小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

ある企業

2010-06-22 23:46:02 | Weblog
さて、医者は仕事がら世間知らずな面がある。「先生。先生」と、煽てられてちやほやされ、病院に就職すれば景気にあまり左右されず、無難に仕事していればリストラされることもない。だが例外もある。
先日、ある所で働いていたら、雇い主の企業の人がやってきた。世の情勢は刻々と変化しており、企業でも生き残りに必死である。それはいいが。世の中は需要と供給の力関係によっている。被雇用者あっての雇用者である。順風の時、被雇用者をなめて、図に乗っていると、苦境になった時、泣くことになる。医療の世界でも情勢の変化が激しい。だから、順風の時、逆風になった時のことを考えて用心しておくことが大切なのである。逆風になったら、今まで切り捨てて一顧だにしなかったのに、低姿勢で、やってきて、お願いします、と頼まれても、こっちも、当然、無視する。なめるなよ。話を上手に聞き出せば、相手が言っている事がウソか本当かは、見えてくるものである。この世の中は力関係が全てである。
いったい、世の中に、時給が半分で、それでいて長時間で、やりがいもなく、交通の不便な所、つまりあらゆる点でメリットが劣る仕事に就く人間など、この世に一人でもいるだろうか。私も大人になったから、笑顔で、「前向きに考えます」と言ったが、「前向きに考えます」というのは、「NO」と言っているのに過ぎない。順風の時、自分は情け無用で割り切るクセに、苦境になった時、人にニコニコ顔で、ほとんどウソとわかる事を、さも本当のことのように言ってだまそうとする根性が気に食わん。相手が誠実な人間だったら、こっちも金銭だけでなく、動いてやってやろうかという気も起こるが。バブルのように、調子のいい時に、図に乗って、人を雑に扱うクセに、苦境になったら偽善ヅラで、ウソついても、人間は動かんよ。

「順調な時に、将来、逆境になるかもしれない可能性を考える事が大切である」

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殺人的テニス

2010-06-22 19:23:00 | 武道・スポーツ
テニススクールに殺人的テニスをする生徒がいる。ドライブを目一杯かけて、力任せに全力で思い切り打つ。相手の歯に当たったら歯が折れるかもしれんぞ。本人は全力で打つことが最高のことだと思っているのだろう。しかし私は違うと思っている。まずフォームがコーチのように美しくない。そして、必ずしもフォームが理想的ではない。手の力だけで打っているところがある。運動では、技術が上達すると外見のフォームも美しくなるのである。全てのスポーツでいえることだが、まずフォームが完全でなくてはならない。体重移動、腰の回転、を使って、体の力で打たなくてはならない。体の力を使うと、手に力を入れなくても大きなパワーが出せるのである。空手の突きでも、腕に力など全く入れない。腕には全く力が入っていない。完全な脱力である。しかし、体重移動、腰、肩、へと力の連動によって、強いパンチが出せるのである。勿論、パンチの力を、より強くするには、より力をいれなくてはならない。しかし、それは、あくまで、体重移動の速さ、体の力を強くすることであって、腕の力ではないのである。水泳においても、やたら力一杯、手をかけばいいというものではない。水泳において大切な事は、水の塊をつかんで、水を逃がさないようにするということである。そうすれば、力を入れなくても大きな推進力が得られるのである。やたら力を入れて水をかいても、水がつかめておらず、水が逃げてしまったのでは、速く泳ぐことは出来ない。これを、骨折り損のくたびれ儲け、という。柔道とかになると、もっと凄い。相手の力を利用して、相手を倒すのであるから。技が大切なのである。ここらへんの所は、空手家の南郷継正氏が本の中で、「ウソ勝ち」と書いている。つまり試合において、相手に勝ったが、強引な力の攻撃によって、相手を倒すことであり、それはどんなスポーツでもいえる事である。「ウソ勝ち」は見ていて美しくない。ここらへんはスポーツにおいて、本人の思考力、意識が関係してくるのである。だから、勿論、「ウソ勝ち」は、テニスに於いてもいえるのである。勝つことだけに意識が行くと、勝つには勝ったが、せこいショットで、乱れたフォームでも、構わないということになってくる。そうすると、体の力を使った正しいフォームが身につかない。ここら辺は、何を価値観とするか、という本人の性格も関係してくる。「人間は自分がつくったところの物になる」とは、サルトルの言葉である。これはオリンピックの体操競技でも言えることである。床体操の二回宙返りで、アナウンサーも解説者も、着地がピタリと決まることだけに価値をおいた事を言っている。勿論、着地がピタリと決まるのは空中での回転の安定さによることも事実ではあるが。しかし体操競技で一番価値があるのは、飛ぶ高さ、や、抱え込み、伸身、屈伸の空中姿勢の美しさである。体操は美しさのスポーツだから、尚更である。着地で、一歩足を踏み出す事など、そんな大した事ではない。むしろ、着地がピタリと決まるように、無理して踏ん張っている着地の方が格好が悪い。しかし、現実には、高さや、空中姿勢の美しさ、などの各選手の比較は、審判の主観によってしまうから、公正な客観的な厳密な採点基準ということになると、着地がピタリと決まることにならざるを得ないのである。

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