小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

テニススクールを替える

2010-02-28 22:30:28 | Weblog
テニススクールを替える。テニススクールを替えた。前のテニススクールは、ボレーの練習ばっかりで、あきあきしていた。いくらプロの試合やコーチ同士のダブルスの試合では、平行陣(4人ともボレー)が主だからといって、スクールの生徒にまで平行陣で戦うよう指導するのが当たり前という感覚で、何の疑問も持たないのは、あまりにも思考力がなさ過ぎる。トッププロでもない限り、中級者の場合、ダブルスの戦いは雁行陣(一人が前、一人が後ろ)にして、一人は後ろにいた方が、試合は面白いはずだ。新しいテニススクールでは、練習でグランドストロークを多くやっているので、気持ちいい。御意見番というのがあって、おそらく、生徒が、「もっとグランドストロークの打ち合いを多くして欲しい」とたくさんの人が書いた結果だと確信している。前のテニススクールには、御意見箱など無かった。

聡明

2010-02-27 08:06:01 | Weblog
自由学園では、よく盗み事件が起こった。ある時、クラスの生徒の物が盗まれた。こういう時、学校では、まず、こういう事をしていた。生徒を全員、教室に集める。そして全員に小さな白紙の紙を渡す。そして、「盗んだ人は○を書いて下さい」と言う。そして紙を回収するのである。つまり、まず盗んだ人が、反省の意志があるかどうかを確かめるのである。中三の時だったと思うが、これが私のクラスで行なわれた。この時、紙をちぎって、生徒に配った。そして、紙を集めたら、○の書いてある紙が出てきたのである。これで盗んだ人が反省している事が証明された。そこまではよかった。しかし、その後が悪かった。クラスの秀才が、紙のちぎれ具合から、得意げに○を書いた人を探し出して、犯人を探し当てたのである。彼は探偵きどりか、どうか知らないが、これはバカだなーと思った。確かに、犯人がわかるという事は、非常に大事なことである。しかし、もっとずっと大事なことがある。クラスの秀才はそれが全くわからないのだ。それは、紙を配る前に、これは、犯人を探し出す目的ではなく、犯人に反省の意志があるかどうか、確かめるための調査である、と皆で誓い合ったことである。犯人には、出来れば自発的にクラス委員か担任の先生か、あるいは皆に、自発的に名乗り出て欲しいというのがスタンスだった。それは私も非常に良い手順だと思うし、というより、それが一番いい方法だと思う。犯人も反省しているのなら、傷つけたくない、という配慮からである。犯人をつきとめる事は問題解決に有効である。しかし、その前に、皆で誓い合ったのである。「これは犯人探しではなく、犯人に反省の意志があるかどうか、調べるための調査である」と。皆で一致団結して誓いあった約束を破る。この事の方がずっと悪い事だと思う。意図的ではなかったが、ちぎった紙を配ったため、そのちぎれ具合から犯人を突き止めるなんて事は、たとえ出来ると分かっていても、やるべきではない。そして○を書いたヤツはわかったが、その結果が何ともオソマツだった。彼は通学生で、もう夜も遅い時間になっていたので、早く帰りたいために、犯人でないのに、○を書いたと眠そうな目で言ったのである。真偽のほどは証明できないが、まず彼は犯人ではなく、彼の言っている事は本当だろう。彼は、金持ちで、他人の物を盗む必要などないし、もし本当の犯人の言い訳だったとしたら、もっと焦って、あんな落ち着いた口調で言えるわけはない。さて探偵の秀才は東大理三にも入れるくらいのものすごく頭のいい生徒だった。しかし、こういう物事の道理がわからないのである。それから私は、秀才は必ずしも聡明な人間ではない、と分かったのである。

花粉症SM

2010-02-26 13:51:41 | Weblog
愛子はクラス委員長で秀才である。愛子は花粉症の季節が苦手だった。毎日マスクをしてた。いつも、クシュン、クシュンとつらい思いで授業を受けていた。だが今年は、有難いことに花粉の飛散量が少なかった。ある日の放課後の帰宅途中のことである。同じクラスの団鬼二がぱっと建物の陰から飛び出した。
「あっ。鬼二君」
愛子はニコッと笑った。だが鬼二は、愛子の手をグイとつかむと、ズルズルと愛子を連れて行った。
「お、鬼二君。どこへ連れて行くの?」
「うるせー。黙ってろ」
鬼二は愛子の手をつかんで愛子を、廃屋に連れて入った。そして、椅子に座らせて、後ろ手に椅子に手を結びつけ、足も椅子の脚に縛りつけた。愛子は動けない。
「お、鬼二君。何をするの」
鬼二は、黙って、カバンを開けた。そして、ビニールに包まれたスギの枝を取り出した。鬼二は愛子のマスクを取り外した。
「ふふ。こうするのさ」
そう言って、鬼二は、スギの枝を愛子の顔の前に持っていって、ふー、と枝に息を吹きかけた。
「ああっ。やめて。そんなこと」
愛子は髪を振り乱して叫んだが、鬼二は、やめない。ふふふ、と不敵に笑っている。スギ花粉が愛子の鼻腔や目の結膜に入った。愛子は、クシュン、クシュンと、くしゃみ、鼻水、鼻づまり、に、目は充血して、痒さに何度も、瞬きした。
「や、やめて。鬼二君。なぜ、こんな事をするの?」
愛子は激しく訴えた。鬼二は不敵に笑った。
「ふふ。毎年、この季節は、花粉で苦しむお前の姿を見るのが、俺の楽しみなのさ。美人が、鼻水を垂らして何度もティシュで鼻をかんでいる姿を見るのは最高だからな。俺は、女のみじめな姿を見る事に最高の興奮を感じるんだ。だが今年は花粉の量が少なくて、お前が苦しむ顔が見れなくて、残念に思ってたんだ。どうやら、今年は、お前の苦しむ顔が見られそうもないから、スギ林へ行って、スギを取って来たんだ」
そう言って鬼二は、ふー、と杉の雄花を吹きつけた。
「や、やめて。鬼二君。そんなこと」
玲子は、クシュン、クシュン苦しみながら、鬼二に哀願しつづけた。だが鬼二は、笑いながら、ふー、と杉の雄花を吹きつけつづけた。玲子は、クシュン、クシュン言いながら苦しみつづけた。鼻水がダラダラと制服の上に流れ落ちた。
「ほら。チーしな」
そう言って鬼二は、ティシュペーパーを取り出して愛子の鼻をティシュペーパーで挟んだ。愛子は、チーした。
「こうやってるのは、お前をいじめるため、だけじゃないぞ。お前は、弱っちろい体質だから、花粉症になるんだ。だから、こうやって、花粉に強くなるよう鍛えてやってるんだ。ありがたく思え」
そう言って鬼二は不適に笑った。
「お、鬼二君。それは違うわ。花粉症はアレルギー疾患なの。アレルギー疾患の患者は、IgE抗体が肥満細胞にくっついて感作されてしまっていているの。だから、花粉症の場合は、アレルゲンである花粉に接触しないようにすることが大切なの。アレルゲンに晒されていると、ますます感作されてしまってアレルギーが悪くなるの。この前の生物の授業で、習ったでしょう」
愛子はくしゃみをしながら苦しそうに言った。
「うるせー。そんなの間違いだ」
鬼二は愛子に説教されて怒って、またスギの花粉を愛子に吹きつけた。
「違うわ。あっ。そういえば、この前の生物の授業の時、鬼二君、寝ていたじゃない。ちゃんと聞いてれば、そんな誤解は起こらなかったわ」
愛子は、くしゃみをしながら訴えつづけた。だが鬼二は聞こうとしなかった。


こういう小説を読みたい人は、私のホームページの「愛子と鬼二」を御覧下さい。

閾値

2010-02-25 21:36:15 | Weblog
閾値。整形外科に行ったら、閾値、って何だか知ってるか、と聞かれた。私は知ってる、と答え、英語でthresholdと言った。そしたら、医者が生意気だと怒り出した。しかし私の感覚では、閾値なんてのは、全ての科で大切な基礎知識だと思うのだが。私の感覚では閾値なんて、医者なら知ってて当然だと思っているのだが。他の医者は、どうか知らないが、臨床医を長くやってると基礎医学は、かなり忘れてしまうらしい。医学生なら誰でも知ってると思うが、閾値は、神経生理学の基本である。どんな神経生理学の本にも、閾値の事は、始めの方に書いてある。さて、閾値とは何かといったら、神経や感覚の敏感さ、や、鈍感さ、の事といっていいだろう。老人は、若者には入れないような熱い風呂に入る人もいるが、これは温度感覚が鈍くなっていて、(つまり閾値が高くなって)温度の刺激を高くしないと熱さを感じなくなっているのである。だから、こういう老人で、若者はこらえ性が無いなどと言っているのは、実は、我慢強いのではなく、老化によって自分の感覚が鈍くなっている、ということなのである。あるいは、甘いチョコレートを食べた後は、甘さの感覚が鈍くなっているから、その直後に、甘いお汁粉を飲んでも、甘いとは感じられないのである。閾値では、絶対不応期、相対不応期、全か無かの法則、などが印象が強かった。これは、医学や生物学の刺激に関する事で、どこでも見られる事である。私が神経生理学の閾値で、そっくりだと思ったのは、マスターベーションの生理である。まず、マスターベーションは、まさに、「全か無かの法則」である。そして射精した後、しばらくの時間は、どんな強い刺激(女の裸の写真)を与えても、射精できない。この期間を、絶対不応期、という。そして、絶対不応期が過ぎると、強い刺激(非常にエロティックな女のヌード写真)を加えると、射精を起こす事が出来る。この期間を相対不応期という。一見、ふざけた喩えのようだが、これは紛れもない人間の生理学の現象である。そして、こういう風に、面白い喩えで、その原理を覚えると、一生、忘れない。医学生は、国家試験を通るとパーと忘れてしまう、とよく言われる。しかし、人間は、忘れていいと思った時から忘れるのである。忘れてはならない、という自覚を持っていれば、忘れないのである。私は、理屈っぽい性格なので、薬にしても、その作用機序が分からないと納得できない。臨床医は薬理学もかなり忘れている人がいるようだ。最先端の文献を求める事も大切だが、温故知新も大切だと思うのである。

映画の後ろ回し蹴り

2010-02-21 22:43:01 | Weblog
映画の後ろ回し蹴り。You-Tbeで、うっちゃん、と、なんちゃん、が蹴りの話をしているのがあった。うっちゃん、は、ジャッキーチェンに似ていて、それを売り物にしてか、蹴りもかなり上手い。なんちゃん、がそれを批判した。では、正確な所を述べておこう。まず、日本の空手の型はたくさんあるが、型の中で、蹴りは、前蹴りと横蹴りだけなのである。しかし型の中には無いが、回し蹴りも、空手の蹴りである。しかし後ろ回し蹴りは、空手の原点においてなかったのではないか、と思う。ああいう、回転するダイナミックな蹴りは、テコンドーが得意とする蹴りであり、韓国のテコンドーから日本の空手に入ってきたのだろう。さて、前蹴り、横蹴り、回し蹴り、と後ろ回し蹴りには、大きな違いがある。それは、前蹴り、横蹴り、回し蹴り、では、練習において、蹴った所で止める蹴りであり、そして蹴った後、元の位置に戻す蹴りであるという事である。ムエタイの回し蹴りは、蹴った所で止めず、一回転する回し蹴りである。空手では、手技でも、突いた所で止め、元の位置に戻す。さて、後ろ回し蹴りの場合、蹴った所で止める蹴りではなく、一回転する蹴りである。上手い人の後ろ回し蹴りを見ると、あれを食ったら痛いだろうなー、と思うだろう。しかし、そうではないのである。蹴られても、たいして痛くはないのである。後ろ回し蹴りが出来る人はサンドバッグを蹴ってみればわかる。いかに、空蹴りでは、上手く出来ていても、サンドバッグでは、手ごたえ、というか、蹴りごたえがないか、という事が分かるだろう。前蹴り、横蹴り、回し蹴り、ではそうではない。空蹴りの要領で蹴れば蹴り応えがある。これはどうしてか。
それは。後ろ回し蹴りの空蹴りは、野球の素振りに相当するものである、ということである。あるいは、テニスの素振りでもいい。野球では、素振りと、実際に球を打つバッティングとでは、フォームが違う。つまり大きなエネルギーを持った球を打つということを想定して、スイングに入っているのである。だから空振りすると、振った後で大きくバランスが崩れる。野球やテニスの場合、素振りも、練習には違いないが、たいした効果は無い。素振りだけしていても、上手くはならない。野球では、ピッチャーが投げるボールを打つという、練習をしなくては上手くなれない。しかし、空手では、そこが大きく違うのである。空手の空突き、空蹴り、は、空手の技を身につけるのに非常に有効な練習なのである。というより、空突き、空蹴り、の練習こそが、空手の技術を身につける練習なのである。他に方法は無い。とさえ言える。そして空突き、空蹴り、の練習によって、パンチやキックが上手くなる。後ろ回し蹴りも上手くなる。しかし、いつもの要領でサンドバッグを蹴ってみると、全然、手ごたえが無いのに気づく。なぜだろうと疑問に思ってしまうだろう。これは、素振りの要領で、サンドバッグを蹴っているからである。実際に、物を蹴る時には、それを意識して、蹴り方を、いつものような空蹴りとは変えなくてはならない。そして、それはそんなに難しい事ではない。空蹴りは、決して無駄な練習ではない。まず上体を回転させ、その力を足の力に移すという、後ろ回し蹴りの、蹴りの原理は同じであり、いつも空蹴りで、その練習をしているのだから。基本の原理が身についているから、ちょっと意識して、サンドバッグを蹴ろうと意識して、蹴り方を変えれば、サンドバッグでも蹴り応えのある蹴りをする事は出来る。映画で、ブルース・リーとかがやっている後ろ回し蹴りは、素振りの後ろ回し蹴りである。だから、あの蹴りが相手に当たったとしても相手はさほど痛くない。しかし、ここで一つの野球との違いが出てくる。それは、野球やテニスでは、素振りを見ても格好いいとは見えないし、見ていても面白くないが、後ろ回し蹴りの場合は、素振りが格好よく見えるという事である。野球やテニスでは、実際にボールを打つスイングが美しく見えるのであるが。後ろ回し蹴りの場合は、実際に相手を蹴るシーンよりも、素振りで、蹴っているように見せかける蹴りの方が美しく見えるのである。そこは本当の武術家の映画スターといえども、実戦と映画とでは、使い分ける。ブルース・リャンとかの場合は、特にこれが、はっきりしている。蹴りを出来るだけダイナミックに見せるために、足を相手の顔の前で伸ばしきっている。しかし、それが実際に蹴っているように見えるのである。それは、蹴られる悪役が、相手の蹴りに合わせて、さも蹴られたかのように、のけぞっている演技をしているからである。そして、もう一つは、「ビシッ」という、さも蹴りが当たったかのような効果音である。その他にも撮影する角度とか、色々あるだろう。だから、見ていても違和感を感じないのである。

川端康成

2010-02-20 17:21:25 | Weblog
You-Tubeで、川端康成がノーベル賞を受賞する前の座談会がある。三島由紀夫と伊藤整の三人で話している。川端康成は実に、やりにくい人である。三島由紀夫と伊藤整が、一生懸命、持ち上げていた。川端康成は、「伊豆の踊り子」で孤児根性は治ったのじゃないか?。歳とったら、また孤児根性がぶり返してしまったとしか思えない。ちなみに、ある女の編集者は川端康成に話しかけて貰えず、じーと見つめられつづけて、耐えられず泣き出してしまった、という事である。

将棋

2010-02-19 20:56:45 | Weblog
You-Tubeでの羽生善治の、「将棋は全力を出しきらない」という発言を聞いて、将棋というものが完全にわかった。そしてなぜ小池重明が強かったのかも。私は将棋にほとんど興味を持っていないので弱い。ルールを知ってて詰め将棋の本を昔、頭のパズルとして面白く読んだ程度である。男子病棟の男の患者には勝てた。コンピューターと戦って千日手になったことがある。だが詰め将棋いじょうの本は読んだ事がないので、序番戦や守りの陣形すらろくに知らない。将棋では、全力を出すと、相手にこちらの手を読まれてしまうからだろう。これは、武道でも、「空手に先手なし」だとか、柔道の、「柔よく剛を制す」だとかで相手の力を利用する事や、相手の戦術など、相手の考えている事、などを利用するという事が勝つためには大切なのだ。だから、「将棋も先手なし」なのだろう。

ハングリーなヤツでないと恋愛小説は書けない

2010-02-18 22:05:18 | Weblog
私は彼女がいないから恋愛小説が書けるのである。彼女がいて、満足してるヤツには恋愛小説は書けない。ハングリーなヤツでないと恋愛小説は書けない。のである。欲求不満が創作のエネルギー源なのである。ボクサーもハングリーなヤツでないと強くならない。強いボクサーは、みなハングリーである。

さらに敷衍すると、孤独で一人ぼっちで、さびしがってる人間でないと、「愛」をモチーフにした小説そのものも書けない。ここで、現実の愛を得て平和な一市民となるか、愛を拒否して、小説家になるか、という選択さえ生まれる。私は、ためらわず後者をとる。

バレンタインデー

2010-02-18 21:16:33 | Weblog
バレンタインデーは、4日過ぎてしまったけれど今日、チョコをもらう。義理か本命か、どういう種類のものかといったら、好意チョコというところだろう。

アイポッドを知らないのは、私だけらしい。

ブログのランキングに入る

2010-02-17 06:20:57 | Weblog
昨日、2月16日(火)のアクセス数。

159IP。306PV。

9751位。1367586ブログ中。

見て下さってありがとうございます。

児童虐待

2010-02-16 17:06:24 | Weblog
ここのところアパートが静かになった。アパートの二階の児童虐待の家族が引っ越したようだ。駐車場に車もない。おかげで、夜、遅く風呂に入る事が出来るようになった。私は、内政不干渉、民族自決の原則を守って、子供の泣き声を聞いても、かわいそうだと思いながら黙っていた。だから、もしかすると他の住民が、不動産屋に連絡したのかもしれない。あるいは、転勤か。あるいは家をローンで買ったのか。という事も考えられるが、その線は薄いだろう。かくして、借家→児童虐待→不動産屋に児童虐待を連絡されて追い出される→転々と借家を借りる一家。となるのかもしれない。ところで、虐待された子供は幼稚園に入った。彼は幼稚園で番をはっているらしい。
園長  「虐太君。みんなでお遊戯しましょう」
子供  「うるせー。ババア。黙っとれ」
園長  「まあ。虐太君」
子供  「ふん。オレはなー。親に虐待されて育ったんだ。親にヌクヌクと甘やかされて育った、てめえらとは度胸も根性も違うのよ」
他の園児「へへー。ボス。その通りでござんす」
と言って、他の園児を引き連れて、幼稚園をノッシ、ノッシと肩で風を切って歩いているらしい。
ちなみに、二階に、一人暮らしつつましい、きれいな女性が入ってきたらいいなー、などとも思ったりするが、やっぱり一人で静かな方がいい。

一部の名医

2010-02-15 20:31:17 | Weblog
一部の名医。
さて、医学生は大学を出た時から、つまり社会人になった時から、「先生。先生」と呼ばれる。そして大学の医局に入る。医局に入ると、徒弟的に、医局のベテラン医者から知識や技術を教えられる。そして自分の専門科でのみ、ぐんぐん実力がついていく。二年も研修すれば、ほとんど一人前である。そして、病院に就職して、さらに経験が、どんどん蓄積され、実力がついていく。そして博士号をとり、医学博士となる。実力がどんどんつくから、やりがいも出てくる。「先生。ありがとうございました」と言われつづける。しかし、この心地良さが曲者である。この心地良さは一度、味わったらやめられない麻薬の心地良さにも近い。そして光陰矢の如しで、年月がどんどん過ぎていく。かくして専門莫迦の名医となる。もう学ぶ事がなくなるまでになると。人々に名医、名医とおだてられる。医者が天狗になる。そして、十年一日の同じ事の繰り返しの年月がどんどん過ぎていく。歳をとって医者をやめる。やめて、はじめて、自分が自分の専門科の知識以外には何にも自分が持ってないことに気づく。儲けた金で、立派な家と、老いた妻と成人した子供がいるだけである。かくして老後は、サラリーマンと変わらぬ枯れ落ち葉となっている自分に気づく。しかし、その時にはもう遅い。かくしてこの世に何も残らぬ一人の老人が死ぬ。もちろん、頭を使わない人生だったからバカになっていて、認知症になる。そして認知症だから精神病院に入れられる。

腰痛

2010-02-14 04:09:54 | Weblog
腰痛の原因。ギックリ腰が起こって、腰痛の本を七冊買って読む。腰痛に関してはだいたい分かった。しかし、どの本にも書いてない事で、私にとっては重要な事が書かれていなかった。それで考えた。それで本に書かれていない私の腰痛の原因が分かったのである。それは。背筋の左右差である。私は左利きである。それで私は、いつも重い荷物を左肩にかけて運んでいた。そうすると、反対側の右の背筋に負担がかかる、というか、右の背筋が強くなるのである。これは、片方の肩に荷物をかけて背筋を触ってみればわかる。反対側の背筋が収縮しているのがわかる。ほとんどの人は右利きだから、カバンは右の肩にかけて持っているだろう。だから左の背筋の方が強くなっているのである。さて、私はよく空手の蹴りで、蹴った所で、かなりの時間、止めるという事をしていた。これは、バランス感覚をつけるためと、柔軟性のためだった。しかし、この練習は背筋を鍛える練習になっていたのである。こういう練習では、蹴ってる方の背筋が鍛えられる。蹴って止めて、どこの筋肉が収縮しているか、触ってみればわかる。蹴り、では、蹴る側の背筋が強くなるのである。だから利き足というものが出来る。すると利き足の方が強い力を出せるものだから、ますます利き足だけで蹴るようになる。こうなると背筋の左右差が大きくなってしまう。一般の右利きの人は、右手で重いカバンを持ったり、右肩にかけて運んだりするだろう。すると左の背筋の方が強くなる。すると左足が利き足になっている人が多いのではないかと思う。サッカーをする人は左足が利き足になっている人が多いのではなかろうか。右利きは左の背筋の方が強くなりがちになるのだから。さてスポーツについて考える。腕相撲では、私は利き手である左の方がはるかに右より強い。これは左の背筋の方が強いからである。では、テニスの場合、ほとんどの人は右利きだから、私の理屈では右の腕が強くなり、左の背筋が強くなるということになる。しかし正しい運動が出来ていれば、筋肉に偏った左右差は起こらないとも思っていた。実際、テニスでは、右利きの人は右の手だけが太く、強くなるということはない。なぜなら、ボールを打つ時には、左手でボールをつかむように構えており、この時、左手には、非常に強い力が入っているからである。ただ、やはり、右手の方が左手より少し強くなる傾向はあるだろう。さて、そういう場合の腰痛対策であるが、これは弱い方の背筋を鍛えて、背筋に左右差がなくなるようにしなくてはならない。腰痛の人では、右手や右肩で持っていたカバンを左手、左肩で持つことによって腰痛が少し軽くなる人もいると思う。

自動車教習所

2010-02-13 00:36:32 | Weblog
自動車教習所。車の運転免許は、大学5年の春に取った。ポリクリの始まる前で、時間にゆとりがあったからである。教習所の教官は、ミスすると、乱暴に叱るだけである。しかし、ある教官は違った。路上教習の時、私が、何かのミスをした時、私を叱らないで、逆に考え込んだ。頭を捻って、「ん。どうしてだろう。どうして××しないんだろう」と独り言を言って考え込んだ。もちろん、私が医学生である、などという事は言っていない。私は、この時、この教官は才能があるな、と感心した。教習所の教官ていどにしておくのは、もったいないとも思った。大学の教授より、彼の方が頭がいいと私は思った。大学の教授は、生徒の成績が悪いと、「あいつはバカ」の一言で終わりである。私のミスは自動車教習所の教官には思いもおよばないものである。私は、その時、過敏性腸症候群の腹痛のため、判断力が低下していたのである。また睡眠薬も飲んでいたので、眠気があったのである。そんな事は、普通の人には無いことだから、わかるはずもない。しかし、ミスすると、叱るだけしか能のない教官と違って、原因を考え出したのが凄いと感心した。
ちなみに南郷継正氏も大学教授を痛烈に批判している。それを一部、引用しよう。

「指導することの責任の重要性をあまり深く考えない風潮のある現在の大学に私は大いに反発しているのだが。単なる学者(つまり、学ぶ者)でしかない人々が、教授となっている現在の大学には、私は大いなる疑問を持っている。彼らのほとんどが、指導者としての訓練を経てもいないし、また修行したわけでもないのに、単に知識過剰というだけで、教授(教え授ける)というのだから、噴飯ものでしかない。私は彼らの指導能力を小学校の先生以下だという判断を下しているし、また、論理的に証明することもできる。彼らの能力は、せいぜいのところ、コンピューター程度でしかない(いや、コンピューターの方がまだましかもしれない)といえる。」
(南郷継正「武道の理論」より)

総理大臣

2010-02-12 19:14:31 | Weblog
国会中継を見てて。今日は、連合してる社民党の質問だったから、質問も優しい。
私も一日だけ総理大臣をやってみたいなー、と思った。国会があっても、官僚の書いた作文、読んでりゃいいんだから出来るだろう。そうすれば肩書きに、元総理大臣と書ける。安部とか福田とか麻生とかは、この類の総理大臣である。