ぎない。
リーは空手、柔道、合気道をマスターしているアクションスターの倉田保昭とも親しく、リーと武術の話をしているが、リーの武術の知識には歯が立たなかったと言っている。リーはオリジナリティー(独創性)のある人間であり、三日月蹴り(擺脚)からの後ろ回し蹴り、リード足の連続からの後ろ回し蹴り、などはリーのオリジナルテクニックである。また、リーのヌンチャクの振り方もオリジナルである。リーはボクシング、ムエタイ、テコンドー、空手、合気道、フェンシングなどをどんどん研究していき、技を身につけていった。
リーの映画を見るとわかるが、武術の心得のある人間と、無い人間とでは、立った姿を見ればすぐわかる。また、どんな武術でも上達していくと、技だけではなく、精神も武術家になっていくものなのである。最近、NHKの連続テレビドラマで「宮本武蔵」をやった。私はほとんどテレビを観ないが、「宮本武蔵」は、二回か三回観た。多くの武術に関心のない人は抵抗なく観れただろうが、私にはとても観れたものではなかった。「武蔵」は日本の武術家の代表であるのだから、武蔵役にはマスクのいい男ではなく、どんな武術でもいいから、多少でもいいから、武術を学んだことのある人を武蔵役にしてほしかったものである。武術は二十四時間体制のものであり、歩いている時でも、武術家と非武術家とは違うのである。精神も武術家であるから面構えも武術家独特のものになっていくのである。テレビの武蔵役からは、外見も精神も全く武術家が感じられなかった。

ブルース・リーは「我」の強い人間だったという意見がある。が、リーは著書の中で「オートマティズム「我がなくなること」の大切さを述べている。この意見の違いは次の説明で事足りる。
「ブルース・リーは、我、を消す強力な、我、を持っていた」一方、
「多くの人間は我を消す強力な我を持っていない」

ブルース・リーの人気は彼の死後も衰えることがない。それは彼が天才だからである。ブルース・リーは天才にして、世間でスーパースターとなれた、非常に数少ないラッキーな人間の一人である。もし「グリーンホーネット」程度で終わったら、彼は世に多くいる、世に認められることのない不運な天才の一人として一生を終えてしまっただろう。

ブルース・リーの人気の秘訣は、彼が武術映画のパイオニアである、という点もあるだろう。また、「技の上手さ」と「子供の頃から、子役の映画俳優で、演技が上手く、アクションを効果的に見せる演出法を知っていた」という、二つの能力があったからだ、という意見もある。それはもちろん正しい意見だ。しかし私はもう一つ別の理由もあると思う。それは彼のすぐれた人格である。彼ほど愛国心の強い中国人はいないだろう。彼ほど人間の差別心を憎んだ人間はいないだろう。彼ほど研究熱心だった人間はいないだろう。これが、ブルース・リーの人気がいつまでも衰えない理由だと私は思う。

また自分で言うのは非常に僭越な事だか、私の性格はブルース・リーの性格に非常によく似ている。そっくりだ、と思う点も多い。内向的で、観念的な事をとことんまで突き詰めて考える。強い自我(哲学者のキルケゴールが言っているが、これは、持っている事を人に気づかれると非常に危険な物なのである)があり、研究心が強い。孤独であり、流行やファッションには全く興味がなく、我が道を行く性格である。私はブルース・リーの箴言が好きだが、私はブルース・リーからいかなる思想的影響も受けていない。ただ、ブルース・リーの著書を読んで自分の性格との共通点を見出したに過ぎない。

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武道雑感

2019-08-10 23:37:29 | 武道・スポーツ
武道雑感

ドラゴンへの道
ブルース・リーの映画の中では、「ドラゴンへの道」が、一番良く出来ている。
ラストで、リーが黄仁植とボブ・ウォールと、コロシアムの前で戦う場面がある。
二人はチャック・ノリスほどの技量はないが、相当の腕である。
黒帯に近い。
ブルース・リーは、、ボブ・ウォールには、情け容赦ないが、同じ東洋人という事でか、黄仁植には、武道家として敬意を払っている。
しかし、ボブ・ウォールと黄仁植ではあの映画の時点では、ボブ・ウォールの方が、武術家として、優れている。
それは、ボブ・ウォールが、一つの策略を完成させているからだ。
ボブ・ウォールの策略とは、リード足の連続蹴りで、自分は安全で、相手にダメージを与える。そして、相手が、パンチを打ってきた時、その腕をトラップして、膝を梃子にして、相手を倒し、とどめのパンチを打つ、という、一つの完成された策略である。
ボブ・ウォールは、この戦い方しか、使わない。しかし、それでいいのである。格闘は、技のショーではない。一つの強力な策略を持っている方が、いいのである。格闘に、こだわり、や、無意味な夾雑物を、入れない点、格闘家として、優れている。
こういう武術家を頭能的ファイターという。
一方、黄仁植は、やたら、後ろ回し蹴り、や、連続技を繰り出している。しかし、それらは、使い方を間違えている。相手が、技量の落ちる者に、高度な技を使う事はナンセンスである。素人には、ストレート攻撃が鉄則である。ストレート攻撃が、自分も安全であり、相手に確実にダメージを与えられる。無意味に、後ろ回し蹴りを、多用する事はナンセンスであり、燕旋脚は、フェイント技であり、いきなり、使う事も無意味である。自分が、身につけた技を全部みせたい、という邪念にとらわれてしまっている。
だが、それでも黄仁植には、力量があるから、相手は、倒せるが。
しかし、黄仁植を見た時、この人は、将来伸びるな、と思った。実際、後のジャッキー・チェンとの共演作、「ヤング・マスター」では、神業の達人になっている。武道は、難しい面がある。こだわり、のある人は、将来、伸びる可能性がある。一方、早くから、一つの策略を完成させてしまうと、それ以上、伸びない可能性がある。初心者は、こだわりを持っていた方が、いいように思われる。
リーも、黄仁植が、将来伸びる事を感じていたから、敬意を払ったのだろう。


リーの戦闘シーンは、武術の正しい戦い方を示している。
ボブ・ウォールとの戦いでは。ボブ・ウォールが、トラップ(相手の体の一部を掴む)して、倒す、という戦い方を見ているため、その用意をして、手を掴まれてた時、すぐに後ろに逃げ、逆にボブ・ウォールの手をねじりあげ、後ろから蹴っている。また、燕旋脚の使い方も、実に見事である。燕旋脚とは、前蹴りのフェイントからの回し蹴り、である。まず、前蹴りを数回出して、相手に、学習させてしまっている。自分は前蹴りをするんだ、という先入観を植えつけた。そして前蹴りのフェイントからの燕旋脚である。これが、燕旋脚の正しい使い方だ。この前蹴りの布石があるため、燕旋脚が、見事にヒットしている。
映画では、あるが、現実の格闘でも、燕旋脚は、こういう使い方をすべきなのだ。
黄仁植の後ろ回し蹴りも、黄仁植が後ろ回し蹴りを多用しているのを見ているから、黄仁植が放った後ろ回し蹴りを、後ろにさがって、かわすのではなく、逆に入り込んで、足と体を捕まえ、すくい上げて地面に落としている。
また、黄仁植の連続蹴りの攻撃に対し、同じ連続蹴りで攻撃した後、激しいトラップで、前蹴り、飛び蹴りをしている。リーのトラップは、蹴りを確実にヒットさせるため、というより。トラップそれ自身が、攻撃である。戦闘とは、狂気の状態で戦うものであり、リーはそれを象徴的に表現している。リーは美しいパンチとキックのファイターではない。リーのパンチとキックは戦闘の一つの手段に過ぎない。リーの武器とは体全部である。


チャック・ノリスは、さすがに達人であり、あらゆる技を身につけている上、多くの攻撃パターンを持っている。黄仁植を最初に倒した時の、パンチの連続からの後ろ回し蹴り。パンチの連続からの巴投げ。リーに対しては、パンチの連続からの背負い投げ。
空手と柔道を身につけているため、それを連動させた見事な攻撃パターンをつくり上げている。


リーがノリスに倒された後、リーが軽やかなフットワークを使い出した。スローモーションで、ノリスが、蹴りでリーに攻撃するが、全て、あしらわれてしまう。(実際の戦いでは、こんなロングの間合いから、蹴ったりはしない。もっと近づいて、相手との距離をつめて攻撃する。しかし、それでは、映画の戦いとして美しく見えない、から、離れて蹴りを出しているのだ)リーは、サークリングテクニックによって、真後ろにさがらずに、横にずらしながら、身を引いている。チャック・ノリスのキックに、軽く手で払っている。これは、完全に手を触れずに後退する事は、敵を有利にしてしまうからだ。絶えず、相手の蹴りに、触れる事によって、相手の感触を感じつつ、間合いが、感じとれ。また、蹴りに対して、手が反射的に出るのだろう。ボクシングのパーリング的である。
チャック・ノリスは、全力で放った蹴りが、全て、かわされ、これでは疲労してしまう。
リーは、前足でのマシンガンキックで、ノリスを倒す。このリーの片足マシンガンキックは、リーのオリジナルテクニックかと思ったが、おそらくムエタイからヒントを得たのだろう。ムエタイでは、前足での片足連続キックは、練習の基本である。

リーは、毎日、10キロ走りこむ、というほど、基本体力に心がけた。鉄の心臓をつくりあげた。これは、格闘では、小器用な技より、体力の重要性を重んじたからである。そして、事実、格闘では、その通りである。
また、リーは、無我の境地、オートマティズム、を言っている。
「自分の意志でパンチを打つのではなく、パンチが自分の意志ではなく無意識に打ち込まれるのだ」
と言っている。ここまでいくと、インド哲学の梵我一如である。無我の境地である。
現象は自由意志ではなく、自分というものが無くなり、世界との一体化である。自分が世界と一体化するのである。
もし基礎体力がなく、すぐに息が上がってしまっては。息があがると、頭に意識がもどってしまう。それも、リーが基礎体力を心がけ、鉄の心臓を持つ必要を重要視したからであろう。
リーは、テクニックは完璧に完成されているのだから、別に基礎体力の訓練をしななくても、見事な、いいアクション映画はつくれた。それなのに、基礎体力の訓練を怠らなかったのは、リーが本当の武術家だからだ。リーは映画でアクションだけ、上手いが、実戦では、映画通り、ほど、強くない、などという分離を嫌ったのだ。自分は、実戦でも映画通り強い武術家である、という誇り、ファンに対する誠実さゆえだろう。
また、リーは映画で成功しても、最期まで武術家を貫き通す性格だった。
リーは、アクションスターだけではなく、本当の武術家気質を持った武術家なのだ。
そこらへんもリーの魅力なのだろう。

リーは、「技はコントロールされなくては、ならない、が、コントロールされ過ぎても良くない」と言っている。この意味は、
「コントロールされる」とは、体のバランスをしっかり、保ったまま、突き、や、蹴りを繰り出す戦い方である。敵に攻められるスキをつくらない、守りがしっかりしたスタンスである。そのかわり、パンチやキックの破壊力は、その分、おちる。
一方、「コントロールされ過ぎていない戦い方」とは、体のバランスは、考えず、パンチやキックを思い切り出す戦い方である。これは、パンチやキックが外れれば、体のバランスをくずして、守りにスキができてしまう。
どちらにも偏らず、これを調節する事が大切なのである。
空手や拳法の戦いでは、達人同士では、なかなか勝負がつかず、持久戦になることが多い。
なので、達人同士の戦いでは、「コントロールされた戦い方」になりやすい。
カンフー映画での戦いは、「コントロールされた戦い」である。これは当然である。映画では、戦いは、美しく見えなくてはならない。パンチやキックが乱れては、アクションがきたなくなる。
また、以前、芦原空手の「サバキ」というビデオを観たが、これも「コントロールされた戦い方」である。そもそも、芦原空手は、「コントロールされた戦い方」である。いい例が、芦原空手の後ろ回し蹴り、である。芦原カラテの後ろ回し蹴りは、体の軸を一直線に保って、いる。コマ送りで、見たが、インパクトのギリギリ直前まで膝が開かれていない。
これが、本来の後ろ回し蹴り、であり、後ろ回し蹴りの訓練で、ゆっくりやる時には、このようになる。後ろ回し蹴りの原理がよくわかる。しかし、実戦では、普通、スピードを思い切りつけて、体を回すから、膝はインパクトのかなり前から開いてしまう。しかし、後ろ回し蹴りの原理は、同じである。
しかし、芦原カラテの後ろ回し蹴り、は、インパクトの直前まで膝が開かれていない、極度にコントロールされた蹴りである。だが、破壊力は落ちていないのである。そして、体のバランスがしっかり保たれているから、蹴りが当たらなくてもスキができず、相手に攻撃されることがない。安全な後ろ回し蹴り、である。
後ろ回し蹴り、に限らず、芦原カラテのパンチやキックは、全て、体の軸をしっかり保ったコントロールされたものである。しかし、破壊力は、まったく落ちていない。
芦原カラテでは、サバキの研究に徹しているため、体のバランスが崩れないコントロールされたスタイルなのである。

一方、「コントロールされていない蹴り」つまり、守りを考えず、力の限り蹴る蹴り、で、いい例は、「ドラゴンへの道」で、チャックノリスとブルース・リーとの戦いで、スローモーションで、チャックノリスが、リーを追いつめる蹴り、が、そうである。といってもいいと思う。あの蹴りでは、チャックノリスは、守りというものを考えず、力の限り、思いきり蹴っている。


ブルース・リャン
ブルース・リャンは、技だけ見ればブルース・リー以上にダイナミックである。ありとあらゆる連続技が出来る。第一、ブルース・リーの蹴り技に、飛び後ろ回し蹴りは、ないが、リャンは、ものすごい華麗な飛び後ろ回し蹴りが出来る。
しかし、倉田保昭と戦った、「帰ってきたドラゴン」を見ると、華麗な技の見せ合い、という感じで、その点、リーのアクションは、見ると、まさに戦っている、という感じがして、その点でリーの方が人気があるのだろう。リーのアクションは、戦い、それ自身がドラマであり、リーの主義、や、主張があった。
リャンは、倉田のような達人との一対一の戦いより、複数の敵を相手にした戦いのアクションの方が素晴らしい。

大変、疑問に思う事なのだが、リーは、拳法を身につけただけでは満足できず、なぜ、ああまで武術家であろうとする欲求にこだわったのであろうか。そして武術の研究をしつづけたのであろうか。
現代において武術家であることは、ナンセンス極まりない。戦国時代のように、無法の時代なら、武術を研究する必然性はあるが。柔道の元である柔術は戦国時代の必要性から生まれた。現代は、法治国家である。もちろん無法者に襲われる可能性はあるが。ああまで、武術を研究する必然性があるのであろうか。拳法および、他の多くの格闘技の技を身につけただけで、十分自分を守れるではないか。
現代における、武道の最も有意義な目的は、ルールをきめたスポーツとしての発展にある。
やはり、実戦カンフーファイターの具一寿氏が、言っているように、武術家とは、狂気の精神状態を維持している一種の病的人間としか、思われない。
絶対、世界中のどんな強い男に襲われても、自分を守り抜いてみせる、という大変なプライドからだろう。
実際、リーは、世界中のどんな強い男に襲われても、自分を守り抜けるだろう。
自分の強さに自信を持って、リーに戦いを挑んだ男は多い。
しかし、そういう人は、武術の意味がわかっていない。
そういう人はリーほど武術を深く研究しているだろうか。
リーは、武術に関する本は孫子の兵法まで全部、読んでいる。
そういう人はどんなに強くても、リーをノックアウトする事は、出来ない。
リーは、プロレスラー、体重200キロ以上の格闘家に襲われても、ノックアウトされることはないだろう。そもそもリーをノックアウト出来る男など、まずこの世にいない。もし剛の男がリーに決闘を申し込んで、意気揚々と決闘に赴いたとする。しかし、彼は己れの悲鳴を聞くだけだろう。なぜなら、おそらくリーはピストルを持っているから。(ドラゴン危機一髪、では、リーはナイフを使って戦っている)武術はスポーツではない。卑怯もへったくれもない。
技が華麗なアクションスターは多い。しかし、リーほど、武術の研究をしているアクションスターは、いないだろう。そもそもリーの生活は武術の研究が、大半を占めた。

大山倍達、は、なぜ、手刀によるビールのビン切断の研究にこだわったか
大山倍達は、手刀によるビール瓶切断の研究を熱心にした。
彼は空手家であり、空手を武器とした格闘家である。彼は様々な格闘家と戦った。
彼のような人は、ビール瓶の切断の技術より、人間との戦い方を研究した方が、ずっと有益である。しかし大山倍達は、手刀によるビール瓶の切断の研究を熱心にした。
これはなぜか。それは、もちろん、人に見せて得意になるためではない。
実は、ここに空手の目的が象徴的に示されている。
氏ほどの技量に達すると、ビール瓶を切断できる感覚が起こってくるのである。
これは、何も氏だけではなく、空手家の試割り、において、全ての空手家に共通して起こる感覚である。「切れる」、「割れる」という感覚が技の上達時に起こるのである。
人間は、「出来る」と感じられる事は、やらずにはいられないのである。どうしても、やってしまうのである。そして、ここに、空手の目的もはっきり示されている。
つまり、空手は、動く人間を相手として、考え出された拳ではないのである。
それは、ボクシングやタイ式ボクシングのパンチである。
空手の拳は、動かない物体を破壊するために、考え出された拳なのである。
また、試割り、は、巻き藁で、拳を鍛えている、以上に、手首の固定が出来ているため、安全、という面がある。初心者は、安易に試割り、をすると、手を怪我する危険があるので、やめた方がいい。


段位について
私は大学は関西の医科大学に入った。空手部もあった。関東では、松涛館流だったが、関西では糸東流だった。もちろん、運動系のクラブなんかに入る気は全くなかったので、入らなかった。
ただ、過敏性腸症候群がひどく、健康のため、近くの空手道場に数回、行ってみた。健康に効果がないので、数回でやめてしまった。そこの先生は、そこの大学出身の開業医だった。先生はそれほど、上手くはなかった。その道場に、一人の黒帯の指導者がいた。彼は黒帯だが、手先から力を出し、腰から力を出せていなかった。しかし彼は性格がとても、誠実だった。空手を身につけたい、という気持ちからではなく、何でもいいから、武道を訓練して、心身を鍛えようという気持ちから、入門したのだろう。私は、こういう人に段をあげて、全然悪くないと思う。その人は技術は、黒帯とは言いにくいが、小手先の技術が、ちょっと、うまい、だの、なんだの、なんて、くだらない事だ。その人は、休むこともなく、指導も熱心で、武道精神はしっかり身についている。人間で大切なのは、技術うんぬんではなく、精神だ。実際、その人は、何か有事の時には、空手家として、最も適切な対応をするだろう。
同じ道場に、技の見事な黒帯が二人いた。二人は、陰で、先生を莫迦にしていた。私はこういう人間をつまらない人間だと思う。
私の尊敬する、医学者の池見酉次郎先生も、本の中で書いている。
「一芸を極めた人間は、非常に偉大になっていくか、非常につまらなくなっていくかのどちらかである」
空手の組織は日本に数多くあるが。私は初段は、基本が、特別、上手くなくても、出来て、ちゃんと休まず道場に通いつづけ、武道精神を身につけているなら、初段を与えるべきだと思う。
なかには、初段の技術レベルをやたら高くして、自分らの×級は他の道場の黒帯レベルなどと、他の道場を莫迦にして、自分らのレベルの高さを自慢している所もある。大人気ないことだ。
だいたい、武道の段位は、初段か二段で、技術は頭打ちになってしまうものだ。
一般の人は、誤解している人もいるが。武道の段位の数は力量の比例ではない。初段以降は経験年数である。三段は技術が、初段の三倍うまいのではない。段位は長くつづけた実績によってあがっていく。

私は関東で空手を始めた時、いくつかの道場を見学した。なかには、ひどいのもあった。師は技は上手いが、道着も着ず、でっぷり突き出た太鼓腹。刀を置き、テレビに出た写真をけばけばしく飾り立てている。指導などせず、下手な者を頭を叩いて莫迦にしている。

指導者は、自分の技が完全でなくても、自分も道場生と汗を流さなくてはならない。
なぜなら、生徒は師の技術レベルなど簡単に超えるからだ。
優れた師につけば、すぐれた技術が、身につくなんて事は全くない。
自分は、そう上手くなくても、優れた指導力のある師についた者の方が上手くなりうる。
空手は一人でも訓練できる。
道場に通う意味は、気合いを入れるためと。指導者が見せる、技のイメージを頭に焼きつける事にある。


また、どんなスポーツでも、指導者の上手い技だけ見るべきではない。下手な人の技も見るべきである。というのは、上手い人の技だけ見ていても、なかなか、運動の要素がつかめにくいことがあるからだ。上手い人の動きは自然だから、見てても素通りしてしまって、運動の本質的な要素が見えにくい事があるのである。下手な人と上手い人との違いをともに、見る事によって、運動に必要な要素、が、見えてくるのである。上達の研究のために見比べるのである。
また、有段者でなくても、ある程度、技が身についている人なら、その人の動きを見る事によって、運動の要の要素を学ぶ事はできる。
世の中のスポーツ指導者に、自分はオリンピックの金メダリストでも、指導能力、つまり他人を上手くさせる能力、の無い人は、いくらでもいる。彼らはスポーツの世界における、天下りのようなものである。
なお、下手な人を優越感や、バカにする目的でみる人は対象外。

気合い、について
まだ、技が出来ていないのに、大きな気合をかける人がいる。
これはよくない。なぜなら、技が上達すれば、正しい筋肉の引き締めから、自然と腹から気合を出せるようになるからである。初心者のうちは、気合はかけない方がいい。気合をかける事に気をとられて、基本の動作の訓練が、おろそかになる可能性がある。
もっとも、気合は、武道精神を鍛える、という目的もあるから、絶対してはならないものではない。

スピンキックについて。
ブルース・リーの映画を観ると、複数の敵に囲まれた時、後ろから攻撃してくる敵にはスピンキックで、攻撃している。しかし、それは映画の中での見栄えのよさ、からだ。ストリートファイトで、複数の敵に囲まれた時には、後ろから攻めてくる敵にも、向き直って相対と向き合って戦うものである。

後ろ回し蹴りについて。
芦原カラテの後ろ回し蹴りは、スキがないので、そのまま使っても問題はないだろう。
しかし、一般に後ろ回し蹴りは、スキが出来やすいし、クリーンヒットなど、まず望めるものではない。頭脳的なファイターなら、相手が後ろ回し蹴りを放った後に出来るスキの瞬間に、踏み込んでパンチを打つ戦術を練習して完成させている人もいるかもしれない。
後ろ回し蹴りのような、大技も、使い方の研究によって、有効な蹴りとなりうる。スピンキックでも、そうであるが。スキの出来てしまいやすい蹴りは、かえって、それを誘いのスキとして、使う事ができる。無考えに蹴りっぱなし、ではダメである。わざとスキをつくって、相手に入り込ませ、インファイトの戦いに持ち込む、というような、戦闘パターンを日ごろの訓練で、完成させてしまう、というのも、とても有効な方法だ。


空手に先手なし
「空手に先手なし」とは、空手にとって一番有名な格言である。
これを、多くの人は、空手家からは攻撃しない、という道徳的な意味と、とらえている。
確かに、それもあるだろう。松涛二十訓の中でも、「血気の勇をいましめるべし」とある。
しかし私はそれ以外の意味もあると思う。空手家の方から手を出すな、など、あたりまえ過ぎる。私は、これには、技術的な意味もあるのではないかと思う。
空手は、物を破壊するため、手足を武器化するために生まれた。空手は、人間を相手にした格闘スポーツとして生まれたのではない。そのため、物を壊す破壊力はあっても、動く相手に、戦うフットワークは、はじめから、ない。そのため、空手は実戦で戦うには難がある。そのため、もし戦う事があるならば、相手に攻めさせ、そのカウンターをとって反撃するのが、空手の戦い方である、という技術的な意味も、あるように思える。
実際、伝統空手の寸止めの試合では、先に攻撃をしかけるより、相手の攻撃を待って、相手が攻撃してきた時、そのカウンターをとって反撃する、方が有利なため、寸止めの試合では、膠着状態になる事が多い。
そもそも空手の開祖者の、船越義珍氏、は、自由組手は、技が乱れるから、と言って、自由組手に反対した。
フルコンタクト系の実戦系の空手では、伝統空手を身につけただけでは、戦いにくいから、どの流派も、フットワークやキック、受け、を、実戦で使えるよう、に、創意工夫している。

ストリートファイト
今では、フルコンタクト空手が、最強で、伝統空手や寸止め、を、空手ダンス、などと莫迦にする風潮は、ないだろう。(一部の人では、あるだろう)
空手や格闘技では、今は、組織によって、実に多くの組織に、わかれていてる。
極真空手のように、素手で顔面パンチなし、のルール。
ムエタイのように、グローブをつけての顔面パンチあり、のルール。
掴み、組技あり、つまり何でもあり、のルール。
テコンドー。
南郷継正氏の流派。
芦原カラテのように、掴み、倒し、あり、で、空手をスポーツではなく、武術として研究している流派。
伝統空手でも、寸止めの試合、と、マスクとグローブをつけて、顔面パンチあり、のルールの試合がある。
倉田保昭氏のような、アクション空手。
組手はせず、型のみを極度に研ぎ澄ます伝統空手の人。
ブルース・リーのように、グローブ、とマスクをつけ、戦い方を研究する流派。
太極拳のように、破壊力を追求するもの。
など、他にも、無数に、あるだろう。
それぞれ、何を求めているか、である。
(ちなみに、初代タイガーマスクの佐山聡は、技が見事なだけではなく、格闘技に対する見解は天才である)
才能のある人とは、自分が何を求めているか、を、しっかりと見極めている人である。


伝統空手について。
フルコンタクト空手では、伝統空手の寸止め試合をケンカでは、使えないと思っている人もいるのではないだろうか。しかし、それは違う。確かにケンカでは、フルコンタクト空手の方が強い。しかし、素人が街でケンカすると、当然、顔の殴り合いになる。が、腕に力が入ってしまうため、フックぎみになり、また、両方とも狂気の精神状態だからクリーンヒットなど、まず決まらない。
ここで、寸止め空手で有利な点がある。
それは寸止め試合に慣れてる人は、遠くの間合いから、踏み込んでのストレートパンチが打てる。という点だ。

柔道について。
また、ストリートファイトでは、殴る、蹴る、が主だからといって、柔道は、ストリートファイトでは、空手より劣ると思ってる人もいるだろう。南郷継正氏は著書「武道の理論」の中で、柔道家を空手家より、低く見て批判している。私は南郷氏の柔道家に対する見解を間違っていると思う。確かに、柔道の試合では、技がきれいに決まるという事はない。それは、両者、柔道の実力が互角にあるからだ。柔道は、掴みあい、お互い、必死で、防御しようとするから、きれいに技は決まらないのだ。これをもって、技が身についていない、と解釈するのは間違いだ。もし、柔道家と空手家が、柔道の試合をしたら、絵に描いたような美しい一本背負いが決まるだろう。これに対し、空手は掴み合う事が無く、相手に触れる事がないから、出す技は、形が崩れる事はないのだ。
確かにストリートファイトでは、相手の顔を殴る事が主だ。だから、ストリートファイトに強くなりたければ、ボクシングを習えばいい。ボクサーは確実にストリートファイトで強い。
では柔道はストリートファイトでは、身につけていても、あまり効果が無いであろうか。
私はそうは思わない。ケンカは、いきなり、真剣勝負として、始まる事は少ない。口喧嘩から始まり、掴み合いになり、だんだん、怒りが激しく煮えたっていき、殴り合いになっていく。
国会での政治家どうしの喧嘩が、いい例である。また、いきなりの真剣勝負でも同じである。柔道家は、掴んで、相手の足を刈る事によって、相手を地面に倒す事ができる。喧嘩において、相手を地面に倒す事が出来る事ほど有利な事はない。顔面パンチなんかより、相手をアスファルトの地面に尻や背を打ちつけられる事の方が、ずっと大きなダメージを相手に与える事が出来る。そして、もちろん、柔道家はパンチが打てないのではない。人間なら、誰でも人を殴る事は出来る。殴る、という動作は、生まれつき、身につけているものだからだ。殴る事ができない人がいるだろうか。柔道家は、柔道の試合では、ルールで、殴らないだけであって、喧嘩になったら、当然、殴る。しかし、そのパンチは素人の殴り方では、あるが。ストリートファイトでは、柔道家は、足を刈って、敵をアスファルトの地面に倒し、殴る。蹴る。それゆえ、柔道家は、ストリートファイトでも強いだろう。
ブルース・リーの、「ドラゴンへの道」でも、チャック・ノリスとの戦いで、ラストの方で、リーが、掃腿で、チャック・ノリスの足を刈って、チャック・ノリスが、地に叩きつけられるシーンがあるではないか。なまじのパンチやキックより、相手を倒せる事の方がどれだけ、相手にダメージを与えられることか。


南郷継正氏に対する疑問。
私は氏の著書から、多くを学んだ。氏は空手家であり空手指導者であり、まず、氏の流派に入れば、空手を身につける事は出来る。氏の流派に入門した生徒で、落ちこぼれる人はまず、いないだろう。論理というものを持っている人は南郷氏くらいだろう。
しかし、南郷氏の見解にも間違いはある。
一番は、柔道に対する見解の誤りである。また、氏はブルース・リーを嫌っており、靴が技のまずさをカバーする。などと言っている。空手は、滑らない床で素足で蹴る。そのため、空手家は、靴を履くより、素足で蹴った方が、蹴りやすい。氏の流派は、空手をスポーツというより、武道と考えている。ストリートファイトで、わざわざ靴を脱いで戦うというのだろうか。靴、特に固い革靴は、爪先蹴りしても、突き指する事なく、とても有利である。基本的に靴を履く、履かない、は、空手に関係ない。むしろ、ストリートファイトということを考えれば、靴を履いての蹴り、というものも研究すべきだ。
また中国拳法に対する見方にも誤りがある。
しかし氏は偉大な人間であり、かなり、不遜な言い方もしているが、氏の論理的能力、多くの優れた指導者をつくりあげた功績、多くの著書で、運動の本質を文章で論理化した功績を考えれば、多少の誤り、や、偏見は、とるにたらないものである。


執念を持った素人のおそろしさ。
戦いの勝敗を決めるのは、技でもウェートでも武道の経験年数でもない。
執念の強い方が勝つのである。ある武道など全く無縁なひ弱なサラリーマンがいたとする。
そして、その人の最愛の子を殺した強靭な格闘家がいたと、仮定しよう。
その場合、サラリーマンは、必ず、格闘家を倒す、か、殺すか、する。
執念が違うからである。サラリーマンは、用意周到な計画を立て、ピストルか、ライフルを暴力団から手に入れるだろう。サラリーマンは、相手を殺す気であり、自分の死もおそれていないからである。
あるいは、殺し屋に金を払って、殺し屋が、格闘家を殺したり、生け捕りにして、リンチする事もあるだろう。格闘家は、はたして暴力団の凄惨なリンチに雄々しく耐え抜けるだろうか。格闘家は、強くなると、精神も不遜になりがちだが、人間の精神は弱い、という事実を根本でしっかり、自覚していなくてはならない。


ある道場に行ったら、昔は、道場主が門下生に街でチンピラを数人叩きのめしてこい、とか、言った、とか、言ってたが、こんなのは莫迦もいいとこ、である。
チンピラやヤクザが、殴られっぱなしで、泣き寝入りするだろうか。
必ず、お礼参りが来て、木刀で叩きのめされて、道場はつぶれる。


プロ野球選手、スポーツマンは強い。
解りきった事だが、どんなスポーツでも、スポーツやランニング、体を鍛えることを日課にしている人は、ケンカにおいても強い。
小手先のテクニックだけ、身につけているだけの者は、毎日、4キロかかさず、ランニングしている者に必ずやぶれる。


ルパン三世、対、石川五右衛門
真の武術家とは、どういうものかを示すいい例がある。テレビアニメの「ルパン三世」で、ルパンと石川五右衛門の決闘がいい例である。石川五右衛門は、居合い抜きの達人で、鉄まで簡単に切れる。まさに、五右衛門の方が武術家である。一方、ルパンは何の武術も身につけていない。しかし、実際にはルパンの方が武術家的である。ルパンは五右衛門との二回の決闘で、あらかじめ決闘の場所に、大きな落とし穴を掘っておいて、五右衛門は二度とも、それに落ちてしまうのである。
どんなに技が達人でも、「正々堂々」、だの、「卑怯」たの、五右衛門は武道の意味がわかっていない。武道に、「卑怯」も、「正々堂々」も無い。頭のいい人間、用意周到な人間で、負けない人間こそが武道家である。

ボクシングについて。
空手を身につけた後に、ボクササイズを4回やった。たまたま、近くの体育館で、その講習会が、あったからだ。空手の突きを身につけているので、ボクシングは、色々な点で、非常に興味があった。空手を身につけた後でもボクシングのパンチを身につける事は出来る。ジャブ、と、ストレートは、容易だが、フックやアッパーは、少し難しかった。
ボクシングにおいて、大切な事は、拳の握り方である。ボクシンングでは、指一本、握れるくらい、隙間を空けて拳を握る。こうすると拳に力を入れられなくなるので、腰の回転の力によって、打つという、ボクシングの打ち方が出来るようになる。

スポーツチャンバラ一日体験参加。
昔、カルチャー教室で、スポーツチャンバラに一日体験してみた。先生は、「武道の目的は勝つ事ではなく、負けない事」と言ったが、武道の本質をよくわかっている人である。と思った。参加者に、剣道の有段者がいた。剣道は武器を使い、重たい防具を身につけねばならない。空手は、いつでも、どこでも一人で練習できるが、剣道はそうはいかない。基本的に学生のスポーツという面が強い。そこで剣道家はスポーツチャンバラに参加したのだろう。自信満々だった。試合は勝ち抜きで、剣道家は簡単に三人抜きした。しかし私は彼の精神にスキを見出した。彼は、いささか、得意になって、なめていた。私は彼のうぬぼれの鼻をへし折ってやろうと思った。私は相手と同様、剣道らしく中段に構え、上段の面打ち、をするよう見せかけた。そして、「はじめ」で、お互い、飛びこむと同時に、私は面打ちの構えから、相手の足を刈ったのだ。きれいな、一本勝ちが決まった。これは、もちろんフェイント攻撃である。そして、二度は使えないものである。やぶれた三人も剣道の感覚で、誰も足を狙おうとはしていなかった事も幸いしている。やぶれた剣道家のくやしそうな顔といったらなかった。


クセについて。
どんなに優れた指導者の組織に入って練習しても、どうしてもクセは、多かれ少なかれ、出来てしまう。もし、クセが、全く無い人がいたら、その人は達人になっていく。
クセは、どうして出来てしまうのか。私が思うに、一番の理由は、その人の性格だと思う。
「突きは腰から力を出さなくてはならない」とか、「技は大きくつくらなくてはならない」とか、「空突きの練習では、力は80%くらい入れて反復練習しなくてはならない」とか、運動の本質的な事が、わかるかどうか、だと思う。また、師の教えに盲従するだけの人もよくない。「今、自分は何をすべきなのか」を考えなくてはならない。
独創性、や、創造性とは、達人になってから、はじめて発揮するものではない。
練習の過程において、どうしたら自分は上手くなれるか、を、考え、練習法を自分なりに工夫する事は、独創性、創造性、以外の何物でもない。
サルトルは、「人間は自分がつくったところのものになる」と言っているが、まさにその通りである。

三島由紀夫に対する疑問。
三島由紀夫は、スポーツは、ボディービル、剣道、ボクシング、乗馬、空手、などを大人になってからやった。氏の自らを鍛えようとする意志の強さには、敬服する。特にボディービルは凄い。氏は90キロのベンチプレスを持ち上げられる。あの上腕の物凄い事。全共闘と論戦した時の、画像がYou―Tubuで、あるが、いったい、どっちが学生だかわからない。
ただ三島自身は、運動はあまり上手くはなれなかったようだ。三島は、これを運動神経の一言でかたずけているが、それは違う。運動が上達するには、自分で考え、創意工夫しなくてはならない。
また、三島は、小説の中で、スポーツをやる人間は莫迦、と何度も言っているが、これも違う。スポーツが上達しない人は、考えないから、上達しないのである。逆に言えば、考える人は、上達するのである。南郷継正氏の多くの著書を読めば、いかに運動の上達において考える事の大切さがわかる。


プロレス
プロレス八百長説を、今時、むきになって言う人は少ないと思う。
だからといって、プロレスは真剣勝負ではない。
柔道家の木村政彦は、プロレスを何度もやって、プロレスの内部事情を知っているが、氏は著書で、プロレスは八百長、としっかり書いている。
しかし昔と今とでは違う。
プロレスは八百長ではない。
もしプロレスが八百長だったら、レスラーは練習などしなくなるはずである。結果、プロレスラーは、弱くなるはずである。しかし、プロレスラーは、他の強靭な格闘家と戦っても互角に戦えるのである。そもそも、プロレスラーの練習は、あらゆるスポーツの中で一番、ハードなものである。ヒンズースクワット3000回だの、プロ野球の比ではない。
一言でいうと、プロレスは、学校で、生徒のする、ケンカのようなものである。もし、本気のケンカだったら、顔の殴り合いになるだろう。
生徒のケンカは真剣勝負ではない。お互い、相手の出方を見ていて、相手の出方によって、こちらの出方も自然と決まってくる。筋書きなどない。その場の流れで、戦っている。
プロレスもそれと同じなのだ。100%の真剣勝負ではないが、80%くらいの力で、相手の力加減に応じて、その場の流れで、戦っているのだ。


金沢弘和先生について。
私は一度、松涛館流の金沢弘和先生に会った事がある。ある夜、岡田有希子さんに縁のある四ツ谷を歩いていたら、意気のいいかけ声が聞こえてきた。松涛館流の本部道場だった。金沢弘和先生が、いた。氏は型が日本一上手いと評価されていた。氏は連続写真の型の本、「空手型全集、上、下」を出しており、それは三ヶ国語くらいで解説が書かれている。国内の本というより、海外で売られている本である。確かに、実に技がきれいだ。氏は日本の空手家というより、世界の金沢である。あらゆる国を回って空手を指導してきた。
私も空手を始めた時、氏のコンパクトな本を買った。氏はチャック・ノリスに顔が似てる。
氏は引き締まった、痩せ型の体で、会った時は、60才を越していた。が、技も柔軟性も全く、落ちていない。先生と、二言、三言、話したが、氏の体を見てびっくりした。巻き藁で鍛えた手のがっしりしたこと。空手着の奥に垣間見えた胸板のがっしりしたこと。その骨格の頑丈さ。無駄な贅肉など全くない。18才の肉体だと思った。
戦後、沖縄で、GHQが、若者の体格を検査したところ、空手をやっている者はおどろくほど体格がいいので、びっくりした、という事だ。
私も、人を見て、その人が何かスポーツをやっているか、どうかは、体格や、歩き方で直ぐわかる。


私が始めに空手を習ったのは、松涛館流の道場である。家から少し離れていたが、誠実な人格の先生だったので、そこにした。師は金沢先生の事も知っていて、話してくれた。それによると、金沢先生は、拓殖大学に入ってから、空手を始めたそうだ。空手部の先輩や同期には、もう空手をマスターしている者も多くいて、からかわれた事もあった、ということだ。前歯をバキバキ折られた、そうだ。だが、夜中に一人で道場に来て、練習した、とも聞いた。

私も一度、型はたくさん覚えたが、空手の型は、平安の五つの型が、きちんと出来るなら、他の型は、全て簡単に出来る。平安の五つの型に、全ての型の要素が含まれている。

だが、私は金沢氏より技の見事な達人を知っている。空手を始める前、近くの空手道場をいくつか見学した。私の家に一番、近い道場も、はじめに見学した。氏の手刀受け、と、前蹴り、を見てびっくりした。特に前蹴りの美しさにびっくりした。普通、空手では、横蹴り、や、後ろ回し蹴り、が、華麗でダイナミックな蹴りで、前蹴りは、あまり見栄えの華麗な蹴りではない。しかし、膝を曲げた姿勢からビシーンと、物凄い前蹴りが決まっていた。気合のように、その音が道場中に鳴り響いた。あの蹴りを見ただけで、誰でも圧倒されてしまうだろう。まず、幼少の頃から、空手を始めた人に違いない。
その人は人格もしっかりした人だったが、いささか硬派で、あまりにも技が優れすぎているので、ちょっと敬遠した。


格闘技の科学「突きは、肩を出す」の、誤り。
以前、「格闘技の科学」というようなタイトルの本を、読んだ。著者は、物理学系の学者で、運動を科学的に研究していた。パンチの強さを数値で、測ったり、体の各部に測定器具を取り付けたりして体の動きを、測ったりしていた。著者は、自ら少林寺拳法や、サイクリングをして、自らも運動好きである。
その中で、一つ疑問に思った。空手の実際の試合では、パンチは、肩を出すのに、空手の型では、肩を出さない、のを、氏が疑問に思っている事である。これは簡単に説明できる。一言でいえば、「技をつくる」と、「技を使う」の違いである。空手で、空突き、や、型で、「技をつくる」時の練習では、パンチで肩を出す事は厳禁である。初心者では、肩が出てしまいやすい。肩を出さない空突きの練習をする事が、空手のパンチの訓練の基本である。これは、一番重要な事で、パンチの訓練で、肩を出していたら、いつまでたっても、上達しない危険がある。
一方、実際に試合で相手と戦ったり、試割りで、板などを突く時、つまり、何か実際に物を殴る時は、肩は、出るものである。
これは、ひとえに、「技をつくる」と、「技を使う」の違いである。
これは、何も空手だけではなく、多くのスポーツで、いえることである。
野球では、バッターにとって素振り、は、練習の基本である。素振りは、どんなに上手くなっても、する練習である。フォームの研究、実際に打つ前の、ウォーミングアップのため。プロ野球の選手でもしている。「素振り」のフォームは、それ自身、完成したフォームであるが、当然、実際に打つ時のフォームとは違う。実際に打つ時は、バットにスピードのある球の反動が、返ってくる事を想定して振るから、思い切り振る。そのため、空振りすると、振った後、体のバランスが崩れる。「素振り」は、「技をつくる」方の振り方なのである。
これは、野球だけではなく、テニス、ゴルフ、他、球技のスポーツでみな、当てはまる。


ブルース・リーは、一つの流派の戦い方に拘束されるな、と、口を酸っぱくして力説した。
その理由は、実はブルース・リーが、一つの流派を完全に身につけてしまったからだ。それは、詠春拳である。つまり、リーは、一つの流派を極めてしまったから、一つの流派を極めることの、裏にある危険性も痛感しているからだ。リーは、戦いは、いかなる拘束からも、自由でなくてはならない、と言っている。
どんな例でもいいが、ボクシングを例にしよう。
何年もかけてボクシングの戦い方の体系を極めて戦術も身につけてプロにまでなった人がいるとしよう。
ボクシングは、ケンカでも、一番有効な格闘技である。
だから、その人は、ケンカになったら、ボクシングのパンチのみの戦闘法が、出てしまうだろう。
もし、その人が、そののち、空手やキックボクシングを学んだとしても、やはり、ケンカでは、ボクシングのパンチが、出てしまうだろう。
机上の勉強と違って、体で一度、覚えたものは、忘れたくても、忘れられないのである。消したくても、元に戻す事は出来ないのである。
これはどんなスポーツでも、言える事である。一度、スキーなり、テニスなり、どんなスポーツでも、身につけてしまったら、それを出来ない、元の状態に戻す事は出来ないのである。
もちろん、これは、スポーツにおいて、とてもいい事である。机上の頭で覚えた勉強は、時間がたてば、忘れてしまう。しかし、体で覚えたものは、忘れないのである。幼少の時、自転車に乗れるようになるには、みな、かなり、てこずったろうが、一度、自転車にのれるようになったら、もう自転車は乗れるようになる。乗れなくなるようにする事など、不可能である。これは、一般のスポーツにおいては、いい事、というより、素晴らしい事である。頭で覚えたものは、忘れてしまうが、体で覚えたものは、一生、忘れないのである。
しかし、それがかえって、問題になる事もあるのである。
空手を身につけてしまった人は、そのあと、キックボクシングに転向すると、支障が出てしまうのである。どうしても、空手のパンチやキックが、出てしまいやすいのである。
ボクシングを身につけてしまった人が、その後キックボクシングを身につけるのも、支障が出るのである。キックボクシングのパンチとキックのコンビネーションより、完成されたボクシングのパンチが出てしまいやすのである。
そういう事は、スポーツにおいて、いくらでもある。軟式テニスと硬式テニス。
非常に似ているスポーツの場合があぶないのである。身についているスポーツに引きずられてしまう可能性があるからである。似ているスポーツでは、かえって、やらないで、白紙の方がいいのである。
空手を身につけてしまった人は、カンフーを身につける事は困難ではないか、と思う。
パンチやキックが、どうしても空手のパンチやキックに引きずられてしまうからである。
空手の達人の笠尾恭二さんは、そののち、中国拳法に惹かれて、中国拳法を、一心に習い、多くの中国拳法の本を出している。しかし、どうしても、体の動きが空手に引かれてしまい、中国拳法や発剄を身につけるのは、とても困難だ、と言っている。
武術の才能は、あるのだから、はじめに中国拳法から習ったなら、中国拳法の達人になっていた事は間違いない。
始めに空手を身につけてしまってから、そののち、中国拳法を身につける事は難しい。
しかし、逆はそうではない。始めに中国拳法を身につけた人が、その後、空手を身につける事は困難ではない。ブルース・リーの蹴りだって、空手の蹴りである。
空手の型を実際に見た事がある人なら知ってるが、空手は岩のように固く、強い幾何学的な動きである。それに比べ中国拳法は動きが、柔らかい。やはり、運動の難度という点において、空手より、中国拳法の方が上なのだろう。


ブルース・リーは、型や、流派の戦い方にとらわれるな、と力説した。
これは、実はリーが、詠春拳という、一つの流派を極めてしまったから、である。もちろん、武術の達人になるには、一つの流派に身をおいて、それを極めなくてはならない。しかしリーは、流派を極める事の裏にある弊害をも知っていた。流派を極めれは、もはや、流派の拘束から、抜け出る事が出来なくなるのである。そののち、リーは、様々な格闘技、武術、を研究したが、やはり一つの流派を極めてしまうと、もはや自由な戦いというものは、困難になる。しかし、武術を極めるには、何かの流派に属し、その流派を極めねばならない。これは武術が持つ根本的な矛盾といえるだろう。
しかし私はリーの発言にも、疑問を感じる。
確かに、ボクシングならば、ケンカになった時、試合の感覚のまま戦って、何ら問題はないだろう。確実に勝ちをおさめるだろう。しかし拳法において、一つの流派を極めた者は、ケンカにおいて、流派の戦い方に、拘束されてしまうだろうか。
突きと、蹴りの応酬が主で、掴み、や、倒し、のない流派を極めた人が、ケンカにおいて、流派とおりの戦い方をするだろうか。
要は、その人の精神の持ち方、次第で、流派に拘束される事は無いように思われる。
自分を白紙に出来る人は、身につけた流派の技はケンカにおいて、有利に利用する事が出来る事こそあれ、流派に拘束される事はないように思う。


リーが、流派にとらわれる事を批判した理由。
リーは、アメリカ時代、流派というものを、批判している。そのため、自分の截拳道こそが、優れていて、他の流派は、駄目だと、うぬぼれている、という誤解、中傷をされた。リーはかなり、これによって、非難された。しかし、リーの考えは、ちがうのである。
そもそも截拳道という流派の武術など存在しないのである。
一言で言えば、リーは、武術家であり、ストリートファイトにおける戦いを想定していたのである。その時、つまり、ストリートファイトの時、自分の流派の戦い方のみで、戦ったのでは、危険だぞ、と言っているのである。
わかりやすい例が、ストリートファイトにおいて、棒を持っていたら、棒を使った戦いになってしまう。何か、武器を持っていると、武器に拘束されてしまうのである。その人が柔道を身につけていても、棒を持ちながら、柔道の一本背負いをする事など不可能である。もはや、自由な戦い方は出来なくなる。リーは、そういう事を主張したのである。


リーは、いかなる流派も、非難も否定もしていない。そもそも、武術を身につけるには、何か一つの流派に属し、徹底的にその流派を極めなくては武術は身につけられない。
世に習い事は、多くあるが、そして、多くある流派によって、若干の考え方、の、違いはあるが、何かを身につけようと思ったら、どれか一つの流派を選び、それに属し、徹底的に自分をその流派の型にはめなくてはならない。能、華道、茶道、書道、その他、すべてにおいて言える。


倉田保昭氏は、空手、柔道、合気道、という三つの武術を完全に身につけている武術家である。
リーは詠春拳の達人であるが、そののち、空手やボクシングなど、様々な格闘技を研究し、技を身につけたが、他の流派の武術を極めるまでには至っていない。他流派の研究というところ、だろう。
しかし、倉田保昭氏は、三つの異なる武術を完全に身につけている、という点で、リーより、はるかに条件がいい。しかし倉田はリーのように、自分の戦い方というものを、つきつめて完成させようとはしなかった。これは倉田に才能がない、という事ではない。
倉田は自分の戦い方というものを何が何でも完成させようとする必要を感じなかったに過ぎない。そして現代においては、それが普通である。戦国時代ならともかく、現代において、そんな事をむきになって研究する必要などないのである。自分の戦い方を完成させようと思っているリーのような人間の方が変わり者なのである。何のために、そんな事をしなくてはならないのだ。
倉田氏は何より、人格が優れている。氏は、誠実で、人を莫迦にしたりせず、それでいて硬派で、厳しい武道精神を持っている。


型の意味について
真の拳法家は、技が身について実戦で、戦えるようになっても、基本の型の訓練を一生する。これは、真の拳法家は型を訓練する意味を知っているからである。
そして型を訓練する必要性を知っているからである。
ブルース・リーにしても、型を訓練する意味を知っている。
ブルース・リーは、ロサンゼルスのロングビーチ国際空手トーナメントの演武試合で、ハリウッドに目をつけられた。
ブルース・リーは、ハリウッドのアクションスターとしての採用面接テストで、フィンガージャブ、バックフィスト、回し蹴り、をみせた。そして、そのあと、見事な、「鶴の型」と「虎の型」を演じて見せた。リーは、真の拳法家であり、型を訓練する意味を知っているからである。
また、実戦カンフーの具一寿氏にしても、型の訓練の意味を知っている。
もちろん、実戦では、型は全く役にたたない。それなのに、真の拳法家は、型の訓練をするのである。
これは、空手にせよ、拳法にせよ、それを格闘スポーツとしてしている人より、武術家的気質の人の方が型の訓練をするのである。武道を、自分の流派のルールの試合で勝つ事を目的としている人は、古い型の訓練など、熱心にしても技術はあがらない。だから、型を訓練する意味もわからないのである。また、試合で勝つ事を目的としている人は、古い型の訓練などするより、組手で、技の研究をした方が、ずっといい。古い型の訓練など試合では全く役に立たない。
ではなぜ、武術家は、型を訓練するか。
武術は、スポーツと違い、一切のルールがない。敵は一人ではなく、複数であることもある。掴んでくる事もあるし、武器で攻めてくる事もある。武術家は、それに対応しなくてはならない。武術は、一言でいって、護身術であり、その目的は、敵を叩きのめす事ではなく、自分を守る事である。
まず、そもそも型というのは、敵が一人ではなく、複数の敵に取り囲まれた状況を想定して、つくられたものである。
そして敵が手を掴んできたり、棒で、突いてきたりした時に、それをどう、受けて、どう反撃するか、という事を想定して、つくられたものである。
しかしストリートファイトの多くは、一対一、であり、また、ケンカでは、まず、お互い、素手で戦うケースがほとんどである。
しかし、武術家は、武器を持った複数の敵に取り囲まれた事態を想定してしまうから、そのため、型の訓練をしてしまうのである。もちろん、武器をもった複数の敵に取り囲まれた時に、型通りに戦う事などありえない。
下段払いをした時、手を掴まれ、振り払って、鉄槌で反撃する(平安初段)
など、型通りになど戦えるわけがない。
しかし、武術家は、型を訓練していくうちに、その意味と味が、わかってくるので、実戦では、使えない、と、わかっていても、つい、型の訓練をしてしまうのである。
そして、型は、その、個々の動作は、実戦では、役立たないが、全体として見るならば、複数の敵に囲まれた時の精神的な準備として、役に立たないとは、言えないのである。
その実感があるから、武術家は、古式の型の訓練をするのである。
およそ、格闘スポーツマンは、実戦においての、古式の型の意味を考えてしまうから、型は無意味だ、という結論に達してしまうのである。しかし、ある流派の戦い方を極めた者は、その流派の戦い方の意味を理解しているから、そしてその流派の戦い方の技術は、型の中に含まれているから、型の練習をするのである。
およそ、格闘スポーツ家は、精神的にも体力的にも、剛の者が多いが、武術家は、弱者、被害妄想的な傾向の人間が多い。


実戦カンフー具一寿氏の「中国拳法戦闘法」について
氏は、この本で実に多くの手わざ、足わざ、を演じ、解説している。
氏は、実戦派であり、あんなに多くの複雑な手わざ、足技、が、はたして実戦で使えるものだろうか、と、疑問に思う人も多いだろう。
普通に考えてみても、実戦では、キックボクシング的であり、パンチと回し蹴りくらい、になるだろう。これは、氏においても、そうなるだろう。
では、なぜ、まず、実戦では、使わないし、使えない、ような、技まで、全部、解説するかというと。
これは、空手を考えてみれば、わかるだろう。空手も、実に多くの手わざ、足技がある。
手わざでは、手刀。鉄槌。抜き手。裏拳。これらは、はたして実戦で使うだろうか。
足技では、横蹴りは、実戦で使うだろうか。
しかし、空手家で横蹴りの訓練をしない者はないだろう。
実戦の戦いは、当然の事ながら、相手と向き合って戦う。
だから、蹴りでは、前蹴り、回し蹴り、が、ほとんどになる。
横蹴りは、敵に対して体を横にするので、スキができ、動作も、読まれてしまうので、まず、使わない。しかし空手家は、横蹴りの訓練をするではないか。
横蹴りは、空手の蹴りの中で、破壊力のある蹴りなので、試割りなどては、よく使う。
しかし実戦では、回し蹴りが一番多い。

横蹴りにしても、手刀、裏拳にしても、実戦で、使おうと思えば使えるのである。
もし、空手の試合で、裏拳だけで戦え、というルールの試合をつくったら、そういう試合は、ちゃんと成り立つだろう。横蹴りでも、手刀でも、そうである。
空手の試合では、全ての技を認めてしまうから、畢竟、一番、威力があって、使いやすく、スキも出来ない、正拳突き、と、回し蹴り、になっているのに過ぎない。正拳突き、や、回り蹴り、は、相手と向き合った、構えの姿勢から、そのまま出せる。
ちょうど、水泳で自由型はクロールになるのと同じ事である。自由型は、どんな泳ぎ方をしてもいいのだから、平泳ぎ、で、泳いでもいいのだ。しかし、自由型で平泳ぎをするスイマーは、いない。それと同じ理屈である。


もし、横蹴りだけで戦うという練習や試合をしたら、実戦でも横蹴りを使えるようになりうるだろう。技は使わねば、どんどん使えなくなり、逆に、意識して使っていれば、使えるようになる。テコンドーでは、極度に蹴りが発達しているではないか。また、本人の意識も関係している。ブルース・リャンは、足技に対する、こだわりがあったからこそ、ああまで足技が熟達したのだ。


三年殺し、について。
これは、梶原一騎の漫画で、有名になって、名前を知ってる人は多いだろう。
空手の秘技で、大山倍達、が、アメリカで使った、とか書かれてあるが、頭部への攻撃によって、はじめは、痛みはないが、一年、二年、三年、とだんだん症状が出てきて、三年後に狂い死ぬ、恐ろしい技だそうだ。そして、よほどの達人なら、その技が出来るらしい。
私は医者であり、医学部では、脳外科も勉強したが、おそらくこれは、硬膜下血腫ではないか、と思われる。これは、頭部の軽微な外傷で、脳の架橋静脈というのが切れて血腫が、でき、受傷後、症状は無いが、年とともに、血腫が拡大していって、徐々に痴呆症状が出てきて、ついには脳ヘルニアから、呼吸停止に至る疾患である。


また、最近は児童虐待が問題になっていて、母親が幼い子の頭をひっぱたいている光景も時に見られる。しかし、ささいな打撃でも脳の架橋静脈というのは、容易に切れて脳出血を起こし、硬膜下血腫が起こるのである。無知な母親は、まさか、頭をひっぱたいたくらいで脳出血が起こりうる、とは、思っていないから、育児のストレスから容易に子供の頭をひっぱたく。非常に危険である。また、武術や、格闘技の試合でも、軽微な打撃で脳の架橋静脈が切れて、硬膜下血腫が起こる事があるのである。武術の試合をする人は、こういう事もある、ということを知っておいてほしいと思う。


ブルース・リー語録は、多くあるが、一つあげておこう。
これは、何も武術家だけではなく、全ての人に言える当たり前のことである。
「Martial Artist have to take responsibility for himself and face the cosequences of his own doings 」
(武術家は自分のとった行動の責任をとり、自分のおこなった行為の全ての結末を直視しなくてはならない)

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大阪桐蔭高校野球部の敗因

2019-08-02 23:03:05 | 武道・スポーツ
大阪桐蔭野球部の敗因。

それは、もちろん、西谷浩一監督の、あの、出っ腹、である。

自分が、だらけ切った、だらしない生活をしていて、部員に、厳しく指導することなど出来ない。

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郵便事業の民営化は国鉄の民営化と全く同じ

2019-08-01 12:26:48 | 政治
郵便事業の民営化は国鉄の民営化と全く同じ。

かんぽ、は、小泉純一郎の、郵政民営化による。

国鉄のJR化は、中曽根康弘による。

職員に対し、やっているパワハラは全く同じ。

JR福知山線の脱線事故は、国鉄の民営化によって起こった。

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専門分化(分業)は人をバカにする(アダム=スミス)

2019-08-01 02:56:23 | 考察文
専門分化(分業)は、社会を豊かにする。

同時に、

専門分化(分業)は、人をバカにする。

(アダム=スミス)

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