函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
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映画「福田村事件」から今の日本を考える

2023年09月15日 16時34分48秒 | えいこう語る

関東大震災時に起きた、千葉県福田村(現・野田市)での、朝鮮人虐殺事件。それを題材にした、森達也監督の映画「福田村事件」を観てきた。

 

関東大震災からちょうど100年目にあたる今年、コロナ・ウイルスのパンデミックを経験した私たちに、大きな教訓を与える映画だった。

 

阿鼻叫喚の大震災。パニックに陥った住民の中では、朝鮮人が放火し、井戸に毒を入れたり、日本人を殺害しているというデマが流布される。

 

そんな情報が隣の千葉にも流れてくる。地元新聞はそれは間違いだと書かない。デマが竜巻のように拡大し、自警団が結成される。

 

コロナ発生時に「マスクを着用せよ」と、自警団のような団体が、町中を監視していたのを思い出す。

 

ちょっとオーバ―だが「集団的自衛権」とは、このような心理状態に似ているのではないかと考えた。恐怖を煽れば、自衛のためだと国民自らが動き出すという背景が、この二つの事象に表れているような気がしたからだ。

 

この事件で、重要な位置を示すのが、戦争に出兵したことがある在郷軍人の存在だ。年配の彼らは、普段でも軍服を着て、日本刀を持ち、地域の治安を自ら守っている。

 

当時我が国は「韓国併合」し、朝鮮半島は植民地であった。その差別意識が特に強かったのが在郷軍人たちだ。朝鮮人は日本人から比べると、知的レベルが低いと思っていたからだ。

 

彼らは天皇陛下の軍隊だという、自負にあふれている。その生きざまを住民に知らしめて、自分たちの誇りとしている。

 

行き過ぎた行動を戒める村長の意見など、全く意に介しない。日本刀を振りかざし「朝鮮人は殺せ」と大声で叫ぶ。

 

経済も疲弊し、困窮する住民のうっ憤を晴らすように、その差別意識はマックスに達する。それでもなかなか行動に出ない。

 

そんな状況を一気に打ち破り、虐殺に駆り立てたのは、一人の主婦だ。朝鮮人ではないと主張する男性の頭を割ったことからだ。

 

群集心理は、ちょっとした突破口から一気に動き出す。戦争における大量虐殺の心理状態も、このようなものなのだろう。

 

朝鮮人と思われた子供を含む15名は、香川県から来た、薬売りの行商だった。方言がおかしいとされ、朝鮮人だと決めつけられた。

 

間もなく朝鮮人でないと認められたが、すでに9人が惨殺された。惨殺に加わった数名が懲役刑となった。しかし大正天皇の崩御で恩赦となる。

 

この状況をみていた新聞記者は、事実を書き残そうと村長に申し入れるが、村長はこの歴史が末代まで残され、この村の恥となるのを恐れ、れ、取材を拒否する。

 

映画は割り切れぬ思いを残している。しかしこの割り切れないものを割り切れるようにしなければ、いつまでたっても虐殺事件の解明につながらない。

 

この割り切れないものの大きな存在が、我が国の「天皇制」なるものだ。戦争が終わり国民主権になったが、天皇制なるものは生き延びたからだ。

 

この天皇制を‟国体”と称する団体が、今も憲法改正に積極的のようだ。菅総理に学術会議のメンバから外された東大歴史学教授の加藤陽子は、「天皇制がある限り、日本は真実を究明できない」と、発言している。

 

戦後78年、天皇制は無批判的なままで維持されている。無批判的な存在は絶対主義的で、民主主義に合わない存在なのかもしれない。

 

そして国家の基本秩序である憲法が改正されようとしている。それも本丸は「9条」らしい

。総理自身が「敵基地攻撃能力」や「軍事費の増強」という、9条を蔑ろにしようという発言をしている。

 

この頃の日本は、民主主義が弱まり、国家の秩序が壊されていくような気はする。それも政府によってだ。平和を揺るがす政府とは、国民の平和を守ってくれるはずはない。

 

福田村事件は、情報の曖昧化にある。それは監督が属するメディアの世界の責任でもある。汚染水を処理水とメディアが表現することで、何かが隠蔽されていないか。

 

それを暴き、国民の平和を維持するのがメディアの最も大事な仕事であるように思う。それはメディアが権力に対抗する意識を、常に持ち続けるということでもある。

 

「軍拡」「汚染水」「核廃絶」「原発再稼働」「旧統一教会」「森友問題」「天皇制」等、様々なタブーに挑戦し、真実を解明する時代に差し掛かったのではないかというのが、「福田村事件」の映画鑑賞で私が感じたものだ。

 

戦争などというのは差別意識の表れだ。国家が他国を差別すれば戦争が始まる。この頃の我が国は、北朝鮮やロシアや中国を、差別しすぎていやしないだろうか。