小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

臨床医学は学問か

2010-06-17 21:59:34 | 医学・病気
私は医学を、(全てではないか、ある一部で)純粋に学問と呼べるのかどうか、疑問に思っている。これは、臨床の教授(口腔外科)が言った事だが、
「臨床医になるのは医学者の恥」
と教授は言った。勿論、私は、その事は、聞かされる前から感じていた。確かに、基礎医学は、紛れもない厳密な学問である。しかし、臨床になると、かなり、あやふやな面が出てくる。たとえば骨折にしても、添え木を当てて、(添え木を当てなくても)骨はくっついてくれる。臨床の治療とは、より元のかたちに近づける努力である。だから、場合によっては、切開して、ある期間、金属で固定したりする。しかし、人間には自然治癒力があるから、治療しなくても、不自然な形であっても、骨はくっついて、骨折は治ってくれるのである。そういう事は、他にもある。これが故障した自動車だとそうはいかない。故障した自動車をほっといたら、いつまでたっても故障したままである。
第二に。学問とは、必ずコントロールをとる。コントロールとは、動物実験をする場合、たとえば薬を投与して、その効果を見る時、環境条件を同じにした、無投与群を同時に調べる事である。これは、生物学関係の実験をした人なら知っているだろう。当たり前の事である。しかし。臨床治療を考えてみる時。コントロールというものをとる事は、出来ない。一卵性双生児がいる場合だけは、コントロールとする事が出来るが。つまり、ある病気の患者に、薬を投与して、病気が改善した時、薬が効いた、と言うが、はたして、病気が改善したのは、薬のおかげであるかどうかは証明できないのである。たとえば、風邪をひいて、熱を出した場合、解熱剤や風邪薬を出して、患者はそれを飲むが、もしかすると、薬を飲まなくても熱は下がったのかもしれないし、患者だって、熱を下げようと、水分を多くとったり、食事を、お粥にしたり、極力、安静にしたり、色々と、熱が下がるような手を打っている。つまり薬の服用だけではなく、色々な治療が行なわれている。また、起きだすタイミングもある。熱が引いたら、あまり、いつまでも長く寝ているより、起きて無理のない程度に、日常説活をした方が、夜、ぐっすり眠れて、寝ている間に汗をかいて熱がより下がったり、動くことで腸管が動き、食欲が出てくる場合もある。だから、熱が下がったのは、薬のおかげではなく、患者が起きだすタイミングが良かったせいかもしれない。それは、わからない。コントールがないから、わからないのである。そういう事は、いくらでもある。だから、臨床医療は、厳密な学問と言えるのかどうかは、わからないのである。

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