尊敬する人
私が尊敬する人は誰か、と聞かれたら、医学者の池見酉次郎先生と、空手指導者の南郷継正氏、と答える。もっとも私は「尊敬する人」という言い方が好きではない。「尊敬する人」という言い方をすると、その裏に、尊敬していない人や、人による尊敬のレベルができてしまうからだ。そもそも私は誠実な人、誠実に生きている人は、みな尊敬しているから、やはり「尊敬する人」という言葉は適切ではない。「影響を受けた人」と言った方がいい。池見酉次郎先生は、過敏性腸に悩んでいた私にとって、まさに救いだった。人格も能力も素晴らしい。
では、南郷継正氏について書きたい。私は氏にあった事はない。書物の師である。氏ほど論理能力のある人間も少ないと思う。氏は運動の本質的な事は全て考察して解明してしまう。物事に対する考察の挑戦は終わることがない。という点で学者といえる。なかには、誤った解釈や、十分でないものもある。また、氏が解明した、と言っているものの中には、すでに述べられているものもある。しかし、氏の文章には情熱がある。感動がある。優れた教師とは生徒を感動させられる能力のある人だと思う。私は氏の考察の全てが正しいとも思っていない。また良い教師は自分をのりこえて欲しいと思っているだろう。また、私が感動したからといって、他の人も感動する保証など全くない。
「私にとっての良師は他の人にとっても良師であるとは限らない」
私が尊敬する人は誰か、と聞かれたら、医学者の池見酉次郎先生と、空手指導者の南郷継正氏、と答える。もっとも私は「尊敬する人」という言い方が好きではない。「尊敬する人」という言い方をすると、その裏に、尊敬していない人や、人による尊敬のレベルができてしまうからだ。そもそも私は誠実な人、誠実に生きている人は、みな尊敬しているから、やはり「尊敬する人」という言葉は適切ではない。「影響を受けた人」と言った方がいい。池見酉次郎先生は、過敏性腸に悩んでいた私にとって、まさに救いだった。人格も能力も素晴らしい。
では、南郷継正氏について書きたい。私は氏にあった事はない。書物の師である。氏ほど論理能力のある人間も少ないと思う。氏は運動の本質的な事は全て考察して解明してしまう。物事に対する考察の挑戦は終わることがない。という点で学者といえる。なかには、誤った解釈や、十分でないものもある。また、氏が解明した、と言っているものの中には、すでに述べられているものもある。しかし、氏の文章には情熱がある。感動がある。優れた教師とは生徒を感動させられる能力のある人だと思う。私は氏の考察の全てが正しいとも思っていない。また良い教師は自分をのりこえて欲しいと思っているだろう。また、私が感動したからといって、他の人も感動する保証など全くない。
「私にとっての良師は他の人にとっても良師であるとは限らない」