小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

鳥居みゆき

2008-06-27 03:07:44 | Weblog
鳥居みゆき、を知った。こんな素晴らしい感性の人がいたとは。彼女のエネルギーの源は、孤独な人間が愛を求める絶叫ではなかろうか。彼女が、裸足なのも、熊のぬいぐるみを持っているのも、必然からだ。彼女のパフォーマンスは、誰のまね手でもない。見事な自己実現と自己表現。それは、かわいい顔立ちの子が、ハチャメチャなコントをしているアンバランスの魅力以上のものだ。ベルクソン、バタイユなどの、笑いの哲学の体現者。

彼女の、ことさらなハチャメチャなパフォーマンスは、彼女の社会に対するレジスタンスのようにも見えてしまう。少なくとも、彼女は、社会と和解できる感性ではなかった。彼女は、社会の中で離れ小島だった。彼女が自分の意志で、ああいう滅裂なパフォーマンスをしている、というより、社会こそが彼女に、ああいうハチャメチャなパフォーマンスをさせている、ようにも見えてしまう。「私の滅裂な姿こそが実は、あなた方なのよ」というような主張、あるいは、「こういう事をすれば、あなた方は、笑うでしょ」、「あなた方はこういうのを見たいでしょ」というような主張があるようにも見えてしまう。目糞鼻糞を笑う、の主張が、多少なりとも、あるように見えてしまう。だが彼女には、いかなる意図もないだろう。なぜなら彼女は誰をも傷つけようとしていないから。
また彼女にとって社会とつながりを持つには、ああいう方法しかなかったのだろう。彼女は奇を衒ってもいない。ウケをねらってもいない。孤独な彼女が、社会とつながりを持ちたくて、彼女は自然体で、あのハチャメチャをしているに過ぎない。

ここで、思い出すのは、自殺した漫画家の山田花子さんである。彼女も社会と和解できない感性だった。しかし山田花子さんの場合、要領が悪く、いじめられた。そのため彼女は、社会に対して激しい憎しみを持っていた。
鳥居みゆきさんも、山田花子さんに似た面がある。しかし、鳥居みゆきさんの場合、社会に対する憎しみという感情は起こらなかった。彼女は、水のような感性である。彼女にはエンターテイメントの感性があり、自分をおとしめてまで人を笑わせようとする、かなしく美しい道化師の感性がある。また、自分を、社会を反映する鏡にしようとする風刺もあるように見えてしまう。しかし、それは無いだろう。一見、無考えの支離滅裂のように見えるが、彼女にしてみれば、すべて必然の行動だ。孤独な魂が、愛を求めている、のか、あるいは、自分の存在を主張しているのだ。自虐性の激しさは自分の存在の主張の欲求の激しさ、なのかもしれない。
彼女の趣味に、瞑想とか、般若心教とか、書かれてあったが、彼女は水のような感性なのだ。水をつかむことは出来ない。

水のような人とは、水の上に文字を書いても、流れて形にならないように、他人の悪口や不快な言葉を聞いても、少しも心に跡を留めることもなく、温和な気の満ちている人のことをいう。

第二の人は、その性格がわかりにくく、静かにへりくだって、ものごとに注意深く、欲を忍ぶ人である。
第三の人は、その性質が全くわかりにくく、自分の煩悩を滅ぼし尽くした人のことである。
(カンダラカ教、パーリ)

世間では、ウケるために演じているんだろう、という目で彼女を見ているのではないかと思う。もし全くの演技なら、障害者に対して、少し失礼なパフォーマンスである。
私は全く逆である。彼女は、精神科にかかったことがあるのだろうか、と疑問に思っている。精神科にかかっても、全く不思議ではない。入院しなくてはならないほどではないが。彼女はベンゾジアゼピン系の抗不安薬をのんでいるのだろうか。
彼女に、統合失調症気質や、被害妄想的なものは間違いなくある。彼女のハチャメチャなパフォーマンスは、不安をなくすための回避行動のようにも見える。
だが、「もし、病気が価値ある芸術を産み出すなら、それは、いい病気」
彼女が今後、陰性症状にならないことを祈るだけである。

ある人が、その人格ではなく、一つの属性、その人の人格とは関係のない属性、を愛されただけなら・・・
その属性がなくなったら、人は見向きもしなくなるだろう。
それが愛と呼べるだろうか。
たとえば、ある野球選手が、何かの事故で野球ができなくなったら、世間はその人を愛し続けるだろうか。世間は、その人そのものを愛していたのではなく、その人の野球の技術を愛していたに過ぎない。
け、があるから、はれ、がある。ということの主張。
社会とつながりを持てない人間が社会とつながりを持つための最終手段。