小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

ランキング

2010-01-29 19:29:41 | Weblog
いよいよ受験の時期である。

私の大学受験の時は、代々木ゼミナールの模擬試験で、英語、数学、理科1、で成績優秀者に一度入ったことがある。この時の理科は化学で、化学は全国2位だった。ただし代々木ゼミナールの模擬試験は受ける人のレベルが低いので、判定はあてにならない。(今ではどうだか知らない)

駿台の模擬試験では、英語で成績優秀者に入ったことがある。駿台の模擬試験は受ける人のレベルが高い。駿台の模擬試験の判定は信頼できる。

私は慶応大学医学部も受験した。ひやかしではない。代々木ゼミナールの模擬試験の判定で、「合格の可能性あり」とコメントされたからだ。それに、慶応大学医学部の受験は、国公立の医学部の受験の足慣らしになる。



ブルース・リーの流派批判

2010-01-28 20:51:53 | Weblog
ブルース・リーの流派批判文を読んで、一生懸命、武道に励む人は訳がわからなくなってしまう可能性があるのではないかと思う。ブルース・リーが、あんな事を言っていたと知って驚いた人も多いだろう。「ブルース・リーほどの武道の天才が間違った事を言うはずはない。では自分が今している武道の訓練は間違ったことなのか?」と。既成の武道を学ぶ事は悪い事ではなく、むしろ逆であり、それ以外に武道を学ぶ方法はないのである。そもそも、学ぶ、とは、まねぶ、が語源であり、真似る、ことが学ぶ事の基本なのである。ブルース・リーは、自分が到達した最終的な境地からの視点から発言がほとんどであり、いささか説明不足な所がある。物事は全て順を踏まねばならず、たとえば数学を学ぶ場合、いきなり相対性理論をおしてえても、消化不良になり、頭がこんがらがってしまうだけであり、数学を学ぶにはまず因数分解から学ばなければならない。ブルース、リーは、こういう事を説明していないのである。それは時間がなかったからか、自分が伝えたい最高の精神をてっとり早く教えたかったからか、あるいは、教師としては、生徒がわかるように、わかりやすく丁寧に教える説明能力が劣っていたか、あるいはわざと教えなかったからか、のどれかだろう。ブルース・リーは自分は武道家としては優れていたが、武道の教師としては、生徒には分かりやすい説明が出来なかったか、あるいは、意図的にしなかったかのどちらかだろう。意図的にしなかったとしたら、ずるいとも言えるが、限られた現実の時間で最高のものを教えるためには仕方がなかったとも言える。ともかく武道を身につけるためには、既成の流派や型というものを抜きにして武道は学べないのである。ここらへんの事は、以前、ホームページに書いた「武道雑感」にも書いた。自分の文ではあるがそこを一部、抜粋しておこう。よろしかったらホームページの「武道雑感」も読んでみて下さい。

「ブルース・リーは、型や、流派の戦い方にとらわれるな、と力説した。これは、実はリーが、詠春拳という、一つの流派を極めてしまったから、である。もちろん、武術の達人になるには、一つの流派に身をおいて、それを極めなくてはならない。しかしリーは、流派を極める事の裏にある弊害をも知っていた。流派を極めれは、もはや、流派の拘束から、抜け出る事が出来なくなるのである。そののち、リーは、様々な格闘技、武術、を研究したが、やはり一つの流派を極めてしまうと、もはや自由な戦いというものは、困難になる。しかし、武術を極めるには、何かの流派に属し、その流派を極めねばならない。これは武術が持つ根本的な矛盾といえるだろう。」
(浅野浩二「武道雑感」)

またランキング入り

2010-01-28 16:31:11 | Weblog
1月27日(木)もランキングに入る。
1357892位中、8258位だった。
193IP。789PV。

またまたブログのランキング入り

2010-01-27 02:59:59 | Weblog
昨日、1月26日(水)にブログのランキングに入った。1357390人中、9113位である。

香山リカ

2010-01-26 01:44:46 | Weblog
精神科医で作家の、香山リカが、誰かとの対談で、「頑張らないほうがいい」と言っているのをテレビで観た。あれは精神科医の職業病的発言のようにも思う。というのは、精神科医なら誰でも知っているが、(特に勤務医の精神科医は)患者に対して、「無理してはいけない」、「あせってはいけない」、と言うのは患者に対する常套句なのである。うつ病患者にいたっては、「頑張れ」は禁句である。精神科医が、患者に対して、「頑張れ」ということは、きわめて少ない。だから穏当な発言をしているうちに、社会の病理に対しても、「頑張らなくてもいい」という価値観になってしまっているような気がする。しかし彼女の文を時たま、見かけるが、きれる発言は見かけない。

私は自分は寸暇を惜しんで、必死で頑張って生きる主義である。

ブルース・リーの「流派」批判文

2010-01-25 23:02:33 | Weblog
ブルース・リーも、流派というものが陥りやすい欠点を批判している。ブルース・リーの文を一部、抜粋しておこう。

「残念ながら武道を学ぶ者の大半は体制順応派である。表現のために自分を頼るということを学ぶ代わりに、盲目的に師に従い、もはや一人では感じられなくなり、集団模倣に安心感を見出すのだ。この模倣の結果は依存する心である。純粋な理解に欠くことのできない個々の探求は犠牲となってしまう。武道の世界をみわたしてみたまえ。お定まりの技しか見せない者。芸当を演じて見せる者。鈍感になってしまったロボット。過去の栄光ばかりを讃える者。そんな者達がさまざまいるばかり。みんな体系化された失望の信奉者か唱道者である。最も残念なのは、まじめな生徒がこうした模倣的な訓練を熱心に繰り返し、己の悲鳴や心の叫びを聞いている姿を目にすることだ。たいていの場合、こうした先生たちが生徒に呈示する方法は非常に複雑なので、生徒はとてつもない関心を払わねばならず、徐々に目的がぼやけてきてしまうのだ。彼らはやがて、現実に応じるというよりは単なる条件反射として、方法論的なお定まりの手順を演じるようになる。そうなったらもう四囲の状況に耳を傾けない。同じ状況を繰り返すばかりである。この気の毒な人たちは、古典的な武道訓練の悪影響の罠に、うかうかとはまってしまったのだ」
(ブルース・リー「ブルース・リー・メモリアル」)

才能と素質

2010-01-24 23:54:06 | Weblog
才能と素質。について実戦カンフーの具一寿氏が分かりやすく書いているので、その文をそのまま書いておこう。

「才能と素質」
ある者は体格がよく、師の伝えた技をいとも簡単にこなす。反射神経にも素晴らしい物を持っている。これが素質と呼ばれるものである。しかし、彼には独創的な所が無く、ただ師に学んだとおり練習する。師が間違いを伝えた時でも同じように訓練にはげむ。
また、ある者は体格、スタミナ、反射神経も人並み以上ではない。しかし彼には師が伝える正解と誤りを的確に見分ける能力を備えている。これが才能である。
(具一寿。「中国拳法戦闘法」252ページ)

高校空手大会

2010-01-24 23:01:13 | Weblog
朝、壁打ちテニスをしに体育館に行ったら、たくさんバスが来ていて、高校生くらいの人達が、やたらたくさん集まっていた。何かの試合だろう、何の試合かな、と思っていたら、女が蹴りの練習をしている。男はグローブをつけたパンチの練習をしている。はじめ何かかわなかった。だがだんだん分かりだした。空手のようである。用事があったので、試合は見なかったし、見たいとも思わなかった。画一的な突き。蹴り。彼らは、ブルース・リーが言うところの組織の人々である。すでに出来た既成のルールに何の疑問も持つ事もなく、一生懸命、練習し勝って喜ぶ。まあ教師から見れば実に健全な生徒達である。しかし彼らに才能はない。自分が何を求めているというかという入り口で、まず悩んだり、考えたりしない。既成のものを、当然のごとく真理として素直に受け入れる。彼らは組織の人々である。人間の大多数は、既成概念というものに集団洗脳されてしまっているのである。アクロバティックなカポエラの方がはるかに、自由な表現、自由な精神である。

ハイキックガールという映画も出来て、女にとって空手がいい特技のような風潮が少しあるように思われる。昨年の年末に、久しぶりに、ある空手の組織で体験参加した。幼い茶帯の女の子に指導者は、蹴り方を、色々、注意していた。絶対、あの女の子は、蹴り方を注意されている意味がわからないだろう。別に間違った蹴りでもないのに。なぜ正しい蹴り方をしているのに、細々、指導者は注意しているかというと、それは、その組織で決めたルールの試合に合わせるように、指導者は注意しているのである。空手は柔道や剣道と違って、一つの決まったルールで統一するという事が出来ないのである。だから組織によって無数のルールがある試合形式のスポーツとならざるを得ないのである。なぜ、空手が一つのルールによって統一出来ないか、というと、これは空手の発祥の歴史と大いに関係があるのである。一言でいって、空手とは、人間の手足を武器にすることが目的で作られたものであり、最初の頃の空手の目的とは、瓦や煉瓦を割ることだったのである。ムエタイのように積極的に人と戦うことが目的ではなかったのである。

ボディービル

2010-01-23 21:52:27 | Weblog
ボディービル。体育館のトレーニングジムに行くと、マッスルマンがかなりいる。羨ましい。私もあんな筋肉モリモリの体になりたいとも思うが、ボディービルは肉体をつくるのに、やたら時間がかかり、しかも練習も地味で、しんどそうで、残念ながら私にはとてもボディービルは、やれそうもない。

前田あゆみ

2010-01-22 19:10:18 | Weblog
前田あゆみ、という絶世の美女と親しくなった。彼女に、「じゃあ、君のことをブログに書くよ」と言ったので書いているのである。だが何を書けばいいのかわからない。「なんて書いて欲しい」と聞いたら、「何でもいい」と言ったので、何を書いたらいいのか、わからない。彼女は、町田に住んでで、ネイルエステの仕事をしている。水泳が得意で、バタフライでも50m泳げる、と言ったので、私より上手いのかもしれない。私はバタフライは25mしか泳げない。頑張れば50mは泳げるだろうが疲れてしまう。「じゃあ、水泳で競争しよう」と言ったら、「私が勝つよ」と言った。私はいつも、ゆっくり泳いでいるが、速く泳ごうと思えば速くも泳げる。本当に勝負してみたい気もする。私が水泳で女に負けるとは思えない。彼女はリスを飼っている。リスの餌は向日葵の種で、私の家でも昔、リスを飼っていた事があったが、リスは餌を巣の中に溜め込んでしまうのである。「溜め込まなくても毎日、餌はあげるよ」と、リスに納得させるにはどうすればいいか。これは難しい。今まで餌を与えられた経験があっても、明日からも与えられるという保障をリスは感じていない。条件反射で、餌を巣の中に溜め込んだら、餌を与えない、というような事をすれば、リスに納得させられるかもしれない。彼女は、女優になれると思うほど物凄くきれいで、やさしく、しかも水泳が出来るのだから、「海の女王コンテスト」に出たらいいと思うのだが。特技を、水泳と書いたら絶対、有利である。彼女と一度、海にドライブしたいと思うのだが、彼女は私が彼女をラブホテルに連れ込むと思っているらしく、O.K.してくれない。私も彼女のマイペースの生活は乱したくないから、深入りしないで、たまに会うだけの付き合いで十分である。ただ、彼女と大磯ロングビーチに行けたら最高に幸せなのだが、これも無理そうである。「どんな小説が好き」と聞いたら、「ラストでどんでん返しのある小説がいい」と彼女は言った。ラストがどんでん返しのある小説、というのは、直ぐには思いつかない。推理小説でも、ラストで、どんでん返しのあるのは、少ないだろう。山田風太郎などは、どんでん返しのあるストーリーをつくる。しかし、最後に、どんでん返しのあるのは、テレビドラマや映画の方だろう。どんでん返しでなくても、映画は終わり良ければ全てよし、という傾向は全ての映画にある。「二十四の瞳」もジェームス・ディーンの「エデンの東」も、ラストで、予想もしない展開で、ひっくり返されて、成功しているという感じがする。芥川龍之介も死ぬ間際に、谷崎潤一郎と小説論を戦わした。谷崎は、ストーリーの奇抜さ、面白さ、を主張したが、芥川はその逆で、筋の無い小説を良しと主張した。結局、谷崎には最期まで芥川の言わんとする事が分からなかったようだ。谷崎は教養もあるし、氏の文学作品は優れているが、芥川のような鋭い論戦には弱かった面もある。

片思い

2010-01-21 18:00:37 | Weblog
片思い。テニスをする。久しぶりに、憧れの女性が来た。嬉しい。今、彼女と会えるのが一番、嬉しい。彼女は何処に住んでいて、仕事は何で、どういう生活をしているのか、に非常に関心が向いてしまう。

創作雑感

2010-01-21 17:57:59 | Weblog
小説を書いていて、いつも思うことだが、もっと話をつづければ、原稿用紙300枚の長編小説になる。と思いつつも、どうしても次の小説が書きたくて、ある程度の所できりあげてしまう。今回の「少年と二人の女」も原稿用紙100枚を越しているから、ストーリーをつづけたり、遊びを入れたりすれば文庫本一冊の分量の長編小説にすることも出来る。というわけで、この話も、気が向いたら、つづきのストーリーを書いて長編小説にしようかとも思う。

少年と二人の女

2010-01-21 14:29:35 | Weblog
「少年と二人の女」

という小説を書きました。

ホームページにアップしましたのでよろしかったら御覧下さい。

公立医学部にもアホはいる

2010-01-20 20:54:14 | Weblog
公立医学部にもアホはいる。
割とよく付き合っていたKというのが、卒業試験の時、「オレ、カンニングするの嫌いなんです」と胸を張って堂々と自分の信念を主張していた。アホである。これは日本語として、おかしい。「オレ、人を殺すの嫌いなんです」と、胸を張って堂々と主張する人がいたら、その人は頭がおかしい。人を殺さない、なんてのは当たり前の事で、そんなのは自慢する事でも何でもない。それと同じで、カンニングは、しないのが当たり前であり、カンニングをしない事を本気で自慢しているのはアホ以外の何物でもない。

スポーツは始めの動作だけが大切

2010-01-19 19:12:02 | Weblog
スポーツは始めの動作だけが大切。
これは全てのスポーツに言えることではないが、瞬発力のスポーツでは、最初の動作だけが大切なのである。なので練習、というか、考えるべき事は、最初の動作だけでいいのである。これが当てはまるのは、転回運動、スキーなどである。転回運動の、たとえば前方宙返りでは、踏み切りの時の動作が正確であるという事だけが大切なのである。踏み切りの時の動作が上手くいけば、空中での抱え込み、や、着地の動作などは、体を守るために、意識しなくてもかってに行なわれる。スキーもエッジの切り替えの動作が正しければ、その後の回転やターンの後半のエッジングなどは、考えなくてもかってに自然に行なわれる。ただ、これは全てのスポーツで言える事ではない。テニスでは、色々な要素が必要であり、ただ単にテークバックだけ早くすればいい、というものではない。水泳もそうである。おおそよ、瞬発力ではない、ある程度、時間のゆったりしたスポーツでは、最初の動作だけでよければいい、というものではない。それでも、やはり、ゆったりしたスポーツでも、最初の動作が大切という傾向はある。

一つのスポーツは同じ原理。
なので、たとえば水泳で背泳ぎを身につけたいと思ったら、背泳ぎの練習をしなくてはならない、とは必ずしも言えない。クロールで、首、や、体の固定が身について、クロールが上手くなると、それは水泳における正しい体の筋肉の引き締めが身につくから、そうなると、水泳というものが一気に上達するから、背泳ぎ、の練習などしなくても、背泳ぎが出来るようになるのである。ただ、これは転回運動では言えない。前方宙返りが、いくら出来ても、バク宙は出来ない。バク宙は、バク宙独自の前方宙返りとは違う、運動要素が必要だからだ。ただバク宙の場合も、瞬発力のスポーツでは、最初の踏み切りの動作だけが大切なのである。