小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

クリスマスツリー

2010-09-30 21:06:54 | Weblog
とうとうスーパーで、クリスマスツリーを売るようになった。来年のカレンダーも書店で売り始めている。二週間ちょっと前は、真夏の太陽のさす屋外プールを開いていたというのに。今年は春夏秋冬ではなく、秋がなく、春夏冬なのか。まあ、10月に暖かくなるかもしれないから、そうなったら今年は10月の一ヶ月だけの秋ということになる。

10月からタバコが値上がりする。ので、注文が殺到している。では、この手を景気対策として使ってみてはどうか。つまり、ある商品が値上がりする、と政府がマスコミにデマを流させる。すると、消費者は、その商品を焦って買いだめする。そのくらいの事しないと、消費者の財布を開かせることは出来ないぞ。

仙谷官房長官

2010-09-28 17:09:28 | Weblog
仙谷官房長官は東大法学部に入学して、在学中に司法試験に合格した。学生運動にも参加した。しかし東大は卒業せず、中退してしまった。なぜ、東大を中退してしまったのかは、正確な理由はわからない。しかし、察するに、在学中に司法試験を勉強していたのだから、司法試験の勉強量は並大抵ではないから、大学の単位取得を疎かにして、司法試験に没頭してしまったのかとも思う。実際、司法試験を通ってすぐに弁護士活動活動を開始している。あるいは、学生運動に参加していたためもあるかもしれない。さらに弁護士になるのが目的だったから、東大卒という、肩書きと、大学を卒業する時間とを比べて、時間の方を優先させたのかもしれない。しかし、それでいいと思う。日本の大学は、入るのが大変であって、入ってしまったら、ほとんど全員、卒業できる。ここが外国の大学と違う所だ。だから、氏の最終学歴の肩書きは、高卒ではなく、東大法学部中退であり、この肩書きは、日本の社会で非常に有利である。し、実際、企業では、東大法学部中退の、肩書きに、一目どころか五目、置く。

しかし仙谷氏は、野党の時は、強気の議員だったが、与党になったら、頼りない感じになってしまった。

だか。世間では、ほとんど知られていないが、本田信一という人がいる。(私の好きな人である)氏は、極度の内向的な性格で、中央大学法学部に入ったが、人付き合いが極度に苦手なため、大学の授業に全く出れなかった。しかし、四年の終わりに近づいた頃、せめて大学だけは出ておかなければと、一念発起し、何と三ヶ月の猛勉強で、大学四年間の単位を全部、取ってしまって、ちゃんと卒業したのだ。すごい。

尖閣諸島

2010-09-28 16:35:15 | Weblog
領土問題で、中国と日本がもめている。このままだとどんどん、日中関係が悪くなる。解決策はない。もうこうなったら、菅直人と温家宝が、天安門広場で中国人の見守る中で、ジャンケンして、決めるしかないと思う。
菅直人が勝ったら、尖閣諸島は、日本の領土。温家宝が勝ったら、尖閣諸島は中国の領土。そうすれば中国国民も納得する。
しかし現実にはジャンケン決着にも中国は応じないだろう。

有島武朗

2010-09-26 22:41:44 | Weblog
有島武朗の「生まれいづる悩み」は、画家を目指す漁師の話である。要するに、画家(芸術家)として認められ、それが職業にまでなるのは大変、困難である、ということを感動的に書いている話である。感動的なラストだが、現実は、かなりズッコケである。画家を目指す漁師は、漁師として働きながら、絵も描きつづけた。彼の絵画もしっかりと残り保存されているが、それは、有島武朗が名作、「生まれいづる悩み」を書いたから、そのモデルに世間が関心を持ったから、という結果である。有島武朗が「生まれいづる悩み」を書かなければ、漁師の絵画は世に知られることなく、なくなっていたかもしれない。有島武朗の「生まれいづる悩み」は、いささか事大主義だ。職業と芸術を両立させることは出来るし、両立させた芸術家は数限りない。それに。本当の芸術家というは、世に認められたい、というのが動機ではない。表現したいという止むにやむをえない思いがあるから創作するのだ。世間に認められたいとか、芸術家になることを職業として食べていきたいなどということは、本当の芸術家にとって二の次のことなのだ。

ライナ・マリア・リルケ

2010-09-26 22:40:51 | Weblog
リルケが、詩人を目指す人に送った手紙「若き詩人への手紙」は、手紙であっても、非常に素晴らしい内容である。現実には、若者は詩人にはならず、通俗小説家になった。それを何か残念な事のように世間では見ているらしい。しかし私は全くそうは思わない。通俗小説。おおいに結構ではないか。通俗小説だから価値がなく、詩は文学的に価値がある、というのか。通俗小説だって立派な文学作品である。全体のストーリーが俗っぽくても、小説というものは、文章の端々に、自分の思想を埋め込むことが出来るし、また埋め込まれてしまうものである。大切なことは、詩とか通俗小説とかの区別ではなく、「筆を折らない」ということだと思う。筆を折らない人間こそ本当の表現者であると私は思う。若者は本当の表現者だったのだ。

私の中の紳士と野蛮人

2010-09-26 19:54:54 | Weblog
人間、本音で生きなきゃ面白くないと思う。私がホームページに出してる小説では、主人公や、登場人物は、やさしく、おとなしく、気が小さい。主人公や登場人物には、私の性格が、(完全に同じではないが)幾分かはどうしても入ってしまう。しかし、ブログでは、かなり荒っぽい言葉づかいで書いているなー、と自分でも思う。小説では、私は、私の求める理想を表現しようと思ってるから、私は、きたない言葉づかいが嫌いだから作品は穏健なものになっている。しかしブログは小説ではない。芸術ではない。だから、ブログでは、きたない言葉づかいになっても、本音で、本音を書いている。(なかには、ちょっとわざとワルぶっている時もあるだろう。私はまだ高校生の偽悪から脱皮できていない所がある)ブログでも紳士的な、言い方、書き方をした方が、世間に穏当な善人と思われて得になるのかもしれない。しかし私はそういうケチくさい偽善が大嫌いである。だから、ブログでは、きたない言葉づかいになっていることも多い。しかし、私は人間は本音で生きなきゃ面白くないと確固として思ってる。ウソの発言や人生など贋物の人生だと思う。
私の中には、間違いなく、紳士と野蛮人が同居している。ブログでは野蛮人の私で書いている。だから言葉がきたなくなるのだ。しかし、小説では、私の感性を正直に出し切って書いている。だから、きたない言葉づかいを出さない小説も私の本音だし、きたない言葉づかいで書いている、このブログも、両方とも、私の本音である。
私の心には確かに野蛮人と紳士が同居している。私は、そういう性格を持って生まれついてきたのだから、その両方をあらわす事が、人をだまさない誠実さだと思っている。私は小説は、「自分を知るために書いている面がある」と思っているが、やはり、自分の感性を出し切って小説を書いても、また、それを、読み直してみても、やはりどうしても自分を知ることは出来ない。むしろ私のブログなり、小説を読んでくれる人の方が私という人間を、私以上に理解していると思う。表現者は、自分を知るために表現しようと思っても、結局は自分で自分を知ることは出来ず、自分を知るためには読者の判断にゆだねるしか方法がないのだ。

前田恒彦は、まだ、「故意ではなく、過失だ」と粘っているようだが、それが一般の人の感覚の平均なのだろうか。私だったら本心を言う。どんなに重い罪になり、どんなに恥を世間にさらしても。なぜって、ウソをつき通し、人をだまし抜いた人生なんて何の価値もないと思うからである。自分がきたない人間なら、きたない人間である自分を私は表現したい。

またブログのランキングに入る

2010-09-26 07:31:38 | Weblog
昨日、9月25日(土)のアクセス数

159IP。397PV。

8465位。1470838ブログ中。

見て下さってありがとうございます。

官能作家弟子入り奇譚

2010-09-25 22:22:30 | Weblog
ホームページのトップからリンクしてあった団鬼六先生の「鬼の後継者」のサイトがいつのまにか、なくなってしまったので、それに載せてあった、拙作「官能作家弟子入り奇譚」が消えてしまいました。ので、拙作「官能作家弟子入り奇譚」を私のホームページの中「浅野浩二のHPの目次」http://www5f.biglobe.ne.jp/~asanokouji/mokuji.htm
に移しました。よろしかったらご覧下さい。

これは団鬼六先生が横浜の豪邸に住んでいた時(平成元年頃)に、団鬼六先生に弟子入りした国枝久美子さんをヒントにして、全くフィクションの小説にしてみたものです。

またブログのランキングに入る

2010-09-25 06:12:35 | Weblog
またブログのランキングに入る。

昨日9月24日(金)のアクセス数。

195IP。543PV。

5962位。1470467ブログ中。

見て下さってありがとうございます。

インピンジメント症候群

2010-09-24 22:16:26 | Weblog
肘を強く伸ばすとき、ほんの少し痛いので、テニスのし過ぎによるテニス肘かと思って、整形外科に行ったら、impingement injury(衝突外傷)と言われた。Yahooで、「衝突外傷」と検索したら、行った整形外科の衝突外傷のテーピングが、真っ先に出てきた。衝突外傷は、一般には、「インピンジメント症候群」といわれている。ここの整形外科の先生は、口は悪いが、診断能力は凄いのだ。一瞬で正しい診断をしてしまう。私がゴチャゴチャ言うので、先生は私をウザッたく思っていて、私も先生が、あんまり丁寧に説明してくれないので、あまり好きではないのだが、整形外科では、ここの先生が一番、信頼できるので、仕方なく行っている。

今日は、猛暑が一気に止んだので、久しぶりにテニスをした。暑くなければ、テニスは疲れないので出来る。

テニスの後のポカリスエットが美味い。アイスクリームも。スポーツの後の爽快感は、不健全な精神を吹き飛ばす。この爽快感は、スポーツをしない人にはわからないだろう。

前田恒彦2

2010-09-24 14:30:36 | Weblog
前田恒彦が、とうとう「故意」にフロッピーを書き換えたことを認めた。氏は、フロッピーを改ざんした、などという、とんでもないことをしてしまったことに気が動転し、同僚検事に、そのことを告げて相談したのだろう。そして、前田自身、上司にも報告し、それがトップにまで伝わった。

こうなると悪いのは、まず前田恒彦であることが証明されたが、前田の「故意の書き換え」という報告を「過失の書き換え」と言い換えて、上司に報告した検事が悪いということになる。伝言ゲームで、伝言を言い換えた人間に重い責任がある。
しかし。そもそも、前田恒彦が、同僚検事や上司に、「故意に書き換えた」などと正直に報告したとは、まず考えられない。おそらく、保身から、「誤って書き換えてしまった」と報告したと私は推測する。

さて。つづいて。前田恒彦から、「誤って書き換えてしまった」と報告を受けた上司は、前田の、「過失で書き換えてしまった」という言い分を素直に信じたとは、私には、とうてい思えない。上司も、前田が、検察のストーリーに合うように、故意に書き換えたと、うすうす、どころか、十分に感づいていた可能性がある。つまり、誰がどういう風に伝えたか、ではなく、報告を受けた検察官のなかには、主任検事の前田恒彦が、故意に書き換えたと感づいていた検事もいた可能性もある。だから、これは、前田一人ではなく検察組織の隠蔽の可能性がある。

ただ、前田から始まる上司への伝言ゲームで、誰がどのような言い方をしたのかについては、わかっていない。必死で狡猾に頭を絞って、過失で書き換えたことがもっともらしく、思われるような報告になっていた可能性もある。だから、検察の上が、前田が過失で書き換えたと、とらえた可能性も否定は出来ない。

さらに。難しいのは。検察の上層部は、「過失で書き換えられた」というように報告された可能性が極めて強い。だから取調べを受けている検察官は、「過失と報告されたから問題ないと判断した」と言っているのだろう。しかし、なかには、報告を鵜呑みに信ぜず、「故意」であるかもしれないと思っていた検察官もいた可能性はあるだろう。なら検察の組織ぐるみの隠蔽である。しかし、これは、人間の心の中にしか証拠がないから、それを証明するのは、極めて困難だろう。
と私は推測する。

前田恒彦

2010-09-24 09:28:37 | Weblog
前田恒彦は、フロッピーを改ざんしたのは、「故意ではなく、過失である」と供述している。氏は、わざわざ自分のパソコンを検察に持ち込んで、改ざんした。
まず、わざわざ自分のパソコンを検察に持ち込んで、フロッピーを見ようとした行為自体が、間違いなく過失ではなく故意である。これは断定していい。
では、次に。氏は、フロッピーを改ざんしたのは、「故意ではなく、過失である」と主張している点。ではなぜ氏は、フロッピーをいじくったのか。その「動機」は何か。この「動機」を徹底的に追求するべきだ。ましてや、何日か前から、自分のパソコンを検察に持ち込んで、フロッピーを見ようとしいてたのだから、(というよりフロッピーは自分のパソコンでしか見れなかった)のだから、よほど、強い何かの「意図」があったのは明らかである。この「意図」「動機」を徹底的に追求すべきだ。
氏は、フロッピーを改ざんした後、(故意か過失かは決め付けない)、同僚検事に「FDに時限爆弾を仕掛けた」と話した。氏は、同僚検事に、「FDに時限爆弾を仕掛けた」と伝えたが、伝えたのは、その一言だけではないはずである。もっと、具体的に色々な事を話し、二人で色々と話し合ったはずだ。「FDに時限爆弾を仕掛けた」の一言では、同僚検事は何のことだか、さっぱりわかるはずがないではないか。ここの二人のやりとりを徹底的に追求すべきだ。同僚検事は、公判担当検事に、そのことを相談するため伝えている。そして公判担当検事は、佐賀副部長に、発表すべきだ、と伝えている。この事実から、ことの重大性を三人とも認識しているのは明らかである。

では、「FDに時限爆弾を仕掛けた」の意味は何か。
私はこう推測する。
前田恒彦は、事件を検察のストーリーに合うようにでっちあげるために、故意にフロッピーを改ざんした。それで、ばれないと思った。しかし、色々と考えていくうちに、ばれる可能性があると気づいた。もし、村木厚子さんの弁護士側がそれに気づいてしまったら、大変なことになる。そのため前田恒彦は動揺した。一体、どうしたらいいか相談するために、同僚検事に、フロッピーを改ざんしてしまった事を相談した。
つまり、もし万一、村木厚子さんの弁護士側がフロッピーを改ざんした事に気づいてしまったら、大変なことになる。自分の身の破滅になる。
つまり、「FDに時限爆弾を仕掛けた」の意味は、「自分はとほうもない事をしてしまった。もしばれたら、自分の身の破滅になる爆弾をFDにしかけてしまった」ということだろう。「時限爆弾」という言い方だから、いつか、ばれてしまうだろうという確信を強く抱いていたのだろう。
と私は推測する。

チャック・ノリス

2010-09-23 20:48:38 | Weblog
映画「ドラゴンへの道」のラストは何万回、見たことか。そして、これからも死ぬまで見つづけるだろう。ブルース・リーに片手、片足をへし折られ、もう勝ち目が全くないとわかっているのに、それでも戦うことをやめない。あのシーンほど私を勇気づけてくれるものはない。私は「ドラゴンへの道」ではブルース・リーよりチャック・ノリスの方が好きである。

地獄の大学生活を乗り切れたのも、何度も死を覚悟しながらも死を乗り切れて、今、生きているのも、あの映画のおかげである。

なにも、チャック・ノリスの映画だけではない。梶原一騎の漫画の主人公、全ては、私の座右の書である。あの主人公達の、不屈の精神、勝ち目がないとわかっていても戦う特攻精神。私も彼らのような不屈の精神で行き抜くぞ。

昔は死ぬことが勇気だった。
今は生きることが勇気である。

トレーニング

2010-09-23 20:27:42 | Weblog
市民体育館のトレーニングジムに行って、三時間トレーニングする。筋肉マンになるためではない。過敏性腸症候群で便秘がひどく、腹筋、背筋を鍛えなくては排便できないからである。また絶対、老いたくないからである。トレーニングは単調でつまらないが、だんだん慣れてきた。二時間とか、三時間とか時間を決めて、やれば、いいのである。暑いとテニスは出来ない。今年の夏は、もっと泳いでおけばよかった。トレーニングも、ある程度は体に貯金が出来る。寒くなってきたらテニスでうんと足腰を鍛えるぞ。まず生きることだ。

押尾学7

2010-09-23 19:24:30 | Weblog
「不利なことまで供述したつもり。全く信用できないと言われ、納得できない」と不満を口にした。時事通信(9月17日)

押尾学は完全な白痴である。裁判というものが全然わかっていない。そもそも被告は、裁判のはじめに、「真実のみ述べます。いかなる虚偽をもつけ加えず、また、全てを正直に隠さず述べます」と宣誓したはずた。だから、不利なことでも真実を述べるのは、そもそも当たり前である。

氏の「不利なこと」とは、「ウソをついた」との供述だろうが、それは、二つのウソの辻褄を合わせることが出来なくなって、(ようするにウソをつき通せなくなって)根負けして、仕方なく、「ウソをついた」と述べたのに過ぎない。
「不利なことまで供述した」動機は、誠実さ、ではなく、二つのウソの辻褄を合わせることが出来なくなったからである。それがまず第一のアホ。

第二のアホは。そもそも裁判では、「真実以外の何らの虚偽もつけ加えず、また、いかなる真実も隠蔽しない」と誓ったはずで、そうするのが当たり前なのである。もっとも、現実の裁判では、被告の弁護士が、被告と相談し、必死になって、隠せる不利なものは隠そうとして、少しでも判決が軽くなるようにと、必死になる。しかしそういう態度は、本来のあるべき態度ではない。

本来の裁判のあるべき態度は、「判決が有利になるように」などという下心を持たないことである。

押尾学は、裁判において、被告は、「判決が有利になるように」という態度を持っていて当然、とか、それが被告の当然の権利、などと思っているのだろう。

そもそも、「不利なことまで供述したつもり。全く信用できないと言われ、納得できない」などという自分の気持ちを公に平然と言う感覚からして、裁判というものが全然、わかっていない。