夢かよふ

古典文学大好きな国語教師が、日々の悪戦苦闘ぶりと雑感を紹介しています。

石川啄木展 (その1)

2015-02-25 23:05:10 | 短歌
先日、岡山吉兆庵美術館で開催中の「石川啄木展―心に響く歌―」を観に行った(3月15日まで)。


この企画展で特に印象に残ったのは、二葉の橘智恵子宛絵葉書である。

そのうちの一つは明治42年6月2日のもの。橘智恵子は、啄木が北海道時代、函館の弥生小学校で教員をしていた頃、同僚であった教師である。
二人が出会ったのは明治40年6月であり(啄木22歳)、木股知史氏によれば、

啄木が弥生小学校の代用教員として勤務したのは、明治四十年六月十一日から九月十二日までの短期間であったが、橘智恵子は深い印象を啄木に残した。(和歌文学大系77『一握の砂・黄昏に・収穫』明治書院、補注)

とあり、啄木の歌集『一握の砂』に収められた「忘れがたき人人」の「二」の二十二首は、智恵子への思いを詠んだ歌である。

明治43年12月24日付の橘智恵子宛葉書には、

心ならぬ御無沙汰のうちにこの年も暮れむといたし候 雪なくてさびしき都の冬は夢北に飛ぶ夜頃多く候、数日前歌の集一部お送りいたせし筈に候ひしが御落手下され候や否や、そのうちの或るところに収めし二十幾首、君もそれとは心付き給ひつらむ(下略)

とある。『一握の砂』を送られた智恵子は、啄木が自分を思う歌をどんな気持ちで読んだのだろうか。

  君に似し姿を街に見る時の
  こころ躍りを
  あはれと思へ

  時として
  君を思へば
  安かりし心にはかに騒ぐかなしさ

  わかれ来て年を重ねて
  年ごとに恋しくなれる
  君にしあるかな

妻子がありながらこんな歌を詠むのはどうかと思わないでもないが、生活苦に追われ職も住み処も転々とした啄木にとって、現実には結ばれるあてがないゆえに、智恵子の存在がますます痛切に慕わしいものになっていったことは十分に考えられる。木股知史氏も、

直接告白することはないが、お互いに心の交流は自覚しているという、現実化を断念した恋のかたちであるからこそ、個人的なメモリアルを超えて、普遍的な感情の表現となっているのである。(同補注)

と書いている。
学ぶことの多い企画展だったので、啄木展の話題はまた取り上げる。

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