函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
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教育委員会の民主主義の劣化

2024年09月03日 07時30分48秒 | えいこう語る

▼横浜市教育委員会が、児童生徒への教員による性犯罪事件の裁判を、職員を動員し傍聴させた事件がある。

▼「一般の傍聴によって、裁判内容を拡散させないための動員」で、隠蔽体質が露呈されたとし、市は関与した幹部らを懲戒処分にした。

▼果たしてこの問題、横浜市だけで済まされていいのだろうか。教育行政の根本にかかわる大問題ではないか。

▼戦前の教育には国家が介入しすぎた。国家のために積極的に命を投げ出す国民を養成するのは、ひとえに教育の責務だったからだ。

▼つまり戦争をするための「兵士養成所」が、学校だった。戦後はその反省により、政治と教育は距離を置くことになる。

▼だが国家発展に必要なのは、何をさておいても‟教育”だ。戦後昭和22年に、教育基本法は全部改正された。

▼教育基本法第1条(教育の目的)。教育は人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として、必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない。

▼傍聴を命令された職員は、上司の命令に異議を問えなかったのだろうか。問えなかったならば、教育委員会の組織そのものが、戦前同様の非民主的な存在になっているということだ。

▼前述したが、戦後は政治と教育委教育委員会は、距離を置いた。そのため教育委員会は独自の体制を維持し強化した。

▼だがその独立性のために、開放性を失ったのが教育委員会だ。「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」というのがある。何度も改正は行われている。

▼その第24条は(教育に関する事務及び執行の状況の点検及び評価等)だ。条文を要約すれば、教育委員会の事務処理は教育委員会で、点検・評価を行ってもよいという解釈になる。

▼だがこの解釈が可能だというのは、常識的に見て変だ。変だといわせないのは、第三者委員会で審議するという‟言い逃れ”が存在するからだ。

▼失礼だと思うが、第三者者委員会そのものに教育関係者が多いからだ。教育問題を論じるのは一般人には難しく、教育関係者がよく理解しているからという理由らしい。

▼世の中すべてがそんな流れになっているようだ。政府の諮問機関の顔ぶれがそうだからだ。自民党の政治資金改革会議は、自民党議員が多かったというように。

▼そんな囲い込み政策が続き、教育委員会の形骸化が指摘された。そこで住民の代表である議会に点検・報告を行うことになったのが、平成19年からだ。

▼だが、第三者委員会の審議を経ているので、議会はスムーズに通過してしまう。これは私が教育委員会の第三者委員会(教育審議会)に参加して、実感したことだ。

▼市民の常識の範囲で、異議を覚える部分を質問すると「批判は好ましくない」というのが、会議の常識?だった。「教育の精神は批判にある」と言ったのは、確かソクラテスだが。

▼横浜市の問題は、教育行政そのものが形骸化しているのではないか。「いじめ問題」が一向に解決の兆しさえ見えないのも、そんな体質にあるように思う。

▼マスコミには教育委員会の体質そのものを、もっと「深堀り」してほしいものだ。ある総理が叫んでいた。『聖域なき行政改革!』。

▼戦前の教育行政には『聖域』という、そんな意識があり、国民にも浸透していた。それは戦後になってからも、学校に『天皇の御真影』を安置していたという、名残があったからかもしれない。

▼戦後民主主義教育を受けた私たち(団塊世代)でも、「日の丸」には、頭を下げるというのが当たり前のような、時代があったからだ。

▼教育の分野にも『民主主義の劣化』が浸透しているとすれば、またぞろ我が国の子供たちが「戦場」に送り込まれることになるかもしれない。

▼そんな杞憂を感じさせる、横浜市教育委員会の猟奇的で奇怪な行動だ。

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