函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

天皇制とジャニーズ事務所

2023年09月18日 21時47分14秒 | えいこう語る

この比較はちょっぴり奇想天外だと思うが、戦後日本人の考え方に、通底しているものがあるような気がする。

 

戦争責任は必死だと思われた天皇が、新憲法上も国民統合の象徴であるとして存続された。ジャニー喜多川の性的虐待は、世間でも知れ渡っていたが、事務所の社会における貢献度で、表に出なかった。天皇制と同じく批判されずらい存在だったというのは同様に思う。

 

【戦後天皇制を廃止すべきだという考えは、ほとんど議論にはならなかった。天皇制は何となく日本の伝統に即しているという気がするし、日本人は調和を重んじる民族なのだから、いい国であるためには残しておいた方がいいのではないかという、まさに「なんとなく」の天皇制肯定が、当然の前提となっていた】というのは、

憲法学者の故奥平康弘氏だ。

 

奥平氏は函館出身で東大の憲法学の教授だ。一度函館で憲法の講義を聴いたことがあるが、難しくて私は全く理解できなかった。それは私の基礎勉強が足りなかったせいだ。

 

今奥平氏と憲法学者の木村草太氏との対談集「未完の憲法」を読んでいるが、飛び切り美味しい日本酒を飲んでいるような感じで、すっと心に入ってくる。

 

奥平氏は【天皇制に関する理論的な根拠を示さないままで、いわば「慣性(惰性)としての天皇性」というべきものが日本には成立している】とも指摘する。

 

私は、ノベル文学賞を受賞した、故大江健三郎氏の基調講演「曖昧な日本の私」の内容も、日本人の天皇制に関する「慣性」に起因するのではないかと考えている。

 

戦後ジャニーズ事務所が、社会を明るくし貢献したのは周知の事実だ。その中で「慣性としてのジャニー喜多川】が日本社会に容認されてきた傾向があるのではないかと。

 

天皇とジャニー喜多川を比べるのは失礼だと思うが、何か本質を語り切れないものが、お互い雰囲気としてあるような気がする。

 

ジャニーズ事務所は廃止したほうがいいと思う。ジャニーズという名は残してはならない存在だからだ。

 

こんな体質が会社や社会にはびこっていては、後に別な形で復活してくるからだ。こんな会社は日本社会では抹消すべきだ。

 

ジャニーズ事務所ばかりではなく、五輪問題の電通もだ。電通も日本のあらゆる分野に、その勢力を拡散しているからだ。

 

そういう意味では天皇制も廃止してほしい存在の部類に入るのだが、これは「何となく」国民が存続を期待するからだ。

 

【連合国側が天皇制を廃止していたら、日本は案外すんなりとそれを受け入れていたのではないかと思う】と、奥平氏は言う。

 

敗戦の国民の生活状況から見たら、天皇制の存続などありえなかったからだ。天皇制を廃止しても国民は、それを素直に受け入れたに違いない。

 

日本人の中には、天皇制に対するそんな覚悟と意地などはなかったからだ。天皇は飢えた国民に、飯をたらふく食わしてもくれなかったからだ。

 

戦前の国民は、天皇制を信じていただろうか。信じたように見せなければ、戦争は遂行できなかったし、天皇のために死んだ国民は、その意義を否定されることになるからだ。

 

天皇制なるものは、日本人を戦争に駆り立てる、装置として利用された。それでも日本人は、天皇は神だと崇めたからだ。これがジャニー喜多川と似ている雰囲気を感じる。

 

大きな権力や同調圧力に日本人は弱い。多数が判断した事や考えに従わなければならない。多数の意見が民主主義的であるということではない。主張できる意見を持てることが、民主主義の基本のようだ。

 

例えば「君が代」「日の丸」問題だ。最高裁が合憲だとしている間は、日本という国の真の改革は本格的には始まらないと、奥平氏は主張する。

 

米国でさえ、国旗掲揚の時の規律や敬礼などを義務付けるのは『違憲』だという判決が出ているからだ。

 

米国人は星条旗は大切にするが、それはそれとして、すべてのひとに義務づけてはいけないと最高裁は判決を下しているからだ。

 

「天皇制」と「ジャニー喜多川」問題。ジャニー喜多川的存在は我が国の歴史上、恥すべきものとして抹消してほしい。

 

青少年性的被害法は【ジャニー法】として、今後発生しないよう、ジャニー喜多川の名を冠した法律を、作ってほしいものだ。

 

キシダ新内閣と同様、ジャニー喜多川問題も、日本の空が晴れない問題のような気がする。