小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

片瀬西浜

2014-08-31 03:36:43 | Weblog
昨日、片瀬西浜へ行った。ちょっとしたことがヒントになって小説を思いついた。

小説は、大きな感動的なことが、起こらなくても、絶えず、小説のネタを探す、という視点で世の中を見ていれば、思いつくことが、結構ある。

マンネリ化した日常の生活からは、小説のヒントは生まれにくい。

小説を、いくら読んでも、自分の気質と異なるものは、書けるものではない。

プロ野球は怪我をしない方が幸運なスポーツである

2014-08-29 23:51:03 | Weblog
プロ野球の怪我は、何もデッドボールだけで起こるものではない。

プロ野球は変則的なスポーツである。ピッチャー以外は、バッティングの技術の評価が、ほとんど全てである。守備の技術の評価も、ないことはないが、守備は、出来て当たり前、という感はある。
ほとんどのスポーツは、そのスポーツに合った体型、筋肉になる。ボクシングなら、引き締まった無駄のない柔軟な筋肉。フルマラソンなら、脂肪のない痩せた体格。スピードスケートなら、太い太腿。男子体操なら太い上腕。(力技があるから)と、そのスポーツに合った独特の体型になる。逆に言うなら、その人の体格を見れば、ある程度、どのようなスポーツをやっているか、推測できる。
野球も、バッティングだけ、というスポーツなら問題はない。ホームランバッターには、体格が大きく、体重があった方が、圧倒的に有利である。これは、砲丸投げ、円盤投げ、槍なげ、の選手が、体格が大きく、体重があった方が、有利なのと同じ理屈である。
格闘技においては、体格の大きさ、筋肉の多さ、体重の多さでは、多い方が、有利なのは、言うまでもない。脂肪も、体重の一部として、ないより、適度に、あった方が、有利である。(また格闘技においては、脂肪は、蹴られた時、相手の打撃を吸収してしまうクッションとなる、という面もあるが)
野球のバッティングでは、体格の大きさ、体重の重さ(適度な脂肪をも含む)が、あった方が、長打を打つのに有利な体格である。だから、野球では。バッティングだけ、というスポーツなら、問題はないのである。しかし、野球では、言うまでもなく、ヒットだろうが、ゴロになろうが、フライになろうが、要するにボールが当たったら、全力で一塁、(ヒットの場合は、二塁、三塁)まで全力で走らねば、ならない。守備でも、守備の時だけ、身軽な体型になる、ということは、出来ないから、重い体で全力で走らねばならない。のである。重い体で、全力で走れば、当然、膝に負担がかかる。(特に40歳、前後の選手の場合)なので変形性膝関節症になりやすい。走る時だけ、短距離ランナーの体格になることは出来ない。だから。打つための、筋肉で体を作っておいて、打った後、その体で、全速力で走ることを強いられるのだから、肉離れ、や、捻挫など、怪我をしやすいのは、当然のことである。

宿題代行業

2014-08-26 02:37:18 | Weblog
尾木ママ“宿題代行業”は「れっきとした『詐欺罪』!!」

夏休みが終わりに近づいた27日、教育評論家の尾木ママこと尾木直樹氏が、世間で大繁盛しているという「宿題代行業」に対して「詐欺罪だ」と攻撃した。小中学生の宿題を代行する宿題代行業は読書感想文から絵画、工作などを代行して制作するもので、ネット上では読書感想文1枚3000円とか、絵画1枚4000円などの代金も表示されている。こんなビジネスに対して尾木ママは27日、ブログで「犯罪に近いですね…一種の いや れっきとした『詐欺罪』です!!」と断じた。単に子どもが学力を養う機会を損なうというだけではなく「子どもに お金でなんでもできるという歪んだ価値観教えることになります」という教育上の重大な問題点を指摘。「こういう闇悪徳業者は追放するべきです」と断罪した。

(デイリースポーツ 8月27日(水)10時45分配信)

社名が露骨すぎる。「宿題代行業」ではなく、「宿題個別指導」とか、「宿題全面協力」とかに、すべきだ。

他人にやってもらうと、後で苦労するぞ。しかし私は、「宿題代行」が完全に悪いとは、必ずしも思わない。他人にやってもらった宿題を、しっかり自分で見て、「ああ。なるほど」と勉強が理解できれば、いいのである。それも勉強方法の一つである。他人に、やってもらった答案を見もしなかったり、見ても理解できないのであれば、それは、もちろん悪いことだが。

そもそも、宿題は、お父さん、が代行すべきもので、お父さん、の学力低下が、なげかわしい。

高校生レベルの、世界史。日本史。地理B。政治、経済。生物。化学。物理。数学。英語。現代国語。古文。漢文。は、私のド頭の中に入っているので、教科書も参考書も、なくても、教えられるぞ。

世の人々は余が倶に麦酒の杯をも挙げず、球突きの棒をも取らぬを、かたくななる心と慾を制する力とに帰して、且かつは嘲り且は嫉みたりけん。されどこは余を知らねばなり。嗚呼、此故よしは、我身だに知らざりしを、怎でか人に知らるべき。わが心はかの合歓といふ木の葉に似て、物触れば縮みて避けんとす。我心は処女に似たり。余が幼き頃より長者の教を守りて、学の道をたどりしは、皆な勇気ありて能くしたるにあらず、耐忍勉強の力と見えしも、皆な自ら欺き、人をさへ欺きつるにて、人のたどらせたる道を、唯一条にたどりしのみ。余所に心の乱れざりしは、外物を棄てゝ顧みぬ程の勇気ありしにあらず、唯外物に恐れて自らわが手足を縛せしのみ。

甲子園 決勝

2014-08-25 14:24:07 | Weblog
大阪桐蔭が勝ってしまった。残念である。三重が勝つことを、祈るように、見ていた。

正確に言うと、大阪桐蔭が負けることを、祈っていた、ということである。

強豪校は嫌いである。アンチ巨人なのと同じである。

学生の頃は、高校野球が終わると、夏休みも、夏も、終わりだな、という観があった。今でも、それは、変わりないが。

しかし大阪桐蔭の監督の出っ腹。あれは一体、何だ?確かに、監督は、自分はやらなくいいが。食いたい物を、たらふく食い放題。運動など全くしない。そんな、だらしのない根性で、生徒たちを叱れるのだろうか。その根性が、なっとらん。

キャッチボール

2014-08-25 02:31:08 | Weblog
打つ技術は、バッティングセンターで、ある程度、身につけられる。バッティングセンターのボールは、テニスのオートテニスとは違う。オートテニスは、死んだボールだが、ピッチングマシンの練習は、死んだ球、とは、言い切れない。もちろん、生きた球(生きた人間が投げる球)は、インコースもあれば、アウトコースもあり、変化球もあり、ピッチャーのモーションのタイミングの取り方、ストライク、ボール、スピードの速い球、遅い球、があり、要するに、何が来るかわからない。バッティングセンターで打てるからといって、生きた球が、打てるようになるわけではない。ただ、腰の回転や、体重移動など、バッティングフォームの基本を身につけるのには、効果がある。

しかし。バッティングセンターに転がっている、ボールを、いくら投げても、投げる技術は、なかなか身につかない。投げる技術を身につけるには、キャッチボールをしなくては、ならない。キャッチボールでは、相手が、取りやすいように、という意識が、働くから、いやでもコントロールや、スピードの調節を意識して、投げるからだ。

壁に向かって投げるのも、投げる練習には、違いない。しかし、その上達効果は、非常に少ない。
戦力外通告された投手が、壁に投げて、練習する人がいるだろうか?
プロでも、アマでも、投手の投球の練習では、取ってくれるキャッチャーの存在が必要である。キャッチャーが構えるミット、キャッチャーが、受け取った時のズシンという、自分が投げた感触、手ごたえ。相手を意識した、緊張感のある生きた感覚。それらの精神的な要素が、生きたボールとなるのである。

壁に向かって、投げる球は、いわば、死んだボールと、言える。

テニスでも、サービスの練習は、一人で出来る練習だが、壁に向かって、打つのと、コートの中で一人で打つのとでは、全然、違う。もちろんコートの方が、生きたサービスの練習である。さらに、コートでも、一人で、打つのと、レシーバーが、いるのとでは、精神的な緊張感が、全然、違ってくる。サービスで、一人で、コートの中に、どんなに、入れられるようになっても、レシーバーがいると、緊張して、一人練習の通りには、打てない。

政治家の公と私

2014-08-23 23:36:18 | Weblog
あらゆる国家権力、および権力的なものを批判している私だか。

政治家は、政治家や政党という立場においては、権力欲や、党の利害で行動していて、狡猾な人間に見えてしまうが、政治家という、職業を離れて、個人となると、人間として、親切であったり、やさしかったりする。ことは、多い。

権力者になると、狡猾になる、というのは、権力的職業の宿命である面がある。

「権力は腐敗する。専制的権力は徹底的に腐敗する」

(ジョン・アクトン)

May.J

2014-08-21 07:33:25 | Weblog
アナと雪の女王、の歌を歌っている、May.Jさんは魅力的。

夏の甲子園

2014-08-19 23:50:58 | Weblog
今年は、甲子園大会を、ほとんど見ていない。まあ、ニュースで試合の結果を見るくらいである。

超スローボールは、有効である。なぜ、もっとプロの選手が使わないのだろうか。

勝ったり、負けたりして、泣く心理がわからない。

八戸学院光星の、女子マネージャーの、鈴木和奏(わかな)さん、が、可愛い。なので、八戸学院光星を応援することにした。

勉強の仕方

2014-08-17 23:12:56 | Weblog
少し大きな書店に、東大法学部首席卒業の弁護士の、書いた勉強の仕方の本があった。女(山口真由さん)である。以前、クイズの頭脳王に、出ていた人だろう。

私は、超秀才の勉強法、などの本には、興味がない。(まあ、参考に一読してみて悪いものではないが)

超秀才は、先天的に、記憶を司る、脳の海馬、が非常に発達しているケースが多いと思う。「源氏物語」を書いた紫式部も、先天的に、記憶力が、物凄く良かったのだろう。

人間の、記憶力も、顔や性格と同様、その能力の程度は、先天的に、決まってしまっている面がある。そういう超秀才の勉強を、そのまま真似ても、鵜の真似をする烏、になるだけである。

自分の能力、自分の特性というものを、しっかり見極め、自分に合った勉強法を、模索することが大切なのである。

私は、多くの人がやっているような、教科書や、参考書に、赤、青、黄色の、ラインマーカーを引く、という勉強法は、とても出来ない。なぜなら、教科書や参考書は、繰り返し読む、ものだが、最初に、重要だと思った所が、二回目には、わかりきったこと、となり、そうなると、教科書が、ぐちゃぐちゃになってしまう、からである。

それと私は、「ゴロ合わせ」で、覚えるというも、全く性に合わない。もちろん、覚えやすいゴロは使う。鎌倉時代の始まりの1192年の、「いい国つくろう」などは、意味があって覚えやすい。しかし私は、たいてい自分独自の、短いゴロを、ちょこっと考えるか、あるいは、ゴロなど考えないで、繰り返して、覚える。それが私にとって、いい勉強法であるからである。

また私は、全く同じ参考書を二冊買う、ということも、よくやる。し、目次をまず、覚えてしまう、ということもよくする。自分にとっての、合理的な、勉強法というものを、いつも考えている。

それと。東大や医学部の合格体験記、で、よく使われている、いい参考書が書いてあるが、私は、そんなもの、全く無視した。そして、自分が使いやすい、参考書で勉強した。

当たり前のことだが。受験勉強で、大切なのは、いかに、良い(と言われている)参考書をたくさん、使って勉強したか、ではなく、いかに、試験場で、多く得点できるか、が全てなのである。

これは、スポーツや、あらゆる芸事でも言えることで、世には、自分が出来るだけで、指導能力の無いトップアスリートの傀儡になってしまって、いつまでも上達できない人が、結構いる。

私は、受験勉強を、悪いものだとは思わない。

勉強とは、その科目の勉強であると同時に、自分の特性を見極め、自分に合った勉強法を、模索する勉強、でもあるのだ。つまりは、物事の問題解決能力の訓練である。

「武道における知識は、つまるところ自己を知ることなのだ。これに対し、あなたはこう問うかもしれない。(その知識をどうやって獲得するのだ?)と。それは、あなたが、たった一人で見つけなければならないのだ。助けはなく、自ら助ける以外にないのだという事実を受け入れなければならない。自由とは、人間の内側に存在するものであるから、自由を獲得するするすべを教えられないのと同様、自己認識を獲得するすべも教えられない」

(ブルース・リー)

笹井芳樹先生の自殺

2014-08-15 02:25:00 | Weblog
理化学研究所発生・再生科学総合研究センターの笹井芳樹副センター長の笹井芳樹先生が、今月5日に自殺なされた。

私は、京大出、東大出などという学歴の肩書きは、別に何とも思わない。

医学部に入った時の成績と、医学部を卒業する時の成績と、医者になってから、伸びるか、どうかは、全く関係がないのだ。

文科系の場合は、大学に入った後や就職した後では、もう天下御免で、もう全く、勉強しなくなるからだ。官僚のノーパンしゃぶしゃぶ、、がいい例である。本当に向学心のある人は、ほとんどいない。実際、私は、それを大学でも、研修病院でも、民間病院でも、見ている。

しかし笹井芳樹先生のような、スーパーエリートの超秀才で、向学心の強い人を私は尊敬する。

遺書には、マスコミの不当なバッシングに疲れきってしまった、と、書いてあった。

マスコミは、能無しの、バカの極北の、ハイエナ、殺人集団である。

特に、大手新聞社や、大手週刊誌などの、記者クラブの言うことを、そのまま、てめえの低能な頭脳の憶測によって書く、大手の庇護の元にある記者は、バカの吹き溜まり、である。

大権力に、頼っていない、フリーのジャーナリストは、自分で取材するから、有能なジャーナリストが多いが。

新聞や週刊誌は、批判、悪口しか書かない。それは、なぜかというと、「他人の不幸は鴨の味」であり、芥川龍之介の言う、「大衆は醜聞を愛する」からであり、その方が新聞や週刊誌が売れるからである。


今日は終戦の日

2014-08-15 02:14:26 | Weblog
今日は終戦の日である。終戦の詔勅は、とても趣がある文章である。

朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク

朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

抑ゝ帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庶ノ奉公各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ

朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス

朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ

誕生日

2014-08-12 02:30:15 | Weblog
今日は私の誕生日である。

「おとうさん。誕生日おめでとう」
と中学一年の娘が祝ってくれた。娘は永遠に中学一年生である。なぜかというと、実は、私は、大学の研究室で、「人間の成長を止める方法」というのを発明したからである。この実験には苦労した。しかし成長ホルモンを分泌する脳下垂体前葉に、ある薬物をハーディー法で注入すると、人間の成長が止まるのである。もちろん、こんな発明をしても、何の役にも立たない。NATUREに論文を提出したが、
「こんなことをすることに何の意味があるのだ」
と叱られて、論文は、突き返されてしまった。もちろん私の目的は、中学一年生が一番、可愛いからである。しかし、まあ、今の時代、大学を出て100社、面接を受けても、一社も内定が取れないという社会状況である。私は娘を、そんな可哀想な目に合せたくないのである。それで娘に、
「永遠に中学一年生で人生を過ごすことになるけれど、それでもいいか?」
と聞いたら、
「お父さんが、そう望むんだったら、私。それでもいいわ」
と同意してくれたのである。
なお、この効果は第二次性徴が始まる前の幼い年齢でしか現れない。第二次性徴が始まってしまった後では、この方法で人間の成長を止めることは出来なかった。

少女との競泳

2014-08-11 06:46:45 | Weblog
「少女との競泳」

という小説を書きました。

ホームページにアップしましたので、よろしかったらご覧下さい。

ベンブレース・ブレークニーの論理

2014-08-09 21:59:00 | Weblog
東京裁判を、国際法に違反していると、批判し、日本を弁護したアメリカ人弁護人のベンブレース・ブレークニーの論理は、一聞すると、全く正しいように思ってしまう。

事後法の禁止、遡及処罰の禁止、法律不遡及の原則であり、これは、日本では、憲法第39条で規定されている。

しかし物事は柔軟に考えなくてはならない。考えない人間は、簡単に他人の思考に洗脳されてしまうだけである。

罪というものは、その時(行為が行われた時)の法律によって、裁かれなければならない。それは法治国家として当然のことである。

しかしである。その当時の法律が、人間の良心に照らし合わせて見て、間違ったものであったり、欠陥のあるものであったりした場合、それでも、遡及処罰の禁止を、例外なく、お題目のように主張するのが、はたして正しいことだろうか。

もちろん東京裁判は、戦勝国であるアメリカの、法律不遡及の原則を破った、一方的な、裁判であるが。

しかし一般論として考えると、法律不遡及の原則は、絶対、守らねばならない金科玉条ではない。

罪と、それに対する罰というものは、人間の、偽りのない良心によって決められるべきものである。それは、行為の当時とか事後とかの時間とは関係なく、時間を超越した普遍的なものであるべきであるはずである。


SM小説ではなくSN小説

2014-08-09 01:03:27 | Weblog
世間では、SM小説という言葉が、当たり前になっているが。言葉の意味からすると、SM小説という呼び方は間違いである。

サディスト(S)が、マゾヒスト(M)を、いじめても、サディストもマゾヒストも喜ぶだけで、それは双方ともに和解しあい、満足しあった喜びの行為になり、それは、SM小説とは、成り得ない。

SM小説とは、サディスト(S)が、SM的感覚の無い、ノーマル(N)な人間を、いじめることによって、ノーマル(N)な人間が、本気で、おびえ、こわがり、恥ずかしがって、その姿が、サディスト(S)の快感を高める小説なのである。

だから、SM小説というのは、本当は、SN小説なのである。